3.開陽沈没〜蝦夷共和国設立






M1.11.15
開陽沈没。

明治元年11月15日に「開陽」座礁したことは既に述べた。
なぜ、座礁してしまったのだろう?

11月14日午前。榎本武揚は箱館湾に碇泊していた軍監「開陽」に颯爽と乗り込んだ。
「回天」と「神速」を従えて進み、途中、松前に立ち寄って、同地に宿陣していた陸軍と軍議を持った後、真夜中過ぎに再び抜碇して江差へ向かった。

江差沖に到着したのは15日の夜明け前。
2、3のかがり火が闇の中に浮かび上がっている他、陸地には何も見えない。
夜が明けるのを待って、陸から6町(1町=109m)余り離れた小さな島(かもめ島)に向けて大砲を撃ってみたが何の反応もなかった。そこで今度は江差の山に向けて大砲を7発ほど撃ってみたが、それでも松前兵は応戦してこない。

そして、上陸した旧幕府軍は、松前兵が前夜のうちに熊石方面に逃亡したことを知る。
戦うことなく、江差は榎本武揚率いる海軍によって制圧された。

そして事件が起きる。
午後10時頃、激しい風と波のために「開陽」は制御不能に陥ってしまった。
碇も全く役に立たず、みるみる岸の方へと吹き寄せられ、浅瀬に乗り上げたまま、びくともしなくなる。榎本たちは3日にわたって激風狂浪にさらされた後、わずかばかりの武器を携えて上陸を果たす。それから十数日後に、開陽は沈没。「神速」も暴風で吹き倒され、「回天」は箱館に逃げ帰った。

何一つ活躍しないまま、「開陽」は海に消えた。
あっけない最期と言わねばならない。

明治36年に開催された史談会で人見勝太郎はこの時のことを次のように語っている。
「…当時、開陽丸が江差に行く必要もなかったですが、鷲ノ木上陸以来陸軍のみにて戦争致し平定になりました故に、海軍にては無事に苦み不平にてしきりに出艦を望み迫る所より、榎本もやむなく自分が乗り込みまして、夜中松前に参り、上陸しまして、私と暫時城中にて立ちながら酒を飲んで面会いたしました。この夜、大雪でござりまして、わずかな敵を討ちに江差へ出かけては、鳥を割くに牛刀を用いるごとくもので危険でないかと申しましたら、畢竟(ひっきょう)、気休めのため江差へ連れて行き、大砲の2、3発も撃たせるつもりだと話しました次第です」

つまり、活躍の場がなくて機嫌を悪くしている海軍をなだめるために、榎本は「開陽」を江差へ向かわせたというのだ。

人見の話が本当なら「開陽」沈没の責任は冷静な判断のできなかった榎本武揚にある。榎本は「開陽」によって旧幕府軍に希望を与え、自ら「開陽」を沈没させることにより、旧幕府軍から希望を奪ったと言えるのではなかろうか。

復元された開陽



<旅行こぼれ話> H15.8.14

江差の開陽丸記念館には平成2年に復元された(平成15年3月リニューアル)開陽があります。

開陽の中は展示スペースになっていて、ベルトのバックルや刀となど、開陽から引き揚げられた様々な遺物が展示されています。

中でもすごいのは弾丸の数。
「球形」や「しいの実形」のものなど、大きさも形も様々な弾が遺物収蔵庫にずらりと並んでいる様は本当に圧巻。
あれが実践で役立っていればなあ…。

 開陽の中はこんな感じ。



M1.11.1〜9
フランス、イギリス、旧幕府軍が事実上の政権であることを認める。

榎本武揚を悪役にしたてるつもりはないので、話をまたまた前に戻す。
軍事面はともかく、外交手腕に限って言えば当時の日本に榎本に勝る者はいなかった。
手元に史料がないことから武田八洲満氏の「箱館戦争」を元にまとめてみよう。

諸外国との関係を最重視した榎本武揚は、旧幕府軍の箱館占領後、ただちに箱館在住の各国領事に声明文を送り届けている。

声明文の写しは間もなく横浜の各公使舘に送られ、イギリス公使・パークスの呼びかけで「徳川脱藩家臣団」への対応を検討するための公使会議が開かれた。

声明文に記された榎本の主張は「自分たち徳川脱藩家臣団を『交戦団体』と認め、局外中立の立場を維持して欲しい」というものだった。
「交戦団体」として認められれば、局外中立違反を諸外国に抗議する権利や、交戦地に入ってくる外国船を臨検したり、必要な場合は積荷を没収したり、港を封鎖したりすることもできる。
それにしても「交戦団体」というものを当時の日本人が知っていたというのはすごい。
榎本武揚の真髄はこのあたりにある。

榎本の声明文に対する各国公使たちの意見は真っ二つに分かれた。
イギリス公使のパークス、フランス公使のウトレイ、オランダ公使のファン・ポルスブルックは、徳川脱藩家臣団を「交戦団体」として認めることに反対し、局外中立も解除すべきだと主張したが、プロシア、イタリア、アメリカの公使は彼らに同意しなかった。
3対3では決めようがない。業を煮やしたパークスは、各国の合意が得られないのなら、自分たちだけで、交戦団体否認の回答をしようではないかウトレイにもちかけた。

11月1日。イギリス艦「サテライト」(ロワ艦長・アダムス書記官)とフランス艦「ヴェヌス」(ホワイト艦長)は、他の公使たちを無視して箱館へ向かった。

11月8日。「ヴェヌス」の艦長・ホワイトは、「交戦団体としての認知は不可能だが、戦闘に関しては不干渉の態度をとるつもりだ」と榎本に告げた。
そして、「サテライト」の艦長であるロワと2人して、「もしも、天皇に嘆願書を出すつもりがあるのなら、橋渡しをしてやっても良い」と述べたという。

翌日、榎本は1人でイギリス領事舘を訪れ、流暢なオランダ語でイギリス領事のユースデンに相談をもちかけた。その時の榎本の語学力と外交知識には誰もが圧倒されたという。そして、榎本に求められるまま、イギリスの公使舘書記官・アダムスは以下のような内容の文書を作成してしまう。

「この度の戦争は日本国内の問題であり、我々は厳正中立を遵守する…徳川脱藩家臣団を交戦団体として認めることはできないが、イギリス人、フランス人の生命、財産の保護問題に限っていうなら、蝦夷地の事実上の政権となっている徳川脱藩家臣団を交渉相手として承認する」

「事実上の政権」であることを認めたこの文書こそ、榎本が欲していたものだった。
捕虜に対する旧幕府軍の人道的な処置は、「交戦団体」として諸外国から認められるための戦略だったのだろう。それを徹底させたのはもちろん榎本である。

「外交力と海軍力。この2つを背景に各国を味方につけ、蝦夷地を手に入れる」
旧幕府軍の中には死に花を咲かせるつもりの者が多かったのだろうが、榎本武揚はそうではない。勝算は十分あった。

そして、榎本は意気揚々と「開陽」に乗り込み江差へ向かった。
「開陽」を失わなければ、明るい未来が開けているはずだった。



<旅行こぼれ話> H15.8.14

かもめ島は江差で人気のレジャースポット。
夏場は海水浴をを楽しむ地元の方で大賑わいです。

箱館戦争の時、江差を守っていた一聯隊は、かもめ島の北と南の端に砲台を設けていました。
下の画像はちょうど南の砲台があったあたりですが、今は案内板はもちろんのこと、一本の木碑すらありません(北の砲台も同じ)。

端から端まで歩いてヘトヘトになりましたが、景色はすばらしかったです。

江差町役場の方にお願い。せめて碑を立てて下さい。



M1.11.28〜12.3
五稜郭凱旋。
伊庭八郎、本山小太郎、箱館に到着。
伊庭八郎、松前へ。

「開陽」を失ったことは大打撃だったが、とにもかくにも蝦夷地を平定した旧幕府軍は五稜郭に凱旋した。なお、江差に集結していた諸隊の以後の動きは以下の通り。
・衝鋒隊→五稜郭へ帰還
・彰義隊→有川村に十数日留まった後、12月14日に五稜郭へ帰還
・陸軍隊→当面松前をしていたが遊撃隊と交替の後、五稜郭へ帰還
・一聯隊→江差守備

ここで、イバハチサイトの管理人としては、何をおいても記しておかなくてはならない出来事が起こる。伊庭八郎の蝦夷地到着である(ようやく主役登場)。
事務官として箱館に留まっていた杉浦清介の「苟生日記」から、関連のありそうな記述を拾ってみたい。

廿八日 ソンディ(日曜日)。雪。
…夜、はからず、伊庭八郎、本山小太郎、舎に来たる。
我、大いに喜び、都下(江戸)の状況を知り、かつ感じ、かつ懐ふ。これ(伊庭八郎のこと)、先に三加保丸に乗し、銚子の海にて船破し、それより上陸。
多少の辛苦を経て横浜に至り、尺振(尺振八)の家に身を託し、当廿五日、尺生(尺さん)の周旋により、英船(多分サンライズ号)に乗し、今宵着船と言う。

(28日 日曜日 雪 …夜、予期せず伊庭八郎と本山小太郎が宿舎に現れた。私は大喜びして江戸の状況を聞き、あれこれと感慨にとらわれたり、懐かしんだりした。伊庭は先に三加保丸に乗船したものの、途中船が難破して銚子に上陸し、少なからぬ辛苦を経て横浜に到着。その後は、尺振八の家に潜伏していたが、当月25日に尺先生の骨折りによって、英国船に乗船し、今夜、箱館に着いたのだと言う))


廿九日 晴
夕刻、伊本(伊庭八郎と本山小太郎)及び佐(佐藤)と一酌。旧話。

(29日 晴れ 夕方、伊庭、本山、及び佐藤と避けをのみ、昔話をした。)
ニ日(12/2) 晴
明日、伊庭生(伊庭さん)、松前へ出立に付き、夜、別杯一酌。


三日 晴
伊庭発足

伊庭八郎と本山小太郎の2人が箱館に到るまでの経緯はここでは省略するが、「多少の辛苦」などというなまやさしいものではない。

八郎と小太郎の2人はイギリスのサイライズ号で11月28日の夕刻に箱館入りし、その晩、杉浦清介の前に現れた。旧幕臣の杉浦とは以前からの知り合いだったのか、翌日には酒を飲みながら昔話に花を咲かせている。

そして八郎は、12月3日に遊撃隊士が守備している松前へ向け出発する。
小太郎はそのまま箱館に留まるが、翌年正月五日に、八郎を追いかけるように松前へ移動する。
伊庭八郎、最後の戦いが始まろうとしていた。



M1.12.15
蝦夷地平定を祝う。

明治元年12月15日は、旧幕府軍にとって、記念すべき1日となった。
この日、箱館に碇泊している軍艦及び弁天砲台が蝦夷地平定を祝して放った祝砲の数は101発に及んだ。

軍艦を彩る5色の旗が風で翻り、夜には箱館市街が花灯で飾られた。
榎本武揚は、諸外国の領事、及び、箱館に碇泊中の外国船の船長を「回天」に招待し、華やかな船上パーティーを催した。

この時、榎本は、「もしも、天皇に嘆願書を出すつもりがあるのなら、仲介をしてやってもいい」と申し出てくれた「ヴェヌス」の艦長・ホワイトと「サテライト」の艦長・ロワの2人に朝廷への嘆願書を託しているが、朝廷(というか新政府)はあっさりとそれを無視し、着々と討伐の準備を進めていく。

捕虜になった松前藩士のその後についても記しておきたい。
額兵隊に連れられて江差を後にした約300人の降伏者は、松前の法華寺に謹慎させられた。星恂太郎が全員と面接した所、藩主のいる津軽へ行くことを望む者が300名中200名。農業や商業に従事して身を立てたいという者が100余名。旧幕府軍に入って戦いたいという者が50余名いたという。
その後、全員の願いは叶えられ、津軽行きを望んだ者は津軽まで送ってやり、旧幕府軍に入隊した50余名は護衛隊と命名されて松前市中を守ることになった。

参考文献が旧幕府寄りのものばかりなので、どうしても新政府軍=悪役となってしまうのかもしれないが、調べれば調べるほど、「人道的な旧幕府軍VS血も涙もない新政府軍」という構図が浮かび上がってくるのは、どうしたことか。



M1.12月某日
入札で役職を決める。
蝦夷共和国設立。

蝦夷地を平定した旧幕府軍は、アメリカの例にならい、士官以上の者による入札(投票)で、文武掌握序次(役職)を決めた。
投票の結果は以下のようなものだったらしい(他説あり)。

<総裁>
榎本武揚(155点) 松平太郎(14点) 永井玄蕃(4点) 大鳥圭介(1点)計174
<副総裁>
松平(126点) 榎本(18点) 永井(5点) 荒井郁之助(4点) 土方歳三(2点) 柴誠一(1点)計156
<海軍奉行>
荒井(73点) 沢太郎左衛門(14点) 柴(13点) 甲賀源吾(9点) 松岡盤吉(2点) 古屋佐久左衛門(1点)計112
<陸軍奉行>
大鳥(89点) 松平(11点) 土方(8点) 松岡四郎次郎(6点) 伊庭八郎(1点) 町田肇(1点)計116

11月28日に箱館に到着したばかりの伊庭八郎に1点が入っている。
役職ごとに投票数にばらつきがあるのが気になるが、マックスが総裁選の174であることから、少なくとも174名の士官が投票に参加したことになる。
蝦夷に着いて間もない伊庭八郎に、しかも、片腕を失った伊庭八郎に、1票を投じたのは一体誰なのだろう(旧知の仲である人見勝太郎だろうか)。
ちなみに一聯隊長の松岡四郎次郎の名はあがっているが、陸軍隊長の春日左衛門や、蝦夷到着以来大活躍している額兵隊長の星恂太郎の名はあがっていない。

さて、上記の結果を踏まえて決められた役職は以下の通り(年齢は明治元年当時)。

<政権組織>
◆海陸軍総裁-榎本武揚(33歳 幕臣 元・幕府海軍副総裁)
◆海陸軍副総裁-松平太郎(30歳 幕臣 元・陸軍奉行並)
◆海軍奉行-荒井郁之助(34歳 幕臣 元・歩兵頭並軍艦頭)
◆陸軍奉行-大鳥圭介(37歳 幕臣 元・伝習隊総大将)
◆陸軍奉行並・箱館市中取締海陸軍裁判役頭取-土方歳三(34歳 元・新選組副長)

◇箱館奉行-永井玄蕃(54歳 幕臣 元・若年寄格)
◇箱館奉行並-中島三郎助(49歳 幕臣 元・浦賀奉行所与力)
◇松前奉行-人見勝太郎(26歳 幕臣 元・遊撃隊長)
◇江差奉行-松岡四郎次郎(年齢不詳 幕臣 元・幕府仏式軍隊一連隊隊長)
◇江差奉行並-小杉雅之進(27歳 幕臣 元・咸臨丸蒸気方)
◇開拓奉行-沢太郎左衛門(35歳 幕臣 元・軍監操練所教授方)
◇会計奉行-榎本対馬(36歳 幕臣 元・幕府目付)
◇会計奉行-川村録四郎(幕臣)

<軍組織>
◆陸軍奉行(大鳥圭介・土方歳三)配下
(第一列士満<連隊>)
 第一大隊(伝習士官隊150名・小彰義隊80名・神木隊70名)隊長-滝川充太郎
 第二大隊(遊撃隊100名・新選組100余人・彰義隊200名)隊長-伊庭八郎(25歳)

(第二列士満<連隊>)本多幸七郎
 第一大隊(伝習歩兵隊300余名)隊長-大川正次郎
 第二大隊(一聯隊200名)隊長-松岡四郎次郎

(第三列士満<連隊>)
 第一大隊(陸軍隊200名)隊長-春日左衛門(24歳)
 第二大隊(額兵隊250余人)隊長-星恂太郎(29歳)

(第四列士満<連隊>)
 第一大隊(衝鋒隊200名)隊長-永井蠖伸斎
 第二大隊(衝鋒隊200名)隊長-天野新太郎(20歳)

 砲兵隊隊長-関広右衛門
 工兵隊(150名)隊長-小管辰之助 吉沢勇四郎
 器機方(100名)隊長-宮重一之助
 病院掛-高松凌雲

◆海軍奉行(荒井郁之助)配下
 回天艦長-甲賀源吾(31歳)
 高雄艦長-小笠原賢蔵
 蟠竜艦長-松岡盤吉
 千代田方艦長-森本弘策
 輸送船(大江・長鯨・鳳凰・回春)

顔ぶれは、渡航経験者(榎本・沢・小杉など)あり、兵学者(大鳥・星など)あり、長崎の海軍操練所や築地軍監操練所で学んだ技術者(中島・甲賀など)あり、剣客(土方・伊庭など)あり、といった具合で多士済々である。

また、桑名藩主・松平定敬、唐津藩主・小笠原長行、備中松山藩主・板倉勝静といった殿様連中が外れており、実務派が名を連ねている点も特徴と言える。

それにしても、入札で1票を獲得した伊庭八郎(第一連隊の大二大隊長)が人見勝太郎(松前奉行)よりも下位組織に配属されてしまったのはなぜだろう?
片腕にもかかわらず大隊を任され、最前線に配属されたということは、それだけ実力が認められていたということかも知れないが、本人の希望によるもだった気がしないでもない。八郎自身が遊撃隊と生死を共にすることを望んだのではなかろうか。

前へ 次へ