6.二股口の戦い〜木古内の戦い







M2.4.13-4.14
二股口の戦い。

このあたりで二股口防戦を受け持った土方軍の動きに目を向けてみたい。
土方歳三率いる衝鋒隊2小隊・伝習隊2小隊(300名)は、10日に台場山に到着し、二日がかりで要地に十数か所の胸壁を築いて新政府軍を待ち構えた。

明治2年4月13日の正午過ぎ。500〜600名の新政府軍が大挙して押し寄せてきた。
対する土方軍は胸壁を楯に防戦する。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて襲撃を繰り返す。迎え撃つ土方軍も2小隊ずつ交替で休憩をとらせながら戦い続けた。

激闘16時間。近ければ200歩、離れてもせいぜい500歩程度の至近戦だったというから、明るいうちは敵の姿もはっきりと見えたに違いない。

やがて日が落ち、雨が振り出しても、戦いは終わらなかった。
この戦いの中で、旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及んだ。
雨が降れば上着を脱いで弾薬庫を守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かし、1人あたり数百〜千発を撃ちまくって、誰の顔も硝煙で真っ黒になっていた。

翌14日の朝7時頃、新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。
土方軍は、強かった。

二股口の「新政府軍陣地」跡。
文字の判別はかなり困難。
立て替えを切に希望。
土方歳三二股口激戦之地。
北海道の碑はなぜ木製なのだろう?
立て替えを切に希望。



M2.4.12-4.17
江差・松前戦争。

伊庭八郎はどうしているだろう。
ということで、再び松前方面にスポットを当ててみたい。

江差を奪還するために4月12日に松前城を出動した旧幕府軍は、松前方面に迫ってきていた新政府軍を返り討ちにして江良方面に敗退させた。

一夜明け、江良へ向けて進軍している所に、思わぬ邪魔者が現れた。
五稜郭政府からの使者である。
「新政府軍が二股道・木古内道より兵を進めてきているので、ひとまず松前に引き上げること」伝令の言葉が伊庭八郎たちの耳に無情に響いた。

江差を取り戻す千載一遇の機会を自ら放棄しなければならないのだ。
決断までには様々な葛藤があったと思われるが、史料からは何も窺うことができない。とにもかくにも彼らは江良攻撃を諦め、松前城へ引き返した。

松前へ戻った彼らの元に、彰義隊1小隊が援軍として現れた。
だが、それを喜んでいられる状況ではなかった。
新政府軍の軍艦が突然海上に現れて、折戸台場(現松前町建石)を砲撃した。旧政府軍も台場から反撃したが勝敗は決しなかった。

ここまでは互角に戦ってきたが、4月15日に新政府軍の援軍2800名が江差へ上陸した時点で、状況は著しく変化する。だが、それを知らない松前の旧幕府軍は17日に再び江差へ向けて進軍した。
斥候は彰義隊1小隊。本隊の先鋒は陸軍隊3小隊。続いて遊撃隊2小隊、一聯隊5小隊、砲兵隊、工兵隊の計500余名。

旧幕府軍は自分たちの勝利を信じていただろうが、現実は無情だった。
軍艦「春日」の大砲を合図に、新政府軍が四方から山のように押し寄せて来た。
海からも陸からも砲撃が轟き、陸地では、旧政府軍、新政府軍、入り乱れてのすさまじい戦闘となった。

しかし、新政府軍1500名に対し旧幕府軍はたったの500余名。
おまけに海からも軍艦に攻撃されたとあっては、さすがの剣客集団にも勝ち目はない。
大勢の死傷者を出し、涙を飲んで清部まで敗走した。

折戸浜砲台跡。
愛と根性と資料がなくては見つけられません。
折戸浜古戦場跡。
こちらも文字は全く読めず。見つけることは極めて困難。



M2.4.17
折戸浜激戦。
本山小太郎、討死。

清部まで敗走した旧幕府軍は、同地で体制を立て直しをはかったが、陸からは怒涛のように敵の軍勢がに攻め寄せて来るし、海からは軍艦5隻(「甲鉄」「朝陽」「丁卯」「陽春」「飛竜」)が容赦なく砲撃してくるしで、ついに総瓦解して折戸台場へ退いた。

それを追って、松前沖に現れた、新政府軍の軍艦5隻は、折戸台場を砲撃し、あるいは旧幕府軍兵士を吹き飛ばし、さらには松前城に大砲を撃ち込んで、縦横無尽の活躍をした。対する旧幕府軍は、折戸、根森、枝ケ崎、及部、立石野などの各台場から、大砲を撃って防戦したが、新政府軍に大きなダメージを与えることはできなかった。

ふと気がつけば、各所に兵を出動させていたために、松前城内及び松前市中を守っているのは、わずかに1小隊。何が何でも折戸浜で敵をくいとめなくてはならないということになり、山手や海岸に兵を散開させて勝負に出たが、松前に向かっていた軍艦が再び折戸浜へ戻って来て砲撃を開始したのに加え、新政府軍の陸軍千余人が眼前に現れ、多勢に無勢の旧幕府軍は、大激戦の末、折戸浜を捨てて松前城へと敗走した。

折戸浜での戦死者は四十人以上にのぼり、遊撃隊の士官の中からも複数の犠牲者が出た。遊撃隊改役・岡田斧吉は折戸台場で亡くなった。彼を敬愛する部下が、何とかして遺体を運ぼうとしたが、弾丸が雨のように降る中ではそれもかなわず、首だけを切り落して持ち去った。翌日、死体を検分していた新政府軍兵士が、岡田の首なし死体の懐から一冊の手帳を発見した。その表紙の裏には以下の歌が記されていた。
「ふるさとに かへらむほどを まつまえの 旅にいつまで 日を送るらん」

伊庭八郎の盟友・本山小太郎も折戸浜で死んでしまった。
本山は、敵の弾が当るやいなや、ひとこと、「俺は死ぬ」と言って、その場に倒れた。
本山小太郎について詳しいことはわからない。八郎の親友だったが武人ではなく、評定所に勤める官吏だったらしい。
その人となりは「気宇磊落」で「兵馬の間にありて常に談笑やまず」ということだから、大らかで明るい男だったのだろう。
無類の友達思いでもあったようで、左腕を負傷した伊庭八郎を昼夜にわたって看護し、八郎につきあって蝦夷地に来て、八郎より先に世を去った。

本山小太郎の死を知らされた八郎は、「自分は、今はじめて片腕を失ってしまった」と歎き、友のために挽歌を詠んだ。
「まてよ君 冥土もともと 思ひしに しばし遅るる 身こそかなしき」

伊庭八郎ファンなら、この和歌を知らぬ者はいない。
「冥土も共」と「冥土も友」が掛けてあるのだろうか。
これほど素直で、これほど切ない歌には、滅多に出会えない。
私が最も好きな和歌の1つである。

折戸浜。



M2.4.17-4.18
旧幕府軍、松前で大敗。
新政府軍、松前城入場。

敗走した旧幕府軍は辛うじて松前城に逃げ込んだが、新政府軍が四方から攻撃してきたために、城に掲げてあった日章旗を下ろし、門を開いて福島方面へ退いた。
この時、地蔵山を守っていた陸軍頭取・山田八郎率いる1小隊は、四方を敵に囲まれて逃げ場を失い、ほとんどが戦死してしまったと(生きて味方に合流できたのは2、3人に過ぎなかったようだ)。

全軍、吉岡を目指して逃げていく所に、新政府軍の軍艦「春日」が大砲を撃ち掛けてくる。さらには、かつて旧幕府軍に破れて降伏したはずの松前藩士(百数十人)も小銃でしきりと攻撃してきた。

折戸浜に続いて松前城下でも大敗した旧幕府軍は、吉岡峠の沢へ逃げ込んでしばらく休息した後、峠越えして吉岡宿に入り、同地に駐屯していた神木隊の宿陣で兵糧を使い、その日のうちに福島へ移動した。

前年11月に松前藩から城を奪った旧幕府軍が、今度は松前藩に城を奪い返された。
旧政府軍が姿を消した後の松前城に、新政府軍は「トコトンヤレ節」を歌いながら意気揚揚と入城した(新政府軍の中には歌を作詞した品川弥二郎もいた)。

宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じやいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
 
鳥羽伏見の戦い以来、新政府軍の行進曲となったこの歌を、旧幕府軍兵士、例えば、鳥羽伏見の戦で無念の涙を流した伊庭八郎が聞かなかったことは、せめてもの救いと言えるかも知れない。
蝦夷共和国は坂を転がるように滅亡への道を進み始めた。



<旅行こぼれ話> H15.8.15

松前市・法華寺の墓地で、元会津藩士・大庭久輔(享年25歳)と元水戸藩士・関清輔(享年?)のお墓を発見。
この2人は、松前から脱出できずに法華寺に逃げ込んだ後、4月20日にお寺の墓地で切腹しました。
共に新選組隊士だと言われていますが、新選組は松前戦に参加していないので真偽は不明です。

お墓は昭和になって建てられたもの。
きれいな花が供えられていました。



M2.4.17-4.18
第1次木古内戦。

万一、木古内が敵に破られれば、前と後ろから挟撃されることになる。
やっとの思いで福島に退いた旧幕府軍だが、休んでいる暇などありはしない。
消耗が少ない隊を中心に、急ぎ軍を再配置することになった。

松前戦に参加していない福島駐屯の会津遊撃隊と吉岡駐屯の神木隊は、一ノ渡(現松前郡福島町)の峰によじのぼり、松前方面からの攻撃に備えた。

松前から敗走して来た諸隊のうち、彰義隊、陸軍隊、砲兵隊は知内に、もっとも被害の大きかった遊撃隊と一聯隊は、木古内よりさらに箱館寄りの札刈と泉沢にそれぞれ布陣して、木古内からの援軍要請を待つことにした。

木古内の状況について少しだけ遡って説明しておきたい。
陸軍奉行の大鳥圭介自ら斥候に出て、木古内から1里ほど離れた間道沿いの山中で、敵の大軍と小競り合いとなったことは既に述べた(4月12日のことである)。
敵に有利な地形での戦闘継続は困難と判断した大鳥は、味方の兵を後退させ、要害の地で敵を待ち受けたが、いくら待っても新政府軍は現れなかった。
そこでその日は、応援に駆けつけた星恂太郎率いる1小隊と共に、木古内へ戻った。

翌朝まだ夜が明けきらぬうちに、再び新政府軍が攻めて来た。
「敵既に近く攻め入りたり。早く兵を出して防ぐべし」
番兵の報告を聞いて、額兵隊も伝習隊も直ちに出動し、山のあちこちの胸壁から新政府軍を攻撃した。
朝霧が濃く立ち込め、視界がほとんどきかない。旧幕府軍が、敵の声や物音をたよりに大砲を撃てば、新政府軍も、旧幕府軍の大砲の音をたよりに小銃を撃った。
互いに手探り状態で戦っているうちに、だんだんと彼我の距離が縮まって来て、いつしか、敵兵の姿が見えるほどの至近戦になっていた。

それに気付いた額兵隊長の星恂太郎が、大砲方の三橋光種と今野秀実に命じて霰弾を撃たせた所、群になって迫ってきていた新政府軍の兵士たちは弾に当ってバタバタと倒れた。

敗走を始めた新政府軍を、旧幕府軍は小銃を撃ちながら追いかけた。
敵兵5名が殿(しんがり)となって踏みとどまったが、額兵隊嚮導役の杉山豊三郎は、すらりと刀を抜き放つと、勇を振るって切りかかり、5人のうち2人を切り倒した。
それを見た残る3名は一目散に逃げ出した。

「霞をおかして深山に行く者は、敵の謀に陥らん」
(霞がたちこめる中、深い山の中に分け行って進めば、敵の謀略に陥るかも知れない)

四方に命令を発して追撃をやめさせた大鳥は木古内へ凱旋した後、「今日の戦功は、額兵隊大砲方・三橋光種と今野秀実が第一等、次は杉山豊三郎である」と、3人の武功を称え褒賞金を与えたが、蝦夷共和国の陸軍奉行に選ばれた大鳥圭介が、陸軍奉行らしい采配をふるったのは、この日が最初であり、最後でもあった。

大鳥圭介38歳。もともとは医者の息子だったが、恐ろしいほどの秀才で、幼くして備前の閑谷黌で漢学を学び、後に大阪の適塾で蘭学を学び、江戸の江川太郎左衛門の塾で兵学をおさめるかたわらで蘭書の翻訳を行い、英語を中浜万次郎に、仏式兵学を幕府軍事顧問だったジューン・ブリュネに学び、江川太郎左衛門の推薦で幕臣となった。

ちなみに、五稜郭を設計した武田斐三郎は、大鳥圭介が万延元年(1860)に翻訳刊行した「築城典刊」を参考にしていたというが、当時、大鳥は、そのことを知っていたのだろうか?

木古内の浜に立つ看板。
左側の看板には「白馬剣士奮戦地」と書いてある。
ちなみに白馬剣士とは陸軍奉行の大鳥圭介のことで、彼が箱館戦争時に詠んだ漢詩に白馬が登場することに由来している。



M2.4.19-4.20
第2次木古内戦。

木古内方面のその後の動きは以下の通りである。

○鷲ノ木に駐屯していた衝鋒隊が当別に移動。
○第二連隊・隊長の本田幸七郎が伝習隊を率いて茂辺地へ移動(矢不来に到る道から新政府軍が攻めて来るのを防ぐため)。
○木古内に駐屯していた衝撃隊は松前から退いてきた本隊に合流することを希望して許可され、彰義隊本隊のいる知内に移動。
○木古内を守るのが額兵隊だけになってしまったことから、大鳥圭介は、札刈の遊撃隊と泉沢の一聯隊に木古内へ移動するよう下命。
○遊撃隊はただちに木古内へ移動(4月19日)。
○一聯隊がなかなか現れないのに業を煮やした遊撃隊長・伊庭八郎は、自ら馬を飛ばして泉沢へ到り、その日の真夜中に一聯隊を率いて木古内へ帰陣。
○砲兵隊頭取の中川長五郎が五稜郭から砲車を引いて来て木古内軍に合流。

明治2年4月20日未明。
新政府軍の総攻撃が開始された。
この日も朝霧が深くて視界ははっきりしなかったが、敵はものすごい大軍とあって、すぐに番兵の知る所となった。

報告を受けた旧幕府軍が兵を整列させているうちに、山上にいた番兵たちは敵の攻撃をまともに受けて瓦解した。
進撃してくる新政府軍が村に火を放ったため、星恂太郎は額兵隊1小隊を率いて稲荷山の胸壁に駆け上がり、村の西側の防御にあたった。
額兵隊頭取の堀口武泰は、1小隊を率いて村の東裏の海岸から攻めて来る敵を防ごうとした。
砲兵隊の中川長五郎は四斤施条砲を小路の真ん中に据えて敵を迎え撃った。

遊撃隊200名は、村の西裏に兵を出し、敵の横合いから小銃を撃ちかけて奮戦したが、目に余るほどの大軍を相手に、みるみる死傷者が増えていった。
額兵隊頭取の武藤清秀は、「兵の多少があれども、敵勢、鬼人にもあらず、我に続いて防戦せよ」と叫ぶと、雨霰のように弾丸が飛んでくる中、自ら小銃を構えて7、8人を撃ち殺したが、その直後、多勢の敵に四方八方から狙撃されて倒れた。
清秀に従う兵士7、8人も同じく倒れ、嚮導役の島津利蔵が清秀の死体を肩にかけて逃げようとしたが、敵がすぐ近くに迫ってきたために、やむを得ず、清秀の首を切り、これを携えて退いた。

海岸では、額兵隊の堀口武泰と成田武三郎清則が、1小隊を率いて胸壁に拠り、漁舟を楯にして防戦していた。
何倍もの敵に攻撃されて、嚮導役の高野権兵衛らが死んだ。
堀口は高野の首を切って携え逃げた。
残った成田清則は、ひらりと胸壁を乗り越えて、敵のど真ん中に斬り込んで行ったが、敵兵が撃った一発の銃弾が喉を貫き息絶えた。

砲兵隊の中川長五郎は、左腕を撃たれても一歩も退かず、大砲を撃ち続けたが、やがて砲弾を撃ち尽くし、火門に釘を打って退いた。

その頃、伊庭八郎率いる遊撃隊は、人家が裏山に連なる大原で死闘を繰り広げていたが、八郎が再起不能の重傷を負ったために、敗走した。

伊庭さんが負傷した「人家が裏山に連なる大原」とは、木古内のどのあたりだったのか…。



M2.4.20
第2次木古内戦A。

星恂太郎は稲荷山に登って、四方の敵を眼下に見下ろし、自ら銃を取って、敵兵数人を撃ち殺したが、旧幕府軍が瓦解敗走したことにより、殿(しんがり)になって兵を退いた。

この時、遊撃隊副隊長の沢録三郎が、今だ踏みとどまって防戦しているのに気付いた星は、沢に向かって言った。
「この地に留まって今一度、防戦しなくては、敵はどこまでも攻めてくるに違いない。私はこの通り、馬を失ってしまったが、君は幸い馬に乗っている。今すぐ駆けて行って我が兵が敗走するのを止めてもらいたい」
星は追撃してくる敵をくいとめるためには、逃げずに戦うしかないと考えていた。
沢は星の言葉に従い、馬を馳せて敗走する兵に追いつき、刀を抜いてこれを止め、札刈と木古内の中間地点を守らせた。

幸いにして星恂太郎の予想は外れ、新政府軍は追撃して来なかったので、殿になった額兵隊もようやく泉沢に引き上げることができた。泉沢に一番に到着したのは、前日真夜中に伊庭八郎に連れて来られ、疲れて眠りについた途端、敵に襲撃され、なすすべもなく敗走した一聯隊だった。

最初に逃げたからと言って、一聯隊を責めることはできない。
彼らは江差で敗れ、松前で敗れ、度重なる戦闘の中で、上官をほとんど失ってしまっていた。

それにしても、伊庭八郎の強さは、どこから来ていたのだろう?
彼は、一聯隊と同じく、松前戦争で最も痛手を受けた、遊撃隊の隊長なのである。
それなのに、札刈から遊撃隊を率いて木古内へ入った後、馬を駆って一聯隊のいる泉沢まで行き、すぐさま一聯隊を連れて木古内へ引き返し、そのまま最前線で戦っていた。
左腕を斬られてから、まだ1年も経っていないのに、八郎は、右腕だけで、馬にも乗れば、小銃を撃った。剣に到っては言わずもがなである。
だが、ここから先、戦う伊庭八郎は登場しない。

第二次木古内戦争で戦死した旧幕府軍兵士は30余人。傷人は40人。
戦いは20日の未明に始まって、昼頃に終わった。



M2.4.20-4.21
旧幕府軍、木古内を奪還。
旧幕府軍、矢不来へ移動。

泉沢で兵を休ませていた所、本多幸太郎が伝習隊を、太田貞泰が額兵隊を率いて、茂辺地から応援にやって来た。さらに、当別からも、秋山茂松が衝鋒隊1小隊を率いて駆けつけた。

仕官クラスで話し合った結果、知内に孤立した味方を救うため、ただちに出動することが決定した。
海岸沿いの本道を、伝習隊、衝鋒隊、遊撃隊の3隊が、山上の間道を額兵隊と一聯隊の2隊が進み、伊庭八郎を含む傷者は船で箱館病院へ送られた。
また、「回天」と「蟠竜」が沖合いを巡航していたので、すぐに小船を走らせて応援を要請した。

知内には、彰義隊、陸軍隊、会津遊撃隊、神木隊、砲兵隊の300余人が留まっていた。
背後の福島は既に敵におさえられ、今また木古内も破れ、前と後に敵を受けた彼らは絶望的な状況にあったが、このまま自滅するよりは木古内突破を試みるべきだということになり、死ぬ気で木古内へ攻め込んだ。

新政府軍はただちに兵を整列し、これを迎え撃とうとした、まさにその時、旧幕府軍の軍艦「回天」と「蟠竜」が沖合い現われた。

「一体、どうしたことだ?」
だが、驚いている場合ではなかった。

背後からも、泉沢から進んで来た旧幕府軍の援軍が、山側と海岸沿いの二手に分かれ押し寄せて来た。数では勝っていたが、終日の戦闘で兵は疲労しており、三方からの攻撃にはさすがに耐えられない。新政府軍は木古内を捨てて退いた。

旧幕府軍は、木古内を取り戻すことができたが、地形が平坦な同地にとどまっていたのでは防戦に不利なので、その日は、全軍、泉沢へ引き上げ、翌21日に峻嶮の地、矢不来へ布陣した。


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