具象こそが写真の真骨頂である。と言う考えに私も反対はしない。
しかし、そこには写真のおごりも見える。
以前書いたように写真は映像に比べればリアルな再現性は負けてしまうのだから。
一方、具象の再現性で写真に負けた絵画はその後どうなったかと言うと、ずばり抽象表現への道をたどっていく。
どう考えてもその瞬間に光景を写し撮れる写真に勝てるわけもなく当然の結果であるが、リアルな臨場感の再現で映像に勝てない写真はどこへ行こうとするんだか…私の要らぬ心配だが。
具象写真というフィールドに拘らずに抽象写真表現に目を向けてみよう。と言うのが私の主義で、それには、抽象表現の鑑賞法を学ばなければならないだろう。
私も独学(と言うか、感覚的に解ってしまった口なのだか)で会得したのであんまり偉そうな事は言えないが。
視覚野の働きから通説となっているのは、人は見たままを見ていないと言うことである。つまりどう言う事かというと、見た光景から、言語にリンクされた自身の視覚パターンに合致する輪郭を見つけ出し、はめ込んでいって脳が認識すると言うこと。
例えば、テーブルの上にバナナがひとつあるとしよう。脳はそのテーブルとバナナを区別するために記憶の中からバナナの視覚パターン情報を見つけ出し、それと照合することでバナナを分離して認識する。また同時にテーブルの視覚パターンも探し出してフィルタリングする。
この視覚データは言語とワンセットになっているのも特徴だ。
脳の視覚野に障害を負った人の興味深い事例があって、常にバナナがそこここにあるのである。実際には存在しないのだが。あげくは部屋中バナナだらけでおまけに宙を飛んでいる有様だ。
つまり具象とは、人の頭の中での言葉とのワンセットで作られた世界であるとも言えるわけで、その事で、すてに正しい写実記録伝達の根幹を失っている事になる…。
その2へ続く
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