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アメリカ子連れ留学奮闘記


心に芽生えたもやもや

 結婚しささやかな新居で生活するようになってまだほんの数日のある日、私は台所でサラダを作っていた。一方、夫は居間で新聞を広げて、くつろいでいた。絵に描いたように平和な、日曜日の午後だった。私の脳裏にもやもやとした疑問、割りきれなさが起こったのはそんな時であった。

 「質実剛健」「良妻賢母」「やまと撫子」という言葉にあこがれ、結婚したら、仕事に行く夫を三つ指ついて送り出し、外で7人の敵と戦う夫のために、立派に家を守るのが当たり前と教えられて来た。若気の至りとは言え、愛する人といっしょにいられるならば、大学卒業後、始めたばかりの名門私立校の英語教師としての仕事を捨てるのも全く苦にならなかった。

 疑問は単純であった。「大学時代は同じクラスで机を並べて勉強していた私達が、どうして今、私は忙しく食事の支度をしていて、夫はソファーにのんびりと座って、新聞を読んでいるのだろう?」

 そしてこの疑問は答えが見つからないまま、少しずつ、少しずつ私の心のどこかで増殖していった。そしてこの少しずつ私の中に膨れ上がって行った疑問こそ私の人生を決める大きな鍵となったのだ。

男と女の役割分担について

 夫は決して、亭主関白というタイプではなく、求めれば何かと快く手伝ってくれ、台所に入るのさえ苦にはしなかった。ただし家事というのは細かい仕事の果てしない総和で、「洗濯する」「洗濯ものを干す」「洗濯ものを取り込む」「洗濯ものをたたむ」「掃除機をかける」「布団を上げる」「布団を敷く」「ごみを出す」「皿を洗う」「皿を拭く」など料理・買物は別にしてもそれぞれの仕事は、実に単純で、手伝ってもらっても、それぞれはほんの数分から10数分しかかからない。何かを頼んで、やってもらい、それに対してお礼をいう。それでも主婦の仕事は10分ぐらいしか軽減されないのである。一日に二つのことを頼んでも、20分の軽減。時には、自分でやった方がはるかに仕上がり具合の良いこともあり、お願いしてやってもらうより、自分でやってしまった方がましに思われることも多いのであった。

 夫に「どうして女の人だけが家事をやるの?」とさりげなく疑問を投げかけたこともあった。夫の答は実に明確で「普通は男が家計を支えるから女が家事をして、子供の面倒を見るんだ」

 世の中には色々な人がいる。色々な女性がいる。私と同じ境遇にあって、それに不満や疑問を持つことなく、喜々として、家事にいそしみ、趣味の手芸や裁縫などに精を出して、家族中の着るものを手作りしたり、庭に花や野菜を育てたり、すばらしい手作り弁当を子供達に持たせたり...

専業主婦の焦り

 しかしそのような才能に恵まれない私は、近所の八百屋さん、花屋さん、魚屋さんたちから「冨岡さんの奥さん」と呼ばれるたびに、妙な憤りを覚えたのであった。私は誰かの所有物ではない。私という人間は一体どこに行ったのだろう。その上、大学時代は机を並べて同じことを勉強し、能力的にも変わらなかったはず(?)の夫なのに、数年たつと現職の夫と対等に専門の英語について議論する事が出来なくなった、その嘆きと悔しさ。大学時代のクラス会に久しぶりに顔を出した時、子供のこと以外話題のない自分に愕然としたこと。「このままではいけない」とは思いながら、伊東のような片田舎ではなすすべもなく。その上、赤ん坊をかかえた主婦の生活は結構忙しく、一冊の本もなかなか読み終えない状態で、朝、雨戸を開けたと思うと、いつのまにか夜になっていて、雨戸を閉めながら、自分の人生が枯渇していくのを感じるのだった。

 また、一度仕事をやめ主婦・母親となった女性の再就職の難しさもこの頃やっとわかって来た。英語がものすごく出来るというわけではないので、何か資格をとらなければと思った。たまたま本が好きなので図書館司書・司書教諭の資格を取って近くの図書館か学校にでも就職口を見つけられたらと大学の通信教育で勉強を始めた。

再び、学ぶ喜び

 2時間近く離れた所に住む実家の母と夫のリレー式の協力を得て夏のスクーリングに参加すると、今まで教科書と首っ引きで勉強してもよく理解できなかった様々な疑問点が次々と氷解して行き、本を相手に一人で勉強することに比べ目の前の先生や仲間と一緒に学ぶことがどんなに効果的で、楽しく、また学ぶ意欲を引き出してくれるものか今さらながら実感。無事全課程を終了し資格は手に入れた。しかし仕事はそんなに簡単には飛び込んでこない。手元に残ったのは2枚の紙切れと,学ぶことへの更なる欲求であった。もっともっと勉強したい。それも家の中で一人で学ぶのではなく先生や仲間と一緒に学びたい。

 それなら、大学に入学し直せばよいではないか、あるいは授業を聴講に行けばよいではないかということになるが、それには2つのネックがあった。まずは、伊東市という私の住所。ここからだと、片道3時間近くかけなければ大学に到着しない。その上、幼い子供の面倒を見てくれる人がいない。当時、保育園の優先順位は夫婦で働いていること。母親が勉強したいからなどというのは全く理由にならなかった。当然無職の私は子供を預ける資格がなく、遠くに住む実家の母に定期的に赤ん坊の面倒を頼むことも出来ない。どこの大学も遠いので授業の間、2時間だけベビー・シッターをお願いすることも出来ない。これから仕事を見つけたいから勉強したいのに、保育園に入れてくれないなんて!(もちろんこの辺の事情は20年経った今、大きく変わっているが…)

 ともかく大学までの距離、交通費の高さ、子供の面倒を見てくれる人がいないという理由でこの考えは断念した。あの時ほど伊東に住み伊東から動けない仕事をしている夫が恨めしく思えたことはなかった。かくして私の悶々とした思いは続いた。

アメリカ留学の決意

 この状態の突破口になったのは、ある日、偶然、本屋で見つけた「スペイン子連れ留学」(小西章子著:鎌倉書房)という本で、7歳、4歳、2歳の3人の子供と子守役の女子学生を連れ、夫を日本に残して1年間スペインに留学した女性の手記であった。ユーモラスに留学先での苦労話や楽しいエピソードを綴ったもので、その本は持って行き場のない不満を持てあまし、自分自身を見失いそうになっていた私にとって、ひとすじの光のように思われた。私も子供を連れてでもアメリカへ留学したい。もっと英語に自信をつけ、アメリカの文化を学び体験し、大学時代に勉強した言語学・音声学の知識をもっと身につけたい。我が家も小西さんと同様、家計を一手に引き受ける夫が仕事を放り出すわけにも行かず、夫自身も仕事が順調で面白くなりかけた所で留学の必要も私ほどは感じてなかった。それならば、小西さんのようにいつか夫を残して子供を連れてアメリカに留学したい。私の中で夢が次第に現実的味を帯びて膨らんでいった。

 このような夢をいつ夫に打ち明けたのか正確には覚えていない。ある時「(まだ影も形もない)次の子供が3歳ぐらいになったら、3人でアメリカに留学してもいい?」と夫に持ちかけた。そもそも私たちの結婚生活自体が「お互いに相手を尊重して本当にやりたいことは最大限協力してやらせて上げよう」という基盤に立ったものだったせいか、あるいは私の日ごろの悶々とした不満を知っていてできればその矛先をかわそうとしたのか、説得のための議論も言い争いもなく、答えは結構すんなり「子供を連れて行くのならいいよ」

 これには聞いたほうが反対に仰天。自分でもそんなことが出来るのかどうか分からず不安ながらも、夫がどう答えるか聞くだけのために聞いたのに…。夫はどこまで私が本気だと考えたのか、それともそんなことはできるわけないと考えたのか、まだ3年以上先の話なので現実味がなかったのだろうか?

留学の準備

 1980年9月にふたり目の子供(長男)が誕生した。ふたり目の子供が生まれるまで待とうとしたのは子供を異国に連れて行く場合、一人っ子より兄弟があったほうが子供にとっても心丈夫だろうと考えたため。(もちろん子供は出来れば二人ほしいというのもあったが)また、ふたり目が3歳になってからというのは子供には少なくとも3歳まではじっくりつき合いたいと思ったし、3歳になればかなり手がかからなくなるだろうという予測に基づいていた。

 ただ、前述の小西さんと違って、私にはアメリカに誰一人頼りに出来るような友達も知人もなかったし、勉強している間子供を見てくれるベビー・シッターを連れて行ける経済的なゆとりもなく、そういうことを頼める人もいなかった。

 また、アメリカへは学生の時に2ヶ月間旅行しただけで留学に関する情報も皆無であった。1980年頃というとまだ日本にはパソコンも普及しておらず、もちろんインターネット時代の到来よりも10年以上前のことである。今のように瞬時に外国の大学の情報が調べられ、開講科目、学生寮の情報から、カフェテリアのメニューまで調べられ、願書までオンラインで送れ、疑問があればメールで問合せが出来、しかも返事は翌日手元に届くという夢のような時代ではなかった。手紙の往復には早くても2週間以上かかり、もちろん請求した資料は送ってくれたが何かひとつ問い合わせると返事は2、3週間後というものすごく時間のかかる時代であった。

 夢を実現させるべくそれからの3年間は、大学の資料・情報集めTOEFL(留学する学生のための英語力テスト)などの準備と忙しくも充実した時であった。長女は物心ついた時から「お母さんとアメリカに行くの」といい聞かされ、子供に言い聞かすことによって、自分も信じ込むという具合であった。ともかく準備はまるで趣味のようになり、毎日郵便受けを覗き込みながら続々と送られてくる資料を読み漁った。

 そのような中で一番気がかりだったのは子供の保育環境の問題、そして限られた予算の中での住環境の問題であった。前述したように当時日本には母親が大学に行っている間、預かってくれる保育園などなかった。少なくとも私の住んでいたあたりには。

 ところが驚いたことに、問合せをしたどの大学も夫を日本に残して英語を一言も話せない幼児二人を連れて留学しようとしている私の計画に呆れる様子もなく、無謀だから思い止まれと忠告するでもなく、まるで当然のことのように親切に保育園のリストなどを送ってくれた。その中には大学のキャンパスの中に学生の子供用の保育園があるところもあった。また、大学が経営している結婚している学生用のアパートというのもあり安い家賃で2LDK程度の部屋が提供されていた。ただ、どこでもものすごい順番待ちで早くても1年、もしかすると1年半もかかるかもしれないとのこと。もちろん、それは3年後を目ざす私にとっては何の問題でもなかった。

 出発の時期を長男が2歳10ヶ月になる1983年8月に予定し9月の新学期から大学院の授業を受けようと決めた。しかも目標は最初から低く設定せず、修士号の学位を取ることにした。

 日本の大学院も出ていない私がいきなりアメリカの大学院へ行こうと決めたのは、何かの本に「アメリカの大学院は開放的で学部時代の専攻の如何に関わらず広く意欲のある学生を受け入れている。また幅広く多方面にわたって学習しなければならない学部と違い専門科目を集中的に学べるので日本人留学生にとってかえって卒業しやすい」と書いてあったためだ。実際あちらに行ってみて分かったことだが、大学院に来ているのは学部を卒業したての若い学生たちばかりでなく、英語教授法の知識が必要だからという中年の牧師さんや、牧師さんの奥さん。離婚したため今まで専業主婦だったがこれからは手に職をつけようとコンピュータ・サイエンスを学ぶ子持ちの女性。長年特殊教育にたずさわって来たが、最近それに音楽を応用する試みがあると聞き、職を中断して来た人など実に様々だった。そして33歳の私が結構若い方のグループに属したのも日本では考えられないことだった。

 私が所属した言語学科でも、必ずしも学部時代に言語学を学んだことのある人ばかりではなく、音声学の授業などになると発音記号が読めず、日本人である私の所に色々質問しに来るという珍現象も起こった。学部時代に言語学を少々かじった私の方が少しはましだったようだ。したがって、学部時代にかなりの専門知識を身につけ、その知識を入学試験で試しそれに合格した人だけが入学する日本の大学院とはかなり違う。

 しかし一見レベルの低そうなアメリカの大学院だが在学中の授業の密度の濃さや学生に対する評価の厳しさは日本とは比べ物にならない。第一に言語学の基礎的な授業はとっても大学院の単位としては認められない。そして必要単位を取得し、無事Comprehensive Examと呼ばれる卒業試験に合格し、論文を仕上げて卒業できるのは半数そこそこ、挫折してしまった例も数多く見た。

日米教育委員会

 話が横道にそれたが、どこの大学へ行くかを決めるために、赤坂見附にあるフルブライト協会(日米教育委員会)でアメリカの大学のカタログを調べ私の勉強したい言語学・音声学・英語教授法のある州立大学の大学院をリストアップした。夫が休みに遊びに来るのに便利なように、また日本からの旅費が安くすむように、出来るだけ日本に近い西海岸周辺の大学に的を絞って資料請求の手紙を書いた。また、もう一つの関心事は現地の治安、交通事情だった。出来れば車なしで生活できる所、それでいて大都市ではない所。保育園、大学、スーパーまで歩いて行けるような小さな大学町に住みたいと思った。アメリカには大都市を除いてはそんな場所はないとも聞いていたが、子供を連れて治安の悪い都市には住みたくなかったのだ。

高まる不安

 このように着々と夢が次第に現実のものになって行くにつれ、私の内部では「不安」も大きく広がっていった。アメリカ留学を打ち明けると、人はよく「勇気があるのね」とか「よく決心したわね」と言ったが、私は決して勇敢でも楽天的でもなく、むしろ神経質で心配性で内気だったと思う。

 「不安」の材料は限りなくあった。当時幼稚園に行き始めた長女の体が弱く、よく風邪や中耳炎にかかり幼稚園を休んだのだ。年少組みのときは何と1年間に30日以上の欠席。長女が病気になると必ず下が同じ病気にかかる。同じことをアメリカでやったとしたら私は子供の看病に明け暮れて勉強どころではないかも知れない。

 しかも入学は難しいが卒業は簡単という日本の大学と正反対のアメリカの大学で、独身の若い学生でさえ卒業は難関だというのに、大学を卒業後10年、家事と育児で忙殺されるうちにすっかり錆びついたこの頭と英語力で果たして授業についていけるだろうか?アメリカに留学したが授業について行けず落ち込んで自殺まで考えた人がいるとも聞いた。子供の心配と自分の勉強の心配が重なれば私など気が狂ってしまうかもしれない。

 2年間とはいえ子供たちが父親から離れて暮らすのはどうだろう。子煩悩で良く遊んでくれる父親がそばにいなかったら、子供たちは寂しくて泣くのではないだろうか?それが将来しこりとなって子供たちの心の中に残るのではないだろうか?

 急に英語ばかりの世界に投げ込まれて保育園に行きたくないと言い出したらどうしよう?今、夫と暮らす毎日の中でも忙しくて勉強の時間を見つけられないでいるのに、頼りに出来る人のいないアメリカで果たして勉強と家事・育児の両立が出来るだろうか?冷静に考えれば考えるほど無謀なことに思われた。

 アメリカ留学に向けて具体的に動き始めた私に対して夫は反対の色も見せず、むしろ積極的に応援してくれるようだった。これは一度OKと言ったことに対しては絶対にそれを翻すことのない夫の性格のためだったかも知れないが、不安が大きくなるとそんな夫の性格もかえって恨めしく思えた。いっそのこと「やっぱり行っては駄目だ!」と言ってくれれば、せっかくの志を理解のない夫に阻まれた悲劇の妻として夫に恨みつらみを言いながら、もとの安穏とした妻の座に戻れるのにとまで考えた。勝手なものだ。

 崩れそうになるそんな私を支えてくれたのは「子供はどんどん大きくなるものだ」という確信と、「うまく行かなければいつでも帰ってくれば良い」という夫の言葉と、そして小さい時から私の夢を聞きながら育った長女の「お父さんが行かなくても絶対3人でアメリカへ行きたい」という言葉だった。幼い長男は事情がわからないまま2年というのはほんの2週間ぐらいに思って新幹線や飛行機に乗るのを楽しみにしているようだった。

大学の決定

 不安と期待のうちに出発前の1年間が慌しく過ぎていった。留学生にとっての第1の難関の英語能力テスト(TOEFL)も直前の猛勉強の甲斐あってまあまあの水準に達し、次々といろいろな大学から受け入れOKの手紙が到着し始めた。そんな時嬉しかったのは、学科長から来る手紙の多くが決まりきった印刷文ではなく、個人的な書信だったことだ。中には私の質問に答えて、2年間で学位を取るにはどういう風に単位を取ればよいか、私の大学時代の習得科目に照らして詳しく説明してくれる手紙もあった。

 保育園とアパートからもOKが出ると最終的にカンザス大学(The University of Kansas)とカリフォルニア大学デービス校(The University of California, Davis)の2校が候補に残った。前者は物価は安いが日本からの距離も遠く、冬寒く、夏暑い内陸性気候。後者はカリフォルニアの温暖な気候に加え、日本からも近いが、物価は優にカンザスの2倍に達する。

 暮らしにくそうなカンザスに決めたのは経済的な理由の他に子供の学校の問題もあった。カリフォルニアの法律では日本で出発前幼稚園の年長だった長女は11月生まれのため、9月からすぐ1年生。一方カンザスでは翌年の8月から1年生。(アメリカの学校は8月か、9月が新学期)日本では全国どこでも学齢は誕生日が4月1日以前かどうかで決まるが、アメリカでは州によってそれが8月31日だったり、11月30日だったリ色々なのだ。一言も英語が分からないのに急に1年生になるより、弟と一緒の保育園にもう1年通ってから1年生になった方が良かろうというのが結論だった。

出発と到着後の混乱

 1983年8月6日、最後まで、自分のやっていることが無謀なような気がして不安であったが、あとにはひけず、夫を残して、知り合いもいないカンザス州ローレンスへむけ出発した。長女綾子が5歳8ヶ月、長男亮太が2歳10ヶ月であった。

 到着当初は、折からの猛暑で40度近くの気温。長旅の疲れに時差による体の変調が加わり目の前の膨大な仕事を前に気弱になり「今ならまだ間に合う。ちょっと面目ないけどやっぱり帰ろうか」と本気で考えた。(引越しをすると水道の開通から電話の手配まで山のような仕事があるのはどこでも同じことなのだ。しかも子供の健康診断など保育園のための手続きも多かった)もし、日本がもう少し近ければ、あるいはすでに日本から送り出したダンボールいくつかの荷物がなかったならば本当に帰っていたかもしれない。

 最大の誤算はアメリカの地図を日本の地図の感覚で読んでいたことだった。大学から送られてきたローレンスの街やキャンパスの地図はほとんど覚えてしまうほど繰返し眺め、イメージを作り上げていたのだが、実際に見た街は建物と建物の間隔や道路の幅などがごみごみとした日本からは全く想像も出来ないほど広く、一番近いスーパーまで数ブロック、楽に歩いていけると思っていたら実際には徒歩20分の距離。しかもキャンパスの中にあるアパートから保育園や言語学科のある建物までやはり20分強。とても40度近い炎天下、子供を引き連れて歩ける距離ではなかった。2LDKの家具つきアパートには入ったものの、ちょうど大学が休み中だったため、ローレンス唯一の公的交通機関である大学のバスも休業中。車なしで身動きもままならず、まさに陸の孤島。飲み水もなく、食べ物もなく。

 こんな状況を救ってくれたのは、子供の保育園から聞いていた棟違いの同じアパートに住むアメリカ人一家の電話番号と、到着後大学から紹介された日本人留学生だった。どちらも初対面にもかかわらず、日用品の買物から、銀行の口座開設、ガス、水道、電気、そして電話を引くことまで手伝ってくれた。

 車もどうしても必要に思われ、10万キロ以上走っている7年目のマスタングを何となく腹に一物ありそうな中古車のディーラーからおよそ30万円で買った。当時の円ドルのレートは、1ドル270円近くと留学生にとっては最悪のものだった。因みにこの車は結構快調に走り、帰国前にガレージセールで20万で売れたので、実質10万円ということになる。その車の購入の手続きから保険加入まで手伝ってもらう頃、私も段々と落ち着きを取り戻し食事を作るゆとりも出てきた。

 人の親切をこの時ほどありがたく感じたことはなかった。まさに、助けられているということを実感する毎日だった。授業開始までの10日間ほどを車の免許取得、いざという時お世話になる子供のお医者様選びや、アメリカの学校から義務付けられている予防接種の実施など、もろもろの雑用に費やした。

大きな受容力のアメリカ

 一度生活が軌道に乗ると、あとは「案ずるより生むが安し」の言葉どおり不安の種も少しずつ取り除かれていった。一般に閉鎖的で仲間意識が強く溶け込むのに時間のかかる日本社会と違い、アメリカ人は人口の流動も大きく、異質な人々が作り上げている社会。人と違うことがマイナスのイメージで受け取られる日本と違い、アメリカでは人が皆それぞれ違っているのが当然。逆に人と違う確固とした自分自身を持っていなければ評価されない社会だ。日本では新しい環境に「溶け込む」ことがうまくやって行く上のキーワードだが、アメリカでは「溶け込む」必要はない。これはアメリカの受容力の大きさとなって表れている。一言も英語が分からない外国人の子供を快く引き受け、長女が2年目からお世話になった公立小学校では外国人の子供のための特別な英語の授業まであった。

長男の最初の英語

 さて、子供たちが通い始めた保育園はキャンパスの中央にあり、私が勉強している言語学科の建物、図書館、そしてカフェテリアから徒歩数分の所にあった。そこでも子供たちは外国人だからと言って珍しがられることもなく1日目から実にすんなりと受け入れられた。長男は2日ほど別れ際に泣いたが、最初の日から昼食時には牛乳のお代わりをもらうため「モア ミルク(もっと牛乳)」と叫び、たくましい生活力を見せて先生をビックリさせた。このからくりは、聞き覚えのある「ミルク」という言葉に「モア」をつけてお代わりをもらっている他の子供を真似ただけだろうが、先生は迎えに行った私にまさに大きな目を飛び出さんばかりに驚嘆して「Ryotaはもう英語をいくつか覚えた!」とこのエピソードを話す。アメリカ人はもともと人を褒めるのがうまく、相手の良い点を見つけ出しては上手に褒める。さらに「先生に『おしっこ』って言ったけど分からなかったから『トイレット』って言ったら分かったよ。」とのこと。それも1日目にして覚えた言葉の内訳だろう。そんな先生や周りの人に勇気づけられ、一日がほとんど遊びばかりの長男は言葉の壁などものともせず、次第に保育園を楽しむようになって行った。

娘の『沈黙期間』(Silent Period)

 一方同じ保育園の幼稚園課程に入った長女は始めは物珍しさも手伝って喜んでいたが、段々にストレスが溜まってくるのが目に見えるようだった。アメリカでは幼稚園といっても小学校への準備課程と見なされており、お遊戯や歌、工作やお絵かき、外遊びばかりやっていた日本の幼稚園と違い、かなり長い時間が『読み・書き・計算』の指導に充てられていた。

 そんな中で長女は急に口も耳も奪われたような気持ちになったことだろう。日本にいる時から本を読むのが好きな子供だったが、アメリカに行ってからしばらくはまるで何かの反動のように、家に帰るなり日本語の本を読み漁るようになった。昼間、発揮したくても出来ない自分自身を読書の世界の中で自由に遊ばせていたのかも知れない。長女は特に先生が皆に本を読み聞かせる時間が退屈で退屈でじっとしていられず問題だったようだ。何の意味もなさない音の連続の中で10分も15分もじっとしていることが5歳の幼児にとってどんなに辛いことであるかは想像に難くない。

 先生が日本語の物語を10分ほどテープに吹き込んで来て欲しいと頼んだのはそんな時だった。先生はそのテープを他の子供たちに聞かせ、今、英語の世界で綾子がどんな気持ちでいるのかを分からせようとしたのだ。お気に入りの物語を選びテープに吹き込み、綾子は本といっしょに幼稚園に持って行って得意げに皆に披露したそうだ。

 このような先生方の暖かい励ましと心遣いのお陰で子供たちは無事ほぼ3ヶ月の『沈黙期間』を乗り越え、やがて英語の世界に自由に踊りだしていった。

新しい生活

 保育園は朝7時10分から夕方5時45分まで開いていたが、子供たちは朝8時から夕方5時頃まで園にいた。朝食、昼食、そして軽いおやつが出る。私はその間、授業とその準備のための勉強だ。どのクラスも1週間に1章ずつ位進んでいくので、授業を3〜4コマ取っているとかなり忙しく、教科書を読むことに追われる毎日だった。その上、定期的にクイズと呼ばれる小テストがあり、レポートを提出したり、クラスで発表したりもしなければならない。授業1コマといっても週2回の授業(90分授業)と週3回の授業(60分授業)があり、空き時間に大学の図書館や、アパートに戻って勉強した。最初の学期はクラスで先生やクラスメートの話すことが聞き取れず苦労し、授業の後、友達に聞いたり、先生の研究室まで押しかけて質問したりした。

 どの先生もオフィスアワー(今は日本の大学でもおなじみだが、当時の私には全く目新しいものだった)というのを設けて学生のために時間を割いてくれる。私はそれの常連で、始めは幼稚だった質問の内容も次第に専門的なことに及ぶようになり、2学期目には授業に出るのが楽しみで楽しみで仕方なくなった。ある時などバス乗り場に行ってみたら、雪のために大学が休校と分かり、大いにがっかりしたのは私自身にとっても新鮮な驚きだった。私など学生時代結構まじめな方だったが「休講」の張り紙に小躍りして喜んだものだったので。

 ともかく小さな努力を積み重ねが成績やクラスでの評価となって表れてきて「Taeko、ノート写させてくれる?」「Taeko、これどう思う?」「Taeko、今度のテークホームイグザム(自宅に持ち帰って解答を書くテスト)の4番どう書いた?」と「冨岡さんの奥さん」以外の自分を認められたいと思っていた私は、このファースト・ネームで呼び合うアメリカでは夫の付属物ではない「Taeko」という自分自身に戻れたのだった。

 家事は買物と洗濯が週に1回。掃除はほとんどせず片づける程度。それで足りてしまうから気楽なものだ。夕食の支度もかえって気晴らしになり、帰宅後子供たちが寝るまでの5時間ほどと週末の2日間はどうせ勉強は出来ないので思い切って子供たちと遊んだりテレビを見たりする時間にした。こうして割り切ると精神衛生上とても良いのだ。

 子供の健康のことを一番心配していたが、始めの時期はともかく運が良く、交替に熱を出してもうまく週末だけですみ、また月曜日からは保育園に行けたり、となりのアパートの人に短時間見てもらったりと何とか切り抜けた。やがて我が家の2LDKの空いている1部屋にタイ人、続いてアメリカ人の友人がルームメートとして住むようになり子供たちにとっても私にとっても、楽しい文化交流の場になり良い話し相手となり、家族が増えたようで心丈夫だった。

 子供を連れて留学しているせいか、色々な人から親切にされ、週末にはパーティーや様々な行事に呼んでくれたり、動物園や遊園地に誘ってくれたり、テスト前の忙しい時には私が勉強できるようにと子供を連れて遊びに行ってくれたり、今考えると多くの人の善意と友情に支えられて学生生活を無事に過ごすことができたのだと思う。

 何の疑問もなく結婚生活に飛び込んだのに、ある日ふと湧いた疑問がきっかけで、私の人生は子供たちも巻き込んで大きく変貌した。今、大学で英語を教え、夫と平等に家計を支えるようになって、夫は何のわだかまりもなく家事を半分支えてくれる。私が若い学生達にいうことは決まって「自分を見つけるまでは結婚なんかしたら駄目よ」であるが、こればかりは、やってみなければ分からないようで、かくして歴史は繰り返すのだろう。



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