根の国。
 神の住まう高天原と区別された地の底の国。高天原と根の国の間に位置するのが、『葦原の中つ国』と呼ばれるこの日本国なのだという。
(うーん…。余計わかんないや)
 古語辞典を閉じ、怜緒は頬杖をついた。脳裏には先刻の夢がフィードバックする。
(綺麗な日本が滅茶苦茶にされて…。僕にも…刃が…)
 きつく目を閉じ、怜緒はその先の映像を頭から追い出した。
(こんな夢見るの、僕だけなのかな?)
 もし、あれが病気とかそういうのじゃなくて…本当に誰かが救いを求めているのだとしたら。
(僕以外にも…いるはずだよね)
 何故かふと今朝ぶつかった青年の姿が浮かんだ。確信は持てないが、彼には何か通ずるものを感じた…ような気がする。
(あの人、今頃何してるんだろう…)
 そんな事を考えながら、怜緒はいつしかうとうととまどろんでいた。



「あーあ、退屈な一日だったなー」
 マンションの鍵を指先でくるくる回しながら、青年は大あくびをした。
「いい女はいねーし。今日も女神様、俺の夢に現れてくれないかしら」
 祈るように胸の前で両手の指を絡め、きらきらアイで何処かを見詰める。
 このお調子者の青年、名を伊吹蓮という。有名私立高校に通う18歳。趣味はナンパで、女の子を引っ掛けては遊びまくっている。しかし、ぽいっと捨てるような事はしない。アフターケアも万全で、一度引っ掛けた女の子は守ってやるのが真のナンパ師だと思っている。勉学、運動神経も優れており、何でもそつなくこなしてしまうマルチな人間である。
「ただいまー…なんてな」
 誰もいない部屋に挨拶し、明かりをつける。食事は作るのがだるくて外食で済ませてきた。
「お疲れさん、俺」
 ソファに座って身体の力を抜く。頭の中にはぼんやりと女神様――清楚系極上美女――の姿が浮かんでいた。
(俺って実はあーゆータイプが理想なのかしら)
 女に関しては広大な守備範囲を誇る蓮である。しかしそれが災いして好みや理想が見えてこないのも事実であった。
(ナンパしようと思った瞬間目が醒めるんだよなー)
 不服そうに口を尖らす。
(…次に会ったときこそオトしてやるぜ!)
 女神の言いたい事は一切蓮には伝わっていないらしかった。
 ソファの横に置かれたサイドテーブルには、一枚の女性の写真。
「母さん、あの女神様俺に気があるんじゃねーのかな? 毎晩出てくるし」
 写真ににこにこと語りかけ、返事を待つように黙りこくった。
 母がいなくなってからもう五年。生きているのかどうかも分からない。出て行った理由も分からない。母と二人家族だった蓮は、ある日突然一人ぼっちになってしまった。それ以来親しくつるむ仲間もいない。
(俺ってば、もしかして寂しがり屋ちゃん? ……落とし文句に使えてしまうかもしれない…)
 タダでは起きないのも、また彼の大きな特徴である。



「バァちゃん、ごめんッ!」
 仏壇にパンパンと手を合わせ、少年は深々と頭を下げた。
「もうしない! もうしないから成仏して! オレを眠らして!」
 健康的な美形である。冬にもかかわらずランニング一枚というのが何かを物語っている。
 スコン、とその頭にしゃもじが投げつけられた。
「いてッ」
「何やってんだい縁起悪い! バアちゃんまだ生きてるだろ!」
「え! マジ?! じゃあこの写真」
「予備だよ!」
「縁起ワリィじゃん」
 今度はおたまが飛んできた。
 この少年、名を風間震という。格闘技やスポーツが大好きで、その他の事に対しては眠り出す。
「ッかしいなあ…。バァちゃんじゃないとすると、アレ誰なんだろ」
 白い着物を着て、小難しい事を喋りかけてくる女。
(バババァちゃんか?)
 頭をひねって考えてみても答は出てきそうも無かった。
 馬鹿である。

*  *  *

「ッかー、頭使うことは苦手なんだぜ俺は」
 拗ねたように口を尖らせ、自室のドアを開ける。とても散らかった部屋が彼の視界に飛び込んできた。
「うわ! きたねえ! 誰だよここでパンツ脱いだの!」
 無論自分である。しかも汚いのはパンツよりも周りのような気もするが…。
 彼はパンツをまたどこかに放り投げると、唯一きれいなベッドに倒れこんだ。
「ああ…。またあの夢を見るのかと思うと……おちおち寝られやしね……ぇ……」
 次の瞬間高いびき。

*  *  *

 燃え盛る街。飛び交う悲鳴。徘徊する異形のモノ達。
「どぅわッ?! 何だコレ!」
 震はびっくり仰天した。
「バババァちゃんの次は関東大震災か!? あ、いや…バケモンがいるあたり、地震よかやべーんじゃん? なあ」
 裸足である。ランニングである。丸腰である。
「熱ィ…」
 火が回っておりとても熱い。震は額の汗を拭った。
「ッきしょ…何なんでェ。オレのいまじねーしょんが悪ィのか? それともバババァちゃんの怒りか?」
 呟いた背中に殺気を感じ、反射的に身をかわす。
「うわッ!」
 肩に鋭い痛み。爪がかすって皮膚を切られたらしい。
「ま、マジかよ」
 震は呆然と呟いた。化け物は冷たく光る眼をこちらに向けていた。
(に、逃げるしかねぇ!)
 震は思い切り走った。地面の熱さなどまるで感じないくらい必死に走った。ところが、気が付くと化け物に完全に囲まれてしまっていた。
 化け物の爪が振り下ろされる。もうだめだ、と思った瞬間、誰かが目の前に立ち塞がった。気が付くと、震の周りに三人の男がいる。顔はよく見えない…。
「大丈夫?」
 金色がかった茶髪の少年が振り返ろうとした所で唐突に夢は終わった。

「なんだ…あいつら。オレの守護霊か?」
 夢の中で傷を負った肩を掴む。勿論傷は無い。
「仲間……か? オレだけじゃねぇって…そういう事かよ? バババァちゃん…」



「金色がかった茶髪…。歳は俺より下くらい…か」
 整然とした和室に一人座り、青年は昨夜の不思議な夢を回想していた。
 怜悧そうな瞳に艶やかな黒髪の美しい青年である。
「…あとの二人は良く見えなかったが…」
 燃え盛る街で化け物に襲われる自分。窮地を救ったのは…金茶色の髪をした華奢な少年だった。
(最近の妙な幻聴といい…。何かの知らせか?)
 青年は目を細めた。
 青年の名は瀬生薫。クールで厳格な高校3年生だ。今時珍しい古風な青年で、華道、茶道、剣道など一通りたしなんでいる。毒舌家でもあるが、自己には更に厳しい性格のためかトラブルは少ない。しかし、心を許せる友人はいないというのが現状であった。
 薫はゆっくり立ち上がって障子を開けた。朝日が整った顔に当たる。
「……捜してみるか。」
 そう呟くと、薫はゆっくり廊下を歩いていった。