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私の英語教育

 日本人は中学、高校と6年間も英語教育を受けているにもかかわらず英語が使えないという批判が聞こえ始めて久しいが、大学で受け入れる学生たちは相変わらずおどおどと自信がなく、英語は不可解で厄介なものと思っている。

 日本の英語教育の第一の欠陥は「間違い探しの英語教育」である。テスト、入学試験などのために教え、学ばれるために「正しい」こと「点が取れること」が目標となり、ささいな間違いも訂正される。

 また、もう一つの欠陥は「何で英語を学ぶのか」ということに関し学生に十分な動機づけを与えられない点である。テストのためなどでなく、違う言語を話す国の人と意思疎通を図り、その人たちのことを理解し、またこちらの思いを伝えるという英語を学ぶ最も基本的なことを具体的な体験として提供できない点である。

 そして、もう一つ問題があるとすれば、少ない授業時間のために極端に練習時間が少ないということであろう。教えられたことを知識としては学ぶが、それを実際に口に出して使ったり、練習する機会がないために身につかないのである。以上のようなことから学生たちは英語がコミュニケーションの手段であることを忘れ、間違いを恐れ簡単なことすら言えずにいる。

 私自身の大学院生活は2人の子供を連れての単身(夫を日本に残して)アメリカ留学だった。アメリカであっという間に英語を習得する3歳と6歳の我が子の言語習得状況をつぶさに見て、日本人の英語学習に決定的に欠けているものを見せつけられたような気がした。

 3歳の子供は保育園生活の第1日目に"More milk!"と牛乳のお代わりを要求したと先生から報告があった。もちろん、 "milk" は日本でも使っていた言葉であるが、彼にそんなに早く"more"という言葉を学ばせたのは「もっと牛乳が飲みたいという」欲求に他ならない。もちろん誰か他の子供が同じ言葉を発して、牛乳のお代わりをもらったのを見てのことだろうが…

 現在の勤務校で英語を教え始めて今年で16年目になる。私は今でも我が子のあの当時の言語習得の状況を再現することが英語教育の大きな基本だと思っている。間違いを恐れず声を出してみれば、中学、高校で学んだ英語の知識で十分に日常的なことは表現できるのだと学生たちを説得する。

 そのような私のやり方を具体化する一番良い機会は夏休みの3泊4日の国内英語合宿授業であった。30人程度の学生と6人のネイティブスピーカーを連れて、国内の宿泊施設で3泊4日の英語合宿を毎年夏休みに行なってきた。

 そこでは、英語を使わなければならない環境を作り出すことにつとめた。各グループを担当するネイティブの先生は当然英語しかしゃべらないが、それだけでなく、学生側から発言せざるを得ないような環境を作るのだ。ちょうどアメリカの保育園で我が子が "More milk!" と叫んだように。

 先生方の指示のもと簡単な料理や工作、またダンスをしたり、 Show & Tell のセッションでは、どうやれば自らを効果的に表現できるかも教えた。各グループが "Corss-cultural misunderstandings" というテーマのもと、寸劇を仕上げていく活動もグループのまとまりを高め、最後の発表会も盛り上がった。宝捜しもやった。これはグループごとに宝の隠し場所を考え、そこに導く手がかりを作り、他のグループの作った手がかりで宝捜しをするのである。敷地内をあちこちと駆け回り、皆で英語で叫びあって助け合う姿はまさにコミュニケーションそのものであった。クイズ・セッションでは景品のケーキを獲得するために、英語のクイズに我先にと答えるのである。

 「沈黙は金」的な態度ではこの4日間を乗り切ることは出来ない。合宿を終わっての学生の感想は「初めて英語を何のために勉強しているのかわかった。」「2日目の終わりぐらいから他の宿泊客の声まで英語に聞こえてきた。」「ぶつかれば通じるものだとわかった。」と、英語学習の足がかりをつかむ声がたくさん聞かれた。

 普段の授業でも、映画やインターネット、メールなどを使い、学生のモティベーションを高めながら、多くの練習を取り入れることに力を注いでいる。できる限りこちらからの話し掛けは英語で行い、「日本語による英語についての授業」ではなく、「英語による英語を使う授業」を心がけている。数多くのリスニングで耳を慣らし、今まで蓄えた英語の知識を活用する方法を教える。若い学生の耳は非常に柔軟で聞けば聞くほど聞き取りの能力は向上する。

 多くの学生が授業後のアンケートに「高校までの英語の授業と全く違った授業で楽しかった。」「もっと英語が勉強したくなった。」と感想を寄せている。

 もちろん、英語の勉強はその目標によっては果てしないものである。しかし、コミュニケーションのために知っている文法・語彙などを総動員して、間違いを恐れずに表現するというのは何と言っても「始めの一歩」だと思う。そして大学での授業によって「もっと英語を勉強したくなれば」教師冥利に尽きるというものである。

 これからも、末永く学生たちの「始めの一歩」の手助けをしたい。



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