hierograph HOME

おもしろ言語

目次・索引


ラテン語って何?

身近なラテン語の例を挙げるとすれば、まず、「エトセトラ」でしょうか。etc. とか &c. とか書いて、「〜など」を表しますが、もともとは、ラテン語で「そして他の物」という意味です。

それに、メルセデス、アウディ、ボルボ、フィアット。
どれも車の名前ですが、もとはラテン語で、それぞれ「慈悲」「聞け」「私は回転する」「かくあれかし」という意味です。

「午前」と「午後」を表す a.m. と p.m. 、「追伸」の p. s. 、紀元前に対する「紀元後」を意味する A.D. など、何の気なく使っている言葉にもラテン語があります。その他、「ウイルス」「データ」「メモ」「フォーラム」「ホモ・サピエンス」などラテン起源の言葉はたくさんあります。

詳しいことは以下をお読み下さい。

ラテン語の歴史
知らない間に身近なところに入り込んでいるラテン語ですが、もともとは古代ローマ帝国で使われた言語です。
  最盛期にはヨーロッパのほぼ全域と北アフリカを版図に置いた古代ローマ帝国ですが、はじめは、紀元前1100年頃今のイタリアのテヴェレ川のほとり、ローマの七丘と呼ばれる辺りに住み着いた民族集団でした。彼らは自分達の住む地方をラティウムと呼び(現在のラツィア地方)、自分達をラティーニー( Latini ラティウム人)と呼びました。彼らの言語が Lingua Latina(リングワ・ラティーナ、ラティウム語)で、ラテン語という名前はここに由来します。

後、伝承により建国の英雄とされるロームルス(Romulus)にちなんで、彼らは自分達をローマーニー( Romani ローマ人)と呼ぶようになりますが、言語の名称は3000年間変わることなく、ラテン語( Lingua Latina、英語では Latin )として現在に至っています。

ラテン語の子孫
ただ、一口にラテン語と言っても、生きた言葉である限り、言語としての変化は免れません。時代と共に発音も文法も変わり、いつしか元の言語とは掛け離れたものになるのが習いです。かのカエサル( Caesar )の名も5世紀には「チェーサレ」と発音され、文人キケローも「チチェローネ」と呼ばれました。そしてさらに変化した結果が、今日のイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ルーマニア語、ロマンシュ語(スイスの4つの国語の一つ)などであると言えます。

私たちが現在「ラテン語」と言う場合、普通は紀元前100年から紀元くらいまでの間に優れた文人詩人が書き残した、いわゆる「古典ラテン語」と呼ばれるものです。この時代には詩人ウェルギリウス、雄弁家キケロー、「ガリア戦記」を残したカエサルなどが活躍しました。

ラテン語にあらざれば言語にあらず
ラテン語は、ローマ帝国が滅びた後も長い間、ローマ帝国の国教となっていたキリスト教と共に、ミサや聖歌、聖人伝、宗教書などの形で生き残って来ました。
   そして、ルネッサンス以後、古典文化への回帰がはかられると共に、古典ラテン語がヨーロッパの学者や知識人の共通語として使われるようになりました。特に著述に於いては、ラテン語にあらざれば言語にあらず、と言ってもよいほどで、後に国民意識の高まりと共に母国語で本を書こうとする者は、自分はラテン語が出来ないわけではないが、敢えてこれを俗語で書くのであると、断らなければならないほどでした。
   こうして、エラスムスの「愚神礼讃(Laus Stultitiae)」(1511)、トーマス・モアの「ユートピア(Utopia)」(1515)、コペルニクスの「天体の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)」(1543)、デカルトの「哲学原理(Principia Philosophiae)」(1644)、ニュートンの「自然哲学の数学的原理(Philosophiae naturalis principia mathematica)」(1687)、ガウスの「整数論(Disquisitiones arithmeticae)」(1801) などが書かれたのです。

今も使われているラテン語
ラテン語はしばしば「死語」の代表のように言われます。確かに、現在ラテン語はどこの国の国語でもありませんし、日常においてラテン語で会話をしている人々もいません。ですから、死語と言われれば確かに死語なのですが、しかしながらラテン語が現在使われていないわけではありません。それどころか、ラテン語では今でも多くの本が書かれ、毎日ラジオ放送までされているのです。ラジオ放送をしているのはフィンランドで、世界にはフィンランド語を理解する人よりも、ラテン語を理解する人の方が多いのだそうです。ネット上ではラテン語を使うことを唯一の規約とするリストもあります。もちろん、カトリックの総本山であるバチカンではラテン語が使われることがかなり多いだろうと思います。

私は回転する
「ボルボ (VOLVO)」が「私は回転する」いう意味だということは既に書きました。ただし、もっとラテン語っぽく言えば「ウォルウォー」と発音します。古典ラテン語には英語などで使う / v / の音はありません。Vの文字は母音 / u / または子音 / w / を表します。(詳しくは
ラテン語のVを御覧下さい。)
   ところで、「ウォルウォー」のどこが「私」で、どこが「回転する」だろうと思った方は、英語が良くできる人かもしれません。英語の文には必ず主語と述語があります。ところが、ラテン語では、主語と述語は一体なのです。

volvo

私は回転する

volvimus

私たちは回転する

volvis

君は回転する

volvitis

君たちは回転する

volvit

彼は回転する

volvunt

彼らは回転する

主語と述語が一体
上の表のように、語尾によって何が主語なのかは明らかですから、特に強調する時以外は主語を言わないのが普通です。たとえば、「私」は (エゴイズムでお馴染みの)ego (エゴー)ですが、Ego volvo. と言うと、「他の者はいざ知らず、私は回転する。」とか「回転するのはこの私だ。」という感じになってしまいます。
   「彼は回転する」と「彼女は回転する」の区別はありませんが、「クレオパトラは回転する」と言いたい時はもちろん「クレオパトラ」を書かなけれいけません。Cleopatra volvit. とか Volvit Cleopatra. とか言います。そう、ラテン語の語順はかなり自由です。

動詞は変身する
上の表で見ると、「回転する」という動詞が6通りに変化しています。これは私たち日本人にとってはとんでもないことです。
   英語では、「私は回転する」は " I  revolve." で、「君は」でも「彼らは」でも、「回転する」は revolve です。ただ、上の表の「彼は」のところだけ、つまり、主語が3人称単数の時だけは、 revolves としなければいけないので、英語を学び始めた頃は少し苦労しますね。しかし、考えてみれば英語の変化は2つだけです。
   ラテン語は6通りですから、ラテン語を覚えるのは少し大変です。そして、ラテン語の子孫であるフランス語やイタリア語などを学習する時も大体同じ苦労があると思って下さい。英語というのはヨーロッパの言語の中では例外的に単純化さた言語なのです。

さらに、ラテン語では(フランス語、イタリア語などもそうですが、)過去形や未来形も同じように6通りに変化します。しかも、過去形には2種類あります。英語では、過去形は1種類だけで形も変わらず、未来は will を使う場合と be going to と2種類ありますが、主語による変化は単純ですから、それほど大変ではありません。ラテン語は動詞の変化を覚えるのが一苦労ですが、物は考えようで、覚えてしまえば、主語は言わなくてもいいし(フランス語ではそういうわけにいかないのですが)、非常に簡潔な引き締まった表現をすることもできます。

来た、見た、勝った
ひとつ、そういう例を御紹介しましょう。シーザー(カエサル)の名高い戦勝報告に、Veni, vidi, vici. (ウェーニー、ウィーディー、ウィーキー)というのがあります。英語で言えば、I came, I saw, I won. と言うことになります。
   ちょっと解説しますと、それぞれ venio, video, vinco という動詞の 完了形(大雑把に言えば過去形)です。主語の「私は」を含んでいますので、もうちょっと詳しく言うと「一人称単数完了形」ということになります。

Video(ウィデオー、私は見る)を例に変化形を列挙しますと、次のようになります。(もうお分かりかと思いますが、テレビ番組を録画する「ビデオ」はこの video が語源です。)

現在形

video

私は見る

videmus

私たちは見る

vides

君は見る

videtis

君たちは見る

videt

彼は見る

vident

彼らは見る

完了形

vidi

私は見た

vidimus

私たちは見た

vidisti

君は見た

vidistis

君たちは見た

vidit

彼は見た

viderunt

彼らは見た


我思う、故に我在り
デカルトの「方法序説」にある有名な言葉です。デカルトは「方法序説」をフランス語で書きましたので、原文は Je pense, donc je suis. (英語では、I think, therefore I am.)なのですが、しばしば Cogito, ergo sum.( コギトー エルゴ スム )とラテン語で引用されます。Cogito は「私は考える」で、下のように活用(変化)します。

cogito

私は考える

cogitamus

私たちは考える

cogitas

君は考える

cogitatis

君たちは考える

cogitat

彼は考える

cogitant

彼らは考える

ergo は「故に」です。sum は英語で言えば " I  am" の am です。Sum は英語の be動詞と同様に「〜は…である」と言う時や「ある、いる、存在する」という意味で使います。sum の活用(変化)は下のようになります。

sum

私はある

sumus

私たちはある

es

君はある

estis

君たちはある

est

彼はある

sunt

彼らはある

Sum Caesar. 又は Caesar sum.

私はカエサルである

Es Caesar. 又は Caesar es.

君はカエサルである

Est Caesar. 又は Caesar est.

彼はカエサルである。または
カエサルはいる。

Est Caesar Romae. 又は
Caesar Romae est. など

カエサルはローマにいる

Est Caesar clarus. 又は
Caesar clarus est.など

カエサルは有名である


アウディー(聞け)!
車の名前には、どういう訳かラテン語が多いのですが、中でも面白いのが、アウディーです。これはラテン語で「聞け」という命令です。なぜ「聞け」なのかというと、創業者 Horch(ホルヒ)さんが社名を考えていた時、小学生の息子さんが「アウディーにしたら」と提案したのを採用したのだそうですが、実は Horch というのはドイツ語で「聞け」という意味だったのです。

英語では命令を表す形というのは特になくて、いわゆる原形を使いますね。ラテン語では命令を表す形が特別にあって、しかも相手が1人か複数かで異なります。(正確には命令法と言って、単数複数の区別があるだけでなく、受動態の命令「聞かれろ」とか、未来に対する命令とか、もあります。ここでお話しているのは、ごく単純な命令法現在です。)

Audi(アウディー) は audio(アウディオー、私は聞く)の命令形ですが、これは1人に対する命令です。二人以上には Audite(アウディーテ)と言います。ついでながら、audio は音響装置を表す「オーディオ」の語源です。
   今までに出て来た動詞の命令形を挙げますと、「考えろ」は Cogita. 又は Cogitate. 、「見ろ」は Vide. と Videte. 、「回転せよ」は Volve. と Volvite. になります。

フィアット(かくあれかし)
Fiat(フィアット)は Fabbrica Italiana Automobili Torino(トリノ・イタリア自動車製造工場)の頭文字から作った言葉(
頭字語、acronym)で、ちょうどラテン語の単語になるようになっています。fiat は「なる、生じる」という意味の動詞 fio の接続法現在3人称単数形で、「こうなるように、そうなることを」という意味です。

「接続法」というのは、動詞の変化形の一つで、要求、禁止、希望、後悔など、現実ではないことを述べるときに使います。もう少し詳しく言うと、ラテン語の動詞の変化形はまず、直説法、接続法、命令法の3つに分けられます。
   「命令法」は前項でお話しした命令を表すための形です。英語でしたら「原形」を使うということで簡単に済まされてしまいますが、ラテン語では特別な形があります。
   「直説法」は現実を述べるときの動詞の形です。上に「私は回転する」とか「我思う、故に我あり」とか「来た、見た、勝った」の中でお話した動詞は、すべて直説法です。例えば、volvo や、cogito、sum は詳しく言うと「(一人称単数)直説法現在」、veni や、vidi、vici は「(一人称単数)直説法完了」ということになります。
   それに対して「接続法」は現実ではないことを述べるための動詞の形です。「要求」「禁止」「希望」「後悔(こうだったらよかったのに)」などは、実行され、かなえられるまでは現実ではありませんから、こういうことを述べるときには、「直説法」ではなく、「接続法」を使うのです。
   直説法に現在、過去、未来、完了、過去完了、未来完了があるように、接続法にも現在、過去、完了、過去完了の4つの時制があります。

たとえば、Volvo. (私は回転する)はこの「私」が現実に「回転する」あるいは「回転している」ことを述べていますが、接続法現在を使って Volvam. と言うと「私が回転するように(願う)」というような意味になります。
   同様に、Caesar clarus est.( est は sum の3人称単数直説法現在)は現実のこととして「カエサルは有名である」と述べる文ですが、Caesar clarus sit. というように est を接続法現在の sit に変えると、「カエサルが有名であるように(祈る)」という意味になります。

英語の文法では「接続法」は「仮定法」に含まれています。たとえば、誰かがくしゃみをしたときにいう言葉、God bless you! ( blesses ではないことに注意)は本来「神があなたを祝福してくれますように」という意味で、アメリカ大統領の演説や、牧師の説教の終わりに聞くこともあります。この bless のことを英文法では「仮定法現在」と言いますが、これは接続法現在と同じです。また、聖歌の中にある God be with you till we meet again.(私たちがまた会うときまで神があなたと共にいますように)にも接続法現在が使われています。God is with you.(神はあなたと共にいます)との違いに御注意下さい。
   また、I demand that the money be paid at once.(私はその金がただちに支払われることを要求する)などにも接続法現在が使われます。

「接続法」は独立の文に使われることもありますが、どちらかと言うと最後の英文例のように接続詞の後の従属節に使われることの方が多いです。言い換えれば、「〜は要求する、命ずる、禁ずる、希望する」などを表す主文に「接続」する別の文の中で使われることの方が多く、「接続法」という名前もこのことに由来します。


ブルータスよ、お前もか
紀元前44年、カエサル(シーザー)は暗殺されました。自分に刃を向けた一味の中に、息子のように愛し、信頼していたブルータスを見つけたカエサルは愕然とします。シェークスピアはその戯曲「ジュリアス・シーザー」の中で、この時のカエサルの驚きと諦めを、「ブルータスよ、お前もか」という、この有名な言葉で語らせています。

シェークスピアは、この台詞を Et tu, Brute! と、ラテン語で書きました。et は「エトセトラ( et cetera )」の 「エト( et )」と同じで、「そして」という意味です。この et はそのままの形でフランス語にも受け継がれ、「ご機嫌いかがですか」の挨拶に「元気です、ありがとう。そしてあなたは?( Et vous? )」と答える時などにも使われます。もっともフランス語では t を読まずに、「エ」と発音しますが。
   tu は「あなた」で、英語の two と同じように「トゥ」と発音します。フランス語でも親しい人に話しかける時の「あなた」は tu ですが、発音は違って、「テュ」という感じです。

最後の Brute に注目して下さい。「ブルータスよ」が Brutus(ブルートゥス)ではなくて、Brute(ブルーテ) となっています。英語でしたら上の台詞は And you, Brutus? となるはずですが、これはどうしたことでしょう。
   面白いことに、ラテン語では、「呼びかけ」には、そのための特別な形があって、Brutus に呼びかける時は Brutus とは言わないのです。
   ちなみに、うちの猫にレグルス( Regulus )というのがいます。ラテン語で「小さな王様」という意味です。ラテン語ですから、呼びかける時は「レグレ(Regule)」と呼ばなければいけません。ちょっと顔を見てやって下さい。もし眠っていたら、「レグレ、レグレ、レグレ!」と3、4回読んでみて下さい。
レグルスの写真

この、呼び掛けのための特別な形のことを呼格(こかく)と言います。そして、ラテン語にはすべての名詞に呼格があります。(実際に形が変わるのは -us に終わる語だけですが。)つまり、人間でなく、机でも本でも鞄でも、すべての物に呼びかけるための形があるのです。というわけで、野原( campus カンプス、英語のキャンパスの語源)や袋( saccus サックス、英語の sack の語源)に呼びかけるときは、それぞれ、campe(カンペ、野よ)、sacce(サッケ、袋よ)ということになります。また、イエス・キリスト( Iesus Christus イェスス・クリストゥス)に呼びかける時は Iesu Christe(イェスー・クリステ)となります。

しかし、いったい誰が机に向かって呼びかけるでしょう。「おい、机よ、今日は元気か。」などと机に話しかける人はあまりいないと思います。若き日のチャーチルにとっても、これは大いなる疑問でした。第二次世界大戦下、大英帝国の宰相として手腕を発揮、戦後は大戦の歴史を書いてノーベル文学賞を受賞したウィンストン・チャーチルですが、学生時代にはラテン語の成績が非常に悪く、ある日校長に呼び出されて注意を受けました。その時チャーチルは、「私は決して机に呼びかけたはいたしません。」と言ったそうです。


格変化
ラテン語の学習はたいてい、この呼格を含めて名詞の6通りの変化を覚えることから始まります。(後で説明しますが、名詞の働きに応じた形のことを格と言います。)
   ただし、実際には、呼格が主格と変わらない単語の方が多く、「机」もその一つです。下に、「机」「そろばん」「アントニウス」「クレオパトラ」の格変化を挙げます。(複数形は省略します。)

   

そろばん

アントニウス

クレオパトラ

主格(〜が)

mensa

abacus

Antonius

Cleopatra

呼格(〜よ)

mensa

abace

Antoni

Cleopatra

属格(〜の)

mensae

abaci

Antoni

Cleopatrae

与格(〜に)

mensae

abaco

Antonio

Cleopatrae

対格(〜を)

mensam

abacum

Antonium

Cleopatram

奪格(〜から)

mensa

abaco

Antonio

Cleopatra

注:アントニウスの呼格は Antoni(アントニー)で、 語尾 -i は長音です。属格語尾 -i も長音です。mensa と Cleopatra の主格、呼格の語尾 -a は短音ですが、奪格の語尾は長音です。

それぞれの格はいろいろな働きを持っていますが、大まかに言えば、主格は主語になる形、属格は英文法で言う所有格で、所有や所属をしめす形です。現代英語で言えば、人称代名詞の I、we、he、she、they は主格、my、our、his、their は属格ということになります。
   英語でも昔はすべての名詞が格によって変化したのですが、今では人称代名詞に部分的に残っているだけです。たとえば、he を見れば、これが主語になる形であることはすぐ分かりますが、John とあってもそれだけでは、これが主語なのか、目的語なのかはわかりません。

与格はだいたい「〜に」にあたる間接目的語、対格は「〜を」にあたる直接目的語を示す形です。現代英語の場合はこれらは1つの形になってしまっています。たとえば、現代英語の me はいわゆる目的格ですが、場合によって「私に」(与格)になったり、「私を」(対格)になったりします。
   ラテン語では「私」という人称代名詞は ego(主格、呼格)、mei(属格)、mehi(与格)、me(対格)、me(奪格)と変化します。(たまたま対格と奪格が同じになっていますが。)

奪格は「〜によって」と手段、道具を表したり、「〜から」と分離、起点、理由を表したり、「〜において」と時間的・空間的な点を表したりします。たとえば、「そろばんで計算する」と言う場合、英語でしたら「そろばんで」は with an abacus というように前置詞を使って表します。ラテン語ではこれを abaco と奪格で表すのです。
   現代英語には奪格はありませんから、「〜から」は普通、前置詞 from を使って表しますが、使われる動詞によっては目的格がまるで奪格のように振る舞うこともあります。次の2例を比べて下さい。
   He stole some money from me.
   He robbed me of some money. (彼は私からお金を盗んだ。)

また、奪格は対格とともに前置詞と一緒に使われますが、これについては項を改めてお話します。

地格
少数ですが、地名の中には「地格」という、位置を表すための特別な格を持つものがあります。たとえば、「ローマに」あるいは「ローマで」は英語でしたら in Rome となりますが、ラテン語では Romae となります。
   たとえば、「私たちはローマにすんでいる。( We live in Rome. )」は Romae habitamus. です。
   同じように、「アテネで」は Athenis となります。Athenis(アテーニース)は Athenae(アテーナエ)の地格です。

地格がある言葉は少数で、普通「どこどこで」とか「どこどこに」と言う時は、前置詞の in と奪格を使います。たとえば、「私たちは地上に住んでいる。」は In terra habitamus.です。また、「そろばんは机の上にある。」は、Abacus in mensa est. です。(英語では The abacus is on the desk. )

誰かが誰かを愛してる
たとえば、「アントニウスはクレオパトラを愛している。」を英語で言うと、Antonius loves Cleopatra. です。「アントニウス」と「クレオパトラ」を入れ替えて Cleopatra loves Antonius. と言うと、逆に「クレオパトラはアントニウスを愛している。」になってしまいます。現代英語で、一部の人称代名詞を除いて、格変化を失ってしまいましたから、「主語」「目的語」は語順で決まります。

しかしラテン語では、格によって主語(主格)と目的語(対格)は明らかですから、語順は自由です。「アントニウスはクレオパトラを愛している。」は次のようになります。( 最初の語順が多いようですが、他のどんな語順にしても基本的な意味は変わりません。)

Antonius Cleopatram amat.
Cleopatram amat Antonius.
Amat Cleopatram Antonius. など

逆に「クレオパトラはアントニウスを愛している。」と言う場合には
Cleopatra Antonium amat.(語順はいろいろ)となります。

注:Antonius に当たる英語名は Anthony または Antony です。シェークスピアの戯曲は Antony and Cleopatra となっています。「羊たちの沈黙」の名優アンソニー・ホプキンズ Anthony Hopkins をラテン語っぽく言うと Antonius Hopcinus とでもなるのでしょうか。Hopcinus は多分違うでしょうが。

机は女性?
お父さんは男性で、お母さんは女性、というのは誰が考えても当然でしょうが、算盤は男性で、机は女性と言われると、首をかしげてしまいます。しかし、これはあくまでも文法上の性の話です。
   ラテン語は生物、無生物を問わずすべての名詞に男性、女性、中性の区別があります。(フランス語には中性がなく、すべて男性か女性です。)「生物」の場合はだいたい自然性に一致しますが、「無生物」の場合は理屈が付けられないことが多く、単に「格変化の型による分類」と考えた方がよいと思います。

この文法的な性のことを英語でジェンダー( gender )と言います。最近では「ジェンダー・フリー」などと、自然の性( sex )を指して使うこともありますが、本来は自然の性は sex で、「性別を問わず」は regardless of sex と言いますし、提出書類の書き込みにも sex(性別)の項目があります。

というわけで、机(mensa)、水(aqua)、島(insula)、道(via)、勤勉(diligentia)、鳩(columba)、平和(pax)などは女性、
そろばん(abacus)、野原(campus)、神(deus)、数(numerus)、風(ventus)、馬(equus)、畑(ager)などは男性、
神殿(templum)、言葉(verbum)、都市(oppidum)、危険(periculum)、銀(argentum)、海(mare)などは中性です。

語尾が -a に終わる名詞はほとんど女性ですが、中には、水夫(nauta)、農夫(agricola)、詩人(poeta)などの男性名詞もあります。
語尾が -us になっているものはほとんどが男性ですが、中には、月桂樹(laurus)、原子(atomus)、方法(methodus)などの女性名詞や、海(pelagus)、群集(vulgus)、毒(virus)などの中性名詞もあります。

ついでながら、「ウィルス」あるいは「ビールス」はこの中性名詞 virus(ウィールス) に由来します。「ビールス」はドイツ語 Virus(ヴィールス)を通して日本語に入りました。

神の年に
紀元前〜年という時によく B.C. を使いますが、これは英語で、before Christ の略です。(日本語の中ではよく B.C.44年、などと数字の前にB.C.を付けているのを見かけますが、英語では必ず後ろに付けて 44 B.C. と書きます。より正確には B.C. は小型の大文字を使います。)
   これに対して、紀元後は A.D. を付けますが、これはラテン語で、anno Domini(アンノー・ドミニー) の略で、「主の年に」という意味です。英語で言えば in the year of the Lord となるところですが、ラテン語では in に当たる前置詞は必要ありません。それは、anno が annus(年)の奪格で、それだけで「年に」の意味になるからです。domini は dominus(主、主人)の属格です。dominus は上の表の abacus と同じように変化します。( 一般にA.D. にも小型の大文字を使います。また、B.C.とは異なり数字の前に置くのが普通です。ただし、世紀の場合は後)

ところで、A.D.の dominus はキリストのことですから、イスラム教徒やユダヤ教徒はこれを使うことに気が進まないことでしょう。イスラム教徒には anno Hegirae(ヒジュラ紀元、ヘジラ紀元、A.H.、622 A.D. が元年)、ユダヤ教徒には anno mundi(世界紀元、A.M.、3761 B.C.が元年)があります。Hegirae(ヘギラエ) は Hegira(ヘギラ、聖遷)の属格、mundi(ムンディー) は mundus(ムンドゥス、世界、宇宙)の属格です。

ボーナ・ファイディ
英語の辞書に bona fide(善意で、善意の)、bona fides(善意)という語が載っています。(英語としての発音は、それぞれ大まかに言うと、ボウナ・ファイディ、ボウナ・ファイディーズ。)
   形だけを見ると、後者は前者の複数形のように見えますが、意味を確かめるとそうなってはいません。しかも、前者は副詞または形容詞です。これはどうしたことでしょう。
   実は、これらはラテン語で、bona fides(ボナ・フィデース)は単数の主格、英語の good faith に当たります。( bona は形容詞 bonus 「良い」の女性形で、fides が女性名詞なので、それに合わせて女性形になっています。)
   bona fide(ボナー・フィデー)はその奪格で、英語では in good faith に当たります。ですから、「善意で、善意による」という意味になるのです。(奪格の場合 bona の語尾は長音です。)

ちなみに、bona fides の複数形は bonae fides になります。「信頼、忠実、信仰」を意味する fides は単数・複数が同形です。形容詞の bona は複数になると bonae(ボナエ)になります。

形容詞の複数形?
ラテン語では形容詞にも複数形があります。しかも、それだけではなく、男性形、女性形、中性形と、名詞の性(ジェンダー)に合わせて形を変えます。
   前項の「ボナ・フィデース」の bona は「良い」という意味の形容詞 bonus(ボヌス)の女性形です。これは「ボーナス」の語源ですが、確かにボーナスは良いものですね。「ボーナス」という発音は bonus の英語読みから来たものでしょう。
   というわけで、同じ「良い」でも、「良いそろばん」は bonus abacus、「良い机」は bona mensa、「良い言葉」は bonum verbum となります。(語順は自由ですが、形容詞が後ろの方が多いようです。)しかも、これが複数になるとまた変わるだけでなく、それぞれの名詞の格変化に応じてまた変わるのです。下の表を御覧下さい。

   

良い算盤

良い机

良い言葉

主格(〜が)

bonus abacus

bona mensa

bonum verbum

呼格(〜よ)

bone abace

bona mensa

bonum verbum

属格(〜の)

boni abaci

bonae mensae

boni verbi

与格(〜に)

bono abaco

bonae mensae

bono verbo

対格(〜を)

bonum abacum

bonam mensam

bonum verbum

奪格(〜から)

bono abaco

bona mensa

bono verbo

複数

主格(〜が)

boni abaci

bonae mensae

bona verba

呼格(〜よ)

boni abaci

bonae mensae

bona verba

属格(〜の)

bonorum abacorum

bonarum mensarum

bonorum verborum

与格(〜に)

bonis abacis

bonis mensis

bonis verbis

対格(〜を)

bonos abacos

bonas mensas

bonos verbos

奪格(〜から)

bonis abacis

bonis mensis

bonis verbis

上の表では形容詞の語尾と名詞の語尾がきれいに揃っていますが、いつもそうなるとは限りません。たとえば「水夫」は nauta で男性名詞ですが、女性名詞の mensa や Cleopatra と同じ変化をします。一方、これに付く形容詞は男性形でなければいけませんから、たとえば「良い水夫」は bonus nauta、bone nauta、boni nautae、bono nautae、bonum nautam、bono nauta などと変化します。

また、名詞、形容詞ともに、男性、女性、中性の典型的な語尾は、-us、-a、-um ですが、これ以外のいろいろな語尾や変化の型があります。

メルセデスも複数形?
メルセデス・ベンツの mercedes は確かに複数形です。ただし、s が付いているから複数という単純な話ではありません。私たちは英語に慣れてしまっているので、s を複数形の指標と思いがちですが、それは言語によって異なることです。mercedes は単数形にも s が付いていて、merces(メルケース)と言います。
   日本では「メルセデス」と呼んでいる mercedes ですが、英語では「マースィディーズ」のように言います。ラテン語では「メルケーデース」のように発音します。
   merces は古典ラテン語では「報酬、料金、値段」の意味でしたが、中性になって、「慈悲」の意味に変わりました。英語の mercy やフランス語の merci(ありがとう)の語源です。
   ところで、mercedes の単数形が merces なら、d はどこから来たのだろうと思われるかも知れません。実は、 merces は merced という部分(これを語幹と呼ぶ)に、「主格単数を表す語尾」である s が付いた *merceds が融合したものなのだそうです。同じように、pes(ペース、足)も複数になると pedes(ペデース)と、隠れていた d が出て来ます。ちなみに「ペディキュア」の「ペディ」はここから来ています。

エトセトラ
英語で「ロンドン、パリ、ローマなど」などと言う時に London, Paris, Rome, etc. と使う etc. ですが、ラテン語 et cetera(エト・ケーテラ)の略です。et は and に当たり、cetera は「他の」を意味する形容詞 ceterus(ケーテルス)の中性複数形が名詞化したものです。ちょうど、英語の and the rest と同じ作りですね。
   「〜など」に当たる英語は and the rest、and so forth、 and so on などです。そして etc. を「エトセトラ」ではなくて、and the rest などと読んでしまうこともあります。

形容詞 ceterus は男性・女性・中性でそれぞれ ceterus、cetera、ceterum ですが、複数では ceteri、ceterae、cetera となります。ですから、同じく「そしてその他」でも、「男性」を指すなら et ceteri、「女性」を指すなら et ceterae と言わなければならないはずですが、英語ではそこは無視されています。

また、cetera の発音は、英語では「ケーテラ」ではなく、「セトラ」のようになっています。C の発音は古典ラテン語では常に / k / の音ですが、英語では母音 / i, e / の前で / s / の音になります。たとえば、centrum(ケントルム、中心)、civilis(キーウィーリス、市民の)は英語に入って center(センター)、civil(スィヴィル → civilian シビリアン)となりました。また、focus(フォクス、暖炉)の複数は foci(フォキー)ですが、英語の focus(フォウカス、焦点)の複数形 foci は / fousai /(フォウサイ)と発音されます。(英語では18世紀までに起こった変化によって「イー」が「アイ」と発音されるようになりました。)

ホモサピエンス
「ホモサピエンス」は「人間」に与えられた
学名です。Homo sapiens と書き、「賢い人」を意味します。ラテン語で「人間」を homo(ホモー)と言いますが、同性愛(homosexuality)の「ホモ」は「同一」を意味するギリシャ語 homos に由来しますので、これとは関係ありません。sapiens は「賢い」を意味する形容詞で、男女同型です。学名は主格で付けることになっていますが、ラテン語としての格変化は以下のようになります。

   

単数

複数

主格(〜が)

homo sapiens

homines sapientes

呼格(〜よ)

homo sapiens

homines sapientes

属格(〜の)

hominis sapientis

hominum sapientium

与格(〜に)

homini sapienti

hominibus sapientibus

対格(〜を)

hominem sapientem

homines sapientes, -is

奪格(〜から)

homine sapienti, -e

hominibus sapientibus

学名 scientific name」は動物、植物、細菌を分類するために各々の種に付けられる世界共通の名称で、その命名にはラテン語が使われています。「界、門、綱、目、科、属、種」と分かれている分類階層のそれぞれに付けられる名前すべてが「学名」ですが、一般に「学名」と言うときには「属名」と「種名」の2つを並べたものを言います。
   この「属名」と「種名」を合わせて、「種の名称」「種の学名」または単に「種名」と呼びます。「種名」という言葉が2つの意味に使われますので、誤解をさけるため「属名」に続く「種名」を動物学では「種小名」、植物学、細菌学では「種形容語」と呼ぶこともあります。

ホウモウ・セイピエンズ?
さて、学名はラテン語ですから、ラテン語の発音で読むのが当然と思われるでしょうが、現実には、欧米の学者は自分の母語の流儀で読んでしまいます。(フランスには「ラテン語のフランス語式発音愛好者の会」というのまであるそうです。)
   そこで、Homo sapiens は英米人が読むと「ホウモウ・セイピエンズ」のようになってしまいます。またカエデの属名 Acer(アケル)は「エイサー」や「アーサー」、炭素菌の属名 Bacillus(バキッルス)は「バシラス」や「バチルス」などと発音されることになります。

前置詞
現代英語やフランス語などが前置詞を使って表現することを、格によって表現することがよくあるラテン語ですが、それでも、たくさんの前置詞があります。
   前置詞の後ろに来る名詞や代名詞の形は、(これを文法では前置詞の支配する格といいますが、)英語ならば目的格、フランス語ならば強勢形と決まっています。たとえば、「私のために」は、英語では for I とか for my とかではなく、for me と言います。フランス語では pour je とか pour me ではなく pour moi と言います。
   ラテン語では前置詞によって対格か奪格を支配します。しかもある前置詞はそのどちらを支配するかによって意味が変わります。おどろくなかれ、ドイツ語ではさらに属格(ドイツ語文法では第2格といいますが)を使わなければならない前置詞もあります。

アドホック
「ある事柄に限っての特別な」という意味の「アドホック」という言葉があります。日本語には、英語を通じて入ったのだと思いますが、もとはラテン語で、 ad hoc と書きます。ad は「〜の方へ、〜のために」を意味する前置詞で、だいたい英語の to に当たります。hoc は this に当たる代名詞の中性対格です。ですから、ad hoc は「これの方へ、これのために」というのが元の意味です。(前置詞 ad は対格を支配します。「これ」に当たる指示代名詞は男性形 hic、女性形 haec、中性形 hoc で、格によって変化します。)
アドリブ
「アドリブ ad lib」は「任意に、随意に」という意味の ad libitum の略です。文字通りに英語にすれば to pleasure ということになりますが、英語では at pleasure と言います。
アドバイス
「アドバイス advice」は ad visum に由来します。visum は videre(見る)の過去分詞の中性対格で、 ad visum は「見られ方に応じて」というような意味から「意見」へと変化し、さらに現在の「助言」になりました。
アドバンテージ
「アドバンテージ」として日本語に入っている advantage ですが、(英語の発音は少し違いますので御注意ください。)この言葉は元々はフランス語の avant(前に)から出来たもので、ラテン語の ad とは関係ありません。あるとき、誰かが ad と関係あると誤解して「正しく」するつもりで d を入れてしまったのが定着したものです。
アフェクト
ad の d は次の言葉に同化してしまうことがあります。英語の affect(〜に影響する)は、元は ad fecere に由来する afficere(〜の方へとする)の過去分詞 affectus から出来た言葉です。fecere は英語の do、make に当たる動詞で、英語の fact(事実)もこの動詞の過去分詞の中性形 factum(なされたもの)から来ています。

午前午後
午前、午後を示す A.M と P.M. も元はラテン語で、それぞれ、ante meridiem、 post meridiem の略です。ante(アンテ)と post(ポスト)はそれぞれ「〜の前」「〜の後」を意味する前置詞で、対格を支配します。「ポスト」は最近、日本語でも「ポスト小泉を視野に置いて」などと使いますね。meridiem(メリーディエム) は meridies(メリーディエース、正午)の対格です。

日本ではよく A. M. 8:00 などと、時刻の前に通常の大きさの大文字で A.M と P.M.を書いてあるのを見ますが、英語では 8:00 a.m. のように、時刻の後ろに、小文字または小型の大文字で書くのが普通です。

(Nov. 2003)

関連項目
Aはなぜ「エイ」と読むのか?
Aはなぜ「アー」と読むのか?
AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?
ギリシャ文字
現代ギリシャ語の話

参考文献:
はじめてのラテン語(大西英文著、講談社現代新書、1997)
ラテン語のはなし ( 逸見喜一郎著, 大修館書店、2001 )
ラテン語四週間(村松正俊著、大学書林、1968)
生物学名概論(平嶋義宏著、東京大学出版会、2003)
鳥の学名(内田清一郎著、ニュー・サイエンス社、1985)

目次・索引へ

学名って何?

「学名」という言葉を御存じない方でも、「ホモ・サピエンス」という言葉を聞いたことはおありなのではないでしょうか。「ニッポニア・ニッポン」はいかがですが。ホモ・サピエンスは「人間」の学名、ニッポニア・ニッポンは国際保護鳥になっているトキの学名です。

「学名 scientific name」とは、動物、植物、細菌に付けられた世界共通の名称です。たとえば、動物園の人気者パンダは日本では「パンダ」と言っていますが、本場中国では大熊猫と書いて「ターシオンマオ」のように呼んでいます。ドイツ語では Panda の他に「カッツェンベール(Katzenbä r、猫熊)」という言い方もあります。これらの各国それぞれの呼び名は、それぞれの国でしか通じません。こういう名前を「俗名 vernacular name」と言います。しかし、Ailuropoda  melanoleuca(アイルロポダ・メラノレウカ)と言えば世界中で、少なくとも動物を研究している人々の間には、通じます。学名を使えば全世界の研究者が何の誤解もなく同じ動物、植物、細菌のことを語ることができるのです。

私たちが普通に見たり聞いたりする「学名」は2語からなっています。これは動物、植物、細菌を学問的に分類したときの「属」と「種」の名前を並べたものです。つまり、ホモ・サピエンスはホモ属のサピエンス種という意味です。ホモ属にには他に Homo neanderthalensis(ホモ・ネアンデルターレンシス)つまり、ネアンデルタール人が含まれます。
   北京原人(Sinanthropus pekinensis)や直立猿人(Pithecanthropus erectus)はヒトの仲間ではありますが、ホモ属ではありません。
   ちなみに、「ホモ」という属名は「人間」を意味するラテン語 homo(ホモー)から来ています。同性愛(homosexuality)の「ホモ」は「同一」を意味するギリシャ語 homos に由来しますので、これとは関係ありません

属って何?
「属」とは何かを説明するために、すこし分類学のお話をします。
   たとえば、人間とカラスと蟻はみな動物ということで、桜やタンポポや稲などの植物とは区別されます。分類学では、前者は「動物界」、後者は「植物界」に属していると言います。
   同じ動物界にあっても、人間とカラスと蟻は明らかに違います。そこで「界」の下に「門」という階級を設けて、脊椎動物門、節足動物門、軟体動物門、海綿動物門、などと分けます。蟻は節足動物門に、人間とカラスは脊椎動物門に属しています。
   さらに、門の下には「綱」という階級があり、脊椎動物門の下には、哺乳綱、鳥綱、爬虫綱、両棲綱、硬骨魚類綱、軟骨魚類綱、などがあります。この中で、もちろん人間は哺乳綱に、カラスは鳥綱に属します。節足動物門には甲殻綱、昆虫綱、蛛形綱、などがあり、蟻はもちろん昆虫綱に属します。ついでながら、イセエビは甲殻綱、クモやサソリは蛛形綱です。
   さらに綱の下には「目」という階級があり、哺乳綱の下には、食虫目、翼手目、霊長目、ウサギ目、齧歯目、奇蹄目、偶蹄目、食肉目、鯨目などがあります。人間はニホンザルやチンパンジーと同様、霊長目に入ります。また、蛛形綱の下にはサソリ目、ダニ目、メクラグモ目、真正クモ目、などがあり、日本の家の中でよく見かけるアシダカグモは真正クモ目に属します。
   さらに、目の下には「科」という階級がありますが、これは結構よく耳にするのではないでしょうか。テレビのクイズなどで、タマネギはユリ科だとか、サクラはバラ科だとか聞いて少し驚いた経験はありませんか。バラ科にはバラはもちろん、サクラ、ナナカマド、モモ、リンゴ、ナシ、ビワ、スモモ、アンズ、ウメ、などが含まれます。また、タヌキやキツネはイヌと同様、食肉目の下のイヌ科に属します。
   さて、「属」はその「科」の下の階級です。属というのは形態的に似たもの同士をまとめて1つの階級としたものです。たとえば、クロマツの学名は Pinus thunbergii、アカマツは Pinus densiflora で、どちらの松も Pinus 属であることが分かります。この場合 Pinus という属は広い意味の「マツ」に当たると言えそうです。また、ウンシュウミカンの学名は Citrus unshiu、ナツミカンはCitrus natsudaidai、ダイダイは Citrus aurantium、ユズは Citrus junos、レモンは Citrus limon というところから見ると、Citrus という属は「柑橘類」に当たると言えましょう。また、ウメ( Prunus mume)、アンズ( Prunus armeniaca)、スモモ( Prunus salicina)、モモ( Prunus persica)は Prunus 属に分類されます。確かにこれらは形態的に似ていますから1つの属になることは納得できますが、日本語では何と呼んだらよいのでしょう。(サクラも以前は Prunus 属だったようですから話はなおさら複雑です。近年では Cerasus 属に入れられているそうですが。)
   植物の属に与えられた名前がどちらかと言うと、日常に私たちが使う「名前」よりももっと広く包括的な感じなのに対して、動物の属名はむしろ日常語よりも細かい場合が多いように思えます。たとえば、日本の家屋を徘徊するのでお馴染みのアシダカグモ( Heteropoda venatoria)はアシダカグモ科アシダカグモ属に入りますが、もう1つ家の中でお馴染みの小さなジャンプ名人「ハエトリグモ」は、ハエトリグモ科という「科」の名前です。「属」まで行くとオビジロハエトリグモ属、ムツバハエトリグモ属、マミジロハエトリグモ属、などと、さらに細かくなります。「クモ」という包括的な名前は「目」まで行かないとありません。
   また、私たちが普通に使う「キツツキ」という名前も実は、キツツキ目キツツキ科という「目」や「科」の階級名です。属になるともっと細かくて、同じ「キツツキ」でも、アオゲラ、ヤマゲラが Picus 属、ノグチゲラが Sapheopipo 属、アカゲラ、コゲラが Dendrocopos 属、ミユビゲラが Picoides 属、クマゲラが Dryocopus 属です。ただし、カラスの場合は、ミヤマガラス( Corvus frugilegus)、ハシボソガラス( Corvus corone)、ハシブトガラス( Corvus macrorhynchos)、ワタリガラス( Corvus corax)ともに Corvus 属に属しますので、Corvus という「属名」が「カラス」を表していると言えます。

種名って何?
属の下には「種」という階級があります。「種」とは何か、というと大問題になって私の能力を越えてしまいますので、参考書を御覧下さい。ともかく、ヒト、アシダカグモ、アオゲラ、アカゲラ、ミヤマガラス、ウンシュウミカン、ナツミカン、などはどれも一つの「種」です。
   この「種」に与えられた名前が、「種の学名」、略して「種名」(注) です。いわゆる「学名」というのは、この「種の学名」のことです。(広い意味では、上に述べた、界、門、綱、目、科、などの階級ごとに与えられた名前すべてが「学名」ですが。)
   ただし、「種」の名前は「属名」の後にある名前だけではありません。「属名」とその後の名前とが一緒になって一つの「種」を表します。たとえば、ミヤマガラスやハシボソガラスという「種」の名前はあくまでも Corvus frugilegus、Corvus corone であって、単に frugilegus や corone ではありません。おなじく、ヒトという「種」の名前は Homo sapiens であって、単に sapiens ではありません。
   「属名」に続く名前のことを、動物学では「種名」または「種小名」( specific name )、植物学と細菌学では「種形容語」( specific epithet )と呼んでいます。

注:「種の学名」のことを略して「種名」ということがありますので、「種小名」を意味する「種名」と混同しないように注意が必要です。英語では「種の学名」の意味での「種名」を the name of a species、「種小名」の意味の「種名」を specific name と言って多少の区別をしています。

二名式学名
このように「種の学名」(いわゆる「学名」)は2つの名前からなっています。これを動物学では binomen(二語名)、植物学では binary name(二名法名)、細菌学では binary combination(二語組み合わせ)と呼んでいます。学問領域によって呼び名が違うために、学名に関する本ではよく便宜的に「二名式学名」という言い方をしています。
   たとえば、ヒトの学名 Homo sapiens やパンダの学名 Ailuropoda  melanoleuca は、ヒトやパンダという「種」を表す「種の学名」ですが、Homo や Ailuropoda という「属名」と sapiens や melanoleuca という「種名」または「種小名」から成っています。また、クロマツの学名 Pinus thunbergii、ウンシュウミカンの学名 Citrus unshiu では、前半 Pinus(ピヌス)、Citrus(キトゥルス)が「属名」、後半の thunbergii(テュンベリイ)、unshiu(ウンシュウ)が「種形容語」です。

階級( category )
動物学と植物学では、上に説明した、界、門、綱、目、科、属、種、の階級の他に、それぞれを更に分けて亜界、亜門、亜綱、亜目、亜科、亜属、の階級を設けています。種の下には、動物学では亜種の階級を、植物学では変種、品種(更に必要があれば亜変種、亜品種)の階級を設けています。細菌学では、界、門はないようで、綱、亜綱、目、亜目、科、亜科、連、亜連、属、種、亜種の階級があります。
   また、動物学では科の上に上科、亜科の下に族、亜族という階級を用意しています。植物学では、亜科の下には細菌学と同様、連、亜連の階級があります。さらに詳しいことは参考文献を御覧下さい。

基本的な階級の一覧

日本語  

ラテン語  

英語  

界  

regnum  

kingdom  

亜界  

subregnum  

subkingdom  

門  

divisio  

phylum  

亜門  

subdivisio  

subphylum  

綱  

classis  

class  

亜綱  

subclassis  

subclass  

目  

ordo  

order  

亜目  

subordo  

suborder  

科  

familia  

family  

亜科  

subfamilia  

subfamily  

属  

genus  

genus  

亜属  

subgenus  

subgenus  

種  

species  

species  

亜種  

subspecies  

subspecies  

タクソン(分類単位)
分類学上の単位をタクソン(taxon)と言います。(複数形は taxa タクサ。これはギリシャ語起源の言葉です。ついでながら、「分類学」は英語で タクソノミー taxonomy、あるいはシステマティクス systematics、と言います。)
   「動物界」や「植物界」というのも1つのタクソンです。「門」の階級にある「脊椎動物門」、「節足動物門」、「軟体動物門」、「海綿動物門」、などもタクソンです。「哺乳綱」、「鳥綱」、「爬虫綱」、「両棲綱」、「硬骨魚類綱」、「軟骨魚類綱」、なども、脊椎動物門の下に設けられたタクソンです。
   たとえば、「動物界」という「単位」によって、人間やカラスや蟻がひとまとめにされ、サクラや紫陽花とは区別されます。「節足動物門」という「単位」によって、アリ、イセエビ、サソリ、クモなどが1つにまとめられます。一方「昆虫綱」という「単位」によれば、イセエビ、サソリ、クモは排除され、アリ、ハエ、カ、トンボ、チョウなどが1つにまとめられます。
   このように、いくつかの生物を一定の基準によってまとめるときの「単位」となる「動物界」「節足動物門」「昆虫綱」などの名前を「タクソン(分類単位」)と呼びます。
   (注:私ははじめ、界、門、綱、目、科、属、種、といった「階級」のことをタクソンと言うのかと思っていました。参考図書の中にもそう思わせるような書き方、あるいは曖昧な書き方をしてあるものがあります。この点は、佐々治寛之著「動物分類学入門」が分かりやすいです。)

ヒトの分類
たとえば、人間は Animalia, Vertebrata, Mammalia, Primates, Hominidae, Homo sapiens (動物界、脊椎動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒト)と分類されますが、これらの Animalia(動物界), Vertebrata(脊椎動物門), Mammalia(哺乳綱)・・・などの名前の1つ1つがタクソンです。「属」の階級のタクソンは Homo(ヒト属)ですが、「種」の階級のタクソンは単に sapiens ではなく、Homo sapiens(ヒト)ですから御注意ください。つまり、Homo sapiens が「ヒト」の「種の学名」です。

クロヤマアリの分類
たとえば、クロヤマアリ(Formica japonica、フォルミカ・ヤポニカ)は日本のどこにでもいる黒い蟻ですが、詳しく言うと次のように分類されます。

動物界、節足動物門、大顎亜門、昆虫綱、有翅昆虫亜綱、膜翅目(ハチ目)、細腰亜目(ハチ亜目)、アリ上科、アリ科、ヤマアリ亜科、ヤマアリ属のクロヤマアリ、ということになります。

ラテン語では、Animalia, Arthropoda, Mandibulata, Insecta, Pterygota, Hymenoptera, Apocrita, Formicoidea, Formicidae, Formicinae, Formica japonica です。カタカナに直すと、アニマリア、アルトロポダ、マンディブラタ、インセクタ、プテリュゴタ、ヒュメノプテラ、アポクリタ、フォルミコイデア、フォルミキダエ、フォルミキナエ、フォルミカ・ヤポニカ、となります。寿下無寿下無のようですね。
   クロヤマアリの「学名」というと、普通は「種の学名」である Formica japonica を指しますが、広い意味では、各タクソンに与えられた Animalia, Arthropoda, Mandibulata・・・などの名前すべてが「学名」です。

学名はラテン語?
「学名」は国際的な命名規約によって規定されています。ただし、動物、植物、細菌についてそれぞれ国際命名規約があり、共通ではありませんので、分野によって多少の違いがあります。御注意下さい。
   また、国際動物命名規約は亜種より下、および、科より上の命名には関与していませんから、Animalia(動物界)Vertebrata(脊椎動物門)Mammalia(哺乳綱)Primates(霊長目)などは規約上は「学名」ではないことになります。界、門、綱、目、などの階級にあるタクソンの命名は自由ですが、実際上はこれらのタクソンはすでに安定しており、混乱が生じることはないと思われます。

属名については、ラテン語のアルファベットで書かれ発音可能であれば、自由に造語することができます。多くはラテン語やギリシャ語におけるその生物の古名を使ったり、神話の神々の名を使ったりしますが、適当な文字の羅列でもかまいません。ただし、出来た属名の取扱いは動物学、植物学、細菌学で異なります。

国際植物命名規約と国際細菌命名規約は、学名が(語源が何であっても)ラテン語として扱われることを明記しています。しかも植物学においては、藻類とすべての化石植物を除いて、正式な学名を発表するにはラテン語の記載文を添付しなければならないので、ラテン語を知らなければ新種の発表も、その論文を読むこともできないのだそうです。
   国際動物命名規約では、1961年発行の第1版に「学名はラテン語、またはラテン語化した語のどちらかでなければならない」とあった規定が、2000年1月1日発効の第4版では削除されたため、何語で命名しても良いことになっています。ただし、第4版でも、第30条で属名には文法上の性を認め、第31条2項で種小名がラテン語もしくはラテン語化された形容詞であればその性は属名の性と一致せねばならない、と規定しているそうです。

事実上、現在ある学名はほとんどがラテン語、またはラテン語化された語であり、ラテン語として扱われています。ですから、大雑把に言えば、学名はラテン語で付けられると言ってよいと思います。

学名の性
学名には男性、女性、中性という性別があります。もちろんこれは生物の性別 sex ではなく、文法性 gender です。
   厳密に言うと、命名規約によって、属名は単数主格の名詞とされ、性が与えられています。したがって、それに続く種小名や種形容語も形容詞(または分詞)であれば属名の性に応じて変化をします。(ラテン語文法に関しては
ラテン語入門を御覧下さい。)

たとえば、「日本の」という形容詞 japonicus は、種小名や種形容語として多くの学名に使われていますが、属名の性に応じて japonicus、japonica、japonicum と形を変えます。
   というわけで、オカウコギ Acanthopanax japonicus やイネ科の雑草セトガヤ Alopecurus japonicus は男性、スギ Cryptomeria japonica やヤブツバキ Camellia japonica は女性、ハウチワカエデ Acer japonicum やウスユキソウ Leontopodium japonicum は中性です。
   同様に クロヤマアリ Formica japonica は女性ですが、やはり日本全国にいる大形の黒い蟻のクロオオアリ Camponotus japonicus は男性です。

種小名・種形容語の形
属名と同じく、種小名・種形容語も自由に造語することが許されていますが、2文字以上で綴られ発音可能なものでなければなりません。
   また、ラテン語、またはギリシャ語をラテン語化した語であるときは、命名規約によって、次のどれかに限られます。

   1)単数主格の形容詞または分詞であること
   2)
属格の名詞であること
   3)属名と同格におかれた主格の名詞であること

1)について:
ラテン語入門に書きましたが、ラテン語の形容詞は修飾する名詞に応じて文法上の性を変え、複数にもなれば、格変化もします。分詞は動詞から作った形容詞と言ってもよいくらいで、形容詞と同じ変化をします。属名は「単数主格」とされていますから、それに付く形容詞や分詞も属名の性に応じた性の「単数主格」になります。
   「日本の」という形容詞の「単数主格」の形は、属名の性に応じて japonicus、japonica、japonicum と変わります。たとえばカミキリムシ科のスギカミキリ、ヤマトチビコバネカミキリ、アカアシオオアカカミキリは属名がそれぞれ男性、女性、中性ですから、学名は順に、Semanotus japonicus、Leptepania japonica、Chloridolum japonicum となります。
   ついでながら、学名は単数主格しか使いませんが、ラテン語の単語は、他にいろいろな変化をします。たとえばクロオオアリの学名は男性単数主格の Camponotus japonicus だけですが、これは「クロオオアリが」という「主語」になる形です。これを仮にラテン語の単語として活用すれば「クロオアリを」は Camponotum japonicum と対格になり、「クロオオアリの」なら Camponoti japonici と属格になります。さらに、「クロオオアリよ」と呼び掛けるには Camponote japonice と呼格になります。ブルータスよ、お前もか!

2)について:
属格というのは、簡単に言うと英語の所有格と同じく、「〜の」を表す形です。(ラテン語の場合それだけではありませんが。)たとえば、「クレオパトラが」は Cleopatra ですが、「クレオパトラの」は Cleopatrae となり、これが属格です。(注:「属格」の「属」と分類単位の「属」との直接の関係はありません。)
   しばしば地名や人名の属格が種小名・種形容語として使われ、「どこどこで採れた」とか「誰々が命名した」「誰々に献じられた」という意味を添えます。
   もともとラテン語やギリシャ語の地名、人名であればちゃんと属格があるのですが、日本語のように格変化のない言語でも、ラテン語文法に則った語尾を付けて属格にします。人名につける場合は、現代人の男性なら -i の語尾を付け、女性なら -ae、男性複数には -orum、女性複数には -arum を付けます。たとえば、「スミスさんの」とか「スミスさんに献じられた」としたい場合、スミスさんが男性ならば smithi、女性なら smithae、スミス兄弟やスミス夫妻など男性が入った複数なら smithorum、スミス夫人とその娘さんのように女性だけの複数の場合は smitharum となります。
   具体的な例として、ノグチゲラ Sapheopipo noguchii は「ノグチ氏の」、ヤンバルクイナ Gallirallus okinawae には「沖縄の」という種小名が付けられています。「沖縄」は -a で終わるのでラテン語の女性名と同じように変化します。

3)について:
「同格」とは、同じ事物を指す言葉が2つ並べて置かれたときに、どちらも他方に対して同じ資格、同じ格であるということです。たとえば最も簡単な例として、英語で「私のいとこのヴィニー」は my cousin Vinny と言いますが、ここでは「私のいとこ」すなわち「ヴィニー」であり、My cousin Vinny is great.(私のいとこのヴィニーはすごい)では my cousin も Vinny も「主格」、She loves my cousin Vinny.(彼女は私のいとこのヴィニーを愛してる)では my cousin も Vinny も「対格(目的格)」です。そして、このとき、my cousin と Vinny は互いに同格であると言います。
   ついでに、高校生用にもう一つ例を挙げますと、You can't deny the fact that the earth goes around the sun. (地球が太陽の周りを回っているという事実を否定することは出来ない)において、the fact という名詞と that the earth goes around the sun という名詞節は同格の関係にあります。

Nipponia nippon はトキの学名ですが、種小名の nippon は名詞であり、語尾が付いていませんから属名 Nipponia と同格に置かれた単数主格の名詞ということになります。
   種小名に nippon を持つのはトキだけでなく、チョウチョウウオ科の魚のシラコダイの学名は Chaetodon nippon と言います。また、カマアシムシ目、クシカマアシムシ科に属する体長1ミリ半くらいの白っぽい昆虫に「ヨシイムシ」というのがいるそうで、学名を Nipponentomon nippon と言います。entomon はギリシャ語で「昆虫」のことですから、この学名は「日本昆虫、日本」のようなものですね。

学名の文字
学名はラテン・アルファベットで書かれます。(国際動物命名規約、第4版第11条2項には「ラテン語のアルファベットを使用すべきこと」とあります。)したがって、ギリシャ文字や、フランス語などで使うアクセントを伴う文字は使えません。もちろん、日本語のカタカナも許されませんから、「ホモ・サピエンス」は厳密には学名とは言えません。ヒトの学名はあくまでも、Homo sapiens です。
   Homo Sapiens などの「種の学名」、言い換えれば「属名」とそれに続く「種小名」や「種形容語」は、斜体(イタリック)で印刷されるのが普通です。これは、欧文の論文の中で目だたせるための慣用で、命名規約に規定されているわけではないと思います。(もし私の誤解でしたら御指摘ください。)一般に英語などの習慣では、外来語や特に強調したい語を斜体にします。
   したがって、日本語の中では斜体にする必要はないはずですが、実際にはほとんどすべて斜体が使われています。なお、属名は大文字で始め、種小名や種形容語は小文字で始めることは規定されています。また、界、門、綱、目、科などの名前は大文字で始め、斜体ではなく普通の活字で書かれます。

学名の書き方の例
学名は普通、上に述べた二語から成りますが、時には亜種名を伴って「三名式学名」になることもあります。時に亜属名を添えることもあります。また、論文などでは、正確を期するため、命名者の名前や命名した年が添えられることもあります。
   その際、亜種名、亜属名は斜体で印刷されますが、命名者名と年号は普通の活字です。また亜属名は丸括弧()に入れます

   

和名

学名

亜種名を伴い

モンシロチョウ

Pieris  rapae  crucivora

亜属名を伴い

キイロショウジョウバエ

Drosophila (Sophoporamelanogaster

命名者を伴い

モンシロチョウ

Pieris  rapae  crucivora  Boisduval

命名者と発表年も

エゾスジグロシチョウ

Pieris  napi  japonica  Shirozu, 1952

  〃

キイロショウジョウバエ

Drosophila (Sophoporamelanogaster Meigen, 1830

注:モンシロチョウの学名
図鑑によってはモンシロチョウの学名を Artogeia  rapae  crucivora としているものがあります。ArtogeiaPieris のシノニム(同物異名)だそうです。シノニムというのは既に学名のあるタクソンに別の学名を付けてしまった場合で、既にあった学名も後から付けられた学名もお互いにシノニムと呼ばれます。当然、先にあった方が正式の学名で、後からできたシノニムは消えるべきなのですが、素人には理解できないことに、しばしば同居していて、本によって学名が異なるということがあります。

また Artogeia  rapae  crucivora  (Boisduval) としているものもあります。命名者である Boisduval(フランス人ならブワデュヴァル、英語式に読めばボイスデュヴァル)がカッコに入っているのは、Boisduval が命名した時は異なる属に入れていたが、現在は Artogeia 属に入れられている、ということを意味しているのだそうです。 しかし ArtogeiaPieris は互いにシノニムで、しかも Pieris の方が先にあったと(私には)思えますので、ちょっとこれは理解出来ません。モンシロチョウの学名については、研究者のものと思われるサイトに Pieris  rapae  (Linnaeus, 1758) とか Pieris  rapae  rapae   (Linnaeus, 1758) という記述があります。モンシロチョウは既に1758年リンネによって Pieris 属に入れられていたことが分かります。やはり、モンシロチョウの学名は Pieris  rapae  crucivora  Boisduval が正式なのではないでしょうか。

命名者の記載について
種の学名の後にしばしば命名者を併記することがあります。上の表にも書きましたが、たとえば、セイヨウミツバチの学名 Apis  Mellifera  Linnaeus のように、命名者は斜体ではなく普通の活字で印刷します。
   命名者が( )に入っている場合をさらに詳しく説明しておきます。たとえば、オオハキリバチの学名は次のように表記される場合があります。

Chalicodoma  sculpturalis  (Smith)
Chalicodoma  sculpturalis  (Smith)  Michener
Chalicodoma  sculpturalis  (Smith, 1853)  Michener, 1962

最初の例は sculpturalis という種小名を付けたのは Smith だが、Smith が発表したときには異なる属に入れられており、現在は Chalicodoma属に移された、ということを示しています。さらに2番目の例は、Chalicodoma属に移したのは Michener であることを、また3番目の例は Smith が sculpturalis という種小名を発表したのが1853年、Michener が属を移したのが1962年であることをも示しています。

日本で出されている昆虫図鑑、特に蝶類のものには、種小名の発表の時と属が異なる場合でも命名者名をカッコに入れていないものがあるそうです。確かに上に述べたモンシロチョウでも Artogeia  rapae  crucivora  Boisduval とした図鑑があります。素人を惑わせることになり困った問題です。

発表年の記載について
発表年の記載の仕方について、動物学と植物学、細菌学で多少異なります。細かいことですが、ここに書いておきます。
   以下は、動物のミツバチ科のセイヨウミツバチ、植物のヤブコウジ科のマンリョウの一種シシアクチ、細菌の腸内細菌科のプロテウスの学名ですが、御覧になると分かるように、動物学では命名者の後にカンマを入れてから発表年を書き、植物学ではカンマなしで発表年を( )に入れ、細菌学ではカンマも( )もなしに書きます。

Apis  mellifera  Linnaeus, 1758
Ardisia  quinquegona  Blume (1825)
Proteus  morganii  Yale 1939

学名の発音
学名はふつうラテン語として扱われますので、ラテン語の発音で読むべきなのですが、現実には、欧米の学者は自分の母語の流儀で読んでしまいます。(フランスには「ラテン語のフランス語式発音愛好者の会」というのまであるそうです。)
   そこで、Homo sapiens は英米人が読むと「ホウモウ・セイピエンズ」のようになってしまいます。フランス人が読めば「オモ・サピアン」のようになるでしょう。またカエデの属名 Acer(アケル)は「エイサー」や「アーチェル」、枯草菌・炭疽菌の属名 Bacillus(バキッルス)は「バシラス」や「バチルス」などと発音されることになります。
   注:近年、日本の細菌学会では英語式に「バシラス」と読むのに対して、農学関係者は「バチルス」と読んでいるとのこと。

日本では、英米人との交流の必要から英語式に読む人が最近多くなってきたものの、依然としてラテン語流に読むのが一般的だそうです。(ただし、近代の人名または知名に由来するものは例外で、それぞれの言語の発音に従います。)

以下に少しラテン語の読み方を説明します。

たとえば、種小名や種形容語には、「日本の」という意味の japonicus, japonica, japonicum というのがよくありますが、これは「ヤポニクス、ヤポニカ、ヤポニクム」と読みます。ja は「ジャ」ではありません。J は本来 I と同じ文字です。( japonicus の変化については学名の性を御覧下さい。)

また、V は U と同じ文字ですから、スズメバチの学名 Vespa mandarinia の Vespa は「ウェスパ」と読みます。英語式の「ヴェスパ」ではありません。アカタテハ Vanessa indica indica の属名は「ヴァネッサ」ではなく「ワネッサ」です。

C は常に / k / の音を表します。/ i / や / e / の前でも、英語やフランス語のように / s / の音になったり、イタリア語のように / t∫/ になったりはしません。Acer は英米人なら「エイサー」、フランス人なら「アセール」、イタリア人なら「アチェール」のように読んでしまうかも知れませんが、カエデの属名 Acer は「アケル」と読みます。

X は / ks / と読みます。たとえば、クマバチの学名は Xylocopa appendiculata circumvolans ですが、この属名は「クシュロコパ」と読みます。英語なら「ザイロコウパ」とでもなりそうですが。
   また、キク科の雑草オオオナモミの学名は Xanthium occidentale で、属名は「クサンティウム」と読みます。

Y は、子音としては / j / で、「ヤ」行の子音です。母音としては / y / を表し、フランス語の u やドイツ語の ü(ウムラウトの付いた U)同じく、口をすぼめて「ウ」を発音する構えで「イ」を発音するという要領です。日本語にはこの音がありませんので、「ユ」で転記します。たとえば、ヒガンバナの学名はLycoris radiata ですが、この学名は「リュコリス・ラディアタ」と読みます。また、ユリ科のホトトギスは Tricyrtis hirta で、「トリキュルティス・ヒルタ」です。

Ch, Th, Ph, Rh はローマ人がギリシャ語の χ、θ、φ、ρ( ρは語頭の場合のみ)を転写したもので、それぞれ / k、t、p、r / の帯気音を表します。つまり強い呼気を伴ったカ行、タ行、パ行、ラ行ですが、ラテン語には帯気音と無気音の区別がありませんので、普通の / k、t、p、r / で発音してもかまいません。また、Ph を英語式に / f / で発音してもかまいません。ただし、気を付けなければいけないのは Ch、Th を英語のように / t∫/ や / θ/ にしないことです。

したがって、ヘビイチゴの学名 Duchesnea chrysantha は「ドゥケスネア・クリュサンタ」のように言います。英米人なら「ダチェスニア・クリサンサ」と読みかねませんが。
   ところで、後半の chrysantha は「菊」に当たる英語の chrysanthemum(クリサンサマム)に似ています。この英語はギリシャ語の khrusos(クリュソス、金)と anthemon(アンテモン、花)に由来します。ヘビイチゴの種形容語もこれに関係ありそうです。
   ヘビイチゴはバラ科ですが、キク科キク属の属名は Chrysanthemum(クリュサンテムム)とい言います。海岸の崖などによくみられるハマギク Chrysanthemum nipponicum やノジギク Chrysanthemum japonense などがこれに属します。

マメ科のセンダイハギの学名は Thermopsis lupinoides といいますが、この属名は「テルモプシス」と読みます。前半の thermo- は恐らくギリシャ語の thermos(テルモス、熱)に由来するだろと思いますが、英米人は thermos(サーモス、魔法瓶)と同様「サーモ」と読んでしまうことでしょう。

冬になると家の周りに飛んでくる、腹が茶褐色で顔が黒く、黒い翼に白い紋の入ったきれいな鳥、ジョウビタキは学名を Phoenicurus auroreus と言いますが、これは「ポエニクルス・アウロレウス」と読みます。Ph を F のように読んで「フォエニクルス」でもよいようです。英米人なら恐らく、「フィニキュラス・オーロウリアス」と読むことでしょう。また、ウミウはPhalacrocorax capillatus(パラクロコラクス・カピッラトゥス)と言います。
   Ph は本来 P の帯気音で、強く息を吐きながら発音するパ行なのですが、ラテン語には帯気音と無気音の区別がありませんので、古代ローマ人でも普通の P と同じように発音したのではないかと思います。また、この音は時代を下るにつれて本家のギリシャでも / f / の音に変わっていきました。英語でも phone や philosophy にあるように / f / で発音します。というわけで、学名の中の Ph は普通のパ行でも / f / にしてもかまいません。
   ついでながら、英語にも帯気音と無気音の区別はありませんが、英米人が言うと普通の P が立派に帯気音になっていることが多いです。たとえば、pen でも pork でも、かなりの呼気を伴いますが、日本人が発音する「ペン」や「ポーク」は息が弱いため帯気音には聞こえません。こういったことが日本人の英語が通じにくい原因の一つでもあります。

Rh も本来 R の帯気音ですが、普通の / r / で発音します。ギリシャ人は語頭のρ(ロー)を帯気音で発音していたらしいのですが、そうかといって、無気音の / r / と区別していたわけではありません。ローマ人はギリシャ語の語頭の ρを Rh で転写しましたが、ラテン語にはもともと帯気音と無気音の区別がありません。
   ですから、カナブンの学名の Rhomborrhina japonica は「ロンボッリナ・ヤポニカ」と読みます。インドサイの属名 Rhinoceros は「リノケロス」と読みます、英語ではサイは同じ綴りで「ライノセラス」と言いますが。

お断り:
ラテン語の母音には長短の区別がありますが、学名の場合、これを無視し、本来のラテン語の発音と異なる場合がよくあるということです。上の説明の中で私が添えた読み方でも母音の長短を無視しています。図鑑などで学名がカタカナで書かれていることは普通ありませんので、大部分のカタカナは私の責任において読んだものです。母音の長短に関しては間違っているかもしれませんので、ご了承下さい。

学名あれこれ

種小名はおもしろい
学名にはときどき変わったものがありますが、特に種小名はおもしろいです。下にあげる昆虫の学名には「サムライ」「ミカド」「ゲイシャ」「オトメ(virgo)」「ゴリアテ(goliath)」「シーザー(カエサル、caesar)」などの種小名、亜種小名が付いています。
   ここでは、geisha は亜種小名です。種小名の io はイタリア語なら「私」という意味です。「私、芸者」と読めないこともないですが、原著者の意図はどうなのでしょう。また、ゴリアテは聖書に出てくるペリシテ人で、ダビデと闘い倒された巨人ですが、始めユダヤ人を絶望させたほどの怪物で、途方もない強敵を連想させます。英語では「ゴライアス」のように発音しますが、学名としては「ゴリアトゥ」と読みます。

和名

学名

カタカナでは

サムライアリ(アリ科)

Polyergus samurai

ポリュエルグス・サムライ

クジャクチョウ(タテハチョウ科)

Inachis io geisha

イナキス・イオ・ゲイシャ

ハネブサシャチホコ(シャチホコガ科)

Platychasma virgo

プラテュカスマ・ウィルゴ

オオシモフリヨトウ(ヤガ科)

Polia goliath

ポリア・ゴリアトゥ

キンバエ(クロバエ科)

Lucilia caesar

ルキリア・カエサル

ミカドハマダラミバエ(ミバエ科)

Staurella mikado

スタウレッラ・ミカド

ミカドキクイムシ(キクイムシ科)

Scolytoplatypus mikado

スコリュトプラテュプス・ミカド

シバスズ(コオロギ科)

Pteronemobius mikado

プテロネモビウス・ミカド

キバネハサミムシ(クギヌキハサミムシ科)

Forficula mikado

フォルフィクラ・ミカド


まちがっても直せない
一度発表された学名は、たとえ付けた本人でも、原則として変更や訂正が出来ません。
   例外として、動物学では、不慮の過誤であるという明白な証拠がある場合に限って訂正できるとしています。「不慮の過誤」とは、印刷屋が間違えたとか、本間さんが私の名前を付けますと論文に書いておきながら tomma と書いてしまった、とかいう場合です。自分の意志で honma と書いたものを後で homma にしたいと言っても認められません。

たとえば、「イチョウ」の属名は Ginkgo です。これは「銀杏」の音読みからつけたものでしょうから Gingko が正しいはずですが、直すことはできません。これはリンネが命名したものですが、弘法も筆の誤りと申せましょうか。ついでながら、種形容語は biloba と言いますが、これは「2つの葉の」を意味するラテン語 bilobus の女性形です。和名のイチョウは「一葉」に由来するそうですから、この違いはおもしろいですね。
   ちなみに「銀杏」は漢音では「ぎんこう」と読みますが、唐宋音では「ぎんあん」と読みます。これが連声の結果「ぎんなん」になりました。また、英語ではイチョウを ginkgo または gingko と綴って「ギン(グ)コウ」と(また前の綴りの時は「ギン(ク)ゴウ」とも)読みます。

また、コゲラ(Dendrocopos kizuki、キツツキ科)の種小名 kizuki は「キツツキ」の誤記、カンムリウミスズメ(Synthliboramphus wumizusume、チドリ目ウミスズメ科)の種小名 wumizusume は「ウミスズメ」の誤記です。
   ちなみに、コゲラをアオゲラ(Picus awokera)と同様、Picus属に入れてある本もあります。また、ウミスズメ(チドリ目ウミスズメ科)の学名は Synthliboramphus antiquus と言います。

ナンテンの学名は Nandina domestica です。属名は和名「南天」に由来しますので、Nantenia とでもしたほうがよいでしょうが、直すことは出来ません。

ミヤギノハギ(マメ科)の学名は Lespedeza thunbergii と言います。ハギ属の属名 Lespedeza は 1790年頃のフロリダ州知事 V. M. de Cespedes に因むものですが、綴りを間違ったまま公表され、今に至っています。
   ちなみに、種小名の thunbergii(テュンベリイ)は、スウェーデンの博物学者にしてリンネの高弟であり、シーボルトに先立つこと48年、1775年8月から翌年12月まで長崎オランダ商館の医者として滞日、約800種の日本の植物をヨーロッパに紹介した人物です。 この他にもクロマツ(Pinus thunbergii)、タブノキ(Machilus thunbergii、クスノキ科)、など多くの学名に名前が残っています。

間違えの中でも極め付けは、スズメ目ツグミ科の小鳥、コマドリとアカヒゲの場合でしょう。それぞれの学名は、コマドリが Erithacus akahige、アカヒゲが Erithacus komadori となっており、命名者 Temminck が取り違えたものです。
   ついでながら、コマドリ属の属名 Erithacus はヨーロッパコマドリを表すギリシャ語 erithakos をラテン語化したものです。ヨーロッパコマドリの学名は Erithacus rubecula と言いますが、rubecula は15世紀の Gaza という人が erithakos をラテン語に訳したもので、「赤い小さなもの」という意味だそうです。


同じ名前で出ています
人間社会にはたまに同姓同名というのがありますが、そもそも名前というのは異なるものを区別するために付けるものですから、同じ名前があるのは困ります。
   動植物の名前でも、標準和名の場合は「ホトトギス」のように、鳥であったり、貝であったり、植物であったりすることがありますが、学名の場合は命名規約によって異なるタクソンに同じ名前をつけることを禁じています。
   知らずに同じ名前を付けてしまった場合は、それぞれをホモニム(異物同名)と呼び、もちろん、少しでも先にあった方が優先権を持ち、有効名とされます。

たとえば、カモノハシは1799年、イギリスの動物学者 G. Shaw によって Platypus anatinus と発表されましたが、後になって、Platypus(プラテュプス)という属名はすでに 1793年、ナガキクイムシという小さな甲虫に与えられていたことが判明しました。その結果、現在ではカモノハシの属名は Ornithorhynchus(オルニトリュンクス)になっています。ちなみに、Platypus は「扁平な足」、Ornithorhynchus は「鳥の嘴の」を意味するギリシャ語からの造語、anatinus は「カモのような」を意味するラテン語だそうです。
   注1:原色昆虫図鑑 II(北隆館、1995)にシナノナガキクイムシ(Platypus severini)とヨシブエノナガキクイムシ(Platypus calamus)が載っています。
   注2:英語ではカモノハシを platypus(プラティパス)または duckbill と言います。

ただし、学名の場合でも、動物と植物、動物と細菌とか、のように学問領域が異なれば同名が許されます。たとえば、Pieris はモンシロチョウとアセビ、Baccilus は炭疽菌・枯草菌とセイヨウナナフシ、というように同じ属名が使われています。    ちなみに、モンシロチョウの学名は Pieris  rapae  crucivora、アセビは Pieris  japonica です。Pieris というのは、ギリシャ神話に出てくるムーサ(人間の知的活動を司る女神)の別名だそうです。

種小名・種形容語が同じものは、今までにもたくさん御紹介しましたが、それこそ数限り無くあります。田中翔太、鈴木翔太、稲葉翔太などと、名が同じでも、田中とか山田という姓と一緒になって個人が区別されるように、学名の場合も、属名と種小名・種形容語とが一緒になって一つの種を表すのです。


「日本の」がいっぱい
日本起源の動植物の学名には、当然かも知れませんが、「日本の」とか「日本産の」という意味の種小名・種形容語を含むものがたくさんあります。しかも、これには既に紹介したトキ(Nipponia nippon)の nippon や japonicus、japonica、japonicum の他にもいろいろあります。列挙しますと、

nipponicus、nipponica、nipponicum
japonensis、japonense
nipponensis、nipponense

-ensis は男女共通です。

いくつか例を挙げます。

まず、nipponicus の付いた学名は、野草の ヒメザゼンソウ Symplocarpus nipponicus、昆虫の ケシミズカメムシ Hebrus nipponicus、 ガガンボモドキ Bittacus nipponicus などがあります。

その女性形 nipponica を含む学名は、野草に ヒメクワガタ Veronica nipponica、 オニシオガマ Pedicularis nipponica、 イワツメクサ Stellaria nipponica、 ミヤマリンドウ Gentiana nipponica、 ヒナザクラ Primula nipponica、 ハルユキノシタ Saxifraga nipponica、など多くあり、昆虫にも ヒゲナガクロハバチ Phymatocera nipponica、 マツノクロホシハバチ Diprion nipponica、 イヌビワコバチ Blastophagus nipponica などがあります。

中性形 nipponicum には野草から、ハマギク Chrysanthemum nipponicum、 ナンブアザミ Cirsium nipponicum、 ミヤマムラサキ Eritrichium nipponicum などがあります。

次に、japonensis を含んだ学名には、 タンチョウ Grus japonensis や、昆虫の ヒグラシ Tanna japonensis japonensis、 タイコウチ Laccotrephes japnonensis、 シロオビフユシャク(シャクガ科)Alsophila japonensis、 ウシカメムシ(カメムシ科)Alcimocoris japonensis などがあり、 ハシブトガラスとハヤブサの亜種に Corvus macrorhynchos japonensis、 Falco peregrinus japonensis があります。

また、その中性形 japonense を含むものとしては ノジギク(キク科キク属)Chrysanthemum japonense、 ヤマホロシ(ナス科ナス属)Solanum japonense があります。

また、nipponensis の付いた学名には、 ジュウニヒトエ(シソ科キランソウ属)Ajuga nipponensis、 ニッポンカガンボ(カガンボ科)Tipula nipponensis、 クツワムシ Mecopoda nipponensis、 ニホンベニコメツキ(コメツキムシ科)Denticollis nipponensis などがあり、

中性形 nipponense を含むものには オニアザミ(キク科アザミ属)Cirsium nipponense があります。
   ちなみに Cirsium japonicum はノアザミ(キク科アザミ属)、 Ajuga japonica はオウギカズラ(シソ科キランソウ属)です。

Pが一つの niponicus、-a や niponensis もあります。( 中性形の niponicum と niponense もありそうですが、今のところ私はみつけていません。)

たとえば、クビカクシナガクチキ(クビナガムシ科の甲虫)Scotodes niponicus、 キイロホソナガクチキ(クビナガムシ科の甲虫)Serropalpus niponicus、 キベリコバネジョウカイ(ジョウカイボン科の甲虫)Trypherus niponicus、 ケナガクビボソムシ(アリモドキ科の甲虫)Neostereopalpus niponicus、 コエンマムシ(エンマムシ科の甲虫)Margarinotus niponicus、 ヤチダモノナガキクイムシ(ナガキクイムシ科の甲虫)Crossotarsus niponicus、 ニッポンハナダカバチ(ジガバチ科)Bembix niponica、 トガリバアカネトラカミキリ(カミキリムシ科)Anaglyptus niponensis、などがあります。

恐らくは、nipanicus、nihonica、niphona、niphonica、なども「日本」に由来するのではないでしょうか。(注:私の見当違いかも知れません。図鑑の印刷ミスの可能性もなきにしもあらずです。)

たとえば、ミカドドロバチ(ドロバチ科)Euodynerus nipanicus、 オオネグロシャチホコ(シャチホコガ科)Eufentonia nihonica、 アサギマダラ(マダラチョウ科)Parantica sita niphonica、 ベニモンマダラ(マダラガ科)Zygaena niphona niphona などがあります。

「エンシス」がいっぱい
種小名・種形容語の中に -ensis(あるいはその中性形 -ense)という語尾を持つものがたくさんあります。これは「〜に産する」という意味なのだそうです。上に挙げた japonensis や nipponensis の他に、pekinensis( Sinanthropus, 北京原人)や neanderthalensis( Homo, ネアンデルタール人)もよく知られています。実にたくさんありますから、図鑑を御覧になればすぐに見つかりますが、少し例を挙げてみましょう。

「中国産の」には sinensis と chinensis があります。たとえば、Camellia sinensis(茶)、Actinidia chinensis(キウイ、マタタビ科)。(注:Camellia はツバキ属で、Camellia japonica はヤブツバキ、Camellia sasanqua はサザンカ。動物のキーウィは Apteryx australis)
   昆虫に例を拾うと、Coeliccia ryukyuensis ryukyuensis(リュウキュウルリモントンボ)、Vaneekeia iriomotensis(イリオモテナカモンシャチホコ)、Psococerastis tokyoensis(スジチャタテ、チャタテムシ科)、Dynatosoma sapporoensis(オオフトキノコバエ)、Oxya yezoensis(エゾイナゴ)など、いろいろあります。

カワセミ科にミヤコショウビン Halcyon miyakoensis というのがいたそうです。「宮古島産の」鳥ですが、残念ながら、絶滅したとのことです。また、ヒバリは Alauda arvensis と言い、arvensis は「畑(arvum)に産する」という意味だそうです。

注:Neanderthal はドイツにある谷の名前です。ですから neanderthalensis(ネアンデルターレンシス)は「ネアンデルタール谷に産する」という意味です。スミソニアン協会のホームページによれば、ネアンデルタール人の学名は Homo neanderthalensis で、現代人である Homo sapiens(ヒト)とは別の種とするのが今の解釈だそうですが、かつては両者を同じ種の中の亜種と考え、前者を Homo sapiens neanderthalensis、後者を Homo sapiens sapiens としたこともあったそうです。

学名の作り方
種の学名の多くはラテン語またはギリシャ語から成っており、そうでない場合でも、ラテン語として扱われるのが伝統です。しかし、事実上は命名者が勝手に作り出した言葉でも良く、おかげで時々おもしろい学名に出会うことができます。

勝手に作った言葉
全く任意に造った意味のない言葉も学名に成り得ます。Nezara antennata(アオクサカメムシ)の Nezara はそういう例の一つです。また、もう一つの例として、Zyzza というカメムシの一種の属名があるそうです。

長々し名
あしびきのやまどりのをのしだりをの長々し夜を、と詠われたヤマドリの属名は Syrmaticus(スュルマティクス)と言いますが、これは「長すその衣」を意味する syrma に由来するギリシャ語 syrmaikos(すそをひきずるもの)から来ているそうです。(種小名は soemmerringii でドイツの解剖学者 von Sömmerring に由来)
   意味ではなく、形が長い学名もいろいろあります。ハクレンという魚の属名は Hypophthalmichthys(ヒュポプタルミクテュス)というそうですが、これはギリシャ語の hypo-(下に)、ophthalmos(目)、ichthys(魚)の合成で、目が頭のかなり下の方に付いているため「下目魚」という意味の命名です。エチオピア産のキク科の植物に Pseudoblepharispermum(プセウドブレパリスペルムム)属というのがあるそうですが、これは「まつげ状の種子」を意味する Blepharispermum 属に「偽の」を意味する pseudo- を付けたもの。(ニセアカアシア Robinia pseudoacacia を好例とし、学名にはしばしば pseudo- の付いたものがあります。立派に存在する「種」に対して「偽の」というのは失礼な気もしますが。注:pseudo- は英語では「スュード」のように読みます。)
   極め付けは、甲殻類の Siemienkiewicziechinogammarus(シェミェンキェヴィチエキノガンマルス)でしょう。これは「棘のヨコエビ」を意味する Echinogammarus 属に、人名 Siemienkiewicz を付けたもの。何かちょっと省略するとかできないものでしょうか。
   対照的に見事なものとして、ヌカウロコアリ Kyidris があるとのこと。これは九州大学教授安松京三 Keizo Yasumatsu の頭文字と Idris 属(知識のあるという意味で、蟻の異名)を合成したもので、アメリカの蟻学者 W. L. Brown が創作したものだそうです。

長い名前を付けたがる人はどこにでもいるらしく、標準和名にもかなり長いものがあります。海産の単子葉植物に「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」というのがあるそうです。魚では「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」というのがいて、さらにその上を行くものとして「ウケグチノホソミオナガノオキナハギ」というカワハギがインド洋から南シナ海の浅瀬にいるとのこと(学名は Anacanthus barbatus)。これは命名した本人が「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」よりも長い名前を付けようと思ったという確信犯で、「覚えやすいように」5、7、5になるように工夫したとのこと。

綴り替え語(アナグラム、anagram)
オーストラリア・ニューギニア産のワライカワセミの属名は Dacelo ですが、これはカワセミ(Alcedo atthis)の属名 Alcedo を綴り替えたものです。ですから、Dacelo というう言葉自体には何の意味もありません。
   アナグラムは言葉遊びの一種で、ある単語や文の文字を並べ替えて、別の単語や文を作ることを言います。たとえば、dog(犬)を god(神)にしてみたり、dread(恐怖)から adder(マムシ、クサリヘビ)を作ったりという類いです。
   ビルマ・ボルネオ産のカザリショウビンの属名 Lacedo も Alcedo のアナグラムです。その他、ニワコウラナメクジの属名 Milax は limax(ラテン語のナメクジ)から、イワツバメの Delichon は chelidon(ギリシャ語のツバメ)からの綴り替えです。

ところで、Alcedo 自体はカワセミを意味するラテン語に由来します。一方、カワセミ科ヤマショウビン属の属名 Halcyon はギリシャ語 halkyon から来ていますが、これはハルキュオーネーという女性の名に由来します。
   ブルフィンチの語るギリシャ神話によりますと、ハルキュオーネーはテッサリアの王ケーユクスの妻でしたが、海難によって帰らぬ人となった夫を一心に待ちわびる姿に同情を寄せた神々によって、夫と共にカワセミに変じられ仲むつまじく暮らしたとのこと。また、アッポロドーロスの伝える神話によれば、ケーユクスとその妻ハルキュオーネーはその幸福な夫婦生活をゼウスとヘーラーに例えたために傲慢の戒めとしてカワセミに変えられたとも言います。
   夫のケーユクスの方はフィリピンマメカワセミ(Ceyx goodfellowi)、セレベスカワセミ(Ceyx fallax)、マメカワセミ(Ceyx lepidus)、ミツユビカワセミ(Ceyx erithacus)、アカカワセミ(Ceyx melanurus)などの属名となっています。
   注:ケーユクスについてはテッサリア(英名 Thessaly)の王としたものと、トラーキス(英名 Thrace か?)の王としたものがあります。
「翡翠って飛ぶの?」も御覧下さい。)

反復名(トートニム、tautonym)
学名の中には属名とその後の種小名・種形容語が同じものがあります。またその次の亜種小名・亜種形容語まで同じものもあります。同じ語が繰り返されて名前になっているものをトートニム(反復名、反復名称、同語反復)と呼びます。
   たとえば、アメリカバイソン(野牛)は Bison bison、スズメ目ミソサザイ科のミソサザイは Troglodytes  troglodytes  troglodytes です。troglodytes(トローグロデュテース)はミソサザイを意味するギリシャ語 で、trogle(穴)と dytes(もぐるもの)に由来します。

なぜ反復名を付けるのかは、付けた人に聞かなければ分かりません。いろいろな場合があることでしょう。人の名前でも Scott Scott とか Rose Rose などという例があります。(何年か前のアン・ランダーズの身の上相談に載っていましたが、Rose Rose という女性はこの名前が大好きで、ある所で次のように紹介された時は最高の気分だったとか。Here is the daughter of Ted Rose and Rose Rose, Rose Rose. 「御紹介します。テッド・ローズとローズ・ローズのお嬢さんのローズ・ローズです。」お母さんも Rose Rose だったんですね。親が子供に自分の名前をつけるというのも日本ではないことですが、アメリカではよくあります。)
   ある時期ヒトの学名を Homo sapiens sapiens としていたことがあるそうですが、これはネアンデルタール人を現代人と同じ種と見て Homo sapiens neanderthalensis としたのに対応したものです。ここでは sapiens sapiens は「もっとも sapiens らしい sapiens」とか「sapiens の典型」とかいう意味があるのかもしれません。
   オオハクチョウ(Cygnus cygnus)、ハイイロガン(Anser anser)、ツクシガモ(Tadorna tadorna)の場合は始めから反復名であったわけではなく、始めリンネが Anas Cygnus、Anas Anser、Anas Tadorna として Anas(カモ)属に入れたのが、後になって独自の属とされ今日の名称に変わったのだそうです。なお、Cygnus はラテン語 cygnus(ハクチョウ←ギリシャ語 kyknos)、Anser はラテン語 anser(ガン)、Tadorna はフランス語 tadorna(ツクシガモ)に由来します。ちなみに、「ハクチョウ」はカモ目カモ科ハクチョウ属の総称で、コハクチョウは Cognus columbianus と言うそうです。

その他、反復名の例として、Bubo bubo(ワシミミズク)、Buteo buteo(ノスリ)、Ciconia ciconia(コウノトリ)、Coturnix coturnix(ウズラ)、Grus grus(クロズル)、Pica pica(カササギ)、Gallinago gallinago(タシギ)、Himantopus himantopus(セイタカシギ)、などがあります。Himantopus はギリシャ語「皮ひものような足」、gallinago はラテン語 gallina「メンドリ」、grus はラテン語「ツル」、その他は同じ意味のラテン語に由来します。(注:日本のウズラは別種 Coturnix japonica とされることもあります。セイタカシギには Himantopus himantopus himantopus や Himantopus himantopus leucocephalus という亜種もあります。)

もう一つ、Regulus regulus(キクイタダキ)の例もあります。漢字では「菊戴」と書く、10 cm ほどの可愛い小鳥ですが、体は灰色みを帯びたオリーブ褐色で、頭頂の黄色の線が鮮やかです。Regulus はラテン語で「小さな王」という意味ですが、獅子座の一等星の名でもあり、我が家の猫の名前でもあります。我が家のレグルスも御覧下さい。

ヒを食った学名
ダチョウ目ヒクイドリ科のヒクイドリは、漢字では火食鳥とか食火鶏と書きますが、別に火を食べるわけではありません。喉のところに赤い肉垂れをもつ奇怪な姿のためにこんな名前がついたのでしょう。学名は Casuaris casuaris と言います。

学名には、綴りが間違っていてもそのままだったり、コマドリがアカヒゲでアカヒゲがコマドリだったり、Dacelo や Lacedo のように言葉遊びで作ったものがあったりもしますが、別に「人を食って」いるわけではありません

「人を食った」学名はありませんが、「〜を食べる」という形で動物の習性を表す学名はよくあります。属名からいくつか例を挙げてみましょう。

Ichthyophaga(ウオクイワシ)、Pithecophaga(サルクイワシ)、Myrmecophaga(オオアリクイ)、Ophiophagus(キングコブラ)、Sarcophaga(ニクバエ)、Scathophaga(フンバエ)、Onthophagus(エンマコガネ)、Dermatophagus(コナダニの一種)、Rhizophagus(ネスイムシ)、など。

それぞれ、ichthys(魚)、pithekos(猿)、myrmex(蟻)、ophis(蛇)、sarkos(肉)、skor(糞便)、onthos(牛馬など動物の糞)、derma(皮膚)、rhiza(根)を食べる、というギリシャ語に由来します。(注:左に挙げた語は主格ですので、実際の接続形はこれと異なります。)
   ギリシャ語の「多べる」は不定詞が phagein という形で、「〜を食べる」という形容詞は -phagos になりますが、学名の場合、これをラテン語化して、男性形 -phagus、女性形 -phaga、中性形 -phagum になります。
   ちなみに、英語の単語としては -phagous となり、anthophagous(花を食べる)や phyllophagous(葉を食べる)、phytophagous(植物を食べる)などの語もあります。また、「糞を食べる」という単語には scatophagous と coprophagous があります。

なお、Scathophaga(フンバエ)はギリシャ語 skatophagos に由来しますので、Scatophaga となるべきですが、現在では先に発表された Scathophaga が使われているそうです。(平嶋義宏、2003、による)

日本語由来の学名
日本語から採られた学名として、今までにイチョウ(Ginkgo biloba)や、コマドリ(Erithacus akahige)、アカヒゲ(Erithacus komadori)などを挙げましたが、他にもあります。いくつか御紹介しましょう。

アオキ(ミズキ科)Aucuba japonica(アウクバ・ヤポニカ)
   属名 Aucuba は青木葉(アオキバ)に由来します。ちなみに、フランス語では aucuba(オキュバ)と言います。英語では普通 Japan laurel または Japanese laurel と言うようですが、aucuba も辞書に載っています。

ウメ(バラ科)Prunus mume(プルヌス・ムメ)
   種形容語の mume は和名のウメから来たようです。なぜ「ムメ」になっているのかが気になるところですが、方言形でしょうか。ちなみに「ウメ」という日本語は「梅」の中国語音(現代語では mei)が日本語化したものと考えられています。ついでに「ウマ」も「馬(マー)」からです。

カキ(カキノキ科)Diospyros kaki(ディオスピュロス・カキ)
   種形容語の kaki はもちろん「柿」に由来します。英語では普通 persimmon と言いますが、大きい辞書には kaki も載っています。もっとも多くの英米人はどちらも知りませんが。
   ちなみに、属名は「ぜウスの小麦」というギリシャ語で「神の食べ物」を意味するそうです。

ヤマザクラ Prunus yamasakura(プルヌス・ヤマサクラ)
   種形容語はもちろん和名からですが、「ザクラ」という連濁がありません。日本人にとっては当たり前の連濁ですが、欧米人にとって sakura と zakura は大違いです。誰が命名者か知りませんが「ザクラ」とするにはあまりに忍びなかったのかもしれません。
   そう言えば、改めて考えてみますと、正確には「サクラ」という名の植物はありません。サクラ類とは言いますが、実際の種の名前は「なんとかザクラ」ですね。同じように、どの魚類図鑑を見ても「タイ」や「サメ」は載っていません。載っているのは皆「〜ダイ」「〜ザメ」です。

サザンカ Camellia sasanqua(カメッリア・ササンクウァ)
   この種形容語「ササンクウァ」にも連濁がありません。ちなみに「サザンカ」は本来「サンザカ」だったそうです。そういえば「山茶花」の読みとしては「サンザカ」の方が納得が行きます。

ナンテン Nandina domestica(ナンディナ・ドメスティカ)
   この属名は「南天」に由来すると思われますが、なぜ「ナンディナ」と濁ってしまったんでしょう。まさか「ヤマサクラ」とか「ササンクウァ」で連濁をしなかったことの埋め合わせ(hypercorrection「直し過ぎ」参照)ではないと思いますが。

ウンシュウミカン Citrus unshiu(キトゥルス・ウンシウ)
ナツミカン Citrus natsudaidai(キトゥルス・ナツダイダイ)
ハッサク Citrus hassaku hort. ex.(キトゥルス・ハッサク hort. ex.)
スダチ Citrus sudachi hort. ex.(キトゥルス・スダチ hort. ex.)
タチバナ Citrus tachibana(キトゥルス・タチバナ)
   柑橘類にはこのように和名がから来た種形容語が多いです。上の学名の中にある hort. ex. は hortensis ex(ホルテンシス・エクス、〜より出た園芸上の)の略で、まだ正式な学名が与えられていないということを示しているそうです。種の学名がイタリックで印刷されるのに対し、これは普通の活字で書かれます。例:Citrus sudachi  hort. ex.

エンマコウロギ Teleogryllus emma(テレオグリュッルス・エンマ)
カネタタキ Ornebius kanetataki(オルネビウス・カネタタキ)
   コウロギ科の昆虫にも2つの例を見つけました。

スズメの学名
前項で「タイ」や「サメ」という魚はいないということを書きました。私たちが一般に使っている動物の名前は、個々の「種」の名前ではなくて、いくつかの種を束ねた「総称」であることが多いようです。たとえば、「カラス」「ハト」「ツル」という名前の鳥はいません。いるのはただ「〜ガラス」「〜バト」「〜ヅル」だけです。「キツツキ」に至っては、「キツツキ」はおろか「なんとかキツツキ」というのさえいません。
   そういう中で、私たちにお馴染みのごく普通の動物の中にも、通称がそのまま「種」の名前になっているものがあります。たとえば、スズメ、ツバメ、カモメなどです。

私たちがよく見かけるスズメは学名を Passer montanus(パッセル・モンタヌス、山のスズメ)と言いますが、ニュウナイスズメ(Passer rutilans)やイエスズメ(Passer domesticus)など共に、別個の種としてスズメ目ハタオリドリ科に属しています。
   ついでながら、スズメ目というのは大所帯でハタオリドリ科の他、ヒバリ科、ツバメ科、ヒヨドリ科、ツグミ科、ウグイス科、メジロ科、ホオジロ科、モズ科、ムクドリ科、カラス科などを含んでいます。
   もう一つついでに、伊東市の市の鳥であるイソヒヨドリはスズメ目ツグミ科に属し、学名を Monticola solitarius(モンティコラ・ソリタリウス)と言います。Monticola は「山に棲むもの」、solitarius は「孤独性の」という意味です。注:ヒヨドリ(Hypsipetes amaurotis)はスズメ目ヒヨドリ科で、科も属も異なります。

ツバメは、学名を Hirundo rustica(ヒルンド・ルスティカ、田舎の燕)と言い、リュウキュウツバメ(Hirundo tahitica)やコシアカツバメ(Hirundo daurica)、イワツバメ(Delichon dasypus )、ニシイワツバメ(Delichon urbica)などと共に、一つの種として、スズメ目ツバメ科に属します。( Hirundo はラテン語「ツバメ」から、Delichon はギリシャ語「ツバメ chelidon」の綴り替え。)
   注:本によってはイワツバメの学名を Delichon urbica(デリコン・ウルビカ、都会の燕)としています。「日本の野鳥590」によれば、イワツバメの学名は Delichon dasypus であり、現在の日本の分類ではイワツバメの亜種である Delichon urbica dasypus をニシイワツバメと同種としているとのこと。

カモメは学名を Larus canus(ラルス・カヌス)と言います。Larus はカモメを意味するラテン語 larus、ギリシャ語 laros に由来し、canus はラテン語で「灰色の」を意味します。(ついでながら、canus はヤマゲラ Picus canus の種小名でもあります。)
   チドリ目カモメ科には、カモメの他に、ウミネコ(Larus crassirostris)、ユリカモメ(Larus ridibundus)、チャガシラカモメ(Larus brunnicephalus)、ボナパルトカモメ(Larus philadelphia)、ハシボソカモメ(Larus genei)、カリフォルニアカモメ(Larus californicus)、クビワカモメ(Xema sabini)、ヒメクビワカモメ(Rhodostethia rosea)、ミツユビカモメ(Rissa tridactyla)、ゾウゲカモメ(Pagophila eburnea)などの「カモメ」に加えて、アジサシ(Sterna hirundo)及びその他多くの「〜アジサシ」が含まれます。
   ついでながら、アジサシの種小名 hirundo はラテン語でツバメの意味ですね。属名 Sterna は古英語 stearn(アジサシ)に由来するそうです。


その他あれこれ

ジャイアントパンダの学名は Ailuropoda  melanoleuca(アイルロポダ・メラノレウカ)と言います。属名 Ailuropoda はギリシャ語の ailouros(猫)と podos(足、pous の属格形)から作られました。種小名 melanoleuca は同じくギリシャ語の「黒」と「白」の合成語で、チドリ目シギ科オオキアシシギ(Tringa melanoleuca)やタカ科マダラチュウヒ(Circus melanoleucos)の種小名にもなっています。
   注:マダラチュウヒの種小名は、「日本の野鳥」(山と渓谷社、2002)では melanoleucus になっています。ラテン語の語尾としては男性形 -us となるはずですが、「日本の野鳥590」(平凡社、2003)及び「鳥の学名」(ニュー・サイエンス社、1985)ではギリシャ語の男性語尾で -os としています。私としては、この場合 -os が正しいのではないかと思います。

ついでながら、ギリシャ語の「(melas、属格 melanos)」は「メラニン色素(melanin)」の語源にもなっていますが、種小名にもよく使われます。たとえば、melanocephalus(黒い頭、クロトキ)、melanocephala(黒い頭、ズグロチャキンチョウ)、melanolophus(黒い冠羽、ズグロミゾゴイ)、melanotos(黒い背中、アメリカウズラシギ)、など。
   また、ギリシャ語の「(leukos)」は「白血病(leukemia)」の語源になっていますが、種小名としては、leucocephala(白い頭、シラガホオジロ)、leucogaster(白い腹、カツオドリ)、leucorhynchus(白い嘴、モリツバメ)、leucotos(白い耳、オオアカゲラ)、などがあります。
   オオミズナギドリ Calonectris leucomelas の種小名は「白と黒」で、パンダなどとは逆の順序になっています。

シャクトリムシ(尺取り虫)はシャクガ科の蛾の幼虫です。シャクガ科アオシャク亜科の蛾には、カギシロアオシャク、シロオビアオシャク、クロスジアオシャクなどがいますが、どれも属名は Geometra と言い、その幼虫であるシャクトリムシの属名も Geometra です。
   これはシャクトリムシを表すギリシャ語 geometres を語源としますが、geometres はもともと「土地を測る者」という意味で、まさにシャクトリムシにはぴったりの名前ですね。
   Geometres は更に「幾何学者」をも指しますが、これは英語にも入って、geometry(幾何学)、geometrician(幾何学者)の語源にもなっています。ちなみに、「幾何」という漢字は中国人が geo を音訳したものです。
   ついでながら、geo は「土地」を意味し、英語の geology(地質学)、geography(地理学)、geophysics(地球物理学)、geopolitics(地政学)にも入っています。
   一方、-metres は「測る」という意味のギリシャ語に由来します。これは geometry を始め、speedometer(スピードメーター)、barometer(気圧計)、thermometer(温度計)などの英語にも入っています。

テナガザルの属名 Hylobates は「森を行く者」という意味だそうです。これはギリシャ語の hyle(森)と bates(歩く者)の合成語です。同じく、ヒメウミツバメは Hydrobates(水を行く者)、ウミアメンボは Halobates(海を行く者)と言います。

補遺
ピロリ菌の学名

とりあえず、以上で「学名」の項を終えます。「学名」について更に詳しくお知りになりたい方には平嶋義宏著、「生物学名概論」をお勧めします。

(Jan. 2004)

参考文献:
生物学名概論(平嶋義宏著、東京大学出版会、2003)
動物系統分類の基礎(内田亨著、北隆館、1988)
動物分類学入門(佐々治寛之著、東京大学出版会、2000)
鳥の学名(内田清一郎著、ニュー・サイエンス社、1985)
学研中高生図鑑、鳥類(高野伸二監修、学研、1976)
日本の野鳥590(大西敏一解説、真木広造写真、平凡社、2003)
日本の野鳥(叶内拓哉、安部直哉、上田秀雄共著、山と渓谷社、2002)
原色日本クモ類図鑑(八木沼健夫著、保育社、1999)
原色昆虫図鑑 I、II(北隆館、1995)
植物とつき合う本(岩槻邦男著、研成社、1996)
虫の名、貝の名、魚の名(青木淳一、奥谷喬司、松浦啓一編著、東海大学出版会、2002)
ラテン語四週間(村松正俊著、大学書林、1968)
はじめてのラテン語(大西英文著、講談社現代新書、1997)

目次・索引へ


ギリシャ文字の名前

「アルファ星」や「ベータ星」、「ガンマ線」や「デルタ地帯」、ちょっと前の日本のロケット「カッパ」「ラムダ」「ミュー」、時計の「オメガ」など、ギリシャ文字の名前は私たちの日常でもしばしば使われています。「クリスマス」がギリシャ文字を使って Xmas と書かれたりもします。また、数学の記号としては π(パイ、円周率)、θ(シータ)、Σ(シグマ)なども使われています。

しかし、π はギリシャ語では「ピー」と言うなど、日本で唱えられている名称は、本来のギリシャ語の名前と異なることがあります。その理由は、日本での名称は主に英語での呼び方に由来するからなのですが、時にその英語とも違うことがあります。そこで、ギリシャ文字の名前を整理してみることにしました。

それぞれの文字についての詳細やこぼれ話を後の注の中に書きますので御覧下さい。表の中では便宜上、カタカナを使いますが、英語もギリシャ語もカタカナでは表し切れません。特に注意を要するものは * を付けてあります。発音についても注を御覧下さい。

ギリシャ文字

日本式名称

英語名の注

現代ギリシャ語名の注

古典ギリシャ語名の注

Α, α

アルファ

アルファ

アルファ

アルパ

Β, β

ベータ

ベイタ、ビータ

ヴィータ

ベータ

Γ, γ

ガンマ

ガマ

*ガマ

ガンマ

Δ, δ

デルタ

デルタ

*ゼルタ

デルタ

Ε, ε

エプシロン

エプサラン、
エプサイラン

エプスィロン

エプスィーロン、
エイ

Ζ, ζ

ズィータ、ゼータ

ズィータ、ゼイタ

ズィータ

ゼータ

Η, η

イータ、エータ

イータ、エイタ

イータ

エータ

Θ, θ

シータ

*シータ、セイタ

*シータ

てータ

Ι, ι

イオタ

アイオウタ

ヨータ

イオータ

Κ, κ

カッパ

カパ

カパ

カッパ

Λ, λ

ラムダ

ラムダ

*ラムザ

ラムダ

Μ, μ

ミュー

ミュー、ムー

ミー

ミュー

Ν, ν

ニュー

ニュー、ヌー

ニー

ニュー

Ξ, ξ

グザイ、
クシー

ザイ、サイ、
クサイ、グザイ、
クスィー

クスィー

クスィー、クセイ

Ο, ο

オミクロン

オマクラン、
オウマイクラン

オミクロン

オミークロン、
オウ

Π, π

パイ

パイ

ピー

ピー、ペイ

Ρ, ρ

ロー

ロウ

ロー

ロー

Σ, σ*

シグマ

スィグマ

*スィグマ

スィグマ

Τ, τ

タウ

タウ、トー

タフ

タウ

Υ, υ

ユプシロン

ユープサラン、
ユープサイラン

イプスィロン

ユープスィーロン、
ユー

Φ, φ

ファイ

ファイ

フィー

ぴー、ぺイ

Χ, χ

カイ

カイ

ヒー

きー、けイ

Ψ, ψ

プサイ、
プシー

プサイ、サイ

プスィー

プスィー、プセイ

Ω, ω

オメガ

オウミーガ、
オウメイガ、
オウマガ

*オメガ

オーメガ、オー

注意:Σ の小文字は語末では ς、それ意外で σ となります。


日本式名称についての注
日本での名称なので、日本語として発音すればよいようなものですが、一応次のような点にも御留意下さい。

「シグマ」「エプシロン」「ユプシロン」「クシー」「プシー」の「シ」は、英語で言えば ship ではなく sip の / si / に当たります。

Z は「ジータ」と書いてあるのが普通ですが、私はあえて「ズィータ」としました。この「ズィー」は、英語アルファベットの Z のアメリカ英語名「ズィー」と同じです。G や jeans の「ジー」ではありません。

「シータ」の「シー」は英語で言えば thief の /θi: / で、いわゆる舌先を噛むようにして出す音です。日本語の「シー」とも「スィー」とも違いますが、日本語では書き表せません。

「イオタ」「グザイ」「プサイ」は第2音節の「オ」「ザ」「サ」にアクセントを置いてください。アクセントのある音節は多少長くなって「イオータ」「グザーイ」「プサーイ」のようになります。

「ズィータ」「イータ」を「ゼータ」「エータ」としている本もあります。後者は古典ギリシャ語名に倣った名称です。

「グザイ」「プサイ」はギリシャ語式に「クシー」「プシー」としている本もあります。また、大修館書店の「ジーニアス英和辞典」では ψ を「サイ」としています。これは英語式名称の一つです。

Ε,ε は、英語の辞書やワープロを含めて「イプシロン」となっているものがありますが、理解できません。「エプシロン」の方がよいと思います。
   注:面白いことに研究社の「リーダーズ」では文字の名前としては「エプシロン」、星座の中で明るさが5番目の星は「イプシロン」としています。

π は、なぜ「ピー」ではなく「パイ」と言うのかについては、次の「英語式名称についての注」を御覧下さい。

英語式名称についての注
まず、英語式名称の綴りを列挙します。英語式名称はこの綴りの読み方に大きく依存します。

alpha

beta

gamma

delta

epsilon

zeta

eta

theta

iota

kappa

lambda

mu

nu

xi

omicron

pi

rho

sigma

tau

upsilon

phi

chi, khi

psi

omega

 

英語では、音節の終わりにある i の文字は、アクセントを伴えば、 /ai / と読むのが普通ですから、pi ( Π π )、xi ( Ξ ξ )、phi ( Φ φ )、chi, khi ( Χ χ )、psi ( Ψ ψ ) は「ピー」「クシー」「フィー」「キー」「プシー」などではなく、「パイ」「クサイ」「ファイ」「カイ」「プサイ」などと読みます。(Aはなぜ「エイ」と読むのか?を御参照下さい。)
   Omicron ( Ο ο) も i にアクセントを置けば「オウマイクラン」となります。O にアクセントを置く時は、i は弱く曖昧な音になって、「オマクラン」のようになります。
   Epsilon ( Ε ε) も i にアクセントを置けば「エプサイラン」、e にアクセントを置けば「エプサラン」のように発音します。
   Upsilon ( Υ υ) も同様、i にアクセントを置けば「ユープサイラン」、u にアクセントを置けば「ユープサラン」と発音します。

:ここでは英語の発音をカタカナにする際、アクセントのない弱い音である「シュワー( e をひっくり返した記号)」 を「ア行」で表しています。これは「ア」のような「ウ」のような曖昧な音ですから、「オムクルン」と書いても大差ありません。どちらにしても正確な発音をカタカナで書くことは出来ません。「オ」にしっかりアクセントを置いて、「マ、ム」と「ラ、ル」はどちらともつかないように弱く曖昧に発音して下さい。

文字の表に戻る

Iota ( Ι ι ) は o にアクセントを置きます。「アイオウタ」の「オ」を強く発音して下さい。

英語では、音節の終わりにある e の文字は、アクセントを伴えば、/ i: / と読むのが普通ですから、beta ( Β β )、zeta ( Ζ β )、eta ( Η η )、theta ( Θ θ ) は「ビータ」「ズィータ」「イータ」「シータ」となります。Omega ( Ω ω ) も e にアクセントを置けば「オウミーガ」となりますが、mega の発音を保って「オウメガ」と言う人もいます。(「シータ」の「シー」は / θi: / です。)
   一方、古典ギリシャ語に近く、e を / ei / と読む場合もあります。その時は、「ベイタ」「ゼイタ」「エイタ」「セイタ」「オウメイガ」となります。
   Omega は o にアクセントを置いて読むこともあります。そのときは me のところが曖昧になって「マ」のような「ム」のような音になります。表では「オウマガ」と書いておきました。

Gamma ( Γ γ ) と kappa ( Κ κ ) を「ガマ」「カパ」としてあるのは、英語では2重子音は一つの子音として発音されるからです。たとえば hammer(ハンマー)も英語の発音では「ハマ」という感じです。(「ハ」の母音は /æ / ですから、「ヘアマ」のようにも聞こえますが。)同様に、「ランニング runnnig」は「ラニン」、「ランナー runner」は「ラナ」のように聞こえます。日本語では「バター butter」と「バッター batter」は「ッ」で区別されますが、英語では「バ」の母音の違いで区別され、どちらも「バタ」のような感じです。もっとも英語には「促音」という観念はありませんから、「ペパー」も「ペッパー」も pepper に聞こえますが。

Mu ( Μ μ ) と nu ( Ν ν ) は「ミュー」「ニュー」の他に「ムー」「ヌー」という言い方もあります。普通の英語でも、特にアメリカ人には、new を「ヌー」と言ったり、student を「ストゥーダント」と言ったりする人がいます。( music を「ムーズィック」と言う人はいないと思いますが。)

文字の表に戻る

Xi ( Ξ ξ ) の英語名は「ザイ」または「サイ」です。ただし、「サイ」は Ψ, ψ と誤解される可能性もあります。ギリシャ語名に近く「クスィー」、「クサイ」と言う人や、「ザイ」に引かれてか「グ」まで濁って「グザイ」と言う人もいます。

しかし、ふつう英語では [ ks ] や [ gz ] という子音で始まることがありません。Xi という綴りのもっとも 英語らしい読み方は「ザイ」でしょう。英語では x で始まる場合、x を / z / として発音するのが普通だからです。たとえば、おなじみの「ゼロックス」は Xerox と書きますが、これはギリシャ語 ξερος(/ kseros / 乾いた)に由来します。
   その他のギリシャ語起源の英語においても、元の Ξ,ξ は x で書き表わされています。元素の xenon(キセノン)は「異邦の、見知らぬ」という意味のギリシャ語 ξενος(クセノス)に由来しますが、英語では「ズィーナン、ゼナン」と発音します。日本で「シロホン」と呼びフランス語で「クシロフォン」と呼んでいる木琴 xylophone は「ザイラフォウン」です。悪妻として名高いソクラテスの妻クサンティッぺ Xanthippe も英語では「ザンティッピ」と呼ばれます。また、ギリシャ名で「クセルクセス」と呼ばれるアケメネス朝ペルシャの王 Xerxes は英語では「ザークスィーズ」と言われます。

ちなみに、 Ξ ξ とは関係ないと思いますが、フランシスコ・ザビエルの「ザビエル」も英語では Xavier と書いて「ザヴィア」あるいは「ゼイヴィア」と発音します。
   ザビエルはスペイン人ですが、スペイン語では昔、無声の
軟口蓋摩擦音(ドイツ語の Bach の ch のように、喉で呼気を強く摩擦させて出す音)を表すのに x が使われたようです。「ザビエル」は今のスペイン語では Javier と書いて「ハビエル」のように発音します。(スペイン語では vi は bi と同音です。)
   シェリー酒の産地であるスペインの Jerez(ヘレス)も古くは Xeres と書きました。Xeres は英語では「シェリーズ」と発音します。「シェリー酒 sherry 」の語源だそうですが、英語には無声軟口蓋摩擦音がありませんから、「ヘレス / xereθ/」の「ヘ / xe /」が「シェ」と聞こえたのでしょう。

X は X ではありません?
ついでながら、Xmas の X も xi ( Ξ ξ ) とは関係ありません。英語の X でもありません。これはギリシャ文字 X χ(chi)で、「キリスト Christ」のギリシャ語表記、ΧΡΙΣΤΟΣ の頭文字です。ついでながら、日本では X'mas のようにアポストロフィを入れますが、英語では Xmas です。

英語やラテン語の X はギリシャ語の X χ とは関係がないので注意が必要です。ローマ人が / ks / の音を表すのに Ξ,ξ の文字を取り入れていたらこういう混乱は避けられたのでしょうが、実際は / ks / に X を使い、ギリシャ文字の Χ の方は CH で書き表わしたことで、少しややこしいことになりました。
   ( 正確に言うと、昔フェニキア文字などのセム系の文字を元にして作られたギリシャ文字には「東方型」と「西方型」がありました。古典や現代のギリシャ文字に使われているものは「東方型」が元になっていますが、ラテン・アルファベットは「西方型」をエトルリア経由で取り入れたようです。「西方型」ではもともと X を / ks / の音に使い、「東方型」の X が表す「K の帯気音」には Ψ に似た文字を使っていたのです。)

文字の表に戻る

Chi( Χ χ )は「カイ」と呼ばれます。英語でも昔は「キー」という名前でしたが、英語の発音の変化により、現在は「カイ」と呼ばれます。
   Χ の名称をなぜ chi と綴るのか、また、chiropractic は何故「チャイロプラクティク」ではないのか、については古典ギリシャ語の Χ を御覧下さい。


Rho ( Ρ ρ ) は英語では row や roe のように「狭いオー」で / rou / と読みます。Raw のように「広いオー」ではありません。 英語の綴りの中に h が入っている理由についてはギリシャ語の注を御覧下さい。


Tau ( Τ τ ) は「タウ」の他に「トー」と呼ばれることもあります。英語では au の綴りは「広いオー」で発音するのが普通だからです。(発音記号では「開いた O」と呼ばれる「逆さの小文字 c」にコロンを付けたものを使います。)
   たとえば、暴君竜、ティラノザウルス(tyrannosaurus)は英語では「ティラナソーラス」と言います。(注:tyrannosaur の綴り、タイラナソーアの発音もあり)また、sauce、autumn、August、Taurus なども「広いオー」で発音します。(ただし、mauve「藤色」は例外、「狭いオー」で / mouv / と発音してください。)

文字の表に戻る

Psi ( Ψ ψ ) は、英語では「プサイ / psai /」と読むのが普通のようですが、「プシー」とも読みます。アメリカ英語としては「サイ」という読み方もありますが、これでは Xi ( Ξ, ξ )と混乱する可能性もあります。
   ただし、英語としては「サイ」と読むのが一番自然な感じがします。というのは、psychology、pseudonym、psalm などのように、ps で始まる語の p は読まないのが普通だからです。
   Psychology の前半の語源であるプシュケー Ψυχη(ギリシャ神話に出てくる美少女)も英語では Psyche / saiki: / となります。ついでに、「サイケデリック」は psychedelic と書きます。
   また、pseudo- 「偽の」はよく学名に使われますが、学名ではラテン語で読むのが慣例ですから、「プセウド」となります。たとえば、ニセアカシアの学名は Robinia pseudoacacia ですが、この種形容語は「プセウドアカキア」と読みます。(英語式に読めば「シュードアケイシャ」ですが。)
   ついでながら、英語では pn や pt で始まる場合も、p を読まないのが普通です。たとえば、pneumonia(肺炎)は「ニューモウニア」、pteranodon(プテラノドン、翼指竜)は「テラナダン」のように発音します。日本でプトレマイオスと呼んでいるエジプト王、あるいは天動説を唱えた科学者は、英語では Ptolemy と書いて「トレミー」と言います。
   ライチョウを英語では grouse または ptarmigan(ターミガン)と言います。この ptarmigan はゲール語起源で、本来 p はなかったのですが、ギリシャ語の「翼 pteron」の影響でいつのまにか今の綴りになったのだそうです。

文字の表に戻る

ギリシャ語名称についての注
この項では、現代ギリシャ語名と
古典ギリシャ語名についての一般的な注に続いて、個々の文字の説明をします。一般的な注をお読みになってから個々の文字へとお進み下さい。

最初に、文字名称のギリシャ語による綴りを列挙します。

αλφα

βητα

γαμμα

δελτα

εψιλoν

ζητα

ητα

θητα

ιωτα

καππα

λαμβδα

μυ

νυ

ξι

ομικρον

πι

ρω

σιγμα

ταυ

υψιλον

φι

χι

ψι

ωμεγα

注意:実際には、古典の場合、これに3種類のアクセント記号と2種類の気息記号が付きます。現代ギリシャ語でも長らく同様の記号を付けていましたが、現在では気息記号は付けず、アクセントも1種類だけに簡略化されています。詳しくは参考書を御覧下さい。

現代ギリシャ語名称についての注
注:「エクスプレス現代ギリシャ語」のカタカナ表記では Β β(ヴィタ)、Ζ ζ(ズィタ)、Η η(イタ)、Θ θ(シタ)、Ι ι(イョタ)、Μ μ(ミ)、Ν ν(ニ)、Ξ ξ(クシ)、Π π(ピ)、Ρ ρ(ロ)、Φ φ(フィ)、Χ χ(ヒ)、Ψ ψ(プシ)となっているものを、私は上の表のようにしました。これは慣用と発音の便宜を考慮したためです。
   というのは、アクセントのある母音は多少長く発音されますので、「ヴィータ」「ズィータ」などと書いても間違えではなく、また、「クシ」「プシ」と書いてあると、間違って「ク」や「プ」にアクセントを置き、「クーシ」「プーシ」と読んでしまう恐れもあるからです。アクセントはもちろん / ksi / や / psi / の母音 / i / の上にあります。
   現代ギリシャ語では英語と同じく、母音の長短は意味の区別に関係ありません。ギリシャ人や英米人には「おじさん」も「おじいさん」も同じように聞こえるはずです。

文字の表に戻る

古典ギリシャ語名称について
ギリシャ文字は
フェニキア文字ないし北セム系統の文字に由来し、文字の名称もそれらにおける名称に則っています。セム系言語であるヘブライ語の文字の名称とも多くが一致します。
   :言語そのものについて言えばギリシャ語とフェニキア語とはまったく系統の異なる言語です。ギリシャ語はラテン語、フランス語、ドイツ語、英語、サンスクリット、ヒンディー語などとともにインド・ヨーロッパ語族というグループに属すのに対し、フェニキア語はヘブライ語、アラム語、アラビア語、アッカド語などとともにセム語族の一つです。

フェニキア文字の名称はアクロフォニ(acrophony)の原則によって(「ア」は「アメンボウ」、「イ」は「いちご」というふうに)付けられており、フェニキア人たちにとっては意味のある言葉でした。その意味の多くは今もヘブライ語やアラビア語で理解できます。
   しかし、ギリシャ人にとってそれらは意味のない言葉であり、文字を同じ音価で受け入れた場合は名称もそのまま受け入れましたが、音価を変えて取り入れた時は名前も音を示すだけの単純な名前に替えました。
   フェニキア文字の「アレフ」「ベート」など、その音で始まる言葉をその文字の名前としたものを acrophonic names と言うのに対し、「アー」「ベー」など単にその音を示すだけの名前を phonetic names と言います。

ギリシャ文字はフェニキア文字のアクロフォニーの原理を踏襲していますので、名称の最初の音がその文字の音価を表し、この点においてラテン語や英語における名称と異なります。たとえば、L、M、N はギリシャ語で「ラムダ」「ミュー」「ニュー」であるに対し、ラテン語では「エル」「エム」「エヌ」です。
   ところで、なぜ、ラテン・アルファベットでは「エル」「エム」「エヌ」などで e が前にあり、B(ベー)C(ケー)D(デー)では e が後にあるのか、不思議ではありませんか。これについては「B はなぜエブでないのか」を御覧下さい。

昔の名前
Ε、Ξ、Ο、Υ、Φ、Χ、Ψ、Ω の8文字について、現在はふつうビザンチン時代の名称(文字の表、各欄の最初の方)が使われていますが、古典時代には各欄の後の方の名前で呼ばれていました。これは単純に発音に基づく名前です。
   これらはギリシャ人が新たに作り出したか、音価を変えて取り入れた文字です。そして、母音はその発音のままに、また子音は Π のセム語名称「ペー」に倣い、単純に「狭い長音エー」を付けて「クセー」「ぺー」「けー」「プセー」と呼んだのです。
   表には「ギリシャ語四週間」その他の記載の通りに「エイ」「クセイ」「ペイ」「ぺイ」「けイ」「プセイ」と書いておきましたが、これらの母音は必ずしも二重母音 [ei] ではなかったと思います。というのは古典時代にすでに「狭い長音エー [e:]」は二重母音 [ei] と区別なく ει と書かれ、本来の二重母音 ει も「狭い長音エー」で [e:] と発音される傾向があったからです。

「クセイ」「ペイ」「ぺイ」「けイ」「プセイ」は更に変化して「クスィー」「ピー」「ぴー」「キー」「プスィー」となりました。これは母音 Ι、 Η、Υ、及び二重母音 ΕΙ、ΟΙ、ΥΙ をすべて「イオータ」のように [i, i:] と発音しようとするギリシャ語の傾向( iotacism イオタ化)のためです。
   「イオタ化」はギリシャ語では ιωτακισμος(イオータキスモス、「モ」にアクセント)、英語では iotacism(アイオウタスィズム、「オウ」にアクセント)と言います。

注意:古典時代には大文字しかありませんでした。現在の大文字、小文字の使い分けは大体ビザンチン時代の習慣に基づくものです。

文字の表に戻る

Α, α  (αλφα)
現代ギリシャ語では「アルファ」と読みます。「ファ」は英語と同じ [ f ] で発音します。古典ギリシャ語の名称は「アルパ」と書いておきましたが、「パ」の子音
Φ,φ は P の帯気音で、息を強く吐き出しながら発音します。初心者向けの本には「アルぱ」「アルパハ」「アルプハ」などと書いてあものもあります。(ただし「ハ」は小さい文字)

この文字の元となったフェニキア文字の第1字は「アレフ」と言い、セム系統の言語では「去勢した雄牛(英語の ox)」を意味します。A の横棒を左右に伸ばして、全体をひっくり返すと雄牛の頭に見えなくもありません。ただし、フェニキア文字が絵文字から始まったと考えるのは通説ではないようです。
   ヘブライ語でも第1字は「アレフ」と言い、アラビア語では「アリフ」です。どれも母音の / a / ではなく、「ア」の前にある声門閉鎖音という子音を表しています。日本語にはない音なので、私たちにはふつう聞き取れません。ギリシャ人にとっても不必要な音だったので、この文字は母音 / a / として利用されました。(AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。)

文字の表に戻る

Β β  (βητα)
古典では「ベータ」ですが、現代ギリシャ語では「ヴィータ」と呼びます。古典では [ b ] の音でしたが、いつしか [ v ] に変わりました。ちなみに、ロシア文字でも B, вは [ v ] を表します。
   Η, η は、古典では「広く長いエー」でしたが、現代ギリシャ語では Ι, ι と同じ音になりました。

注:現代ギリシャ語では Η, η、Ι, ι、Υ, υ がどれも「イ」と発音されます。(ついでに、二重母音の ει、οι、υι も「イ」になります。)そこで、η ταζηταβηταθητα は「イータ」「ズィータ」「ヴィータ」「シータ」に、μυνυ は「ミュー」「ニュー」ではなく「ミー」「ニー」に、また、υψιλον は「ユプスィロン」ではなく「イプスィロン」になります。(イオタ化を参照)(注:Ζ, ζ、Θ, θ の子音についてはそれぞれの項を御覧下さい。)

フェニキア文字の第2字は「ベートゥ」と言い、「家」を意味しています。ちなみに、キリスト生誕の地ベツレヘムはヘブライ語で「パンの家」と解釈できます。
   この文字は第20字「レーシュ」(ギリシャ文字の「ロー、P」)と似た形で紛らわしかったので、ギリシャ人は三角の出っ張りをもう一つ付けました。この出っ張りは現在と逆に文字の左側にあったのですが、やがて鏡文字のように裏返しになりました。

文字の向きは行の進む方向と結びついています。古代エジプトの聖刻文字では、人や動物の顔が右を向いていれば右から左へ、左を向いていれば左から右へと読みますが、人や動物以外の文字もすべて読む方向によって左右が反対になります。
   始めギリシャ語も、フェニキア語などのセム系の言語と同じく、右から左へと進むように書かれていましたので、文字も、左右対称な H、M、O、T、などを除き、今とは逆の鏡文字でした。やがて一行ごとに向きを変える犂耕式が行われるようになり、文字もそのたびに裏返りましたが、最後には現代ギリシャ語や英語などと同じく左から右へと書かれるようになって、文字も今の形に落ち着きました。

文字の表に戻る

Γ γ  (γαμμα)
古典ギリシャ語では「ガンマ」という名称ですが、現代ギリシャ語では「ガマ」のようになります。古典では γαμμα ( Gamma ) の μμ ( mm ) を2拍分の長さに発音しますが、現代ギリシャ語では、
英語と同様、二重子音を一つの子音と見なして発音します。もし古代ギリシャ人が hammer を発音したら日本語のように「ハンマー」になり、 swimming も「スウィンミング」となることでしょう。

古典ギリシャ語ではいわゆる「ガ行」の子音でしたが、現代ギリシャ語では以下に説明する「有声軟口蓋摩擦音」または「有声硬口蓋摩擦音」を表します。つまり、現代ギリシャ語の「ガ」は日本語の「ガーデン」や、英語の garden などの「ガ」とは異なるのです。

後ろに / a , o , u / の母音が続くとき
ふつう、日本語や英語の「ガ」あるいは / ga / は、舌の奥がぐっと盛り上がって軟口蓋(口の天井の奥の方)にくっつき、それがパッと破裂するように離れる時に発音されます。鏡を見ながらゆっくりやってみて下さい。
   しかし、現代ギリシャ語の Γ, γ を発音する場合、後舌が盛り上がるところまでは同じですが、軟口蓋には近付くだけで、決してくっつきません。盛り上がった舌と軟口蓋との間の狭い隙間を通る空気の摩擦で、この子音が出ます。ですから、日本語や英語の / g / が破裂音あるいは閉鎖音と呼ばれるのに対して、この子音は摩擦音と言います。現代ギリシャ語ではスィグマ(σιγμα)の「グ」やオメガ(ωμεγα)の「ガ」の子音 γ も同じくこの音です。
   この子音は、音声学では「有声軟口蓋摩擦音」と呼び、発音記号では γ をまっすぐ立たせて左右対称にしたようなものを使います。記号の名前は gamma(ガンマ)です。これはドイツ語 Bach の ch や スペイン語 Japon(ハポン、日本)の j を表す [ x ] に対する有声音ですから、同じように息を出しながら、同時に声帯を震わせ「アー」と声を添えれば出ます。フランス語の r も近い音になることがよくあります。この音はアラビア語やアイルランド語、ベトナム語などでも使われます。

実は、日本語でもこれに近い音を使っている人はたくさんいます。母音に挟まれた / g / を鼻濁音にしない人は、実はこの γ の音を使っていることが多いのです。
   私は鼻濁音を使いますので、「ありがとう」や「しょうがっこう」の「が」は鼻に抜ける濁音になりますが、最近、特に若い人に、この「が」を「がいこく」や「がっこう」など語頭の「が」と同じに発音する人が目立ちます。でもよく聞いてみると、後舌と軟口蓋の閉鎖がちゃんと行われずに、現代ギリシャ語の γ のように「摩擦音」になっている場合が多いようです。
   鼻濁音をふつうに使う人でも、「はなよめがっこう」など完全には熟語化していない語や、数字の「五」などは鼻濁音になりません。「さんじゅうご」などと言う時は、私もこの「有声軟口蓋摩擦音」を使っているかもしれません。

後ろに / i , e / の母音が続くとき
「ヤ行」の子音あるいは、英語の yes や yeast の子音 / j / とだいたい同じですが、厳密には、前舌と硬口蓋(口の天井の前の部分)との隙間を息が通るときに / j / よりも強く空気の摩擦が起きます。専門的には、j の下部を筆記体のようにカールさせた記号を用い、「有声硬口蓋摩擦音」と呼んで、/ j / (有声硬口蓋接近音)と区別します。
   簡単に言うと、たとえば「イェ」と言う時に舌の前部をかなり広い範囲で硬口蓋に近付けて(くっつけてはいけませんが)、ほんのちょっとだけ「ジェ」のような響きを加えます。余り摩擦を強くすると、フランス語の「ジェ」になってしまいますから御注意。
   日本語にはヤ行の「イ」がありませんから、日本人には母音 / i / が続く場合が難しいかもしれません。英語には、ear と year、east と yeast の区別がありますが、ちゃんと区別できる日本人は少ないでしょう。ふつうの母音「イ」を発音する時は舌の前部が上がって硬口蓋(口の天井の前部)に近付きますが、これを更に広い範囲で近付けて空気の抵抗を感ずるようにすると / j / の音が出ます。最初の内は初めに「ユ」を添えるような気持ちで、たとえば /ji:st /(酵母)なら「ュイースト」のように発音してみると感じが分かるかもしれません。ギリシャ語の γι や γυ などは、簡単に言えばこの「ヤ行のイ」なのですが、英語より摩擦が強く「ジ」や「ギ」のようにも聞こえます。

硬口蓋化(または硬口蓋音化)
母音 / i , e / に影響されて前の子音が変化することを硬口蓋化と言いますが、これはギリシャ語の γ に限らず、英語やフランス語、イタリア語などの g や c でもおなじみです。たとえば英語では、gas や god に対し ginger や gentle、cat や cold に対し city や center など。アイルランド語では gh あるいはdh という綴りがギリシャ語の γ と同じように発音されます。たとえば、dha dhoras(ガ・ゴラス、2つのドア)と dha dheoch(ガ・ユッホ、2つの飲み物)など。(参照:
Χχ の硬口蓋化

C の起源
Γ の元になった
フェニキア文字 の第3字は「ギーメル」といい「ラクダ camel 」を意味しています。
   ローマ人はこの文字を C として取り入れました。Γ を左に45°回転させて丸みをつければ C になります。ただし、ラテン語では C は「ケー」という名前で、[ k ] を表します。

G の誕生:なぜガイウスが C なのか?
ラテン語でも始めのうち C は [ g ] を表していたようですが、何と、そのうち [ k ] をも C で表すようになり、K の文字はあまり使わなくなってしまいました。
   これにはエトルリアの影響があったようです。エトルリアはローマに先行する先進国で、ローマ人はこのエトルリアを通してギリシャ文字を知るようになったのですが、エトルリア語には、ギリシャ語やラテン語と異なり、破裂音に有声・無声の対立がありませんでした。つまり、k と g、p と b、t と d の区別がありません。簡単に言えば「カ」と言おうが「ガ」と言おうがエトルリア人には変りがなかったのです。やがて、エトルリア文字からは B と D が消えました。また、C をもっぱら[ k ] に使っていたために、やがて K も無くなりました。
   そんなエトルリア語の影響で、ローマ人は紀元前3世紀頃には C を [ g ] と [ k ] の両方に使っていました。後になってもそのなごりは、Gaius Iulius Caesar(ガイウス・ユリウス・カエサル)の Gaius を C. と記すなど、人名の略号に見られます。
   しかし、やはりこれはラテン語を書き表わすには不便だったのでしょう、やがて C に棒を加えて G を作り、その頃すでに要らなくなっていた Z の位置(7番目)に置きました。これで、晴れて C は [ k ] のみを表す文字となったのです。(後でまた Z が必要になった時にはすでに元の場所はなく、最後に置かれることになりました。
Z ζ 参照

C の文字で / k / の音を表すという習慣はラテン語の子孫であるフランス語、イタリア語、スペイン語などのみならず、ゲルマン系の英語にも受け継がれており、ドイツ語などと対照をなしています。

文字の表に戻る

Δ δδελτα
古典ギリシャ語では「デルタ」と呼び、[ d ] を表します。ナイル・デルタやメコン・デルタなど、河口の三角州を「デルタ」と呼ぶのはこの文字の形に由来します。
   現代ギリシャ語の名称は「ゼルタ」としておきましたが、この「ゼ」の子音は、舌の先を上の歯の先端に当てて、あるいは上下の歯の間に挟み、吐く息を摩擦させることで出します。つまり、現代ギリシャ語の Δ, δ は [ d ] ではなく、英語の this や that に使われる th の音なのです。(
発音記号 eth を参照)

フェニキア文字第4字に見るように、これに当たるセム文字はちょっと歪んで傾いた三角形ですが、斜辺の一つが延長されることもあって第2字「ベートゥ」や第20字「レーシュ」と紛らわしくなっています。ギリシャ人はこの延長を取り除き、すっきりした三角形にしました。
   一般に、フェニキア文字に比べてギリシャ文字は整った形になっていますね。これはやはり、幾何学を尊び、均整美を重んじたギリシャ人の民族性によるのでしょうか。
   西型のアルファベットでは、左に45°回転し、三角旗のようになっています。ローマ人はこの右に出っ張った部分を丸めて D を作りました

名前もお好みで変わります
ところで、この第4字までの名前を英語の綴りで並べてみると、alpha、beta、gamma、delta となりますが、対応するフェニキア文字の名前 aleph、beth、gimel、daleth と比べてみると面白いことが分かります。
   ギリシャ文字の方はすべて -a という母音で終わっていますが、フェニキア文字のほうは子音で終わっています。しかも、alpha と delta を見ると、フェニキア文字では語尾の子音の前に母音があったのが、ギリシャ文字ではそれが無くなっています。( t と th の違いはちょっと脇へ置いて下さい。)
   gamma の場合も、gimel がまず gimla になったと仮定すれば、同じ変化の後に l が m に同化して gamma が出来たと考えることができます。beta の場合は e が残っていますが、この母音を取ると bta になってしまうので、これは仕方がないでしょう。
   ギリシャ語は語が子音で終わることを嫌うのだそうです。(ただし、-n、-r、-s は除く。)だから、ギリシャ人が語尾に -a を加えたということは十分想像できます。
   ただし、ギリシャ語名はアラム語名に由来するという説もあります。アラム語は母音で終わり、しかも、先行する音節の母音を落とした形を、強勢形として好んで使ったのだそうです。(アラム語はフェニキア語やヘブライ語と同じくセム語に属し、キリストも話していた言葉です。)

文字の表に戻る

Ε εεψιλoν
現代ギリシャ語では「エ」にアクセントを置いて「エプスィロン」と呼び、母音「エ」を表します。
   古典ギリシャ語では「エ」と「ロ」にアクセントを置いて「エ・プスィーロン」と呼びます。ただしこれはビザンチン時代以降の名称で、古典時代は発音の通り「エー」でした。狭く短い「エ」、時に狭く長い「エー」を表します。「プスィーロン ψιλον」は「単純な」という意味です。αι や ει という綴りも狭い「エ」を表すようになったために、これらと区別して「単純なエ」と呼ぶようになったのです。

フェニキア文字などのセム系の文字には母音を表す文字がありませんので、ギリシャ人は自分たちに不必要な文字を母音に転用しました。Ε の元となったのは、フェニキア文字で言えば第5字「ヘー」ですが、これは h の一種を表す文字でした。(AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。)

文字の表に戻る

Ζ ζζητα
現代ギリシャ語では「ズィータ」と呼び、[ z ] を表します。カタカナでは「ジータ」と書かれることが多いですが、日本語の「ジー」ではなく、英語アルファベット Z のアメリカ式名称 Zee の [ zi: ] で発音して下さい。
   古典ギリシャ語では「ゼータ」と呼びます。現代ギリシャ語とは異なり、おそらく [ zd ] か [ dz ] だったろうと考えられています。

もし [ zd ] を表していたとすれば、古典時代のギリシャ人は Ζ を [ zdε:ta ] のように呼んでいたことになります。カタカナでは「ズデータ」ということになりますが、日本語では「ズ」に母音が入ってしまい正確ではありません。 [ zd ] はほとんど一音のように同時に発音されます。
   [ zd ] という重子音は、英語の場合、wisdom の -sd- の部分や、surprised などの語尾、has done などの音の連続の中に見られますが、語頭に表れることはありません。ロシア語やイタリア語には [ zd ] で始まる語があります。たとえば、イタリア語では「歯が抜けている」という形容詞で sdentato(ズデンタート)という語があります。ちなみに、アリクイやナマケモノなどの貧歯類の動物たちを sdentati と言います。

逆に、[ dz ] の方は日本語でもよく使われている音です。「ざんねん」とか「ぜんたい」とかのように、語頭にある「ザ、ズ、ゼ、ゾ」の子音は [ dz ] になるのが普通だからです。(注:「かざり」とか「かぜ」のように母音に挟まれた時は [ z ] になります。)
   英語では [ dz ] が語頭に表れることはありません。たとえば、動物園 zoo を日本人が発音すると、[ zu: ] になるべきところが [ dzu: ] になってしまいがちですから注意が必要です。
   日本語では [ dz ] と [ z ] の区別がありませんから、「ざんねん」の「ざ」と「かざり」の「ざ」は同じだと思っている方が多いと思います。一方、英語にはこの区別がありますので、たとえば、cards と cars の発音には特に注意する必要があります。要は、舌先を歯茎に付けてから言えば [ dz ]、全く付けないで発音すれば [ z ] です。

Z が6番目にあるわけ
   Z は
フェニキア文字の第7字「ザイン」に対応しますが、ギリシャ文字では、フェニキア文字第6字の「ワーウ」が使われなくなったため、 Z が第6字に繰り上がりました。
   フェニキア文字では「上下に横棒のある大文字の I 」あるいは漢字の「工」のような形をしています。ギリシャ文字はこれを一筆書きに書いたことから出来たと思われます。まず上の横棒を左から右に引き、続けて縦の棒、筆を話さず下の横棒と、書こうとすればおのずから Z になるのがお分かりになるでしょう。

ところで、私たちになじみのラテン・アルファベットでは Z が最後にありますが、これはなぜでしょう。
   Γ のところで、簡単に書きましたが、始めはラテン語のアルファベットでも、セム文字と同じく第7番目にあったのです。(ラテン・アルファベットでは第6字に「ワーウ」から作られた F が残っています。
F、V、U、W、Y は兄弟!参照)
   ところが、ラテン語では紀元前450年から350年の間に [ z ] の音が [ r ] に変わってしまい Z が要らなくなってしまいました。そこで、紀元前4〜3世紀に G の文字が作られた時、その位置を明け渡すことになったのです。そして、紀元前1世紀、ギリシャ語を正確に写す必要から再び Z が取り入れられた時には、列の後尾しか行き場所がなかったという訳です。

ついでながら、[ s ] の音が [ z ] を経由して [ r ] の音に変化することを「ロータシズム rhotacism」と言います。ラテン語では S が母音に挟まれると R(ギリシャ文字では P、ロー)に変わります。たとえば、flos(フロース、花)、opus(オプス、作品)は複数形で flores(フローレース)、opera(オペラ)となります。英語の is と are、was と were、raise と rear(立てる、頭をもたげる)などにおける S と R の交替もロータシズムの結果だそうです。
   ついでながら、「歌劇」の opera は opus の複数形です。クラシック音楽で作品番号を付けるのに opus が使われていますが、英語では「オウパス」のように発音します。
   更についでながら、アメリカ英語では母音に挟まれた / t / が / d / に変わり、さらに日本語の「ら行」の子音に近くなることがあります。「シャラップ Shut up 」は良く知られていると思いますが、「シャダップ」のように言われることもあります。また、「手紙」が「レらー」になったり、writing と riding がともに「ライりング」のように発音されることもあります。この「ら行」はイギリス英語の母音間の r(very の r など)に近いです。

文字の表に戻る

Η ηητα
古典では「エータ」と呼びます。常に「広く長いエ」を表し、発音記号では [ e: ] ではなく [ ε: ] です。「狭いエ」を表す Ε, ε と対照をなしますが、発音記号に ε が使われているのは皮肉なことですね。やがて
イオタ化によって Ι, ι と同じ音になり、現代ギリシャ語では「イータ」と呼ばれます。

これに対するフェニキア文字 第8字は「ヘートゥ」と呼ばれ、漢字の「日」のような形をしていますが、ギリシャ文字ではこの上下の横棒が無くなりました。セム語ではドイツ語の Bach の ch のような喉音の一種を表していましたが、ギリシャ人には不必要な音だったので、これを母音に転用しました。 (AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。)

オー H よ、H、どうしてあなたは H なの?
ギリシャでも西部の方言では、比較的長く [ h ] の音を保っていました。ローマに導入されたのは西型のアルファベットでしたので、「へートゥ」も [ h ] に近い喉音として伝わり、ローマ人 の必要とも合致して、ラテン・アルファベットでは、H が [ h ] を表すことになりました。

ついでながら、ロシア語では H は「エヌ」と呼ばれ [ n ] を表しますが、これはギリシャ文字 N(ニュー)が変形されたものです。一方、ギリシャ文字 H(エータ)はロシア語では母音 И(イー)に変形されました。

もう一つついでに、ラテン・アルファベット小文字の h とギリシャ・アルファベット小文字の η は共に、H を一筆書きに書こうとした結果だそうです。右側の上縦棒が無くなってしまったのが珠に疵ですが。


Θ θ θητα
現代ギリシャ語名は「シータ」と書いておきましたが、日本語の「シ」で発音してはギリシャ語になりません。最初の子音は英語の think や three に使われる清音の th です。この子音を表す
発音記号にも小文字の θ を使います。(実際はもっとまっすぐ立った左右対称の形をつかいますが。)
   古典ギリシャ語 は「てータ」と書いておきましたが、この「て」は帯気音です。強く息を吐き出しながら「て」と言って下さい。入門書では「テヘータ」などと小さく「ヘ」を添えてあることもあります。

ローマ人はこれを TH で翻字しました。たとえば、theatrum(テアートルム、劇場)、thema(テマ、主題)、theoria(テオーリア、理論)などはギリシャ語起源の言葉で、元のギリシャ語には Θ θ が使われていました。たとえば、古典ギリシャ語では「劇場」を θεατρον と書き「テアートロン」のように言います。(「テ」にアクセント)
   ただし、ラテン語には帯気音と無気音の区別がありませんから、ほとんどのローマ人はこの th を普通の t と同じように発音していただろうと思います。

上の語は theater、theme、theory として英語に入っています。英語ではこの th が「歯摩擦音」の / θ / を表すようになりましたので、舌先を上の歯の先端に当てて「スィアター、スィーム、スィアリ(すべて「スィ」にアクセント)」のように発音します。

本場のギリシャでも Θ θ はやがて / θ / を表すようになりましたので、現代ギリシャ語では「劇場」を θεατρο と書いて「セアトロ / θeatro / のように読みます。また、「主題」は θεμα(セマ)、「理論」は θεωρια(セオリア、「リ」にアクセント)のように言います。

日本語の「テーマ」はドイツ語から入ったようですが、ドイツ語では「劇場」「主題」「理論」を Theater、Thema、 Theorie と書いて、「テアーター、テーマ、テオリー(「リ」にアクセント)」のように発音します。
   ついでながら、フランス語では、それぞれ théâtre(テアートル)、thème(テーム)、théorie(テオリー)となります。フランス語やドイツ語にも帯気音・無気音の区別がありませんから、これらの th の発音は t と全く変わりません。
   ちなみに、イタリア語やスペイン語ではもう一歩進んで、綴りの上でも h を取り去ってしまいました。イタリア語では、それぞれ teatro(テアートロ)、tèma(テーマ)、teorìa(テオリーア)と言います。

文字の表に戻る

Ι ιιωτα
古典ギリシャ語では「イオータ」と呼びます。現代ギリシャ語の本にも「イオータ」と書いてあることが多いですが、最初の「イ」はほとんど子音化して「ヤ、ユ、ヨ」の子音 / j / になっていますから、発音上は「ヨータ」の方が近いと思います。

フェニキア文字第10字の「ヨード」を利用して作られました。(AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。)
   ギリシャ人が独自に作り出した文字は、昔の名前で書いたように、その音価の通りに呼ばれるのが普通ですが、この文字の場合、音価のままの「イー」ではなく「イオータ」となっています。セム文字の名前が「ヨード」ですから、それが少し訛っただけとも言えますが、先立つ文字「ゼータ、エータ、テータ」の影響もあるのではないでしょうか。

文字の表に戻る

Κ κκαππα
古典ギリシャ語の名称は「カッパ」です。
Γの項で書きましたように、古典ギリシャ語では二重子音は2拍分の長さがあります。それに対して、現代ギリシャ語名は「カパ」です。Γ の場合と同様、二重子音は一つの子音として発音されます。ただし「カッパ」と言っても通じないわけではありません。そもそも「促音」という観念や二重子音を二重に発音するという習慣がないのですから。(英語名の項を参照)
   フェニキア文字第11 字の「カプ kaph」に由来します。私の用意した表にはフェニキア名 kaf とありますが、本来は P の有気音だったと思われます。

文字の表に戻る

Λ λλαμβδα
ラテン・アルファベットの L と同じく [ l ] を表し、古典ギリシャ語では「ラムダ」と呼びます。現代ギリシャ語名は「ラムザ」と書いておきましたが、この「ザ」は this や that の子音で発音します。(
Δ δ 参照)
   フェニキア文字第12 字の「ラーメド lamed」に由来しますが、ギリシャ語や英語の綴り(λαμβδα、lambda)には黙字の β あるいは b が入っています。なぜかは分かりません。私の推測ですが、フェニキア文字の aleph、beth、gimel、daleth が alpha、beta、gamma、delta となったのと同様に lamed が lam-da となる際に、m で口を閉じた状態がまだ続いている間に d のための破裂が始まったために両唇破裂音の b が出、それが表記に表れたということではないでしょうか。もちろん、この推測によれば始めは b も発音されていたことになります。

文字の表に戻る

Μ μ  (μυ)
Ν ν  (νυ)

古典ギリシャ語名は「ミュー」「ニュー」ですが、この発音は英語の mew、new とは異なります。 古典ギリシャ語の υ が表す音は / ju / ではなく / y / です。唇を丸く突き出して「イ」を発音すればこの音が出ます。
   現代ギリシャ語では υ が / i / の音に変わったため「ミー」「ニー」となります。

文字の表に戻る

Ξ ξξι
古典でも現代ギリシャ語でも / ksi: / と読みます。カタカナでは「クスィー」と書いてありますが、「ク」のところには母音がありませんから、ここにアクセントを置いてはいけません。「スィー」を強く読んで下さい。
   Ξ, ξ はラテン・アルファベットの X に対応し、/ ks / という二重子音を表します。英語の taxi をギリシャ文字で転記すれば、ταξι となります。Accent も αξεντ と短く書けます。ただし exact の x のように有声化して / gz / になることはありません。
   語頭でも、あくまでも / ks / の音です。古代ペルシャの王「クセルクセス」は英語では Xerxes と書いて「ザークスィーズ」のように読みますが、ギリシャ語では Ξερξης と書いて「クセルクセース」と読みます。(アクセントは第1音節の「セ」にあります。)(
Ξ, ξ の英語名を参照)

文字の表に戻る

O οομικρον
現代ギリシャ語では「オ」にアクセントをおいて「オミクロン」と呼ばれ、母音「オ」を表します。古典ギリシャ語では「オ」と「ロ」にアクセントをおいて「オ・ミークロン」と呼ばれ、「狭く短いオ」を表します。始めは単に「オー」と呼ばれていましたが、後、「広いオー」を表すために新たに作られた
Ω(オーメガ)と区別するために、「オミークロン」と呼ばれるようになりました。「ミークロン」は「小さい」、「メガ」は「大きい」、という意味です。:発音記号では「狭いオ」は [ o ] で、「広いオ( open O )」は c をひっくり返した記号で表します。(AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。)

注:O は始め「短く狭いオ」の他、「長く狭いオー」と「長く広いオー」を表していましたが、やがて「長く狭いオー」が [ u: ] に変化して、別に [ ou ] から変化して[ u: ] となっていた oυ に吸収され、一方「長く広いオー」が Ω で表されるようになった結果、常に「短く狭いオ」だけを表すことになりました。いっぽう Ω は常に「広い長音オー」を表します。:現代ギリシャ語ではどちらも区別なく「広いオ」を表します。

文字の表に戻る

Π ππι
古典でも現代ギリシャ語でも、英語の P と同じく「ピー」と読みます。始めはフェニキア文字の名と同じく「ペー」と呼ばれていたのですが、後にイオタ化(
iotacism)の結果「ピー」となりました。
   英語にも始めは「ピー」として伝えられたはずですが、大母音推移の結果「パイ」と発音されるようになりました。一方、英語の P は「ピー」ですが、これはラテン語の名称「ペー」が英語の中で変化した結果です。もし、P が「ピー」として英語に入っていたら、今頃はやはり「パイ」と呼ばれていたことでしょう。

Π も P もフェニキア文字、あるいは北セム系統の文字に由来します。Π にあたるフェニキア文字は第17字の「ペー」です。この文字はぞんざいに書くと第20字「レーシュ」や第2字「ベートゥ」と紛らわしく、角ばって書けば Γ(ガンマ)と間違いやすいため、東方のギリシャ人は「杖の柄」のような部分を下まで伸ばし左右対称に整えて Π を作り出し、これがギリシャ語の標準となりました。また、西方のギリシャ人はこの「柄」をぐっと丸めて P に変形しました。ローマ人に伝えられたのはこの形です。

セム語の「ぺー」は「口」という意味です。ついでながら、現代ヘブライ語でも「口」を「ペー」と言いますが、面白いことに、「耳と口」と言う時は、「オゼン・ウ・フェー」のように「ペー」が「フェー」に変わります。「そして」に当たる「ウ」の後では [ p ] が [ f ] に変わることになっているのです。
   私たち日本人にとって「ぺ」と「フェ」は大違いのように思えます。「ペアルック」が「フェアルック」になったら何だろうと思いますし、「フェアプレー」も「ペアプレー」と言ったら違うものになります。英語でも pair と fair、pail と fail など [ p ] と [ f ] では大違いです。
   現代ヘブライ語では、 [ p ] と [ f ] の違いは語の識別には利用されず、どちらを使うかは環境によって決定される(言い換えれば、同じ環境に両者が表れることはない)ということになります。
   ちなみに、 [ p ] と [ f ] を表すヘブライ文字は基本的に同じです。カタカナの「コ」の上のひさしがぐっと内側に曲がったような形の真ん中に・(点)があれば P、なければ F です。

文字の表に戻る

Ρ ρρω
古典名も現代ギリシャ語名もカタカナで書けば「ロー」になります。現代ギリシャ語ではイギリス英語の very の r のような軽い巻舌の r です。古典については後の説明を御覧下さい。
   元になったセム文字は、
フェニキア文字では第20字「レーシュ」で、「頭」を意味しています。(ヘブライ語では「頭」を「ローシュ」と言います。)
   P はロシア文字(キリル文字)に入って P(エル / er / )となりました。昔、オリンピックなどで「ソ連」の選手などの胸に CCCP と書かれていましたが、これは「ソビエト社会主義共和国連邦」を表す頭字語で、「エスエスエスエル」と読みます。
   また、Πの項に書きましたように、西方ギリシャ文字では「ぺー」を P に変形させていたために、それと区別して「ロー」の丸い出っ張りの下に短い線を加えました。更に、ラテン・アルファベットではそれが伸ばされて R が出来ました。ラテン語の R の名前はロシア語と同じ「エル」です。

無声音の R
古典ギリシャ語では語頭の P, ρ は巻舌の無声帯気音だったようです。その証拠に、(というか、その結果、というか、)語頭の P, ρ は常に有気の気息記号(呼気を表す記号)を伴って書かれます。

注:気息記号には有気と無気とがあり、無気息記号は「おだやかな呼気を伴うこと」、有気息記号は「強い呼気を伴うこと」を表します。古典ギリシャ語では、語頭の母音には必ずどちらかの気息記号が付きますが、無気であれば母音そのまま、有気であれば [ h ] の子音を伴い所謂「ハ行」であることを意味します。
   無気の気息記号はアポストロフィー(’)と同形で、有気の気息記号はその鏡文字(逆さ文字では有りません、念のため)で表されます。これは H の文字を左右に割った形に由来すると考えられています。左半分の「ト」のような部分が有気、その反対が無気です。

私たちになじみの R はたいてい有声音ですから、無声音の R というのは想像しにくいかと思います。英語の R はもちろん有声音ですし、スペイン語やイタリア語の巻舌の R も有声音です。「べらんめえ、こちとら江戸っ子でえ。」というときの R も有声音です。
   無声音の R を発音するには、声を出さずに、息だけを強く吐き出しながら巻舌の要領で舌を震わせて下さい。

ついでながら、無声音の L というのもあります。Lhasa というアプリケーション・プログラムがありますが、これはチベットの首都ラサの名前でもあります。チベット語で発音する時はこの「ラ lha」に無声音の L を使います。舌先を歯茎に付けて、声を出さずに強く息を吐いて下さい。舌の両脇を息が流れて摩擦が起きます。これが無声音の L です。(蛇足ながら、英語などの有声音の L のときは同じ構えで「ウー」とうなるように声を出します。)

もう一つ、ついでながら、ウェールズ語にも無声音の L があります。有名な保険会社ロイドの Lloyd などの LL がそれです。ウェールズには Llan で始まる地名が多いですが、これは「教会」を意味します。英語では普通の L のように「ラン」と読みますが、現地の人が言うのを聞くと「ヒャン」か「シャン」のように聞こえます。私には中国語の反り舌の sh のように聞こえました。
   ウェールズにある世界で2番目に長い地名を御紹介しましょう。小さな村ですが、鉄道の駅があってその駅舎には下のような名前が掲げられています。

Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch(58文字)

私が駅員から聞き取った読み方は「シャンヴァイエルポーシュゴウィンケシュゴーゲルアハオーエルンドロップウォイシュシャンツィスィリョゴーゴーゴッホ」です。
   :上の綴りは駅の入場券から写しましたが、現地で買った絵葉書にはちょっと違う綴りが書いてあります。(後半ハイフン以後)
Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwll-llandysiliogogogoch

また、上の名前の中の gwyn はウェールズ語で「白い」という意味ですが、これには他に fair、holy という意味もあり、Gwyn や Gwynne という人名にもなっています。女優グウィネス・パルトロウ ( Gwyneth Paltrow ) の Gwyneth もウェールズ語に由来し、felicity(幸せ、幸せをもたらすもの)を意味するのだそうです。

ローマ式帯気音の書き方
ローマ人はギリシャ語の語頭の Ρ, ρ を RH で翻字しました。帯気音の気息を H で表そうとしたわけです。そのため、ラテン語を通して英語に入ったギリシャ語起源の語は、rhapsody、rhetoric、rheumatism、rhinoceros、rhododendron、rhythm などのように rh で書かれます
   ただし、語頭以外では古典ギリシャ語でも特に強い呼気を伴いませんでしたので、英語の rhetoric も語中の r は rh になっていません。

ついでながら、一般にローマ人はギリシャ語の帯気音を翻字するのに H を加えました。Θ, θ、Φ, φ、Χ, χ もそれぞれ T、P、K の帯気音でしたので、ラテン語では TH、PH、CH で表されました。英語にもその形で入っています。本来のラテン語には帯気音・無気音の区別がありませんから、往時のローマ帝国でこれらを帯気音で発音したのは一部の文化人だけだったのではないかと思います。次第に TH と PH は /θ / と/ f / に変わり、CH は K と区別なく発音されるようになりました。
   (注意:帯気音そのものはラテン語にもありましたが頻度は非常に低く、しかも語の区別に使われることはありませんでした。)

文字の表に戻る

Σ σσιγμα
古典でも現代ギリシャ語でもカタカナで書けば「スィグマ」となります。ただし、この「スィ」は英語で言えば seat の / si: / です。sit の / si / ではありません。英語の / i / は「イ」と「エ」の中間のような音なので、現代ギリシャ語の / i / は英語の / i: / に相当します。これは現代ギリシャ語だけでなく、フランス語、ドイツ語、日本語などにも言えることで、たとえば日本人が live / liv / と言おうとすると、英米人には leave / li:v / に聞こえてしまうことがよくあります。
   さらに、現代ギリシャ語では「グ」が英語の / g / ではありません。
Γ γ の項を御参照下さい。

文字の表に戻る

Τ τταυ
古典ギリシャ語の名称は「タウ」ですが、現代ギリシャ語では「タフ」と読みます。この「フ」は / f / の音です。現代ギリシャ語では、 αυ は語尾あるいは無声音の前で「アフ」、有声音の前で「アヴ」となります。したがって αυτοκινητο(自動車)は「アフトキニト」、 αυριο(明日)は「アヴリオ」と言います。
   ついでながら、ευ も「エフ」または「エヴ」になりますので、Ευρωπη(ヨーロッパ)は「エヴローピ」と読みます。

これに当たるフェニキア文字は第22字、すなわち最後の文字の「ターウ」です。セム語では「ターウ」は「しるし、記号」という意味であったと考えられています。元来の形は+あるいは×でした。「しるし」を表すのには極めてもっともな形と思われます。ギリシャ人はこの上部を取り去って T を作りました。 X(キー)との混同をさけるためであったかも知れません。

:T より後の文字はギリシャ人が独自に作り出したものです。

文字の表に戻る

Υ υυψιλον
古典での名称は「ユプスィーロン」です。「ユ」と「ロ」にアクセントを置いて読みます。この「ユ」は日本語の「ユ」とも英語などの / ju / とも異なり、フランス語の u やドイツ語の ü( U ウムラウト)と同じく / y / です。唇を丸く突き出して「ウ」の口の構えのまま「イ」を言います。
   始め、この文字が表す音の通りに「ユー」と呼ばれていましたが、後に οι の綴りがやはり / y / を表すようになったため、それと区別して「単純なユ」と呼ばれるようになりました。「プスィーロン ψιλον」は「単純な」という意味です。(
Ε, εを参照)

この文字はやがて Ι, ι と同じ / i / を表すようになり、現代ギリシャ語では「イプスィロン」と呼びます。「イ」にアクセントを置いてください。

Υ, υ はラテン・アルファベットには Y として取り入れられ、古典ギリシャ語における音価がそのまま名称になりました。カタカナでは「ユー」と書くしかありませんが、発音記号では / y: / です。ちなみに、ドイツ語では、Y の名称は「ユプスィロン」で、音価も古典ギリシャ語と同じ / y, y: / です。フランス語では Y は「イグレク i grec」、つまり「ギリシャ語のイ」と呼ばれ、基本的には I, i と同じく「イ」の音を表します。
   英語の名称は例によって「ワイ」と訛っていますが、発音は I, i と同じく / i, i:, ai / です。ギリシャ語起源の英語としては poly- (<πολυς 多い) や syn-、sym-、syl- など (<συν 一緒に) で始まる語がよくあります。( polyglot、polygamy、Polynesia、synonym、synchronize、symphony、sympathy、syllable、syllogism など。)

F、V、U、W、Y は兄弟!
Υ υ は / w / を表すセム文字から作られました。
フェニキア文字では第6字の「ワーウ」に当たります。セム文字「ワーウ」からは、まず子音 / w / を表す F(ディガンマ、2つのガンマ)が作られ、後に異体の Y あるいは V から母音 / u / が作られました。やがて F(ディガンマ)はギリシャ語からは消え、Υ へと形を変えた母音 / u / はやがて / y / の音に変化しました。
   ラテン語には、 F が最終的には / f / として取り入れられ、V が / u / として、さらに Υ が Y の形で / y / として取り入れられました。ですから F、V、Y (Υ) は兄弟なのです。さらに後に V の草書体から U が出来き、英語その他のゲルマン語を写す必要から W(double U ダブリュー、あるいは double V ドゥブルヴェー)が生まれました。結局、F、V、U、W、Y はすべて「ワーウ」から生まれたことになります。詳しくは、AIUEOはどうして「アイウエオ」なの?を御参照下さい。

文字の表に戻る

Φ φ  (φι)
現代ギリシャ語では「フィー」と読みます。古典ギリシャ語では P の帯気音を表し、強く息をはきながら「ピー」と言います。Φ φ はしだいに / f / の音に変わり、現代ギリシャ語でも / f / を表します。ラテン語では ph で翻字され、始めは P の帯気音でしたが、だんだんと / f / の音に変わりました。ですから、英語でもラテン語経由のギリシャ起源の語は、philosophy などのように ph を / f / で発音します。(参照:
ローマ式帯気音の書き方
   日本語やフランス語、英語などには帯気音と無気音の区別がありませんが、日本語やフランス語の「パ行」はどちらかというと無気音に近いようです。それに対し、英語では語頭にあって母音が続く場合はかなり帯気音に近くなります。日本人が英語を話す場合、plan、pray、plot などはよいとして、pan、pay、pot などと言う時は息をしっかり出さないと通じないことがあります。

韓国・朝鮮語や中国語、ヒンディー語などには帯気音・無気音の区別があります。たとえば中国語で「八」は「パー」と言いますが、これは無気音ですから、呼気を抑えて緩やかに発音します。逆に帯気音で、息を強く吐き出しながら「パー」と言うと「パンパン」という拍手の音(口へんに拍)や、「腹ばう」という動詞(足へんに八)を意味することになります。

文字の表に戻る

Χ χχι
現代ギリシャ語の名称は「ヒー」です。日本語で「ヒー」と言えばほぼ同じ音になりますが、英語 he の / hi: / とは異なります。基本的には軟口蓋摩擦音を表す文字ですが、後ろに i か e の母音が続く時は日本語の「ひ」の子音(硬口蓋摩擦音)とほとんど同じになります。
   古典ギリシャ語の名称は「きー」と書いておきましたが、この子音は
帯気音の K ですから、強く息を吐きながら発音します。始めは「けー」と呼ばれていたのすが、後にイオタ化(iotacism)の結果「きー」となりました。

軟口蓋摩擦音
英語の / hi: / の子音は、日本語の「ハ」「ヘ」「ホ」の子音と同じく、「声門摩擦音」で、声門(喉仏のところ)で呼気を摩擦させて出します。舌と口蓋の間の摩擦ではありませんから、舌をいっぱいに下げた状態でも発音出来ます。英語の he などを発音する時は、舌をいっぱいに下げて練習してみる良いと思います。
   日本語の「ヒ」を言うときは、舌のほぼ全体が盛り上がり口の天井に近付きます。その盛り上がった舌と口の天井との間のすきまを息が通る時に、摩擦が起こって「ヒ」が出ます。この子音はドイツ語 ich(イッヒ、私)の ch の音 [ ç ] に近く、硬口蓋(口の天井の前より部分)と舌の間で摩擦が起こるので「硬口蓋摩擦音」と呼びます。(ドイツ人がローマ字を作ったらを御覧下さい。)
   一方、現代ギリシャ語の χ は軟口蓋(口の天井の奥よりの部分)と舌の後部との間で呼気を摩擦させて出す音です。 「カ」や「コ」を言う時と同じ要領で、舌の奥の方を軟口蓋に近付け、強く息を吐きながら「ハ、ホ」と言ってみて下さい。この子音が「軟口蓋摩擦音」です。これは現代ギリシャ語の Γ, γ に対する無声音ですから、より正確には無声軟口蓋摩擦音です。(鏡を見ながらゆっくりと「カ」や「コ」を言おうとすれば奥舌が盛り上がるのが分かります。ただし舌を軟口蓋に付けないように注意。)

注意:現代ギリシャ語の Χ χ は後に母音 i または e が続く無声硬口蓋摩擦音 [ ç ] に変わります。これは、i や e が舌の前部を硬口蓋に近付けて出す母音なのでその影響が子音に及ぶためです。この現象を「硬口蓋化」と言います。日本語の「イ段」の子音も硬口蓋化するため、英語の he は「ヒー」ではなく、knee は「ニー」ではありません。日本人が see と she を区別するのが不得意なのもこの影響です。(参照:Γ, γの硬口蓋化

「無声軟口蓋摩擦音」はドイツ語 Bach(バッハ、小川)の ch の他、スペイン語 Japon(ハポン、日本)の j、ロシア語 XAPAKTEP(ハラクチェール、性格 [ 英語の character ])の X、などにも使われます。国際音声記号(いわゆる発音記号)では / x / で表します。x を使うのはやはり、この音を持つ現代ギリシャ語の Χ を意識してのことでしょう。ついでながら、ギリシャ語小文字の χ は「無声の口蓋垂(のどひこ)摩擦音」 /χ / を表す記号として使われます。

注意:/ x / をカタカナで書き表わすのにしばしば「ハ行」が使われますが、日本語は呼気が弱いために「ハ行」ではこの音に聞こえません。たとえば、日本人が「ヨコハマ」と言うのをロシア人が聞くと「ヨコガマ」と聞こえるそうです。ナホトカやハバロフスクも日本人が言うとナゴトカ、ガバロフスクと聞こえているのかもしれません。

帯気音の K
古典ギリシャ語の Χ, χ は英語の K と同じく軟口蓋破裂音(あるいは閉鎖音)ですが、帯気音である点に留意して下さい。軟口蓋破裂音は舌の後部を軟口蓋(口の天井の後部)にくっつけて呼気の流れを一時的に閉鎖し、その閉鎖を解くと同時に破裂するように息を出すことで発音されます。その際に、強い呼気を添えて激しく破裂させれば帯気音の K となり、逆に穏やかに破裂させて余り息がでないようにすれば無気音の K になります。

K の帯気音・無気音の区別とは要するに、「カ行」を言う時に、息を特に強く出しながら言うか、それともあまり息を出さないようにそっと言うか、ということですが、この区別は古典ギリシャ語だけでなく、現代の中国語や、韓国・朝鮮語、ヒンディー語、タイ語、ビルマ語などにもあります。

たとえば、中国語(北京語)で「看(見る)」は帯気音で「カン」、「干(する)」は無気音で「カン」です。(中国語式ローマ字では、それぞれ kan、gan と綴り、どちらも第4声で高みから急に下がるように発音します。)
   注:中国語のローマ字では、g は有声音の [ g ] ではなく、無気音の K を表します。もっとも、北京語には有声音が有りませんから、日本人が「ガン」と言えば「干」として受け取られるでしょう。注意:日本人が普通に発音すると語尾の「ン」は [ n ] になりません。 gung にならないよう gun の要領で発音して下さい。
日本語の「ん」を参照。

ちなみに、北京語では k や g の後に母音 / i / が続くことはありません。要するに、「キ」という音はないのです。北京語しか話さない人にとって、古典ギリシャ語の X の名前を発音するのは難しいだろうと思います。それどころか、「金閣寺」とか「京都」というのも難しいことでしょう。

ついでながら、ビルマ語にも「キ」はありません。K に当たる文字はありますが、母音 / i / が続くと「チ」のように発音されてしまいます。だから、ビルマの人は「東京」と言おうとすると「トーチョー」になってしまうのだそうです。
   ビルマ民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チーさんの名前は英語では Aun San Suu Kyi と書きます。最後の名前が Kyi となっているのは、
ビルマ文字では K に当たる文字を使って書かれているのをそのまま翻字したためと思われます。
   注:「アウン」は Aung と書かれることもあります。これはビルマ文字で ng に当たる文字が使われているからだと思いますが、ビルマ語の発音では Aun でも Aung でも変わりありません。ビルマ語では語尾に来る子音は発音上、/ n / か声門閉鎖音[グロッタル・ストップ]だけで、語末の n、m、ng の文字はすべて終子音 / n / として発音されます。これは英語の [ n ] とは異なり、その前の母音を鼻母音にした音です。つまり日本語の語尾の「ン」とよく似ているのです。英米人には ng のように聞こえると思います。

注:中国語でも、福健語(台湾語)や広東語には「キ」に当たる音があります。たとえば、「さようなら」の「再見」は北京語では「ツァイチエン」ですが、広東語では「ツォイキーン」のようになります。「東京」も北京語なら「トン(グ)チン(グ)」ですが、広東語なら「トゥン(グ)キン(グ)」という感じです。
   注意:これらの子音はすべて無気音です。(グ)は鼻にかけるだけで、「グ」と言わないようにしてください。ついでながら、英語の young などを発音するときも「ヤング」というように「グ」を言ってはいけません。発音記号のエングを御参照下さい。

帯気音の表記
ラテン語では C が [ k ] を表す文字でしたので、それに気息を表す H を添えた CH が、帯気音であるギリシャ語の X を表すのに使われました。ラテン語を通して英語に入ったギリシャ起源の語は Χ, χ の所が ch で書かれています。Christ、chaos、charisma、character、chiropractic、chrysanthemum などがその例です。ただし、英語には帯気音と無気音の区別はありませんから、この CH は K と同じように発音されます。(参照:ローマ式帯気音の書き方

X の英語名を chi と書くのもラテン語を通じて入ったからです。英語では / kai / と読み、普通の / k / の音で発音します。ただし、英語では、/ k / の音が語頭にあってアクセントのある母音が続くとき、かなり強い呼気を伴います。日本人が「カイ」と発音しても帯気音になりませんが、英米人が普通に / kai / を発音するとかなり帯気音らしく聞こえます。逆に、日本人が kind や key を言うと呼気が不足で通じないこともあり得ます。

現代の英語で特にこのギリシャ文字を書き表わしたい時は kh を使います。たとえば、辞書の語源欄には chaos(← Gk. khaos )などと書いてあります。

ついでながら、ロシア文字の X も英語では kh で翻字します。ロシア語の X は現代ギリシャ語と同じ「無声軟口蓋摩擦音」ですから古典ギリシャ語とは異なりますが、どちらも英語では普通の / k / のように発音されます。たとえば、「ハバロフスク」は英語では Khabarovsk と書いて「カバーラフスク」のように読み、「フルシチョフ」は Khrushchev と書いて「クルシチョーフ」となります。
   ただし、「ミハイル・ゴルバチョフ」の「ミハイル Mихаил」は Mikhail と翻字して「ミハイール」のように / h / で読みます。Mikhail は英語の Michael(マイケル)と同源です。

文字の表に戻る

Ψ ψψι
古典でも現代ギリシャ語でも「プスィー」と呼びます。「プ」のところには母音がありませんから「スィ」にアクセントを置いて読んでください。古くは「プセー」と呼んでいたようですが、イオタ化(
iotacism)により「プスィー」なりました。
   Ψ, ψ は / ps / という二重子音を表します。ギリシャ神話の中の美少女プシュケーも、英語で書けば Psyche(サイキと発音)ですが、ギリシャ語では Ψυχη となります。現代ギリシャ語では ψυχη は「プスィヒー」のように読んで「魂、精神」を表します。( η にアクセント)(参照:ψ の英語名
   ついでにギリシャ語でない言葉もギリシャ文字で書いてしまうと、「エプソン(Epson)」は Εψον となって、ps のところが一字で済みます。また、カリブ海はトリニダード島に生まれた歌や踊りの「カリプソ(calypso)」は καλυψο となりましょうか。まさか、ホメーロスの「オデュッセイア」の中で、故郷に帰ろうとする智将オデュッセウスを7年間もオギュギアの島に引き止めた海の精、カリュプソ(Καλυψω)とは関係ないでしょうが。

Ω ωωμεγα
現代ギリシャ語では「オメガ」、古典では「オーメガ」です。どちらも「メ」にアクセントがあり、古典では「オ」にもアクセントがあります。この文字は O の下部を開き、その両端に飾りを付けて作られました。古典では「広く長いオー」を表し、初めは単に「オー」と呼ばれましたが、後に「狭く短いオ」を表す
O(オミークロン、小さいオ)に対し「大きいオー」と呼ばれるようになりました。「メガ μεγα 」は「大きい」の意味です。:現代ギリシャ語では O も Ω も区別なく「広いオ」を表します。
   Ω はギリシャ・アルファベット24 文字中最後に作られましたのでその最後に位置します。かくして、ギリシャ・アルファベットは alpha に始まり omega に終わることになりました。ヨハネの黙示録の22章13節には次の言葉があります。

わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
I am Alpha and Omega, the beginning and the end, the first and the last.

また、英語では the alpha and omega と言うと「最初と最後、すべて、もっとも重要な部分、最大の特徴、根本的な理由」などを意味します。

(Apr., 2006)

文字の表に戻る

関連項目
現代ギリシャ語の標識・挨拶
ラテン語ってどんな言葉?

参考文献:
英語アルファベット発達史(田中美輝夫著、開文社出版、1981)
ラテン語とギリシャ語(風間喜代三著、三省堂、1998)
ギリシャ文法 [改訳新版](シャルル・ギロー著、有田潤訳、文庫クセジュ、白水社、2003)
ギリシャ語四週間(古川晴風著、大学書林、1962)
エクスプレス古典ギリシャ語(荒木英世著、白水社、1997)
Pocket Oxford Classical Greek Dictionary ( Oxford University Press, 2002)
The Oxford Dictionary of Modern Greek ( Oxford University Press, 1986)
エクスプレス現代ギリシャ語(荒木英世著、白水社、1986)
Modern Greek in 20 Lessons (by G.C. Pappageotes, P.D. Emmanuel & R.D.Cortina Co. Inc., 1968)
英語の歴史(中尾俊夫著、講談社現代新書)
図説英語史入門(中尾俊夫、寺島廸子著、大修館書店、1988)
生物学名概論(平嶋義宏著、東京大学出版会、2003)
エクスプレス・ビルマ語(加藤昌彦著、白水社、1998)

目次・索引へ

ページ・トップへ

ご意見・ご感想は ntomioka$mbj.nifty.com へ



last updated