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| 04/9/16 | 帽子の記憶 |
| 今となってはそれが夢なのか現実だったのかも判然としないのだけど、母親の話によると、確かにそれはあった。 子供の私は家族と一緒に電車に乗っていた。その時麦藁帽子をかぶっていたのだし、電車の窓は開いていたのだから夏のことだったのだろう。その赤い麦藁帽子は、おそらく私のお気に入りだった。この小旅行のために買ってもらったものだった。だから帰り道の電車の中でもずっとそれをかぶっていて、そしてその帽子は、母親の忠告どおり、山あいの雑木林に入った所で風に飛ばされていってしまったのだった。私が2歳を過ぎた頃の話だ。 取ってきてくれと泣いて叫んだのを覚えている。乗り換えの駅の売店で、母が新しい帽子を買ってくれるというのを私は拒否したそうだ。そんなわけで、代わりの帽子は私のもとには来なかったから、私はその喪失感をずいぶん後まで引きずることになった。 いつの頃からか、私の記憶には、飛ばされた帽子を拾い上げて、電車に向かって手を振っている男の子と女の子の姿さえ上書きされた。子供の私には、誰の頭に乗ることもなく、草むらでぽつねんとしている赤い帽子がかわいそうで仕方がなかった。 小さな頃のたわいもない体験が、なぜこんなに鮮烈に記憶に残っているのかは分からない。私の手元にあったのはほんのわずかな間だったはずの、その帽子にアップリケされたキャラクターの表情もはっきりと思い出せるし、今でも、あの帽子が頭を離れて飛ばされていく瞬間が、ふとよみがえる時がある。手を振る子供達のイメージに救われるときがある。子供の頃の記憶には、それが楽しいものであれ、なにか物悲しいような、奇妙な感覚が伴っている。 西条八十の詩に、ベストセラー小説に引用されて有名になった、同じような作品があったと記憶している。多分、子供というのはどこかで、「お気に入りの帽子」を失くしてしまうものなのだ。そして心の奥深くに喪失感を抱えたまま成長していくのだろう。 先日、ふと表紙に惹かれて写真集を買った。 乾いた土に轍の跡があるから今は駐車スペースとしてでも使われているのだろう、まばらな枯れ草以外何もない無人の空き地に、門扉だけがぽつんと立っている。画面の半分を占める無表情な空。少し、シュトゥルートやルフといった写真家の、意味や主観を排した風景・建築写真を思わせるところもある。 写っているのは、何の変哲もない現在の日本の風景だ。海岸、工場、団地の庭、錆びたトタンと剥げたペンキ、壁の染み、その湿度、そして唐突に、花。すべてが等価のままただそこに、沈黙している。 しかしこの無人の風景は見慣れた日本の日常のようでもあり、そうでないようでもある。いつか見たはずの記憶、いやそれは錯覚で、単に午睡の夢の中の光景だったのかもしれない。端々に見え隠れする生活の気配も、かえってその曖昧な不在感を際立たせているかのようだ。 私の帽子がどこかで、私が拾いに来るのを待っているとしたら、それはきっとこんな景色の中だろう。 そう、この咲き群れる立葵を、いつかどこかで仰ぎ見たことがある。あの道沿いの集合住宅に、かつて私は住んでいなかっただろうか。棕櫚の葉が影を落とす夏の路地の突き当たりに、何があるかも私は知っている。 私は確かに、あの赤い帽子をかぶってここに立っていたのだ。 “THE SIGN OF LIFE” 写真: 清野賀子 (オシリス) |
| 04/1/18 | 知的じゃないスポーツ |
| 野心家の仏内相ニコラ・サルコジ氏が最近の訪中時、「相撲は知的なスポーツではない」等々、日本文化に否定的な発言をした、というニュースがありました。 原文記事は読んでいませんが、親日家のシラク大統領に対する皮肉を込めた「政治的発言」だろうということで、メディアが「日本批判」と色めき立つような、さしたる内容のある発言ではないのだけれど、結果的に最近の相撲界に対する的確な批評にはなっています。ただ、相撲はスポーツであると同時に、伝統的に神事という儀式なわけで、儀式はシンプルに「形」を磨きぬいたもので、インテリジェントな神事なんて聞いたことない。 サルコジ内相といえば、先日PSGのグラィユ会長が、リヨン戦でパリサポーターが警官に怪我をさせた件で呼ばれて怒られたばかり。治安問題への取り組みで評価が高く、大統領選出馬も視野に入れているというサルコジ内相ならさもありなんというところ。 かつての仏文化相アンドレ・マルローは来日中に、「インド彫刻はコスモス(宇宙)に、日本美術はナテュール(自然)に相通じる」等、日本文化を鋭く洞察した言葉の数々を残したけれど、この報道で見る限り、サルコジさんの日本文化評は、残念ながらあんまり「知的」じゃないな。 パリのクラブのファンなどしていますが、私は日本の文化には結構誇りを持っていて、(確かに日本社会の現状は誉められたものではないかもしれないけど)、最終的にはそれが自分の拠り所だという考え方です。日記のページに歌川国芳や伊藤若冲の絵をちょっとだけ拝借しているのも、その辺のバランス感覚といったもの。 日本人が常にそうであったように、私も外国の新奇なものはミーハー的に好き。日本の文化は中国を始め外国の文化に刺激を受け、取り込みながら、その風土の中で極めて独自の美的価値を生み出してきたわけです。例えば、隣国の名もない陶工の雑器の中に無上の精神的な美を見出す、そういう美意識。その点ではフランス人も共通した感覚がある気がします。 異文化に対する差別や傲慢は、多くは無知に基づくものだと思う。アンドレ・マルローはフランス文化の代弁者であると同時に異文化の理解者で、そういうスタンスが取れたら理想的だろうな、と思うのだけど。 |
| 04/1/12 | 脳の中の人影 |
| 数多くの収蔵品を誇る美術館の歴史は、これまた数知れないパチものを掴まされてきた歴史でもあるわけなのだが、そういった偽物の山の中に、世にも美しいボッティチェルリの聖母子の贋作がある。イタリア・ルネサンスの巨匠の初期の名作とされていたこの作品を、近年作られた贋作と見抜いたのは、美術史家のケネス・クラーク。その根拠は、描かれた聖母の表情に「1920年代の映画女優を思わせる近代的な作為がある」という直感だったそうだ。 ヨーロッパには「時が真理のベールを剥ぐ」という言葉があって、同時代の人は気づかなくても、時を経て真実が明らかになるというような意味なのだそうだが、例えば、1945年に美術界を揺るがせたフェルメール贋作事件も、現在の専門家ならおそらく、ファン・メーヘレンの描いた贋作に騙されることはなかっただろう。 人間の創作物には、どうしてもその時代の美意識や雰囲気が無意識に表れてしまうもののようだ。1917年にイギリスの少女が撮った有名な妖精の写真は、あのコナン・ドイルも信じ込んでしまったというものなのだが、現代の人の目にはどう見ても絵の切り抜きだという点を差し引いても、写った妖精自体がいささか時代遅れなイメージ。総じてオカルト好きな民族性らしいイギリスの初期の心霊写真もちょっと見たことがあるけれど、いかにもそのテの英文学やヴィクトリア・エドワード朝の絵画を思わせるような雰囲気で、やはり人間の作為はどこかに表れてしまうものなのか、と思った。 カメラの普及と共に心霊写真が現れ、ビデオが一般化すれば今度は映像に有り得ない人影が見つけ出される。心霊現象は世につれ人につれといった感じで、「人影らしきもの」は時代を象徴するようなものの中に次々と現れては消えていく。写真や映像の中におぼろげに浮かぶそれは、むしろ人の頭の中に映る影なのではないかという気もする。 ファン・メーヘレンの贋作に当時の人があっけなく騙されたのは、寡作なフェルメールの未知の作品を求める気持ちが根底にあったからかもしれないし、オカルトのブームは、この息苦しい現実とは別の世界があってほしい、という願望が生み出すものでもあるのかもしれない。 今日書こうと思っていたのは実はこんな話ではなくて、アルブレヒト・デューラーの絵の話です。
いかにもテレビの心霊番組を見て育った世代らしい見方だなあ、と思うのだけど、実際私も「なんだか人の顔みたいなものがある」というのは以前から気にはなっていた。事実ルネサンスの時代には、彫刻は石の中に囚われた低次の魂に高い精神を与える行為だ、という思想があったようだ。 でも、デューラーともあろう画家が、意図してこんなデッサンの狂った顔を描き込むとはどうしても思えない。ほぼ同時代のドイツの画家ハンス・ホルバインの作品『大使たち』のように、なにか騙し絵にでもなっているのでは…と絵をあっちこっちの方向から覗いてみたりしたのだけれど、そういうものでもないようだ。
デューラーの素描の中には、例えば風景や布のしわの中に、どうも人の顔を潜ませたのではないかという作品がいくつかある。画家のお遊びなのか、意味があるのか、あるいは何か対人的な強迫観念が無意識に表れたのか…なんて思うのは、やはり私の考えすぎなのかもしれないのだけれど。 下の左の図は、1495年にデューラーが描いた素描。必ずしも現実の風景そのままではないらしい。景色の中に、アルチンボルドの作品を思わせるような人の顔がいくつか見えてこないだろうか。
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| 03/12/28 | 絶えて賀状のなかりせば |
| 暮れの心はのどけからまし。 最近はさすがに印刷で済ませているけど、以前は毛筆で年賀状を書いていました。しかしこれには、猫という手ごわい障害があるのです。 墨をすっていると、どこからともなく「ナニシテルノ!」という意欲満々な顔でやってきて、ぴったり横に座って身を乗り出して手元をのぞきこんできます。単に筆先がちょいちょい動くのがたまらないのかと思ったのだけど、特に手を出すわけでもないし、とにかくずっと、「ものすごく」、見ている。こっちはそれでもいつ手を出されるかわからないし気が散るし、いたずらに書き損じの山を重ねるだけで、このくそ忙しい年末に、猫の手は貸すと言われても御辞退申し上げたいのは言うまでもないことです。 世の中には玉毛(ズバリ猫の毛)の筆っていうのもあってね、貫之(伝)の高野切は猫の毛で書いてあるんだよネコチャン、なんて意地悪を言いながらの宛名書きは、まあ楽しくないとは言わないけれど。 某直木賞作家の短編を映像にしたとかいうキャットフードのCMがしばらく前に流れていて、執筆中の売れない作家の傍らに座って原稿を読む猫の話が、例によって‘泣かせのテクニック’満載で語られるのだけれど、単に、猫はそういう状況が好きなだけなんだと思う。 新聞を広げると上に猫が乗ってきて読めない(興が乗ると新聞の下にズザーとスライディングしてくる)というのはよく聞く話で、猫にとっては人間が何か1点に集中しているのが面白いのかもしれません。 キュリオシティ・キルド・ザ・キャット(好奇心は猫をも殺す)とはよく言ったもので、実際猫の好奇心というのは、飼い主にとっては時に悩ましいものです。目先の興味にかられた挙句、後先考えずに高い所に登って進退窮まったり、絶対通過不可能な穴に首を突っ込んだりして、ドウシヨウドウシヨウと鳴きわめく猫を救出するのは人間、もっと正確に言えば消防隊の仕事になるわけです。 猫にまつわる様々なニュースを集めた「ニュースになったネコ」という本には、そんな消防隊と猫の濃密な関係を物語る(珍妙な)エピソードが数多く収められていて、猫ばかりでなくイギリス人の気質や動物とのかかわり方を知る上でも面白い本です。フットボールネタでは、リーズ・ユナイテッドのジョン・ピアソン選手は愛猫の親権(?)を勝ち取れるのか?なんて話も。 マーティン・ルイス著 「ニュースになったネコ」 (ちくま文庫) |
| 03/12/6 | 「我々は‘フットボール’の話をしている、違うかい?」 |
| というのは、何かとピッチの外のことで騒々しいOM戦を前にした、パウレタの発言。 フランスダービーをめぐるさまざまな喧騒は、毎回楽しくもあり、わずらわしくもありといったものですが、ことサポーター間の確執については、事は単純にチームへの愛着がどう、というレベルを離れて、ある意味ガス抜きみたいなものなんだろうな、という気はします。フットボールのピッチの上で、まがりなりにも平和的に一応の決着がつくというのはいいことなのかもしれません。(新たな遺恨の元と言えばそうですが) どこで読んだものなのか思い出せないのだけれど、パリの一部サポーターのバイオレンスの問題は、都市部の貧困層の問題と密接に結びついたものだ、というようなことを読んだことがありますが、スタジアムは社会の縮図でもあるし、不満の受け皿でもあるということでしょう。 私はCDを買ってもライナー・ノーツはあまり読まない、というかそもそも輸入盤を買ってしまうし、絵を見ても、例えば夭折の画家の悲劇的人生といったような意味づけが、過剰に鑑賞に介入してくるのは好みません。純粋に、表現そのものがそこにあればいいし、フットボールにおいてもそれは同じかもしれない。フットボールの周辺で語られる地域の対立、民族の対立の歴史といったものは知識では知っていても、自分は日本人であって、限られた知識しか持たないのにその種のデリケイトな問題に感情レベルで不用意にかかわることは避けたいし、個人的にはスポーツはあくまでもエンタテイメントなのだと考えるようにしています。 たかがフットボール、されどフットボール。でも、‘たかが’と‘されど’が葛藤した時は、思い入れがある分‘たかが’の方を優先したほうが間違いは少ないだろう、というのが自分の判断。もっとも、私にはフットボールに仮託して争い合わなければならないような切迫した事情がない、というだけかもしれないし、それは恵まれているということなのかもしれないけれど・・・。 それでも、カンプノウでのクラシコで、それこそ憎しみの表情を浮かべた満場の老若男女が首都のチームに向けてありとあらゆる物を投げつけるような光景を見るのは、どんな歴史的背景があるにせよ、憂鬱な気分になることは確かです。 こういうものに比べれば、パリとOMの確執の現状は、首都と南部の対立というそれらしい説明よりは、単に「ムカつくから」と言ってもらった方が幾分スマートではないかという気がします。ある種の年間儀礼が共同体のガス抜きの役割を果たしているように、ダービーは年に2、3回めぐってくる・・・ 2006W杯の予選の組分けが発表になって、セルビア・モンテネグロとボスニア・ヘルツェゴビナが同じ組に入ったことはやはり注目されているようです。 W杯というイベントが、スポーツに「国家」や「民族」を持ち込むことの是非についてはいろんな考え方があるだろうし、作家の金井美恵子さんが最近のエッセイ集の中で、W杯は「オリンピックと同じに『国民国家』という近代的幻想のパフォーマンス」と断じていたけれど、フットボールが世界的に熱狂的な注目を集める歴史のあるスポーツであり、勝ち負けを競うものである以上、時に民族の代理戦争的な様相を帯びてしまうのは、それが不幸なことであるかどうかは別としても必然的なことです。 代表とクラブではもちろん性格が違うけれど、PSGのハリロジッチ監督はボスニアの人で、チームにはモンテネグロ出身のセルビア・モンテネグロ人選手と、コソヴォ出身のアルバニア人選手がいて、噂では、監督は新たにセルビア・モンテネグロやクロアチアの選手の獲得を考えているという話です。 旧ユーゴの紛争について知っているのはニュースで伝えられる程度のことで、複雑に入り組んだ民族事情は詳しくは分からないし、個々の選手の経歴もよくは知りません。選手や監督も、あまり当時のことには触れていないようですし、チームのこれらの状況がどういう意味を持つのかも、正確には分からない。でも少なくとも、これはフットボールでしかない、ということは確かだと思っています。 金井美恵子 「『競争相手は馬鹿ばかり』の世界へようこそ」 (講談社) |
| 03/10/19 | 最近のこと |
| 最近はあまり音楽ニュースをチェックしていなかったから、この間TVでウォーレン・ジヴォンの“センチメンタル・ハイジーン”のプロモーション・ヴィデオがかかってるのを見て初めて、ジヴォンが亡くなったことを悟ったのだった。闘病生活を送っていると聞いていたし、そんなことでもなければオンエアされないだろうから。私はこの曲がとても好きだけれど、その好きな曲によって彼が亡くなったことを知らされるとは思ってなかった。 ミュージシャンの訃報で鮮烈に覚えているのは、ニルヴァーナのカート・コバーンのこと。彼が亡くなったことは新聞の夕刊で知ったのだけど、先に記事を読んでいた家族に、「アメリカのロックバンドの人が自殺したんだって、知ってる?」と聞かれて、それだけで彼のことだということは分かった。その少し前から自殺未遂みたいなことを繰り返していたから。2ndアルバムの大ヒットへのアンチテーゼのようだった3rdをリリースしてから、そうなることが当然の結末のように、コバーンは死んでしまった。 後々、コバーンがロック・ミュージックの伝説に加えられて、その死さえ消費されていくだろうことはわかっていた気がする。でも、彼は決してよく言われる“ロックスター”などではなかったし、むしろそれから逃れようとしていたのだけれど。 サッカー界のスター・システムに対して懐疑的な気持ちになるのは、ずっと洋楽を聴いてきて、死には至らないまでもコバーンのようなケースを随分見てきたからだと思う。マスコミが部数を上げ、メーカーがユニフォームやシューズを売るためには、スター選手が必要だということ。なぜDFがバロンドールを獲れないって、DFはお金にならないからに決まってる、なんて思ってしまう。 |
| 03/9/24 | ヒマラヤの青い芥子 |
| もちろん物事に根拠のない過剰な思い込みは禁物なのだけれど、最近なんとなく「フーン…」という興醒めな気分になったのは、ヒマラヤの高地に咲き、どういうわけかそのヒマラヤにしか咲かないと思い込んでいた“幻の”青いケシの花が、ここ日本の庭先でもフツーに咲いているということだった。 まあ、“フツー”というのには語弊があって、寒冷な場所でなければそれなりに栽培は大変らしいけれど、聞いたところだと、町のホームセンターの園芸コーナーといった、拍子抜けがするほど日常的なスペースでも苗は手に入る、ということらしい。幻どころの話ではなかった。 そもそもは先日、作家丸山健二が長野の自宅の作庭を撮影した写真集を見ていたときのことで、その本は、同じ作家の同じテーマのエッセイを読んでいるところだと言ったら、たまたま写真集を持っていた人からじゃあこれ読んでしまったからあげるよということでもらったものなのだけれど、その中程のページに、見覚えのある優美な青い花弁の花を見つけたというわけなのだった。 「卑しくも芸術に携わる者はすべからく異端の存在であるべし。別言すれば、反逆の徒たるべし」なんてことを今時迷いなく著作に書いてしまう、「孤高の」作家丸山健二が、自邸の庭に植えそうな花ではある。この青いケシの花(メコノプシス、写真のものはおそらくホリデュラ)は、ヒマラヤを撮影した写真の中でも時々見かけたけれど、チベットの荒涼とした大地と強烈な紫外線と希薄な空気のもとで見た幻覚のような原色の青と、この写真集の花が同じものだとは即座には気づかなかった。そもそも見たことがあるのは、4,000メートルの高地の荒れた岩陰に張りつくように咲くケシの花だったから、安曇野の庭で丹精され、すんなりと茎を伸ばした姿とは、その印象は別物である。 もっとも庭には庭のコンセプトがあるので、野生種の持つ厳しさはその中では単に夾雑なノイズにすぎないのかもしれないし、作家の家から臨む借景は、カイラスの威容などではなくあくまでも北アルプスなのだから、それはそれでまったく問題はないのだけれど・・・ もちろん、このせちがらい世の中にそんな浅はかな勘違いをしていた自分が悪い。しかし記憶をたどってみると、この花に抱いていたスペシャルなイメージは、どうも化粧品メーカーの香水の販促キャンペーンによって刷り込まれたものらしいということに思い至って、非常に情けない気分になったのだった。そう言えば、伊勢丹デパートのカウンターに、イソイソと香水のサンプルをもらいに行ったことがあるような気もする・・・結局、ヒマラヤの神秘から一番遠かったのは自分だったのである。 丸山健二に「女と、女に近い男という奴は」なんてマッチョな発言をされたとしても、これでは何も言えない。 丸山健二著・作庭・写真 「ひもとく花」 (新潮社) 丸山健二著 「安曇野の白い庭」 (新潮社) |
| 03/7/31 | スリーピング・キャット |
| 和食党の私は、日頃ブランド洋食器等にはさほど縁のない生活を送っていますが、その種の店に並んでいる、およそ実用に程遠い陶磁器の人形なんてものは大好きです。先日、デパートの洋食器コーナーを通るたび気になってしかたなかったロイヤルコペンハーゲンの猫を、いろいろ迷った末に買いました。猫が3匹団子になって寝ているもので、迷っていたというのはもちろん私の考える適正価格の2倍近い値が付いていたからですが、まあ、たまにはいいかと。 大抵の猫好きがそうであるように、私も何かというとフラフラと猫の小物などを買い集めてしまって家中が猫だらけなのですが、そう言えば眠り猫が家に来たのは初めてです。そこはさすがにハクライ猫なので、よくあるいかにもカワイイ風ではなく、少しむずかしい顔をして眠っているのがなんともいい感じなのです。 それにしても、猫(本物)が眠っているところを見ていると、なぜあんなにも凄まじく眠気を誘われるのでしょう。所かまわず、前後不覚に飼い猫の横で眠り込んでしまい、ふと気づくと、寝ていたはずの猫がしらけた様子で自分を見下ろしていたりする・・・何だか、猫に化かされているような気もします。 例えば寝ている猫の前を油断して呑気に通りかかったネズミが猫につられて眠くなり、しかし猫は実は寝ているふりをしているだけで、次の瞬間には鉤爪一閃、ネズミ御難、なんて場面をつい思い浮かべてしまいます。 有名な日光東照宮の甚五郎の眠り猫は、猫が牡丹の下で眠っている隙に背面で雀が遊んでいる、というモチーフで、天下泰平の世を表しているという説があるそうです。しかしこの甚五郎猫、どうも寝たふりをしているように見えてしかたがない、というのはそのポーズのせいで、くつろいでウトウトしているというよりは、隙あらばいつでも飛びかかる意欲満々、という感じに見えてしまうのです。 もっとも、「狸寝入りの猫」の方が、イメージとしては徳川家康らしいですね。 |
| 03/7/16 | 巨大生物と遺跡 |
| つい先日、チリの太平洋岸に巨大な生物の死骸が漂着したという記事を見たのですが、個人的にこのニュース、ちょっと興味をひかれていました。 骨も無ければ頭も手足も分からないこの奇妙な生物はそういえば、小学生の頃図書館の本で「謎の生物の死骸」として同じものを見た記憶があって、「そういえばあれは何だったんだろう?」と思ったのですが、結局マッコウクジラの死骸の一部であることがわかって、子供の頃からの疑問はやっと解決したわけです。 謎の生物と言えば少し前、ネス湖のネッシーの有名な写真が実はおもちゃの偽物だった、という報道がありました。確かに写っているネッシーの大きさからすると、どう見ても湖にしては波が大きすぎるんじゃないかとは思ってました。撮影当時、北海のアザラシを撮ったのではないかという疑問の声があったのも、イメージ的には必ずしも外れた見方ではなかったわけです。 もちろん、だからと言ってネス湖に何か巨大な水棲生物が生息している可能性がなくなったというわけではないし、そんなものがいれば夢があっていいなあ、とは思います(たとえ単なる大ウナギだったとしても)。また広い海にも、まだ未発見の生き物はたくさんいるでしょう。 しかし、そういう「存在してほしい」という願望は、時に人にいろんなものを「見せて」しまうものかもしれません。 話は変わりますが、先日テレビで、沖縄かどこかの海底に先史時代の遺跡が沈んでいるらしい、という特集をやっていたのですが、これ、私などの目には非常に微妙な物件でした。 海底の岩盤に都市遺構を思わせるような形状が見られるものの、どちらかといえば、「人工建造物に見える自然の造形の妙」と言ったほうがいいんじゃないかなあ、という感じのものでした。 ちょっと見た限りでは、この「遺跡」には例えば階段や道や排水溝を思わせる形はあるけれど、それらが実際の生活の場としてちゃんと機能するのか、というリアリティに乏しいのです。トータルな人間の生活の形をあそこから見出すのは難しい。全体に観念的な感じがするんですね。 そもそも番組の取り上げ方自体がちょっと扇情的で、マスコミと観光産業の山っ気ばかりが目に付いてしまい、結局これが考古学の範疇なのか、それともいわゆるオカルトの分野で語るべき話なのかよくわかりませんでした。遺跡が存在してほしいと願うのは人の果て無き夢なのか、それとも欲なのかなんて、つい考えてしまったものです。 いずれにしても、未知の生物でも何でも想像力を掻き立てられているうちが楽しいので、真相が明らかになればなったで「そんなものかなあ」とすぐに忘れてしまうのが人間というものなんでしょうけど・・・ |
| 03/2/11 | 筆跡に見るサッカー選手の人間像(2) |
「どうしてこんなどうでもいいことを真剣に考えているんだろう」と自問しつつ、なおも続いてしまいます。今回はさらに個性的(よく言えば)な筆跡揃いです。 無骨な書体です。「帰ってこられてうれしいよ」とだけ書かれたメッセージ。怪しい雲水のような風貌が印象的なジェローム・ルロワ選手のものですが、この人がパリの下部組織出身だと知った時には、自分の浅薄なパリジャン観を恥じたものです。 他人の揉め事には淡白なジェローム選手ですが、自分が売られた喧嘩は倍返しが基本。そう思うと、このコンスタントに強い筆圧で書かれた文字の奥に、ただならぬ秘めた殺気を感じてしまうのが不思議です。いや考えすぎですが。でも、悪い人ではないんだろうな、と思いますね。 今シーズンはじめに加入したロマン・ロッキ選手。カンヌから来た21歳の期待の新人です。OM戦でのプレーはなかなか好評だったようですが、なにしろ一度もプレーを見たことがありません。フェルナンデス監督が気に入って連れてきたというだけあって、なかなか奉仕精神にあふれた選手のようです。どちらかと言うとディフェンシヴなMFということですが、このメッセージを見る限り、その守備ぶりは実におおらかなものと思わざるを得ないのが気がかりなところです。 次ですが、子供の字ではありません。れっきとした24歳妻子持ち、ガブリエル・ハインツェ選手の真筆です。アルファベット・ビスケットを並べたような見事な丸文字。「みんな〜、どうもありがとう!」という感じでしょうか。 普段は誠実で謙虚な性格といわれるように、ちんまりとした字で丁寧にファンへのメッセージを綴っています。DFらしく、それなりに几帳面な字だとは思うのですが、なんとなくと散らかった印象を与えてしまうのは、字の軸がてんでな方向に傾いているからです。 ピッチでの熱い面はここからは感じられませんが、バタバタしながらもなんとなく守りきってしまうプレーぶりは反映されているような気がします。 最後に、絵画的に美しいアレックス・ニャルコ選手のメッセージとサイン。これを見て、ニャルコ選手に対する私の脳内男前度は相当にアップしました(単純)。 アラビア文字のようにも見えるのですが・・・。 Pic: PSG Site Officiel PSG.fr |
| 03/1/13 | 話す猫たち |
| 常日頃、欠かさず購読している雑誌というのはあまりありませんが、これだけは何をおいても絶対発売日に買う、というほどキョーレツに愛読しているのが、季刊雑誌「猫びより」。 普通の雑誌ならば、水着のアイドルが笑顔でポーズを取っていたりするはずのグラビアページが、愛くるしい子猫の写真のみならず、目ヤニのたれたそのへんの野良などで埋め尽くされているという、興味のない人には想像もつかないだろう世界です。 が、「英国に伝説のウィスキーキャットを訪ねて」「名画の中に猫を探して」等のツボを押さえた特集記事で、猫好きの知的欲求にもアピールするなど、なかなかあなどれません。 その最新号の特集は、「絶対知りたい猫のナゾ」という、古典的にして永遠のテーマなわけですが、野村潤一郎獣医師(あのいつも目の血走っている方ですね)によるQ&Aを読んで、長年心に引っかかっていた疑問が解けたわけです。つまり、 「猫は人語をしゃべる」。 野村獣医師によれば、動物は名詞、動詞くらいまでなら覚えることができ、しかも名詞と動詞をコンポジションさせることができるらしい。(ご飯+食べる、というように) 「ネコやイヌがしゃべっていても、飼い主さんが聞き逃している場合が多いんです」 そうだったのか〜。 以前ウチの母親が、ウチの猫がはっきり「お母さん」と言った、と主張したことがあります。あまり想像したくない光景だったので聞き流しましたが、確かに「お母さん」というのは猫の発音しやすそうな言葉です。 そういえば、以前TVで「ゴハン」と言う猫を見たことがありますし、朝一番、「オハヨウ〜、アサダヨウ〜」と言いながら家族を起こして回る猫の映像には度肝を抜かれました。 さらに、猫の「ニャオ〜ン」は対人間用の鳴き声なのだそうです。確かに、猫が猫に向かって「ニャオン」と言ってるところはあまり見ません。 以前ウチにいた外猫が発情したとき、近所中をあられもない声を振り絞って歩き回るのでとても恥ずかしい思いをしたのですが、名前を呼ぶと、とたんに「ワオワオ」がいつもの「ニャーン」になるんですね。 猫の「ニャオン」は人間の女性にアピールする周波数なのだそうで、さすが、可愛いだけで何千年もやってきた生き物は、ノウハウが違います(たまにネズミも捕りますけどね)。 そういえば、ウチの猫は、よく父に怒られると「イヤーッ!イヤーッ!」と言って反抗していますが、あれも、本人(猫)はしゃべっているつもりなのかもしれません。でも、当然これだと英語圏ではイエスの意味になってしまいます。 フランスの猫は「にょんにょん」と言って口答えをするのでしょうか。 |
| 03/1/10 | どんなユニフォームが好きですか?(2) |
| それが実用品であれば、デザインは常に機能性との戦いです。 ファッションでいうならば、デザイン最優先のアーティスティックなデザイナーズの場合、しばしば「着心地が悪い」、「(素材が特殊すぎて)クリーニングにも出せない」、「この服どこに腕を通すんですか」というようなことが起こりがちです。 かと言って、これみよがしに機能性を前面に押し出した製品は、TVショッピングの便利グッズみたいに、「すごーく便利なんだけど何か下品」ということになりかねません。 最近のユニフォームでいうと、あの2層構造ウェアには今ひとつ好感が持てません。同じように、過剰に体にフィットしたユニフォームも、私はちょっと苦手です。そもそも「引っ張られにくい」という機能の根拠がなんとなくセコイような気もします。 今季、レアル・ベティスがピタピタのユニフォームを採用したのはちょっと衝撃でした。特にあのグリーン・・・ファンの方には本当に申し訳ないのですが(私も好きですよVFだもん)、何と言うか、見ようによっては文字通りのカッ(自粛) 同じメーカーでも、オセールだとさほど違和感を感じないのが不思議です。体格のいいメクセス君など、かえってスッキリしてきれいです。着こなしは選手の自己責任ということでしょうか。 残酷なくらい体形が強調されてしまうピタユニには、選手も気を抜けないことでしょう。特に、ごまかしのきかない単色使いは要注意です。大変失礼な話ですが、私一度アズーリの試合中継で、ピッチの向こう側の右サイドで競り合うデ○ピ○ロ選手を、こともあろうにガ○ト○ーゾ選手と見間違えてしまったことがあります。 考えてみれば私は、「これ着られるかな」みたいな、けちくさいリアリズムに縛られすぎかもしれません。ランスの単刀直入な金赤ユニフォームを見るたび、そんな自分が小さく思えます。Pic: PSG Site Officiel PSG.fr |
| 03/1/9 | どんなユニフォームが好きですか?(1) |
| このサイトの基本カラーがグレートーンなのは、好きな色ということもありますが、なんと言っても今はなきPSGのセカンドユニフォームのイメージです。 ライトグレーのグラデーションがシックなユニフォームで、都会的な洗練を感じさせるパリらしいデザインでした。ナイキ、これは上出来だったのではないでしょうか。 昨シーズンのPSGのユニフォームは、ホーム、アウェイ、どちらも好きでした。渋い紺と赤、白の配色のバランスがあかぬけていて、日頃ユニフォームが欲しいとかあまり思わない私でも、これならいいな、という感じ。 一方、今シーズンのデザインを初めて見たときには、正直「なにこれ」「リヨンじゃん」と思ったものですが、見慣れればそう悪くありません。シルエットは適度にタイト。ホームユニフォームは、明るめの紺と赤を白いラインでセパレートした小ワザが効いた、軽快な仕上がりです(前のモデルのシャープさがなくなったのは残念ですけど)。 最近こういう形の襟、多くなりましたね。 セカンドに思いっきり着こなしの難しい白を採用してしまったため、Jルロワ選手、カルデッティ選手あたりはかなりいっぱいいっぱいな雰囲気になっていますが、これはこれで愛敬。 とかく軽薄な感じになりがちな白、赤、青の組み合わせですが、赤と青の彩度を下げているのがなんとも大人。レトロモダンな感じがなかなかです。 白いユニフォームの着こなしの難しさ、という点ではレアル・マドリーが好サンプルでしょう。どうですか、フィーゴ。 あのすがすがしい白、どう見てもフィーゴ選手の濃厚なお顔を受け止めきれていないようです。ユニフォーム側としても世界王者の意地があるでしょうが、さすがに敗色濃厚で、ちょっとかわいそうな感じです。 太秦系の美男であるフィーゴ選手にはやはり、あの例の青えんじ金というくどい配色の方が、バランス的には合っていたのかもしれません。 金髪白皙のマクマナマン選手と並ぶと、「これが同じユニフォームなのか!!!」という深い感慨にとらわれます。総じて白は、色素の薄い人の方が似合うようです。 Pic: PSG Site Officiel PSG.fr 余談ですが、これを書いている途中でマクマナマンなのかマクナマナンなのかわからなくなり、検索してみたところ、どちらでも結構ヒットしました。びっくりしました。 |
| 03/1/3 | 筆跡に見るサッカー選手の人間像 |
| PSGのオフィシャルサイトには、選手のインタビュー記事に添えて、時々自筆のメッセージとサインが掲載されることがあります。これが十人十色で、なかなか面白いんですね。 字にはその人の人間性が如実に出るとか言いますが、本当なんでしょうか。 まず、こちら。 とてもわかりやすいサイン。マルティン・カルデッティ選手のものですね。本人の体格を思わせる、ややこじんまりとした印象の字ですが、よく見るとさすがペナルティエリアの狩人、線に迷いがありません。 3行目の一気呵成のペン運びといい、全体の未来派風のスピード感ある構成といい、カルデッティ選手のゴールに向かう気迫をさりげなく感じることができます。 相手ゴールは右上と見ましたが。 続いて、同じFWのフィオレズ選手はどうでしょう。上のカルデッティ選手と比べると、線も細く、ややためらいが見られるようです。角の処理など、少し神経質な印象も受けます。このあたり、自分で(ダイヴまでして)取ったPKをむざむざ他のFWに譲ってしまうような、気遣いな面が表れているのかもしれません。 私、ガイジンの字のうまいへたは正直よくわかりませんが、あまり達筆には見えないようです。フィオレズ選手、足元のテクニックはそこそこいけるんですけどね。しかし、「不器用な私ですから」的な人柄が忍ばれて(多分)、これはこれで好ましいものです。 個人的に次のポチェッティーノ選手、これはちょっと感動しました。メッセージ部分の水も漏らさぬ3列のライン。DFリーダーの性まる出しですよね。フォーメーションは3−4−3でしょうか。サインの粘り強い線も、マンマークの執拗さ、90分間途切れることのない集中力を反映しているかのようです。 ポチェッティーノ選手、引退後はいい監督になることでしょう。。 最後にこちら。全体の繊細なたたずまい、さりげなくフレンチなオシャレ感。しかも左利き。山本容子さんの銅版画を思い出す方もいるのではないでしょうか。どことなく女心をくすぐるこのサインの主は、PSGの19番、ローラン・ルロワ選手です。 パリジェンヌの人気も高いであろうローラン選手、ピッチでのアクティヴなプレーとは対照的に、普段の言動はクールです。 ところでこの人、利き足はたしか右だったような気がします。単に画像の向きが間違っているのかもと思い、実際に自分で同じ文を書いてみたのですが、toutの傾きなどはやはり左手の字のようです。利き足と利き手はあまり関係ないものなんですね。 4人の選手のメッセージとサインを仔細に眺めてはみたものの、結局、筆跡が選手の人柄を表すのかどうかはよくわかりませんでした。しかし人間、他人にどこでどう評価されているかはわからないものです。書く字には気をつけたいですネ。というわけでこの項続く(続くのかい) Pic : PSG Site Officiel PSG.fr |
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