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M1.10.28-11.2 |
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松前藩の福島本陣を攻撃すべく進発したのは土方歳三を総督とする500余名(彰義隊、額兵隊、陸軍隊、砲兵隊)と、それに続く衝鋒隊200名の計700名。
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| <旅行こぼれ話> H15.8.13 毛利秀吉は20代前半の青年で、なかなかの美丈夫でした。 上野彰義隊の八番隊に所属していた頃、彼に懸想した小稲さん(!)の積極的なアタックが実を結びまして、2人は晴れて両思いとなり、毛利さんは三日にあげず稲本楼を訪れるようになったそうです(小稲さんと言えばイバハチなのに)。 小稲にお小遣いまでもらったりして、すっかり有頂天になっていた秀吉ですが、調子に乗りすぎて10両のお金を無心したことで、愛想をつかされてしまいます。 辛くも上野戦争で生き残った彼は、榎本艦隊で蝦夷地へ向かい、明治元年11月の松前戦で命を落とすわけです。蝦夷地にぽつんと建つ古ぼけた墓石の背景にも、こんな風に様々なドラマがあるんですね。 |
![]() 法界寺にある毛利貞吉のお墓。 お盆なので、きれいな花を手向けられていて何となく嬉しかったです。 |
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M1.11.5 |
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松前城では、家老の蛎崎民部が総大将となり、1千余の兵で城を防御。城外にも複数の砲台を築き旧幕府軍を待ち構えた。
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M1.11.5〜11.11 |
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旧幕府軍は城の前後左右から攻め入った。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.13 松前では松前城からすぐの「温泉旅館 矢野」に泊まりました。 たまたま「城下時代祭」の真っ最中で、旅館の前の通り(松前のメインストリート)をおみこしが練り歩き、温泉やおいしい料理と一緒に、お祭り見物も楽しむことができました。 おみこしの上には女の子が乗っています。 上半身裸の男たちが夏気分を盛り上げていますが、気温はかなり低めです(浴衣に丹前ぐらいでは長時間屋外に立っていられない)。 北海道の夏は涼しくて短い。 それだけに、お祭りに参加する方も見物される方も、本当に嬉しそうでした。お祭りが終わった後、広場に集まった人たち(若い男性)が、大声で「輪になって踊ろう」を歌いながら踊っていましたよ。 |
![]() 松前の「おみこし祭り」には、北海道各地から「みこし会」の面々が駆けつけます。 |
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M1.11.12〜11.13 |
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11月12日(「蝦夷錦」では12日、「北洲新話」では11日)。土方歳三率いる旧幕府軍は松前城を発し江差へ向かった。先鋒は額兵隊、続いて衝鋒隊、そして殿(しんがり)が彰義隊(渋沢成一郎の小彰義隊は松前に残る…奪ったお金はどうしたの?)の計500余名。 |
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M1.11.13〜11.14 |
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星恂太郎が面倒をみていた松前藩士(久下琢巳、湯嶋甚左衛門)は、その後、どうなったか。 |
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M1.11.15〜22 |
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11月15日。旧幕府軍は江差へ向けて進軍することになった。 |
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M1.11.10〜11.12 |
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話を少し前に戻す。
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| <旅行こぼれ話−稲倉石古戦場 案内板より−> H15.8.14 箱館戦争当時、この付近を稲倉石と呼び、北と南から断崖絶壁が迫り、その峡谷に山道と鶉川の急流がありました。 未完成で無防備と言ってよい松前藩館城にとっては、この場所は重要な砦でした。そのため松前藩は今井興之丞(おきのじょう)を隊長に100名余の兵と4門の砲座を備え、自然の要害に加え20メートル余の丸太の柵を築き、網で宙吊りにした丸太を落下して攻撃を食い止める仕掛けも作り、守備をかためていました。 11月12日(新暦12月26日)の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四郎次郎隊200名余の兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門(さくもん)を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため、不意をつかれた松前郡(今井隊長不在であった)は、立木、柵木を楯に4時間あまりにわたって奮戦するも、弾薬もなくなり、陣屋に火を放って退却したのです。 この敗戦が館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。 福山城陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており、大正8年8つき松前出身の蠣崎知次郎(かきざきともじろう)ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没者藩士らの英霊を弔いました。 |
![]() 稲倉石に建つもう1つの碧血碑。 石井さんも道連れになった人も気の毒だったけど、松前藩も必死だったのですね。旧幕府軍視点での戦況については以下をどうぞ。 |
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M1.11.12〜 |
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時系列で一聯隊の動きを追いかけてみたい。 |