2.松前へ向け進軍〜蝦夷地平定







M1.10.28-11.2
松前兵、夜襲に失敗。
額兵隊・星恂太郎と彰義隊・渋沢誠一郎、福島の松前藩本陣を襲撃。

松前藩の福島本陣を攻撃すべく進発したのは土方歳三を総督とする500余名(彰義隊、額兵隊、陸軍隊、砲兵隊)と、それに続く衝鋒隊200名の計700名。

10月28日。一行は五稜郭を出発。
11月1日。知内に到着(ここから先は松前藩の領地)。
知内から福島までは約7里。その中間地点にある一ノ渡に松前兵が布陣しているという情報を得て、彰義隊と額兵隊は萩去まで進み、土方は陸軍隊と共に知内に滞陣した。

対する松前藩は、50余名を小船で脇本まで運び、そこから知内にいる旧幕府軍に夜襲をかけさせた。
藩命を受けた50名余は村に火を放ち攻撃を開始。
夜襲にいち早く気付いた陸軍隊隊長・春日左衛門の命を受け、ラッパ手が合図のラッパを吹くと、兵はただちに本陣に集結。小銃を撃ちまくって敵を脇本まで敗走させた。

11月2日。春日左衛門は陸軍隊1小隊と、知内方面から上がる煙を見た星恂太郎が援軍として派遣してきた額兵隊1小隊を率いて脇本へ向かったが、松前兵は既に脇本を捨て、福島へ引き揚げた後だったので、そのまま福島へ向け進軍。

一方、萩去では、先鋒の彰義隊と、それに続く額兵隊が一ノ渡まで進軍。
先に一ノ渡についた彰義隊が同地で兵糧を用意していると、そのわきを星恂太郎率いる額兵隊が通過。先鋒の彰義隊はもちろん黙ってはいない。

彰義隊長・渋沢成一郎「先鋒の我が隊進まざるに、なぜに先に兵を進む?この所において、粮を喫し、しかる後に兵を出せ」(先鋒の我が隊が進まないのに、なぜ先に兵を進める、ここで兵糧を食ってから、しかる後に兵を出したまえ)

額兵隊長・星恂太郎「我が隊の兵糧は昨夜知内の夜襲にしてことごとく焼失せり。よりて速やかに福島に向かいて敵を追い払い、その粮を奪って兵を養うの策なり」(我が隊の兵糧は昨夜の知内の夜襲で全て焼失しました。よって速やかに福島へ進軍し、敵を追い払い、その兵糧を奪って兵を養うつもりです)

わき目もふらずに先を行く星を見て、渋沢もせっかく用意した兵糧を放り出し、兵を率いて走り出した。

松前兵は福島の1里ほど手前に胸壁を構えて布陣していたが、星恂太郎率いる額兵隊は、たちまちこれを討ち破った。
胸壁を破られた松前藩は福島の法界寺を本陣とし、大砲や小銃を撃ちかけてきたが、彰義隊は正面から、額兵隊は左右から、一気に法界寺に攻め込んだ所、敵はあちこちの民家へ火を放ち、そのまま松前方面に退いた。
この日、松前藩の戦死者は十余名。旧幕府軍の戦死者は彰義隊士・毛利秀吉1名(毛利秀吉の墓は今も法界寺にある)。

「今夜は敵必ず襲来するの憂いなかるべし。何れも快く休め。敵は駅々に火を放ちて去りしは、追っ手を恐れ道を絶しものなり。疑うことなかれ」
(今夜は敵襲の心配もない。皆、心置きなく休んでくれ。敵が要所要所に火を放って退いたのは、我々の追撃を恐れて道を遮断したからだ。安心しろ)
星恂太郎は、兵を集めて労をねぎらうと、酒肴を与えて勝利を祝い、十分に休養をとらせたという。

戦う時は雪の中だろうが、食糧がなかろうが、徹底的に戦う。
そうでない時は酒を与えてしっかり休ませる。
硬軟備えた「できる男」とは星恂太郎のような人のことを言うのかも知れない。

松前藩の福島本陣だった法界寺。
彰義隊の毛利秀吉は先頭きって騎馬で法界寺に突進。門をくぐった所で狙撃され胸に銃弾を受けて討ち死にした。
松前藩は法界寺に隣接する福島大神宮に大砲を設置して応戦。(残念ながら木碑の文字はほとんど読めません)



<旅行こぼれ話> H15.8.13

毛利秀吉は20代前半の青年で、なかなかの美丈夫でした。
上野彰義隊の八番隊に所属していた頃、彼に懸想した小稲さん(!)の積極的なアタックが実を結びまして、2人は晴れて両思いとなり、毛利さんは三日にあげず稲本楼を訪れるようになったそうです(小稲さんと言えばイバハチなのに)。

小稲にお小遣いまでもらったりして、すっかり有頂天になっていた秀吉ですが、調子に乗りすぎて10両のお金を無心したことで、愛想をつかされてしまいます。

辛くも上野戦争で生き残った彼は、榎本艦隊で蝦夷地へ向かい、明治元年11月の松前戦で命を落とすわけです。蝦夷地にぽつんと建つ古ぼけた墓石の背景にも、こんな風に様々なドラマがあるんですね。

法界寺にある毛利貞吉のお墓。
お盆なので、きれいな花を手向けられていて何となく嬉しかったです。



M1.11.5
土方軍、松前城を攻撃。

松前城では、家老の蛎崎民部が総大将となり、1千余の兵で城を防御。城外にも複数の砲台を築き旧幕府軍を待ち構えた。

藩主の松前徳広(のりひろ)は病身で軍事に携わることができなかったので、松前から20里ほど離れた所にある舘村の城に非難していたという。

11月3日。旧幕府軍の軍艦「蟠竜」が敵の動静を窺うために松前の港内に入った途端、松前藩の5箇所の砲台が一斉に火を吹いた。2発の砲弾が命中し、思わぬ痛手をこうむった「蟠竜」は、大した活躍もせぬまま、その夜のうちに箱館に帰還している。

11月5日。早朝。旧幕府軍は福島の法界寺を出て松前城に向かった。この時の先鋒は彰義隊で、第2軍は陸軍隊。額兵隊は殿(しんがり)をつとめた。

「蟠竜」は帰還したが、味方の軍艦が大砲を撃つ様を目撃した陸軍は、「海軍は既に迫りたり。速やかに進んで一同に攻めよ」(我々の海軍は既に松前城に迫っているぞ!速やかに進軍して攻撃を共にせよ!)と勇みたち、根森の台場から松前兵がしきりに砲撃してくる中を駆け出した。

それを見た松前兵は台場を捨てて後退。及部川を隔てて防戦に努めたが、先鋒の彰義隊は猛烈な勢いで川を渡り、正面から松前城に迫った。それに続く陸軍隊と額兵隊は城の背後に回り込んで、一斉に攻撃を開始した。

額兵隊の砲長・菅野半左衛門が法華寺の高台から撃った弾が、城中の厩に当って爆発して、城内に火の手があがった。

必死に防戦に努める松前兵は、城門に野戦砲を設置して、発砲しては門を閉ざし、砲弾の充填を終えてから再び門を開けて発砲するという防御策を展開。思わぬ奇策に苦戦した旧幕府軍は、十数人の兵を門の前に並べて銃を構えさせ、門が開いてから砲手が大砲を撃つまでの間隙を狙って一斉に狙撃させた。
あわてふためいた松前兵は門を閉める間もなく逃げ出した。

この日は、旧幕府軍の「回天」も応援にかかつけ、海からも城を攻撃したが、波が激しくて運転が思うようにならないために早々に攻撃を取りやめ後退した。
「蟠竜」も港の入口まできたが、こちらは波浪に遮られて、湾内に入ることさえできなかった。
榎本艦隊はお天気の神様に見放されていたのかも知れない。

松前城。
昭和35年に再建された天守閣の中は資料館になっていて、旧幕府軍・松前奉行だった人見勝太郎の男前の写真も飾ってあります。



M1.11.5〜11.11
土方軍、松前城に入城。

旧幕府軍は城の前後左右から攻め入った。
踏みとどまった松前兵が応戦してきたが、大半が逃げ去った後となっては多勢に無勢。勝ち目はなく、ある者は倒れ、またある者は敗走し、城は旧幕府軍におさえられた。

松前藩士は江差方面に逃げたが、中には馬に乗り、雑沓に紛れて走り回りながら、手にした松明で次々と民家に火を放ち、金を奪って去る者までいた。
そのために、松前城下の4分の3は火の海となり、逃げ惑う人々で大混乱となった(焼失民家の数は1980戸)。

額兵隊士・荒井宣行の「蝦夷錦」には、「我が兵、処々より城内に攻め入り、即ち日の丸の旗を楼上に立てたり」とあるが、日章旗を立てたのは先鋒の彰義隊士ではなかった。
城内に一番乗りしたのは確かに彰義隊だったが、隊長の渋沢成一郎が、わき目もふらずに金蔵に直行したため(ここにも火事場泥棒が!)、彰義隊は楼上に旗を立てる栄誉を逸してしまった。
その後、渋沢は隊長の座を下ろされ、頭取の菅沼三五郎が隊長に就任。渋沢は腹心の部下80名とともに小彰義隊を組織している。

松前城下の混乱を収拾するために、旧幕府軍の士官である大鳥圭介が仮の総督となり市中に裁判所を設けた。旧幕府軍は逃げ送れて捕虜になった松前藩士1人1人と面談し、藩主の元に行きたい者は船で送ってやり、帰農したいという者は帰農させ、同盟を望むものは旧幕府軍に迎え入れた。また、人見勝太郎の手記よれば、城の中に取り残されていた婦女子についても藩主の元に送り届けてやったという(この温情主義を新政府軍は見習うべきだと思うのですが…)。

ある日のこと、額兵隊隊長・星恂太郎が、隊士が市中で捕らえた松前藩士2名(久下琢巳、湯嶋甚左衛門)を土方歳三の元へ連れて来た。
2人の松前藩士に向かって土方はこう言った。

「我が軍、松前氏に恨みなき事、皆、人の知るところなり。よりて初め、桜井恕三郎らをして、和を結ばさんと欲す。松前人、これを拒み、知内を夜襲し、かつ福島などに兵を出すによりて、やむを得ず攻めてついにこの城を得たり。片時もここを守るを快しとせず。ゆえに我、また、兵を進めて江差に向かわんとす。汝ら、我と共に江差に行き、我の和を勧むるを述べよ。汝が主、果して和を欲せば、我、また兵を引きて箱館に帰り、この城を汝が主に与えん」(我が軍は松前藩を恨んでなどいないことは周知の通りである。そこで先に桜井恕三郎を通じて和議を結ぼうとしたのだが、あなた方はこれを拒否して知内に夜襲をかけ、さらには福島などに兵を繰り出してきたので、やむを得ずこの城を落としたのである。この城に居座っているつもりは毛頭ない。よって我々は再び進軍し江差へ向うつもりだ。あなた方も、私と共に江差へ行き、我々の使者となった和議を勧めてはもらえないだろうか。藩主がもしも和議を受け入れるなら、我々は兵を引いて箱館に戻り、この城は松前藩にお返しする)

土方の申し出を受け入れた2人の捕虜は星恂太郎の陣営に預かられることになった。
どこまでも紳士的&人道的な旧幕府軍。
彼らが基本的には戦闘を望んでいないことがよくわかる。
しかし、その誠意は松前藩には通じない。



<旅行こぼれ話> H15.8.13

松前では松前城からすぐの「温泉旅館 矢野」に泊まりました。
たまたま「城下時代祭」の真っ最中で、旅館の前の通り(松前のメインストリート)をおみこしが練り歩き、温泉やおいしい料理と一緒に、お祭り見物も楽しむことができました。

おみこしの上には女の子が乗っています。
上半身裸の男たちが夏気分を盛り上げていますが、気温はかなり低めです(浴衣に丹前ぐらいでは長時間屋外に立っていられない)。

北海道の夏は涼しくて短い。
それだけに、お祭りに参加する方も見物される方も、本当に嬉しそうでした。お祭りが終わった後、広場に集まった人たち(若い男性)が、大声で「輪になって踊ろう」を歌いながら踊っていましたよ。

松前の「おみこし祭り」には、北海道各地から「みこし会」の面々が駆けつけます。



M1.11.12〜11.13
土方軍、江差へ向け出発。
松前藩の間者、宿場に潜入し毒を盛る。

11月12日(「蝦夷錦」では12日、「北洲新話」では11日)。土方歳三率いる旧幕府軍は松前城を発し江差へ向かった。先鋒は額兵隊、続いて衝鋒隊、そして殿(しんがり)が彰義隊(渋沢成一郎の小彰義隊は松前に残る…奪ったお金はどうしたの?)の計500余名。

13日。先鋒の額兵隊、原口に到着。
この日、村人から出された蛸の酢味噌和えを口に入れた額兵隊士10余人が、急に苦しみ始めて食物を嘔吐。
軍監の金成善左衛門(この人の妹は星さんの妻です)が、その家の男女を捕らえて糾明すると「何も知らない」と答えたので、問題の蛸の酢味噌和えを無理やり食べさせた所、男女ともやはり苦しんでそれを嘔吐。

再び糾明を開始すると、宿主はしばらく考えた後、次のように答えたという。
「君らと一同下僕来て、兵糧の周旋したる人あり。しばらくにして行方を知らず。さだめて、あの者のせいならん」(あなた方の下僕が来て、兵糧の手配をしましたが、しばらくの後、行方をくらましてしまいました。きっと毒を仕込んだのは、あの者でしょう)
兵糧の周旋をしたのは松前藩の間者だった。

そのことを、江良に宿陣していた星恂太郎に報告すると、星は驚き、すぐさま医官の伊東友賢(プロテスタント受洗した最初の東北人らしい)を原口に派遣。伊東は毒をもられた隊士を診察し、「これ、砒石を入れ食わしむと見えたり。しばらく吐かしめてその毒を払えば、しばらくにして治せん」と言って薬を与えた。

伊東はなかなかの名医だったようで、彼の言った通り、翌朝には全員が回復した。



M1.11.13〜11.14
松前藩との和議ならず。
額兵隊、大滝の戦闘で松前兵を敗走させる。

星恂太郎が面倒をみていた松前藩士(久下琢巳、湯嶋甚左衛門)は、その後、どうなったか。

「毒入兵糧事件」があったのと同じ日、星は久下と湯嶋を和睦の使者として、松前藩の陣屋がある大滝へ派遣した。2人は大滝の陣屋(松前兵200余人)に入った後、2人の松前藩士を連れて戻って来た。

以下、2人の松前藩士と星隊長の会話。
松前藩士「これより、厚沢部へ到り、主を諌めて和をはかり、三日にして必ず答えん。足下、兵をここにとどめて、これを待て」(いまから厚沢部へ行って、主君を諌めて和議をはかり、3日後に必ずお返事します。兵をここにとどめて、それまでお待ち頂けますように)

星隊長「三日を約して兵をとどめることを許すといえども、足下ら大滝の要害において我と対陣するにおいては待つことあたわず。兵を石崎に退けて日を約するにあらずんば、暫時も我が兵をとどめがたし」(3日後の約束をして兵をとどめるのは良いとしても、ここ大滝の要害の地において、あなた方と退陣したまま待つわけにはいかない。あなた方が兵を石崎まで退いた上で、日を約するのでなければ、一時も我が兵をとどめることはできませn)

松前藩士「我が輩、君命を奉じて守る地を、私(わたくし)に一歩も退くあたわず。本陣に帰り、衆議の上、明朝、答えん」(君命を奉じて守っている土地を勝手に退くわけには参りません。本陣に帰り、話し合った上で、明朝お返事します)

星隊長「明朝、我が兵を出して大滝に向うべし。その時、同所の陣を退げずんば、ただちに戦争に及びん。速やかに行きて国家の無事を謀れ」(それでは明朝まで待って、大滝へ進軍しましょう。その時、同所の軍を退けていなければ、ただちに攻撃を開始する。急いで行って尊藩の安全をはかられよ)

上記のやり取りの後、松前藩士たちは大滝陣屋へ戻っていったが、翌日、星隊長自らが先頭に立ち軍を率いて大滝へ入ってみると、和議どころか、松前藩は大砲でしきりと攻撃してきた。
星恂太郎は、やむを得ず、砲兵隊を前に出し大砲で応戦。
銃兵を散開させ、沢(山間の谷川)を隔てての戦闘となった。

星自身が松前藩士に語ったように、大滝の地は要害の地。
左手には海、右手には高い山があり、敵陣までの距離はわずかだが、攻め入ることは難しい。そこで星は、菅原道守に士官一小隊を与えて右手の山に上らせ、上方から敵を銃撃させた。松前藩は頭上からの攻撃に驚き、一人残らず陣を捨てて江差方面に退いた。

この夜、旧幕府軍は石崎まで進んで宿陣した。
石崎には、前日、和議の使者にたった松前藩士・湯嶋甚左衛門が身動きできぬよう縛られたまま放置されていた。

星は再び湯島を助けた。
味方の手によって縛られ、戦場に置き去りされ、そして、敵に助けられ…。
湯嶋甚左衛門は複雑な思いだったに違いない。



M1.11.15〜22
額兵隊長・星恂太郎、衝鋒隊に先鋒を譲(ゆず)る。
江差制圧。

11月15日。旧幕府軍は江差へ向けて進軍することになった。
いよいよ出発という段になって、衝鋒隊長の長井蠖伸斎が、額兵隊長の星恂太郎の元へやってきた。

長井「今日、我が軍、江差に入る。願わくば我に先鋒を譲れ。足下は五稜郭を出しより以来、処々の戦場に功を立て、殊に昨日大滝にて大功を立てたり。我が兵、終始、後陣していまだ功を顕さず。今日、江差落去に到りては、兵に功を立てさすべき期なし。足下、これを察し我に許せ」(今日、我が軍は江差へ入るが、我が衝鋒隊に先鋒を譲ってもらえないだろうか。額兵隊は五稜郭を出て以来、あちこちの戦場で手柄を立て、ことに昨日の大滝では大功を立てた。しかし、我が兵は、ずっと後陣にあり、何の手柄を立てることができないでいる。そして、今日、江差が落ちてしまえば、隊士たちに手柄を立てさせる機会を失ってしまう。星君、このことを察し、頼みを聞き入れてはもらえないだろうか)

渋沢成一郎なら即座に断わったかも知れないが、親切な星は断わらない。「足下の言、誠に感ずるに堪えたり。然れども総督の指揮に非ずんば譲ることあたわず」(おっしゃることはごもっともですが、総督の指揮を無視して先鋒をお譲りするわけにはいきません)と、自ら土方歳三の所へ相談に行った。

星が了承しているのなら、土方も文句を言う理由はない。
「互いに士情をもって、譲り譲らるるにおいては、その意に任ずべし」(お互いに武士の情けをもって、譲り譲られるにおいては、その意に任せる)との回答を得て長井の願いは叶えられた。

先鋒になった衝鋒隊は功を立てることができたのだろうか?
答えはNOである。
彼らが江差に到着した時、松前藩は敗走した後だった。そして、彼らを迎えたのは、他ならぬ味方の海軍だった。長井蠖伸斎はがっかりしただろうが、その夜、長井のがっかりなど問題にならないほどの悲劇が旧幕府軍を襲う。

「開陽」、座礁。
「これ、天、我輩を亡ぼすのきざしか…」
額兵隊の荒井宣行は歎いたが、それは、やがて現実のものとなる。



M1.11.10〜11.12
一聯隊の動向。
石井梅太郎、松前兵に斬殺される。

話を少し前に戻す。
松岡四郎次郎率いる一聯隊3小隊が箱館の五稜郭を発ったのは11月10日のことだった。途中、大野村に宿陣し、同地を守っていた一聯隊2小隊(200余)と合流して、二股口を経て江差へ向かう。

積雪1m以上。一の渡村からは険しい山道となる上、松前兵が大木や岩石で道を塞いでいると知った彼らは、きこりを雇い、鋸や斧で道なき道を切り開きつながら進んで行った。

そして、悲劇が起こる。
農民2人を連れて、敵の動きを探りに行っていた指図役並の石井梅太郎が、松前兵に捕らえられた。

石井は、地元民になりすまして松前兵をあざむき、稲倉石ノ関門を抜けようとしたが、門を越えたところで、たまたま、敵に呼び止められしまう。弁解しようとして、誤って懐に忍ばせていたピストルを露見させてしまった所で、彼の命運は尽きてしまった。

もう、逃げられないと悟った石井は、辞を正して松前兵に向き直った。
「我は探索に来たれる者なり。速やかに首を刎ぬべし。1人は道連れの僧にして、2人は全く嚮導の土民也、敢えて罪ある者にあらず。願わくばこれを助けよ」(私は探索に来た者である。速やかに首をはねられよ。だかこの者は道連れの僧侶であり、後の2人は道案内の土民にすぎない。願わくは罪のないこれらの者を助けて頂きたい)

しかし、石井の願いは聞き届けられなかった。
やがて(11月12日)稲倉石ノ関門は一聯隊によって破られる。
松前兵は、関門を捨てて逃げる直前に、石井を含めた4人をことごとく斬殺した。

稲倉石。
ダムができて様子が変わっています。



<旅行こぼれ話−稲倉石古戦場 案内板より−> H15.8.14

箱館戦争当時、この付近を稲倉石と呼び、北と南から断崖絶壁が迫り、その峡谷に山道と鶉川の急流がありました。

未完成で無防備と言ってよい松前藩館城にとっては、この場所は重要な砦でした。そのため松前藩は今井興之丞(おきのじょう)を隊長に100名余の兵と4門の砲座を備え、自然の要害に加え20メートル余の丸太の柵を築き、網で宙吊りにした丸太を落下して攻撃を食い止める仕掛けも作り、守備をかためていました。

11月12日(新暦12月26日)の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四郎次郎隊200名余の兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門(さくもん)を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため、不意をつかれた松前郡(今井隊長不在であった)は、立木、柵木を楯に4時間あまりにわたって奮戦するも、弾薬もなくなり、陣屋に火を放って退却したのです。

この敗戦が館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。
福山城陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており、大正8年8つき松前出身の蠣崎知次郎(かきざきともじろう)ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没者藩士らの英霊を弔いました。

稲倉石に建つもう1つの碧血碑。
石井さんも道連れになった人も気の毒だったけど、松前藩も必死だったのですね。旧幕府軍視点での戦況については以下をどうぞ。



M1.11.12〜
一聯隊は稲倉石ノ関門、鶉村、舘村、熊石と進軍。
舘村の新城にいた松前藩主は津軽へ逃亡。
残っていた松前藩士数百名が旧幕府軍に投降。
蝦夷地平定。

時系列で一聯隊の動きを追いかけてみたい。

12日
稲倉石ノ関門を攻撃。
松前兵は丸太で作った柵をめぐらせ、中から大砲で応戦してきた。
関門の前は谷川。左右は険しい山。
山と正面からの三方攻撃で関門を打ち破る。
この日は関門に宿。

13日
兵を2手に分け、鶉村まで進軍。鶉村に宿。

14日
鶉村の陣営が松前兵の襲撃を受ける→返り討ちにする。
舘村周辺を探索していたニ小隊、敵と遭遇。→5、6人の兵が近くの山に入ってラッパを吹き、横あいから別働隊が攻撃してくると思いこませて、敵を退ける。
この日、舘村の新城にいた松前藩主は、奥方と老少男女を引き連れて熊石へ退いた。

15日
舘村の新城を攻撃。
松前兵は城門を固く閉ざして大小砲を連発。
指図役下役の越智一朔と、嚮導役の伊那誠一が門扉の下から中に入り、閂(かんぬき)を外して味方の兵を招き入れた。

松前兵の多くは逃げ去ったが、中には勇敢な者もいた。
「我、三上超順なり!」
左手に大きなまな板を持ち、右手に大刀を持った坊主頭の大男が突進して来た。
超順と名乗ったこの男は、もとは松前法華寺の僧だったのだが、武勇に優れ、特に選ばれて正義隊(松前藩尊王派により慶応4年7月に結成)の隊長になっていた。

超順は弾が雨のように降る中、まな板(!)で弾を防ぎながら、あっという間に1〜2名を斬り伏せ、伊那誠一(門扉の下から中に入って閂を外した人)に斬りかかった。
伊那は手にしていた小銃で辛うじて大刀をふせいだが、とても持ちこたえられそうにない。それを見た横田豊三郎(指図役頭取)が伊那を救おうとしてピストル手に進み出た所、越順は伊那をすばやく倒し(伊那は頭に3カ所の大創を受けた)横田に襲いかかった。

横田はピストルの引き金を引いた。が、運悪く弾が出ない(不発だった!)。
刀を抜く暇もなく、2、3歩後ずさりした所で、つまずいて倒れた(何と運の悪い!)。
超順が飛びかかる(怖い!)。
掘覚之助(軍監)と黒沢正介(指図役)が、遠くの方から飛ぶように駆けて来て、ようやく超順を倒した(ため息)。
横田は命拾いをしたが左手その他に多くの傷を受けた。

1人で獅子奮迅の働きをした大坊主を倒し、舘村の城を制圧した一聯隊は、城に火を放って鶉村に宿陣。
城には豊臣秀吉から賜った兼綱の槍、武田信玄から贈られた備前兼光の短刀、家系図、御朱印など、貴重な品々が残っていたが、それらは、いったん五稜郭へ送られた後、箱館の市家に託されて、松前家に送り届けられた(どの隊も紳士的)。

17日
鶉村を発して熊石に向かう。

22日
熊石に到着してみると、松前藩主は君臣男女60余名と共に船で津軽へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名(「北州新話」では300名、「南柯紀行」では500名)が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定完了。


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