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女装したメンバーがバナナを手にして立っているユーモラスなカヴァー・フォト。ジェイムスのアルバム“Laid”のアートワークは、セクシュアルなタイトル曲の歌詞「君は僕に女物の服を着せてジェンダーを滅茶苦茶にする」という一節のイメージなのだろうけど、奇抜さよりは、どことない風通しのよさを感じさせて好きだ。バンドのヴォーカリスト、ティム・ブースの発案なのだそうで、メンバー全員がこの写真を気に入り、急遽、予定されていたものと差し替えになったのだという。

80年代の初めにマンチェスターで活動を始めたジェイムスは、当時はザ・スミスの成功と数多くのインディ・ギターバンドの陰に隠れ、またコマーシャリズムに対する潔癖さもあって10年近い不遇の時期を送ったが、フォンタナに移籍後、アルバム“Gold Mother”とシングル“Sit Down”の大ヒットで、90年代のマンチェスター・ムーヴメントに乗り一気にシーンに浮上した。
以降、スタジアム・バンドばりのダイナミックなサウンドで驚かせた“Seven”、一転してニール・ヤングのツアー・サポートでインスパイアされたというアコースティックな“Laid”、その“Laid”と平行してレコーディングされた実験的な即興アルバム“WAH WAH”と、このバンドの歴史はストイックな音楽的挑戦の連続だった。

(プロデューサーのブライアン・イーノの意見に反して)個人的には彼らの最高傑作だと思っている“Whiplash”以降の2作“Millionaires”、“Pleased to meet you”は、その完成度にもかかわらずやや思い入れが弱い、というのはソング・ライティングの中心になったサウル・デイヴィスの音楽性と私の趣味がいま1つ合わなかったということなのかもしれないけど、“Millionaires”を聞いた当初は何かが微妙にスライドしているかのような印象がもどかしく、かろうじてティム・ブースの歌声がそれを繋ぎとめているかのようだった。
それから01年にティムがバンドを脱退して、感動的なマンチェスターでのフェアウェル・ライヴの後、彼はもう音楽の世界には戻ってこないかもしれないと漠然と思っていたのだった。

例えばジェイムスを聴く人がまず最初に耳をひかれるのは、このティム・ブースの伸びやかで奔放な歌声なのではないだろうか。アルバム“Bone”は、脱退後約2年を経てリリースされた、ティムの2枚目のソロアルバム。彼は相変わらず歌にすべてのエモーションを込められるシンガーであり続けている。

ここにはジェイムスの持っていた濃密なテンションはないが、代わりにリラックスした、親和的な空気に満ちている。ダンス・ミュージックの要素を取り入れた曲、ジェイムスを思わせるような曲、そして、彼のルーツであるストゥージーズ辺りを髣髴とさせるラフなロックンロール・ナンバーもある。でも、そんなことはどうでもいい、ティム・ブースの世界だ。ゆるやかな意識の流れ、彼の息遣いのようだ。エンディングの曲に心が震える。

正直なところ、スポーツに蔓延するマッチョは苦手だ。世界を勝者敗者で単純に切り分けるような価値観には馴染めない。自分が少しフットボールの論理にまみれすぎたと思う時、ジェイムスを、そしてティム・ブースの歌声を聴く。彼らの音楽の持つ力強さはスピリチュアルな強さであり、存在の強さとも言えるものだ。だから強靭で、しなやかで、解放されている。


James
ジェイムス
“Laid”(1993)

Tim Booth
ティム・ブース
“Bone”(2004)


ティーンエイジ・ファンクラブ(以下TFC。トゥールーズFCではなく)の魅力を一言で言えば、「偉大なるアマチュア主義」に尽きるんじゃないだろうか。それがちょっとカンにさわる時があるという点では、私はあまりいいTFCの聴き手ではないのかもしれない。

デビュー作
“A Catholic Education”(90年)、2nd“Bandwagonesque”(91年)くらいまでは、いわゆるグランジの影響を強く受けた(というかそのまんまダイナソー・Jr.なのだが)ノイジーでゆるいポップ・バンドだったのだけど、以降は徐々に、もともとの美しいメロディとコーラスを前面に出した、シンプルな音に移行している。
最近の新人バンドを聴いていると、「で、ほんとのところ曲作れるの?」と思うことがしばしばなのだけど、TFCはそれはもう愚鈍なまでに、一貫してソングライティングを重視しているバンド。スコットランド・グラスゴーのフレンドリーな音楽シーンの出身のためか、(アルバムタイトルに反して)あまり時流に乗ることは意識せず、一ミュージシャン、一音楽ファンとしてやりたい音楽を貫いているようだ。

以前メロディ・メイカーのバンドファイルで、ノーマン・ブレイク(vo.g)はフェイバリット・バンドとしてBMXバンディッツ、パステルズ、ユージニアス、スーパースター等を挙げ、完璧にローカルなセレクトで呆れさせてくれたが、TFCのオフィシャルな略歴がバンド結成の辺りで妙に曖昧になっているのは、この周辺のいくつかのバンドが流動的な1つの大きなバンドみたいな感じだということなのかもしれない。そこで培ったアマチュア根性のもとにメジャー・シーンで勝負しているTFCというバンドも、やはり最初からボタンを掛け違えたような存在なのだ。

そう言えば以前、全曲カヴァーのオムニバス企画盤で、この人たちがバーズの“Mr. Tambourine Man”を演奏しているのを聴いたことがあるのだが、これがもうカラオケと言って差し支えないシロモノだったように記憶している。他の参加ミュージシャンが原曲を自分の土俵に引き込もうと四苦八苦する中で、ぬけぬけとそのまんまの“Mr. Tambourine Man”をやったTFCは、しかし何だか異様に楽しそうで、そこだけが批評の亜空間と化していたものだった。
彼らがこのような企画盤の中にあって、時としてある種の過激な存在感を放つとしたら、仮にもいっぱしのプロだったら絶対にできないと普通は思う、愛と内輪の楽しみのみに支えられたピュアな一音楽愛好家的姿勢が、何の疑いも見栄も体裁もなく、極めてマニアックに炸裂しているからである。

「しかしプロがそれでいいんだろうか」、と言うのも無粋な気がしてはばかられるのだが、バンドも3rd
“Thirteen”以降多少の迷いを覗かせる時があり、のほほんとしているようで、ただ純粋に音楽を楽しむというスタンスを保ち続けるには、案外努力が必要なのかもしれない。

そういえば先日、更新日記のページに、
“Thirteen”のジャケットはジェフ・クーンズのパロディでいいんだよね?なんてことを書いたのだけど、その後いただいたメールによると、どうやら本当にそうだったらしい。確か“Bandwagonesque”ではジャケットデザインの盗作疑惑で訴えられたか何かしたはずなのに、懲りないというかなんというか。

ジェフ・クーンズは80年代アメリカのシミュレーショニズム(既存のイメージを流用し、オリジナリティという神話を形骸化する・・・で説明合ってる?)などと呼ばれたアート・ムーヴメントの代表的なアーティストで、
“Thirteen”の元ネタになっていると思われるのは、スポルディングのバスケットボールを水槽に浮かべただけの作品。
でもそれは確かに、ビッグ・スターそっくりだと叩かれもした彼らがアレックス・チルトンの曲名をそのままタイトルにし、さまざまな既視(聴)感覚を伴いながら、いきなり開き直ったかのようなT-REXの流用で始まるこのアルバムにふさわしいデザインかもしれない、というか彼らもまた意外にしたたかなのだ。

ここでは02年にリリースされたベスト盤を。基本的に、曲はノーマン・ブレイク、ジェラルド・ラヴ(b)、レイモンド・マッギンリー(g)の3人がそれぞれ書いて、それぞれヴォーカルをとっているのだけど、個人的にはジェラルドの曲と声が好き。
それにしても、Foot!の前のエンディング・テーマは、まるっきりノーマン・ブレイクみたいだった。


Teenage Fanclub
ティーンエイジ・ファンクラブ
“Thirteen”(1993)

“Four Thousand Seven Hundred and Sixty-six second”(2002)


普段はバンドであれソロであれ、いっとき個々の活動を離れて、実力派ミュージシャンがジャンルを越境して顔を合わせる作品を聴くのは、いつだってスリリングで楽しい。元フィーリーズ、ラウンジ・リザーズのドラマー、アントン・フィアがNYアンダーグラウンド・シーンを中心とする多彩なミュージシャンと組んだユニット、ゴールデン・パロミノス。その2枚目のアルバム“Visions of Excess”(85年)も、そんな作品。

パロミノスはアルバムを出すごとにサウンドもゲストの顔ぶれも変わる変則的なユニットで、本作にはビル・ラズウェル、アート・リンゼイ、リチャード・トンプソン、マイケル・スタイプ、ヘンリー・カイザー、カーラ・ブレイ、クリス・ステイミー、バーニー・ウォレル、ジャック・ブルース、シド・ストロウ、ジョディ・ハリス、ジョン・ライドンといった、一癖も二癖もある個性派が参加している。アントン・フィアのこういうセンスは好きだ。一体どんな音に仕上がってるんだろう?という顔ぶれだけど、音の方は硬質ながらルーツ・ロックの香りのする、意外にもポップなもの。

とは言っても、やはり単なる懐古ロックでは終わらないのがこのメンツで、ハイレベルなミュージシャン達の個性がぶつかり、融合する心地よい緊張感、疾走感は、あたかも夜の荒野を疾駆する一群の野生馬、といった光景を思わせる(実際、パロミノとは月毛の馬のこと)。“Omaha”でヘンリー・カイザーのギターが切り込んでくる瞬間のスリルなどは、この種のアルバムならではだろう。
どことなく孤高感を漂わせたマイケル・スタイプのヴォーカルとリチャード・トンプソンのギターの呼応が印象的な“Boy(Go)”、うねるスライド・ギターとキーボードにジャック・ブルースとシド・ストロウのヴォーカルが絡み合う“Silver Bullet”など、それでもやはりNYのミュージシャンらしいクールな熱気を帯びた、濃密な8曲。そう言えば、マイケル・スタイプが歌詞をはっきりと歌い始めたのは、この辺りからじゃないかと思う。

1stアルバムのパロミノスは、いわば直球のアヴァンギャルドだったけれど、この
“Visions of Excess”を聴いて思い出すのは、デザイナー・山本耀司の「アヴァンギャルドとはぎりぎりの、これ以上後へは引けないエッジのような所で表現されたもので、単純に何かを壊したりねじり回したりするようなことではない」という言葉。このアルバムがあくまでもポップ・アルバムのフォーマット上にあるのは、逸脱する多様な個性に1本の共通のラインを引くための、ゲームの規則といったようなものでもあるのかもしれない。

リトル・フィート初期の名曲“I've Been The One”のカヴァーで幕を開ける3rdアルバム
“Blast Of Silence”は、引き続き前作のルーツ・ミュージック路線を継承しているけれど、“Visions of Excess”に比べると、幾分、リラックスした雰囲気だ。
ここではアントン・フィアと並んで、元スラップ・ハッピーのピーター・ブレグヴァドが演奏、ソングライティング両面で重要な役割を果たしている。フィア、ブレグヴァドとマシュー・スウィートの共作“Something Becomes Nothing”は、ブレグヴァドのXTCのアンディ・パートリッジとの親交もなんとなく納得のいく佳曲。マシュー・スウィ−トとかあの辺りのポップは1、2曲ならいいけれど聴いているうちになんとなく鼻についてくるところがあるのだけど、ここではパロミノスのストイックなサウンドとスウィートの甘めのヴォーカルがいいバランスだ。

このピーター・ブレグヴァドのソロ作
“King Strut & Other Stories”は、個人的に最も好きなアルバムの一枚。90年にリリースされたこのアルバムはクリス・ステイミーとの共同プロデュースで、ゲストにアントン・フィアやシド・ストロウと、パロミノス人脈の延長上的な雰囲気もある。アンディ・パートリッジのプロデュース曲も収録されている。
元dB'sのピーター・ホルサップル(
パロミノスは3rdで彼の曲をカヴァーしている)も参加していて、何曲かでステイミーとホルサップルの共演があるのも初期dB's好きにはなんとなく嬉しい。フォーク・テイストにブリティッシュ・ポップ的な捩くれたセンスもあって(本人はNY生まれロンドン育ち)、それでも繊細で美しく抑制の効いた隠れた名盤だと思うのだけど、やっぱり、地味なのね…



The Golden Palominos
“Visions of Excess”(1985)

Peter Blegvad
“King Strut & Other Stories”(1990)


XTCのCDを購入するということは、WWFに募金するかのような、ある種敬虔な思いにとらわれるものなのだ。

とは言っても、一番最近買ったのが99年の
“Apple Venus Volume 1”だから(vol.2はなんとなく未聴)、5年も前のことになるのだけど、XTCが聴きたくなる周期というのがあって、そのたび旧譜を繰り返し聴いているから、それほどのブランクは感じない。彼らはどちらかというと日本の方が熱烈なファンが多いようで、イギリス本国では長らく世捨て人的な評価を下され、プレスからもほとんど無視されていた。でも時流におもねらず自らの音楽的姿勢を貫いていることで、かえって時間の経過をあまり気にせずに聴くことができる。

“Apple Venus vol.1”は、2部作のアコースティック・サイド。オーケストラを導入し、彼らのいかにもパワー・ポップという感じの作品に比べるとやや内省的なトーンの、知的でデリケイトで美しい作品。リリースされたばかりの頃、シングル曲“Easter Theatre”がヴァージン・メガストアの館内でかかっているのをたまたま耳にして、もちろんその場でレジに直行した。あの時の、空間がみるみるひんやりとした湿度を含んだ空気に満たされていくような奇妙な感覚は忘れられない。すぐにそれと分かるアンディ・パートリッジの歌声と、独特のメロディ。とても複雑で、でも限りなくポップ。

ポップ・ミュージックとしての完成度を求めるあまりに、時に自己完結的になりすぎることもあって、そこが「ポップ職人」的な言われ方をする所以でもあるのだろうけど、このアルバムの“I can't own her”からラストに至る深く美しい数曲を聴いていると、触れた指先から染み入ってくるものが、確かにあるのだ。XTCを語る時に(多くは否定的な意味合いで)よく言われる「趣味的」という言葉がひどく陳腐に思えるほどにストイックなアルバム。

それにしても、XTCはなんてイギリス的なバンドなんだろう?

小腹のすいた時に吉田健一の英国についてのエッセイを読んでいると、つい美味しいトーストとマーマレードが恋しくなるのだけど、その「マアマレイド」はもちろん「オレンジの皮で作ってあるのに苦味もなくてただ甘いジャム」ではなくて、「濃い茶色が光線の加減で金色に見える」「はっきりオレンジの皮の味がして苦い」ものでなきゃならない。XTCの音楽は、例えて言うならオレンジマーマレードの印象、だろうか。ポップな甘さと苦い知性、ガラス瓶の中で、ゼリー状の琥珀色の夢を見ている。これもまた、とてもイギリス的だ。

XTC  “Apple Venus Volume 1” (1999)


ペイヴメントの音を初めて耳にした時は、実際ああまたソニック・ユースかザ・フォールのフォロワーか、くらいにしか思わなかったし、そのいかにも脱力的なスタンス(ライヴで何の曲を演奏しているのかさえ分からなかったりする)が鼻について、そう好みというわけではなかったのだけど、ある時、駅近辺の雑踏の中で聞き覚えのある歪んだギターの音が唐突に耳に飛び込んできて、それが何だかとても、街の光景と気分にフィットしていた。20世紀も終わりに近づいた、90年代の都市の街角のBGMに相応しい音だ、なんて思ってしまったのだった。

とかくやる気のなさばかりが言われるバンドだけれど、実際それでは3rdアルバムまでもたないだろうわけで、振り返って見れば、その音楽に対する姿勢はいたって真摯なものだ。そういった諸々のシリアスネスを、おそらくはある種のデリカシーから、奇妙なユーモアではぐらかしながら成立する、彼らの音楽は実はそういったものだった気がする。
“Stereo”のプロモーション・ヴィデオは、演奏が終わった所で、ヴォーカルのスティーヴ・マルクマスが何にともなくフンと鼻で笑うシーンで終わるのだが、それもいかにもペイヴメントらしい。

あくまでも自分にとっては、ペイヴメントとしての最後のアルバム
“Terror Twilight”は、彼らの中で何かが終わってしまったことを予感させる作品だった。当時“Terror Twilight”を一聴して思ったのは、「随分普通になったなあ」ということ。洗練でも進化でも深化でもなく、ただ、「普通」。同時に曲はよりメロディアスになり、その点では、バンドの中心人物でもあるマルクマスが解散後にリリースしたソロ・アルバムの方向性は納得できるものだった。

このソロ・プロジェクトは少なくとも、マルクマスにとってかなり楽しめるもののようだ。ペイヴメントのクールでインテリジェントなユーモア感覚からすると、ちょっと臆面もないほどに軽薄、というか、軽率とも言うべきムードがアルバムを支配している。音楽的にはそれほど劇的な転換はないように聴こえるのだが、でもこれペイヴメントでは絶対にやらないだろうな、という音であることがポイントだろう。
ペイヴメントの非常にナイスでハイレベルなヘタの芸能を最終的に成立させていたのが、このマルクマスの切ないまでにへろへろな比類なきヘタ歌唱、いやむしろメタ歌唱だったのだけれど、ここでは彼のヴォーカルも幾分、歌を志向しているようだ。

唐突に男前なジャケットの写真が本気かジョークかも判然としないのと同様、音の方もその目指す所はよくわからない。この人のやることなのでつい裏を探ってみたくなるのだけど、ここはそのままを素直に受け取った方がいいのかもしれない。やはりかなり風変わりな音楽ではあるけれど、まったく自己完結的でないという点は評価できるのではないだろうか。

Stephen Malkmus
スティーヴ・マルクマス

“Stephen Malkmus”
(2001)