哲人30号の戯言

 Y かわいい女の子
 自分は女好きだ。とにかく、かわいい女の子が大好きだ。昔の南野陽子(年齢、ばれるな・・・)から今の後藤真希や上戸彩まで、勿論、芸能人ではない職場の同僚から街中の女子高生まで。他人には良く、自分は面食いだと言われる。だから、恋人ができないのだとも言われる。余計なお世話だ。確かに顔の造作に他の人よりも細かく目がいく事は認める。何せ、父親がテレビに映る美人女優を見ては、何かと「耳の形が良くない」とか「顎が良い」とか微細な批評をする人なので、その影響もあるのだろう。御蔭で自分も、かわいい女の子を見ると、そう思わせる部分はどこにあるのか観察してしまう。隣にいる、かわいくない女の子との顔の造作を比べたりしてしまうから、我ながら質が悪い。
 しかし、これはあくまで鑑賞する場合の話である。この様な書き方をすると男女共同参画社会に反した女性蔑視、女を物だと思っていると一部フェミニストから批判されそうだが、これは女でも男でも同じだ。たまたま、今回の題目を「女の子」にしているので、こう書いているに過ぎない。だから、以下の事も男性に対しても当て嵌まると思って読んでほしい。
 鑑賞する場合の「かわいい女の子」と、付き合う場合の「かわいい女の子」は違う。後藤真希や上戸彩がかわいくても、普通の神経の持ち主であれば、彼女らとお付き合いしたいとは思わない。画面に映っているのは外見だけなのだから。何を話そうが歌おうが、それは他所向きの商品化されたものでしかない。別に浅薄な芸能誌みたいに芸能人が綺麗な外見の裏で汚辱に塗れた生活をしているとまでは言わないが、夢物語みたいに善人だとも思わない。
 自分は「かわいい女の子」が苦手だ。鑑賞する場合の「かわいい女の子」と付き合うのは苦手だ。形状的に「かわいい」という仮面に惑わされて、冷静な判断や解釈をしにくくなる。結局、顔の良し悪しを自分が気にしているから、そうなるのだと言われれば、それまでだが。普通に考えても、後藤真希に笑顔で話をしてもらえたら、それだけで嬉しくなるに違いない(この際、後藤真希が形状的に「かわいい女の子」かどうかの議論は置いておいてほしい)。形状的に「かわいい女の子」の明るい笑顔は、ただそれだけで男を虜にする。故に、世間にはアイドルが氾濫するのだ。
 しかし、それは或る種の美を鑑賞して感動しているに過ぎない。絵や音楽や風景の鑑賞と違う事があるとすれば、それが性的なものを伴う場合があるくらいだ。その感動は、生身の人間に対する感動ではない。これを誤解してはならないのだと思う。
 だから、「かわいい女の子」が苦手だ。理屈を捏ねて筋論を唱えてみたところで、所詮、未熟者の自分は「かわいい女の子」の外見に惑わされる。今、話題の映画『愛しのローズマリー』の様に、心の美しさだけで人を見る事ができたら、果たして世の中は今と同じに見えるだろうか。見えないに違いない。
 外見に惑わされず、本当に「かわいい女の子」が分かる時は果たして来るのだろうか。そもそも、本当に「かわいい」という心の美しさとは何なのか。これもまた安易に使われる割に説明の難しい曖昧な言葉である。結局、惑わされ通しで、何も分からないまま終わる気がする。我ながら、まだまだ未熟者だ。
(平成14年6月2日15時33分)


           『哲人30号の戯言』へ戻る

           表紙(トップページ)へ戻る