4.嘆願聞き入れられず〜新政府軍蝦夷上陸







M2.1中旬
嘆願聞き入れられず。

榎本武揚の嘆願書が朝議に聞き入れられなかったことは既に述べた。
元・彰義隊の丸毛利恒(当時18歳)は、この時のことを以下のように記している。

…先に仏英をもって天朝へ奉聞せし議(申し上げたことについては)、朝議、その語辞(言葉)を無礼なりとして、断然、聞こし召されざるのみならず(全くお聞き入れなさらず)、不日、征伐の官師下向せらるるのよし通達するものあり(日をおかず征討軍を差し向けると通達するものあり)。
我輩、もとより朝家に対し抵抗するの意は毫髪もなく(毛頭なく)、ひたすらもって、上は皇国のために不毛の僻郷を開拓し(不毛の地を開拓し)、もって北門の護を厳にし(北方の守りを拳銃にし)、かつは君家の旧臣の秩禄を失う者をして活業を求めしめんがために(さらには君家の俸禄を失った者に活路を見出させるために)、その微衷(心の内を)を明にしてこれを嘆訴せしに、はからざりき、却って国賊の冤名をこうむるとは武道のならい是非に及ばず、防御の備えを設け快く血戦して天戮(天朝の下す刑)につき、死して赤心を述べんと衆心初めて決定す。


つまり、誠意を尽くしてひたすら嘆願しているのに、朝議はそれを聞き入れないばかりか、国賊の汚名をきせて討伐しようとまでするのであれば、こちらも武門の意地にかけて戦い、死んで赤心を明らかにしようというのである。

ところが、朝廷側の非道に憤り、本格的な戦闘モードに入った後も、彼らの捕虜に対する態度は変わらなかった。
負傷して箱館病院に送られていた捕虜が十数人いたが、その後、亡くなった者は寺院に葬られ、回復した5人については、津軽行きの便に乗せて内地へ送ってやっている。

箱館病院は姿見坂の上の方にあった。



M2.3.9-3.20
新政府軍、鍬ケ崎に集結。
旧幕府軍の三艦、鍬ケ崎へ向かう。

明治2年3月9日。1万5千を超える新政府軍は「甲鉄(ストーンウォール)」(新政府所有)、「飛竜」(新政府所有)、「陽春」(新政府所有)、「春日」(薩摩藩所有。後の東郷元帥も乗船)、「丁卯」(長州藩所有)、「豊安」(薩摩藩所有)、「戊辰」(徳島藩所有)、「震風」(久留米藩所有)の8艦に分乗し次々と江戸湾を発したが、この情報はほどなく旧幕府軍の耳にも入っている(江戸には旧幕府軍の間者が、箱館には新政府軍の間者がいて、双方の情報は筒抜けだった)。

迎え撃つ旧幕府軍の軍勢は3千弱。
比較的有利だった海軍力についても、旗艦「開陽」を失ったことで、すでに形勢は逆転していた。
旧幕府軍は、あちこちに台場を気付き、弾薬を製造し、兵を調練して敵襲に備えたが、 局外中立を唱えていた諸外国も、この頃までには彼らに見切りを付け、新政府軍に肩入れするようになっていた。
榎本武揚の外交努力は、結局、無に帰したのである。

3月19日。新政府軍の艦隊は、奥州鍬ケ崎(現在の岩手県宮古市鍬ケ崎)に入港した。
八方ふさがりとなった旧幕府軍は、ここに到って極めて危険な策を実行に移す。

「蝦夷錦」では、この策を提案したのは榎本武揚ということになっている。
これまで、味方のみならず、敵の人命も大切にしてきた榎本が、こんな危険な作戦を提案したとは考えにくいが、該当する箇所を、とりあえず以下に紹介しておく。

五稜郭で行われた軍議の席上で、榎本は次のように述べたという。
「諸国の官軍、8艘の軍艦に乗じ、南部鍬ケ崎へ来ると聞く。そのうち甲鉄艦と言えば、米国の製造にして、前面ことごとく鉄装にして、いかなる弾丸といえども、これを破ることあたわず。この船、敵にありては、我が軍、実に難戦ならん。よりて、今、回天艦などをして、鍬ケ崎に到らしめ、不意にかの船を奪い、箱館に備えて防御せん時には、その余の軍艦は恐るるに足らず」(諸藩の兵からなる官軍が、8隻の軍艦で南部鍬ヶ崎へ向っていると聞いている。そのうち甲鉄は米国製で、前面は全て鉄装され、いかなる弾丸をもっても破壊することができない。この軍艦が敵にあったのでは、我が軍が苦戦することは目に見えている。よって、今、回天艦などを鍬ヶ崎に派遣し、不意をついて甲鉄を奪い、箱館に備えて防御にあたれば、その他の軍艦は恐るるに足らず)

つまり、新政府軍の軍艦が碇泊している所を急襲し、旗艦「甲鉄」を奪い取ろうというのである。
この提案はただちに実行の運びとなり、20日の深夜0時頃、「回天」「高雄」「蟠竜」の3艦が一斉に抜碇した。

ちなみに3艦に乗艦していたメンバーは以下のとおり
<回天>250余名 
海軍総督・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下海軍200余名
陸軍奉行・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊士官10名、神木隊士官36名、仏人教師・ニコール

<高雄>120余名
艦長・古川節蔵、以下海軍70名
神木隊士官25名、仏人教師・コルラッシュ

<蟠竜>150余名
艦長・松岡盤吉、以下海軍100余名
新選組士官10名、彰義隊士官10名、遊撃隊士官12名、仏人教師・クラトー

穏やかだった波は、次第に激しさを増してゆきき、これから起こる悪夢の予兆のようにも思えたが、3艦はひたすら前進を続けた。



M2.3.22-25
旧幕府軍、宮古湾海戦にて惨敗。

3月22日
南部鮫村(現在の青森県八戸市鮫町)に入港。
小船でやって来た鮫村の村長ら4名を案内人として拘留し出港。
霧のせいで一時視界がきかなくなる。
夜になると風が強くなり、高波で船が揺れ、海水が船倉にまで入り込んできた。

23日
波浪がますます激しくなり、3艦は離散し、互いの姿を見失なってしまう。

24日
風がおさまり、波も穏やかになった。
「回天」は南部大槌に入港。
「高雄」も南部大槌に入港。
船に近付いて来た村役人より、10里ほど北の宮古港・鍬ケ崎に、新政府軍の軍艦が集結しているとの情報を得る。

当初は「蟠竜」が「甲鉄」を襲い、残りの2艦で「蟠竜」を援護する予定だったが、夕方になっても「蟠竜」が現れなかったことから、「高雄」で「甲鉄」を襲い、「回天」はその他の軍艦に対することに計画を変更し、小笠原賢造を「回天」から「高雄」に移して大槌を出港した。
※「甲鉄」奪取に成功した場合、小笠原が「甲鉄」を動かすことになっていたため。

25日
「回天」は明け方に宮古港付近に到着したが、「高雄」は現われなかった。
切羽詰った「回天」の乗組員たちは、「回天」だけで「甲鉄」を襲うという、危険な上にも危険な策を実行に移してしまう。

アメリカの国旗を翻して「回天」が動き始めた。
兵たちは右の肩に布きれを着けて目印とし、小銃を負い、愛刀を抜いて「その時」を待った。
鍬ケ崎には、新政府軍の8軍艦の他、英国船が2艘、碇泊していたという。

「回天」は「甲鉄」の左舷めがけて突進した。
艦長の甲賀は、「甲鉄」に接近するために、舵を右に取り、米国旗を日章旗に変更させた(米国旗を掲げて敵艦に近付き、攻撃の直前に日章旗に変えるやり方は、ルールにかなったものだった)。

ところが、「回天」の舵に欠陥があったために、船体はうまく右折しなかった。
仕方なく、いったん船を後退させて再び前進し、ようやく「甲鉄」の左舷に乗り上げた。

「ファイヤー!」
命令と共に、「回天」の右舷に備え付けられていたナポレオン砲が火を吹き、小銃隊も一斉射撃を開始した。
驚いた「甲鉄」の水夫数十名が、次々と右舷から海に身を投じていく。

ここまでは何とかなったが、ここで大きな問題が起こった。
当初は「回天」の右舷が「甲鉄」の左舷にぴったりと接するように接舷し、斬り込み隊を「甲鉄」に乗り移らせ、一気に船を奪う計画だったが、いざやってみると、「回天」は右舷ではなく、舳先の部分のみ「甲鉄」の左舷に乗り上げてしまっていた。
また、「回天」の舷は「甲鉄」の舷より7尺(1尺=30.3cm)も高く、容易に乗り移ることができなかった。

あまりの高さに、斬り込み隊がためらっているのを見た海軍総督の荒井郁之助と甲賀艦長は、抜刀して叫んだ。
「アボルダージュ!」

「アボルダージュ」とは、敵の軍艦に乗り移ってこれを奪うという戦法(つまり今回の戦法)の名称(フランス語)である。

上官の命令に覚悟を決めたのか、海軍士官見習一等の大塚浪次郎が、刀を振るって、敵艦に跳躍した。
続いて彰義隊指図役の笹間金八郎、同じく彰義隊の加藤下太郎、新選組指図役並の野村利三郎、彰義隊の伊藤弥七らが次々と「甲鉄」に乗り移った。

しかし、結果は惨憺たるものだった。
迎え撃つ「甲鉄」の乗組員たちは、旧幕府軍の斬り込み隊を次々と狙撃すると共に、「甲鉄」に備えられたガットリング砲(当時最強の大砲。1分間に180発を撃つことができた)を撃ちまくった。
着地した途端、短槍を手にした兵士らに襲われて、その場で倒れる者も少なくなかったという。

一番に「甲鉄」に乗り込んだ大塚も、加藤も、野村も、皆、死んでしまった。
「甲鉄」以外の敵艦が、四方八方から撃つ銃弾を「あたかも花の散るがごとく」と形容したのは丸毛利恒である。丸毛によれば、回天の両舷及び煙突などは、敵の銃弾を受けて蜂の巣のようになったという。

8隻の敵艦を相手に、「回天」の乗組員たちは両舷の砲を連発して奮戦した。
しかし多勢に無勢である。
奮戦むなしく、右舷にいた者たちは、敵弾を受けてバタバタと倒れた。
艦長の甲賀は腕と足を負傷しながらも厳然と命令を下していたが、作戦の失敗を悟り、機関室に向かって後退を命じようとした所で、銃弾に、こめかみを撃ち抜かれた。

これを見た荒井郁之助は、天を仰いで長溜し、甲賀に代わって後退を命じた。
「回天」はついに「甲鉄」から離れ、他艦に向かって発砲しつつ宮古港を脱出した。

死者19名。負傷者30余名。戦闘時間わずか30分。
惨敗であった。



M2.3.25
高雄、帰還せず。

「高雄」と「蟠竜」はどうなってしまったのだろう。

23日の波浪で「回天」と「高雄」を見失った「蟠竜」は、翌日、宮古湾近くまで来たものの、丸1日待っても2艦が現れなかったことから、25日の明け方に移動を開始し(もしもの場合は鮫ケ浦に集合することになっていた)ボロボロになった「回天」に出くわした。
号旗で状況を知らされた「蟠竜」は、そのまま回れ右して「回天」ともども箱館へ帰還した。

ところが「高雄」は箱館に戻ることができなかった。
ようやく鍬ケ崎にたどりついてみると、すでに海戦は終わっていて、敵艦が猛然と襲い掛かってきた。
必死で逃げたが、蒸気機関の不調で速力が出ず、敵艦に攻撃されて死傷者が続出。
逃げ切れない判断した艦長の古川節蔵以下の乗組員たちは、南部野田郡尾元村に上陸し、「高雄」に火を放って逃亡した。

「高雄」の最後については他にも説があるが、どれが真実なのか判断できないので、敢えて記さない。
いずれにせよ、動かし難い事実はただ1つ。
旧幕府軍は貴重な軍艦をまた1つ失ってしまった。



M2.4.7
新政府軍、蝦夷地上陸。

1500名の新政府軍が、用兵の天才と言われた山田顕義参謀(当時26歳・松下村塾一門)に率いられ、蝦夷地・乙部村(爾志郡乙部町緑町・江差より海岸沿いに10キロほど北に行った辺り)に上陸したのは、「蝦夷錦」によれば明治2年4月7日となっている。

もはや、戦は避けられない。
箱館居留の外国人たちは、ことごとく舘を引き払って逃げ、箱館の市民もまた、旧幕府軍の指示に従い、銃弾の届かぬ場所へと非難した。

なお、新政府軍上陸時点における旧幕府軍の陣営は以下の通り(個人名は興味のある人のみ)。

<松前>
松前奉行・人見勝太郎 以下数十名
遊撃隊(歩兵頭並・伊庭八郎)、陸軍隊(歩兵頭並・春日左衛門)、砲兵、工兵 計300余名

<江差>
江差奉行・松岡四郎次郎 以下数十名
一聯隊、砲兵、工兵 計350余名

<箱館>
箱館奉行・永井玄蕃 以下数十名(軍監・相馬主計、安富才介、大野右中など)
伝習士官隊、新選組(頭取改役・森常吉)、砲兵、工兵 300余名

<五稜郭〜松前の海岸(有川・富川・茂辺地・当別・木古内・知内・福島など)>
彰義隊、額兵隊(歩兵頭並・星恂太郎)、神木隊、会津遊撃隊 700余名

<室蘭>
室蘭奉行・沢太郎左衛門 以下250余名

<鷲木方面>
衝鋒隊(歩兵頭・古屋佐久左衛門) 以下400余名

<石崎・湯川方面>
士官隊(歩兵頭並・渋沢成一郎) 以下80余名

<五稜郭>
総督・榎本武揚以下数十名
伝習歩兵隊、杜陵隊、砲兵、工兵、騎兵 500余名



M2.4.9-4.11
旧幕府軍、江差より敗走。

4月9日
乙部から近い江差陣営は、一聯隊3小隊を乙部村に派遣したが、新政府軍はとっくに上陸を終えていて、海と陸から猛烈な攻撃をしかけてきた。

圧倒的多数の敵が相手では持ちこたえられるはずもなく、一聯隊は土場川まで敗走。
陸兵が小競り合いを続けている間に、新政府軍の軍艦5隻は江差攻撃を開始。
旧幕府軍も江差の砲台から反撃しようとしたが、砲弾は敵艦に届かず、ことごとく海中に没してしまった(大砲の性能が劣っていた)。
海岸には、沈没した「開陽」から苦労して引き上げた大砲2門が備え付けられていたが、肝心の砲弾がなく、使い物にならい。

戦う術もなく旧幕府軍は松前方面へと退却した。
土場川を挟んで敵と戦っていた一聯隊も本隊と合流して松前へ向かった。

4月10日
江良(松前町江良)に着いた所で敵の斥候が追撃してきたが、小銃を撃ちまくって何とかこれを追い払った。
松前に向かって再び行軍を始めた旧幕府軍の目に入ったのは味方の援軍だった。
2門の大砲をひいて松前から駆けつけたのは遊撃隊、陸軍隊、砲兵、工兵の200余名。けれども戦は既に終わっており、今さら江差に引き返すわけにも行かない。その夜は全軍、根武田に宿陣し、翌朝、松前に帰還した。

開陽から引き揚げられたアメリカ製ダールグレーン砲。



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