2700万フランで控えめにパリにやってきたアルゼンチン人DFは、当初はその、あまりラテンらしくない名前を不思議がられる程度の存在だった。しかし、柔軟なフィジカルとスピード、豊富な運動量を活かし、勇敢なプレーでPSGのディフェンスの立て直しに貢献。その労をいとわぬ闘志溢れるプレーはパルクの観客に愛され、サポーターは常にチームに“11人のエインセ”の精神を求めた。パリでプレーした3シーズン、彼はまさにPSGの魂だった。

1978-2002


-家族-

アルゼンチン出身。父親はドイツ系、母親はイタリア系(シチリア)のイタロ・アルゼンチン。出身地クレスポはブエノス・アイレスの北西400キロくらいの小さな町。
エインセは4人兄弟の末っ子。3人の兄がいる。父親は養鶏関係の会社で働いていたが、この安定した仕事に着くために、長距離トラックの運転手などたくさんのアルバイトをしながら辛抱強く働いていたらしい。エインセのピッチで困難に打ち勝とうとするエナジーは、この父親譲り。


-ニューウェルス・オールドボーイズ-
ボカ・ジュニオルズのファンだったエインセが、ニューウェルス・オールドボーイズの下部組織に入ったのは14歳のとき。
選考は20倍の難関、しかも、大半の子供はエインセ少年にはない個人技を持っていた。選考に残る見込みは薄かったが、あきらめずに頑張って見事合格。
もう1人一緒に合格した同郷の少年は、彼よりずっと才能に恵まれていたが、結局家族と離れて暮らすことができなかった。
この経験で、エインセ少年は「メンタルは少なくとも才能と同じくらい重要だ」と悟ったらしい。

下部組織に入ってからも、家族に送金するために、トップチームの回りの世話などをしながら働いていた。その間、エインセはマラドーナや彼のアイドルであるセンシーニ、そしてPSGでのチームメイトであるポチェッティーノがプレーしている所を見ることができたのだった。

サムエル、キローガらとはこのニューウェルスでの寮生活で知り合っている。

-レアル・バジャドリー-
97年、ニューウェルス・オールドボーイズの一員としてプロリーグにデビュー。左サイドバックとして8試合を戦った後、リーベル戦でのプレーを目に留めたバジャドリーが彼にコンタクトした。
「列車は一度しか来ない」(彼の父親の口癖である)と思ったエインセは、オファーを受けて12月にスペインへ。
しかし、当時のクレシッチ監督はエインセを若すぎると判断し、彼はチームに入ることが出来なかった。家族から遠く離れた地で鬱状態に陥り、帰国も考えたが、熟考の末に留まることを決意。

「適応するにはいろいろと問題があったし、監督ともうまくいかなかった。楽なことなんてひとつもなかったって言ってもいいくらいだったよ」 
(移籍直後、オフィシャルサイトでのコメント)

「1シーズン半の間、僕はスペインでは1試合もプレーできなかった。この時期の体験はとても役に立ったし、パリでの僕を助け続けているんだ。僕は一度も降参したことはないし、今は自分がより強くなったと感じている」
(L'equipe 2003.5.29)

99-00シーズン、スポルティング・リスボンでのレンタルから復帰。クレシッチに代わったマンサーノ監督の下で18試合に出場し、続いて00−01に監督に就任したアルゼンチン人監督フェラーロは、エインセをレギュラーのCBとして起用。このシーズン、エインセは36試合に出場し、ラージョ・バジェカーノ戦では1ゴールを上げている。
この頃、城選手の取材に来ていた日本の報道陣の間では、ニコニコと感じのいい応対で評判がよかったらしい。

当時アスレチック・ビルバオを指揮していたルイス・フェルナンデスが彼に注目した。そのプレーぶりと真面目な人間性が精神論の人フェルナンデスのハートを射止めたらしく、PSGの監督に就任後、エインセをパリに呼び寄せた。この補強は数少ない大当たりだった。

-ウルサイスの証言-
イスマエル・ウルサイス選手(アスレティック・ビルバオFW)によると、これまでにやりにくいと思ったDFは、バジャドリーと対戦した時のエインセだったとか。手強かったらしい。
(参考:ワールドサッカーダイジェスト 2003.1.16号)

-パリ移籍-

01年の夏にPSGに移籍。デビュー間もないインタートトカップでは決勝点となるゴールも決めたが、当初、周囲の評価はやはり懐疑的なものだったらしい。一部のプレスに散々な記事を書かれたせいで、いまだに取材は嫌いだそうだ。

「パリに来たときには、誰も僕を知らなかった。僕がサッカー選手なのか聞いたジャーナリストさえ覚えてるよ。ここに連れてきてくれたルイスには本当に感謝している」


-モンスターの生まれる11月-
この01-02シーズンの11月は、エインセにとって記念すべき月と言えるかもしれない。スコットランドとフランスで立て続けに戦った2試合は、サポーターにとって驚くべきものだったようだ。
UEFAカップ・グラスゴーレンジャーズ戦(0-0)。この試合では初めて中盤の左サイドをまかされた。慣れないポジションながら、何一つ努力を惜しまないプレーでリクセンと激しい攻防を繰り広げ、79分、リクセンを退場に追い込んだ。アイブロックスのありとあらゆるブーイングをものともしなかった。

続くアウェイのナント戦では前半35分にポティヨンが退場し、PSGは残り時間を10人で戦わざるをえなくなった。すでに1点を先制されており万事休すかと思われたが、後半に入り、ハインツェが左サイドを突破して上げたクロスをオグベチェが決めてチームを再び軌道に乗せると、その5分後、ナントのDF陣を挑発し、ロナウジーニョに2点目のアシストとなるパスを送った。(1-2)

試合後の監督のコメント
「エインセには驚いていない。優秀なCBだ。中盤をまかせたのは、以前彼がこのポジションでプレーしているのを見たことがあるからだ。力を発揮できるとわかっていた。彼は戦士だ。予想のつかないたいしたやつだ」


-01-02フランス・ダービー-
02年に入ると、抜群のコンビネーションでリーグ屈指の堅固な壁を作っていたポチェッティーノを負傷で欠く間、ディフェンスリーダーとしてDFラインを支えた。
フランスカップのマルセイユ戦では試合終了直前に同点ゴールを決め、チームはPK戦の末に勝利。


「(ゴール後、スタンドのポチェッティーノのもとに駆け寄った)彼の行動は本当にうれしかったよ。ガビー(エインセ)はピッチでは戦士だけど、ピッチの外ではチャーミングな青年なんだ。それに、彼は個性豊かだよ」 
(ポチェッティーノ選手)

最終的にはこのシーズンを4位で終了したPSGだが、エインセ自身はフランスリーグのフットボール・オスカーで、ベストイレブンに選出されている。

Text By Tsuki

              photo: psg.fr

ガブリエル・エインセ(ハインツェ) 
Ivan Gabriel HEINZE


センターバック、左サイドバック
1978/4/19生  178cm78kg

アルゼンチン・クレスポ出身
(イタリアのパスポートを所有)
アルゼンチン代表(03/4/30-)



・97-98 ニューウェルス・オールドボーイズ
・98-99 バジャドリー
(スポルティング・リスボン)
・99-01 バジャドリー
・01-04 パリ・サンジェルマン
・04- マンチェスターユナイテッド



04年 フランスカップ優勝(PSG)
04年 コパ・アメリカ準優勝
04年 アテネ五輪優勝
05年 コンフェデレーションズ杯
    準優勝

【01-02】
フランスリーグ フットボールオスカーベストイレブン

【02-03】
フランスリーグベストイレブン
(レキップ紙選出)

【04-05】
サー・マット・バズビー・プレイヤーオブザイヤー(マンチェスター・ユナイテッド年間最優秀選手)

【05-06】
PSG歴代ベスト・ディフェンダー



愛称はGabi(Gaby)。
地元では‘Sonri’(よく笑うから)‘El Gringo’(金髪のため)とも呼ばれていた。

目標とする選手はセンシーニ。

家族は妻マリア・フロレンシアと長女パウラ(02年10月に誕生)、05年夏に第二子誕生。

Season Club League European cup
97-98  ニューウェルス・オールドボーイズ(ARG)
 8試合0ゴール -
97-98  レアル・バジャドリー(ESP)
 0試合0ゴール -
98-99  スポルティング・リスボン(POR)  5試合1ゴール -
99-00  レアル・バジャドリー(ESP)  18試合0ゴール -
00-01  レアル・バジャドリー(ESP)  36試合1ゴール -
01-02  パリ・サンジェルマン(FRA)  31試合0ゴール  6試合0ゴール
02-03  パリ・サンジェルマン(FRA)  35試合2ゴール  4試合0ゴール
03-04  パリ・サンジェルマン(FRA)  33試合2ゴール -
04-05  マンチェスター・ユナイテッド(ENG)  26試合1ゴール4  7試合0ゴール2
 FAカップ4試合0ゴール2
 リーグカップ2試合0ゴール
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