5.旧幕府軍進撃〜木古内戦開始







M2.4.11
旧幕府軍進撃。
伊庭八郎、隊士を激励。
新政府軍、根武田を捨てて敗走。

松前城に拠った旧幕府軍のうち、遊撃隊(伊庭八郎)、陸軍隊(春日左衛門)、一聯隊(松岡四郎次郎)、彰義隊(大塚霍之丞)、工兵など500名が、江差奪還するために出陣したのは明治2年4月11日の夕暮れ時のことだった。

「北州新話」に、この時の伊庭八郎に関する記述があるので以下に引用してみたい。

この時、伊庭八郎、我が隊を円陣に作り、中央に立ち奮然として曰く「我、命を奉じてこの地を守る。官軍、一朝、江差を取り、ここに迫り来たれり。今、これを破らずんば、他日何の面にして総裁に見(まみ)えんや。兵法に言わずや。戦に勝ちて、将驕(おご)り、卒なまけるは敗れるべし。今宵の一戦、我において必勝の利あらん。諸君努力せよ」衆、ために振るう。もって先鋒となる。
(この時、伊庭八郎は、我が隊に円陣を作らせ、その中央に立って奮然と言い放った。「我は命を奉じてこの地を守る。官軍は一気に江差を抜き当地に迫っている。今、これを破らねば、他日、どのような顔をして総裁に会うことができようか。兵法に言う。戦に勝っても、将がおごり、兵が怠ければ、たちまち敗れると。すなわち、今宵の一戦は我が軍にこそ必勝の利がある。諸君、努力せよ」これにより、我が隊の兵は、皆、奮い立ち、勇んで先鋒となった)

クラクラするほどかっこいい!名セリフである。
これだけ詳細に記している所を見ると、さぞかしインパクトがあったのだろう。

松前城を出て進軍する旧政府軍は、根武田の少し手前で敵の斥候隊に遭遇する。
たちまちこれを蹴散らし、山手と浜辺の2手に分かれてそのまま根武田まで進撃を続け、同地に駐屯していた新政府軍(松前藩・長州藩)と激突した。

砲兵隊が敵の軍勢に向けて大砲を放ちこみ、敵が乱れた。
「抜刀!」
伊庭八郎が命じると、隊士たちは一斉に刀を抜く。
「吶喊(とっかん)!」
遊撃隊隊士が刀を振るって敵に斬り込み、一聯隊の銃兵たちも銃に着剣して突進した。

片手を失ったとは言え、八郎は「伊庭の小天狗」とうたわれた剣客である。恐らく自らも抜刀し、敵中に斬り込んだに違いない。

剣客集団の猛攻を前に新政府軍は根武田を捨てて逃げ出した。



M2.4.11-4.12
新政府軍、江差へ退く。
旧幕府軍、経済危機に陥る。

根武田を捨てて敗走した新政府軍は札前方面へ退いた。
旧幕府軍は、二手に分かれてこれを追う。
本道筋は砲隊及び一聯隊が、山手筋は遊撃隊が、大砲や小銃を雨霰のように撃ちまくりながら、新政府軍を追って、追って、追いかけた。
明け方には陸軍隊も追撃に加わり、追い詰められた新政府軍は、ついに茂草村の陣屋を自焼して江差へ退く。

新政府軍の死傷者100余人(そのうち首を獲られた者は20余人)に対して、旧幕府軍は死者5名、負傷者十数名。

だが、勝利を喜んでいる余裕などない。
新政府軍の兵はいくらでも本土から送り込まれてくるが、旧幕府軍は消耗戦だ。1人死ねば、確実に1人分の戦力が欠けていく。このことが何を意味するか、恐らくは伊庭八郎だった気付いていたはずだ。

「消耗戦」という言葉で思い出したことがあるので、ついでに以下に記しておく。
旧幕府軍は戦力や兵力も消耗していったが、それ以上のスピードで軍資金も底をついていった。

戦争によって蝦夷地の経済活動が停止し、物価が高騰した。
外国人は蝦夷を去り、商業都市だった松前は戦火で都市機能を奪われた。
旧幕府軍は地元の商人から御用金を徴収したり、農民に翌年分の年貢まで要求したり、果ては賭博を公認して課税したりまでしたが、それでも三千名の大所帯を養うのは容易でなかった。

旧幕府軍兵士(平隊士)の給与は1両1分と定められていたが(新政府軍の給与よりはるかに低かった)、ついにはその支払いも遅れがちになった。
妙な風刺歌まで流行り始めた。

給金がでるかでるかと、まったいら
一両一分なんとせんしゅう


「まったいら」は副総裁の松平太郎で、「せんしゅう」は総裁の榎本武揚のことである。
先立つものがなくては何もできない。高い志を胸に蝦夷地へ渡った旧幕府軍だが、現実はどこまでも厳しかった。



M2.4.14-4.20
仙台・見国隊、蝦夷地に到着。

先に「旧幕府軍は消耗戦」と断定してしまったが、実はたった一度だけ、兵員の補充があった。

明治2年4月14日。元仙台大藩士・二関源治(34才)率いる見国隊(370余名)を乗せた英国艦が、蝦夷・沙原に出現した。
同地を守っていた衝鋒隊は、敵艦の奇襲と見て、ただちに砲撃を開始した。

「仙台の脱兵、応援のために来たれるなり!」
英国艦から下ろされた端船で、こちらに向かってくる男は、手にした旗を振り回しながら声を張り上げた。

その時の衝鋒隊士の驚きと喜びが目に浮かぶようだ。

仙台藩が「ドンゴリ」と呼ばれていた事は既に述べた。
「ドン」と大砲を一発撃てば、たちまち5里も逃げると、その弱兵ぶりを嘲られた仙台藩士だが、もちろん皆がみなそうだったわけではない。
けれども戦う意欲のある者たちは、既に星恂太郎と共に蝦夷へ渡ってきていたわけで、敗色の濃い旧幕府軍に加わるために、仙台から300名もやって来たというのは、奇跡に近い。

だがこの奇跡にはちゃんと理由があった。
仙台藩が降伏したのは明治元年9月。
62万石の所領は奪われ、新たに28万石を与えられた。藩の存続は許されたが喜んでいられる状況ではない。領地が半分以下に激減したことで、士族階級はたちまち窮地に陥った。

やがて、新政府の処遇に不満を持ち、武器を持って立ち上がった一部の藩士たちと、仙台にとどまっていた諸藩の浪士たちが一緒になって、見国隊が結成された。
彼らは豪商から軍用金を徴収した後、捕手の目をかいくぐって横浜へ入り、武器・弾薬を買い付けた後、英国艦で北上した。

4月19日。隊長の二関源治は木古内にいる星恂太郎のもとを訪れた。
仙台藩の近況などを告げ、その日はそのまま1泊したが、翌日になると、木古内は、にわかに戦闘状態に陥った。

「足下は、この地に戦うべきにあらず。速やかに箱館に帰り、兵を練りて同地を守れ」
星の言葉に、二関は大きくうなずくと、すぐに箱館へ引き返した。
息つく間もなく、彼らもまた、救いのない負け戦へと身を投じていく。

それにしても、戊辰戦争の最終段階における仙台藩士の活躍はすごい。
旧幕府軍兵力に締める仙台軍(額兵隊・見国隊)の構成比は約17%。
その数の多さと言い、その戦闘能力の高さと言い、「ドンゴリ」の汚名をすすいであまりあると言えるだろう。



M2.4.10-4.12
新政府軍、二股道、木古内道より箱館へ向け進軍。
山田顕義のことなど。
旧幕府軍、二股、木古内へ急行。

新政府軍の総参謀・山田顕義は、松前道、木古内道(現在の国道5号線とほぼ一致)、二股道(現在の国道227号線とほぼ一致)の、三つのルートを進攻して、旧幕府軍を制圧する作戦を立てた。

山田顕義26歳。20代半ばの若さだが、経験した戦の数は半端ではない。
松下村塾に入門したのは15歳の時。
高杉晋作や久坂玄瑞らと共に尊皇攘夷運動に奔走し(後ろにくっついていた程度だが)、禁門の変、馬関攘夷戦、俗論党との戦い、小倉戦争などを経て、戊辰戦争では征討総督である仁和寺宮の副参謀を任させるほどに成長していた。

せっかく高杉晋作の名前が出たので、晋作ファンとしては、ここで1つ、有名な逸話を紹介しておきたい。
高杉晋作晩年のことである。

ある日、諸隊の幹部たちが高杉晋作のもとを訪れ、「今後、諸隊の統率者は誰に任せたらよいでしょう?」と尋ねた。
「大村益次郎に頼んだら良かろう」
病床の晋作はすぐさま答えた。
「では、大村氏の後任は誰が良いでしょう?」
「…市ィに頼め」
「では、山田の後任は誰に?」
さすがの晋作も、下らぬ質問に付き合いきれなくなったのか、「そんな先のことまで知るものか」と、話を打ち切ってしまった。

晋作は、5歳年下の山田顕義を「市ィ」と呼んで可愛がっていた。
晋作の見込みは的中し、山田は新政府軍を自由自在に動かして、確実に旧幕府軍を追いつめていく。伊庭八郎ファンとしては複雑である。

長々と脱線してしまったので、話を箱館戦争に戻したい。
新政府軍が松前方面で旧幕府軍の反撃をうけたことは既に述べたが、別働隊は木古内、二股の両道を箱館へ向かって進んで行った。
その動きは、榎本たちも予測していた。

4月10日。土方歳三率いる衝鋒隊2小隊及び伝習隊3小隊(計300名)は、五稜郭を出て二股へ向かった。2日後の12日に二股道の中間地点にあたる中山峠に到着し、台場山を本陣、天狗岳を前進基地と定め、あちこちに十以上の胸壁(塹壕のようなもの)を作らせた。

一方、木古内方面には、同じく12日に大鳥圭介率いる伝習隊1小隊、額兵隊3小隊が応援に駆けつけ、以前から同地を守っていた彰義隊50名及び伝習隊1小隊と合流した。



M2.4.12-4.13
木古内戦開始。

明治2年4月12日。木古内に到着した大鳥圭介は、味方の番兵3人が斬られたとの報告を受け、夜が明けるのを待って周辺探索に出かけた。

伝習隊2小隊、額兵隊1招待、彰義隊20人を引き連れて、木古内川沿いに3里ほど進み、木や草がうっそうと茂った細い道へと分け入った所で、先頭を行く額兵隊がいきなり小銃を撃ち始めた。戦闘が始まったのである。

新政府軍は目の前の山の上にいた。
川を隔てた要地に布陣し、木々の間から出没しては攻撃をしかけてくる。
敵に有利な地形での戦闘は得策でないと判断した大鳥は、ただちに退陣のラッパを吹かせ、14〜15丁ばかり下った場所で敵を待ち受けた。しかし、新政府軍は現れない。

ふと見回せば、辺りはすでに黄昏時。そろそろ木古内に引き上げようと動き始めた所で、こちらへ向かって来る星恂太郎率いる額兵隊が目に入った。

星は有川(現在の上磯町の一部)に駐屯していたが、木古内方面に新政府軍が向かっていることを知り、木古内に駐屯している人員だけでは防ぎきれないと判断して、額兵隊1小隊を率いて木古内へ応援に駆けつけたのだが、大鳥圭介が自ら兵を率いて敵陣に向かったというので、「敵は大勢、殊に嶮を取りて戦をなさん。大鳥の小勢、はなはだ危うし」(大鳥では頼りにならないという風にも聞こえる)と叫ぶなり、大鳥の後を追った。

大鳥は星を説得して共に木古内に戻ると、「明朝、敵、必ず、襲来すべし。いずれもただちに戦争のまに合う仕度にて臥し、一声のラッパにて部署整頓せべし」との命令を伝えた。

木古内に、つかの間の静寂が訪れた。


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