1.上陸〜五稜郭入城まで







M(明治)1.10.19
榎本艦隊、蝦夷・鷲ノ木を目指し宮古湾を出発。

10.19出発 「南柯紀行」より
10.20出発 「蝦夷錦」より


「南柯紀行」の著者でもある大鳥圭介は旗艦「開陽に、「蝦夷錦」の著者でもある荒井宣行は「回春」にそれぞれ乗船した。

「蝦夷錦」によると、鷲ノ木上陸を決めたのは榎本武揚だったようで、以下のような言葉で周囲を納得させたという。

「この地より箱館へ近しと言えども、ただちにかの港に入らば防御の備えあらん。同港より十余里東北にあたり鷲ノ木という港あり。総軍、この所に上陸し陸道を経て箱館に到らん」
(直接箱館へ乗り込んでいれば、箱館府の連中も防戦してくるだろうから、箱館から離れた場所に上陸しよう)



M1.10.19〜23
旧幕府軍、蝦夷着に到着。

大鳥によると、「開陽」は19日の午後、鷲の木に到着。「長鯨」と「大江丸」はそれより先に到着していて、その他の船も追々後に到着したというが、実際は、そうすんなりとはいかなかったようだ。

「回春」に乗船していた荒井によると、「回春」は「長鯨」に曳かれて航行していたが、恵山岬辺りで強い西風にあおられ、常呂という場所で引き綱を切り離された。

引き綱を切られた時、「回春」の船体が「長鯨」の下腹にあたり、帆綱が碇にひっかかって、「回春」は転覆しそうになる。それを救ったのは「蝦夷錦」の著者でもあり、額兵隊の士官でもある荒井宣行だった(とっさに刀を抜いて、帆綱を切断したという)。

「回春」は常呂沖に2日間停泊し23日に鷲ノ木に到着。
「長鯨」は間違って室蘭に入り、25日に鷲ノ木へ入港した。

鷲ノ木は、「甲板上に出て四方を望むに、積雪山を埋め、人家も玲瓏として、実に銀世界なり」と大鳥圭介が書いているように、1尺(30cm)ばかり雪が積もっていた。

酷寒の中、端船に乗り移るのに失敗したり、端船がひっくり返ったりして、16人の犠牲者が出た。この16人と戦争初期段階での死者が、上陸地からすぐの場所にある墓地(霊鷲院というお寺が管理している)にひっそりと埋葬されている。

墓地のそばに建つ「箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑」


<旅行こぼれ話> H15.8.15

「榎本軍鷲ノ木上陸地碑」や「箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑」のある場所はきちんと整備されて公園のようになっています(ちょっとした資料館もありますが平素は鍵が閉まっているようです)。

道路をはさんだ向かの霊鷲院は、旧幕府軍ゆかりのお寺であり、「箱館脱走人名簿」を所蔵していることで知られています。

このあたりは森町といいまして、森町物産センターという所へ行けば幻の銘菓(?)「榎本武揚」を買うことができます。

餡入りでちょっと上品などらやき風。
是非、ご賞味あれ!


M1.10.20-22
箱館府総督・清水谷公考(きみなる)への使者、峠下で新政府軍を相手に奮戦。
五稜郭入城。

荒井宣行によれば、使者は小芝長之介と加藤昇太郎の2人で、榎本から以下のような嘆願書を託されていたという。

「我が輩、天朝へ嘆願書を捧げ、この地に渡って勅令を待つもので、卿らにいささかも遺恨なし。しばらく箱館で兵をまとめんとす。卿、幸いにこれを許せ」
(嘆願書の返事を箱館で待ちたいので許可して欲しい)

しかしながら「人見寧履歴」では、使者は人見勝太郎と、歩兵一小隊士官の大川正太郎と滝川道太郎(伝習歩兵隊長の大川正次郎と伝習士官隊長滝川充太郎のこと)、ラッパ手、その他数名となっている。

箱館を目指した人見たちは、鷲ノ木(20日泊)→雪中(21日泊)→峠下と進むが、雪の中での移動は「風雪面をうち冷気胃に刺す」大変さだった。

峠下に到着したのは22日の夜半。「おおいに疲労」していたので民家に投じて仮眠していると、左右の山の上から新政府軍が攻撃をしかけてきた。

弾雨が雨のように民家にそそぐ中、匍匐(ほふく)して灯火を消し、雪明りで浮かび上がる山上の敵を狙撃。さらには後方の峠の中腹へラッパ手数名をのぼらせて進軍ラッパを吹かせ、それを合図に吶喊(とっかん)したところ、敵はたちまち大砲、小銃、さらには多数の死者を残して大野村、七重村方面に敗走した。

人見たちは富士山村まで進撃した後、峠下へ引き揚げ、一休みしてから、敵の死傷者を処置したという(埋葬したり手当てをしたり…)。

結局、嘆願書は宙に浮き、五稜郭無血入城も実現しなかった。
箱館府総督の清水谷公考は、20日の夜には「榎本軍、鷲ノ木沖に集結」の情報を入手。鷲ノ木から箱館に到る街道に兵を派遣しており、人見たちに夜襲をかけたのはそのうちの一部だったというから、なかなかの情報力である。
それにしても、武装した大軍を30人程度で蹴散らすとは…旧幕府軍、恐るべし。



M1.10.22〜24
大鳥軍、土方軍の二手に分かれて箱館に向け進軍。
大鳥軍は人見たちと合流し新政府軍を追撃。
文月陣屋(四稜郭)を守っていた松前兵は陣屋を自焼し逃走。

箱館の無血占領に失敗した榎本武揚は、軍を2つに分けて箱館を挟撃する作戦に出る。以下は軍議での榎本発言(思い切り戦闘モードだが、どこかゲーム感覚でもある)。

「我輩が箱館に繰り入れたなら、清水谷に従う諸藩は兵を出して防御するだろう。もとより恨みがあるわけではないが、向こうから兵端を開いたからは、やむを得ず戦闘に及ばん。試みに両道より兵を出して箱館に到らしめん」
(我々が箱館へ入れば、清水谷に従う新政府軍は防戦してくるはずだ。彼らに恨みがあるわけではないが、向こうから戦をしかけてきたからには、やむをえず戦う。試しに軍を二手に分けて箱館へ進軍させてみよう)

<大鳥軍=本道口>(人見たちが進んだのと同じ山越えルート)
軍監・大鳥圭介 以下、遊撃隊、伝習隊、新選組(総勢400余名)
<土方軍=海岸間道口>(海岸を進み川汲から山越えして箱館へ到るルート)
軍監・土方歳三 以下、陸軍隊(+新選組1小隊)、額兵隊(総勢400余名)

本道口を進んだ大鳥軍は23日の夕方に峠下に到着し人見たちと合流。
その夜の軍議で大野村と七重村に敗走した新政府軍を追撃することに決定。

<大野村>
軍監・大鳥圭介 以下、第一大隊と第二大隊の3小隊、士官隊の2小隊、計5小隊
<七重村>
軍監・人見勝太郎及び佐久間悌二郎 以下、遊撃隊、新選組工兵方

大野村では2時間余りの戦闘の後、新政府軍が武器弾薬を残して千代田方面に敗走。七重村でも同じく2時間余りの激戦の後(敵400対味方250で大苦戦)、新政府軍は数十名の死傷者を置き去りにして敗走。

遊撃隊は、この戦いで副隊長の大岡幸次郎、杉田金太郎、諏訪部信五郎、阿部井正治(遊撃隊に編入されていた会津藩士)、小笠原胖之助(三好胖とも。唐津藩主・小笠図書頭の弟。享年17歳)ら多数の死傷者を出した。

その後、大鳥は、大野村から1里ほど西にある文月村の陣屋(松前藩・戸切地陣屋)に3小隊を送ったが、陣屋を守っていた兵が陣屋を自焼して逃走したので、激戦には到らなかった。

大鳥軍、人見たち30名あまり、鷲ノ木から派遣されてきた一聯隊200名は、25日の朝には七重村に終結し、五稜郭へ向かった。
25日は赤川村で一泊したが、大鳥軍はこの日以下のような情報を収集。
・新政府軍は五稜郭を捨てて逃走(地元民を派遣して探らせた)。
・津軽兵も自藩の千代ヶ岡陣屋に火を放って退去し清水谷卿と合流。
・土方軍、湯の川に到着(温泉で一休み?)。
・箱館沖に旧幕府艦隊「回天」が来航(援軍に来たらしい)。

26日、五稜郭に入城(裏門から入城したらしい)。

五稜郭裏門は観光客の姿もまばら。
花と鳥が一杯な上、碑の写真も撮り放題。
表は人が多くてこうはいかない。


<旅行こぼれ話> H15.8.13

「文月陣屋=四稜郭」とあったので、旧幕府軍がたてこもった四稜郭のことかと思っていたらそうではありませんでした。史料では文月陣屋になっていますが、一般的には戸切地陣屋(へぎりちじんや)と言います。

旧幕府軍の四稜郭は急ごしらえのもので、建物などはなかったようですが、こちらの四稜郭には17棟の建物があったようです。

すばらしく整備されていて、どこにどのような建物があったのかがわかるようになっています。建物ごとに案内板が設置されていて、例えば米蔵の案内板には「当時、米は1人1日白米5号、特に重労働の中間(ちゅうげん)には、玄米7号5勺が与えられました」といった興味深い記述も。

桜の木がたくさん植えられていて、5月頃に行くと、きっとステキですよ。

建物や柱のあった場所がわかるように
なっている。一見の価値あり!


M1.10.22〜24
額兵隊、川汲峠で奮戦。

陸軍隊(隊長・春日左衛門)、額兵隊(隊長・星恂太郎)からなる土方軍は、両隊隔日の先鋒と定めて進軍した。

星恂太郎の日記には、「天色朦々(もうもう)、寒風肌を裂くがごし。寒威を犯して進軍す…北風ますます激しく、雨雪混じり降りて、将より卒にいたるまで、身に纏(まと)うに単衣の戌服(額兵隊は英国式の軍服を着用。赤と黒のリバーシブルになっていて、平素は赤、夜襲をかける時はひっくりかえして黒にする)を纏うのみにて、足に袋なく、頭に笠なく、満身濡れざる所なく、四肢亀手してほとんど凍餒(とうたい=凍えて飢える)せんとす」とあり、額兵隊士はおなじみの赤い軍服一枚で、全身びしょぬれになりながら行軍したようだ。

22日に砂原、23日には鹿部に宿陣。
24日に川汲着。

軍監の菰田元治が7〜8名の額兵隊士を率いて近くの湯本(湯本とは温泉の湧き出る場所のこと。川汲は温泉地)へ斥候に行った所、同地に布陣していた新政府軍が攻撃をしかけてきた。

菰田の連絡を受けた星恂太郎は、ただちに兵を率いて湯本へ向かったが、到着した時には新政府軍は峠の上に引き揚げた後だった。

川汲から峰に上る道は本道と間道の2つ。
菅原隼太率いる1小隊が間道を、網代清四郎と堀口秋次郎率いる1小隊が本道を登ったが、どちらの道も言語に絶する断崖絶壁の上、鏡のように凍っていた。
網代たち本道組が這うようにして進んで行くと、新政府軍が高い位置から攻撃してきた。

なすすべもなく、その場に釘付けになっていると、間道を進んだ菅原たちが新政府軍の背後の山上にたどり着き、小銃の一斉放射を開始した。
新政府軍が狼狽したのに乗じて、網代たちも本道を攻め上り、銃を捨て、刀を振るって、奮戦した。

一気に形勢逆転された新政府軍はあわてて逃走。川汲峠の戦いに勝利した菰田らは、雪が深い上に寒風が吹きすさぶ山上に陣を張るのは困難だと判断し、湯本の本陣に戻った。

菰田の報告を聞いた星恂太郎は激怒した。
「それ、この川汲の峠たるや東蝦夷地三嶮の1つにして、1つこれを守れば、万卒犯すあたわざるの絶嶮なり、今、幸いに敵弱く、いまだ備えなきを討ちてこの嶮を得たるは、実に味方の僥倖にして、力をもって得たるにあらず。いずくんぞこれを捨て、安閑と枕を高くし、麓に宿陣するの理あらんや。後、臍(ほぞ)をかむとも、及ぶべけんや」
(川汲の峠は、東蝦夷三嶮の1つで、これに拠れば何者もおかすことはできない。たまたま敵が弱かったから、今、この嶮を得ることができただけで、実力で手に入れたわけではないというのに、なぜ、安穏と枕を高くし、ふもとに宿陣するのか。後に、あの嶮を敵に奪われて、ほぞをかむとしても、その時はもう手遅れなのだぞ)

ものすごい迫力で部下を黙らせた星は、自ら松明を手にすると真っ先に峠によじ登った。
山上の積雪は3尺以上(1mぐらい)。
星の詩的な表現によれば、「白雪皎々として銀のごとく。鮮血点々落花のごとし。寒風颯々として肌に徹す」という状況の中、額兵隊士たちは、木を倒し、その枝を切って火を焚くなどして、野営を敢行した。

星恂太郎。30歳。小柄でほっそりしていて色白。目がぱっちり。一見、女の子のようだったというが、外見にだまされてはならない。



M1.10.25〜26
野村利三郎、春日左衛門、先頭争いで一触即発。

土方軍が陸軍隊を先鋒に湯の川に入ってみると、敵兵の姿はなかった。
その日は湯の川に宿泊し、翌・26日に五稜郭へ向けて出発。
そして、事件が起こった。

新選組の1小隊を率いて陸軍隊と行動を共にしていた野村利三郎(当時25歳)が、陸軍隊隊長・春日左衛門(当時24歳)の指示を待たず勝手に先頭に進み出た。春日は野村を止めるようにと配下の者に命じたが、野村は無視して進んで行く。怒った春日は自ら駆けて行って野村の前に立ちふさがった。以下、2人の会話。

野村「鷲ノ木をいでしより以来、我が輩を後にして、汝の隊を先鋒に進ましむ。我が率い来たる兵を弱兵と侮(あなど)り、後にせることを恨む。これによりて、今日自ら先鋒せり」
(あんたは、鷲ノ木を出発してからずっと、我々新撰組を後ろに配置し、自分の隊(陸軍隊)を先鋒にして進んでいる。俺が率いる兵士たちを弱兵と侮って、後ろに配置するなんて、ひでえじゃねえか。もう我慢ができない。今日は俺達新撰組が先鋒をつとめさせてもらうぜ)

春日「汝、速やかに後陣に下れ。軍令を乱すにおいては罰を加えん」
(さっさと後ろに下がれ、軍令を乱せば、罰するぞ)

野村「我、汝が私の令(私心で発した命令)をただすものにして、軍令を乱すにあらず。汝、我を罰するにおいては、我、また、汝を罰せん」
(俺は、あんたが私心で発した命令をただしているだけで、軍令を乱しているわけじゃない。あんたが俺を罰すると言うのなら、俺もあんたを罰してやる)

野村が啖呵をきれば、春日も刀を抜く。双方の兵も、隊長に危険が迫ったのを見て、それぞれ銃を構えて今にも引き金を引きそうな勢い。
それに気づいた伝習隊ラッパ指図役・小泉喜三郎が両者の間に割って入り「双方、しばらく静まるべし」と大声を張り上げたところで、土方歳三が駆けつけた。

恐らくは鶴の一声だったのだろう。
土方の制止で野村も春日も静かになった所に、榎本武揚の使者がやってきて、本道口を進んだ味方の軍(大鳥軍)が既に五稜郭に入城していることを報告した。
味方同士で戦闘争いをしている場合ではない。
土方軍もこの日のうちに五稜郭に入った。

陸軍隊隊長・春日左衛門。
3000石(1200石説も)の名門旗本の跡取りで、幼い頃から朱子学を学び、剣の腕は道場を構えるほどだったという。さらには、「美麗にして尤も強気あり」と評された美男子でもあり、天からニ物も三物も与えられた人物と言えそうだ(しかし運には恵まれていない)。

その春日が、後日、榎本武揚の所へ押しかけて行ってこう言った。
「我が令の悪きあらば、これを説き、用いざるにいたらば総督に告げ、これをたださしむべきに、野村、湯の川にて我を侮り、抜刀して我に迫る。我もまた、彼を討ちて軍法をたださんとせしが、土方等これをとどむ。故にしばらくこれを許せり。総督、願わくば、軍法を行え」
(私の命令に悪い点があれば、これを説き、命令に従えぬというのであれば、その旨を総督に告げ、間違いをただすべきであるのに、野村は湯の川で私を侮り、抜刀して迫ってきた。私も野村を討って軍法をただそうとしたが、土方らがこれをとめたので、あの場はうやむやになってしまった。今こそ軍法をもって、あの男を裁いてもらいたい)

けれども榎本は野村をかばった。
「野村が性質、強勇短気にして身を誤るといえども、志、清直の士なればその人となりを惜しみ、死を許して箱館に到らしめ、市中取締を司らしむ」
(けんかっ早くて、身を誤ることはあっても、一本気な性格の持ち主であり、殺すのは惜しい。死を許して箱館の市中取締りを任せることにします)

榎本がどれほど野村をかっていたかは不明だが、かりに全然かっていなかったとしても、こう言わざるを得なかっただろう。春日の言っていることは、それなりに正論なのだが、野村を死刑にすれば新選組隊士が黙っていない。
寄せ集めの軍を束ねるはなかなか大変なのだ。



<旅行こぼれ話> H15.8.14

湯の川温泉の「湯の浜ホテル」には、土方歳三ゆかりの露天風呂(女性用のお風呂には「歳三の湯」という名前がついています)があります。

このホテルは現在の社長さんで3代目ということで、箱館戦争当時から続いているわけではありませんが、露天風呂に入ると、以下のような内容の説明がかかげられていました(お風呂ででメモをとったわけではないので、そのまま抜粋したものではありません)。

『峠下の戦いに勝利した土方軍は湯の川に到着した。当時、湯の川には小さな旅館が3軒あっただけで、土方は、その中の1つで文久3年に旅館を始めた仁左衛門の宿に士官ともども宿泊して本陣とし、天幕をはって夜営している兵士たちに交代で湯を使わせた。蝦夷地平定後も、風呂好きの土方は、時間を見つけては馬に乗って湯の川を訪れたという』

この文章から想像するに、仁左衛門の宿の跡地に「湯の浜ホテル」があるということなのかな?

海に面した小さな露天風呂は箱館戦争当時を彷彿とさせてくれます。潮騒に耳を傾けていると、土方さんも、こんな風に温泉につかって海を見ていたかもなんて思ったり…。

あっと驚くほど海鮮料理が出て来る。
土方さんは、こんなの食べなかっただろうな。



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