7.新政府軍の軍艦、箱館沖に現る〜旧幕府軍七重浜を夜襲



七重浜


M2.4.21-4.24
新政府軍の軍艦、箱館沖に現る。

4月21日
木古内を離れた「蟠竜」「回天」は、箱館へ戻る途中、新政府軍の「飛竜」「春日」と遭遇。双方しばらく戦ったが、勝敗がつかぬまま日没を迎え、互いに退いた。

4月24日午前6時頃
新政府軍の「甲鉄」「陽春」「丁卯」「春日」「朝陽」などが、当別の沖合いからやって来て大砲による攻撃を開始。
旧幕府軍は「千代田」「回天」「蟠竜」を出してこれに対抗。
弁天台場や富川台場からも、しきりと大砲を撃って海軍を援護したが、午後2時頃になっても勝敗はつかず、新政府軍は泉沢沖へ退去した。



M2.4.28-4.29
矢不来戦。

総勢1500余名の新政府軍は旧幕府軍に総攻撃をかけるべく泉沢まで進んだ。

4月28日
青森から英国艦で運ばれて来た新政府軍2000名が福島へ上陸し、その日のうちに、木古内・知内まで進んだ。

4月29日
2400余名の新政府軍は、500名ずつ四つの隊に分かれて進軍。
陸軍の歩調に合わせるように、海上では、「陽春」「丁卯」「甲鉄」「春日」「朝陽」など7隻が進んで行く。
さらに、その沖合いでは、英仏の軍艦が、戦の成り行きを見物していた。

矢不来に駐屯する旧幕府軍は、彰義隊1小隊を斥候として茂辺地へ派遣し、新政府軍の動きを探らせた。さらには、矢不来の砲台や胸壁など26カ所に兵を配置して、新政府軍の攻撃に備えた(矢不来の胸壁は彰義隊、山上数カ所の胸壁は伝習隊、遊撃隊、砲兵隊の3隊、天神森は衝鋒隊と会津遊撃隊、そして関門口の砲台と海岸の間道は星恂太郎率いる額兵隊が布陣)。
また、後方の備えとして、額兵隊2小隊を富川に移動させた。

新政府軍の陸軍は、本道、海岸、山上の三方に分かれて攻めて来た。
海上では「陽春」と「丁卯」が真っ先に現われ、同時に大砲を撃ち始めた。

伝習隊、彰義隊、遊撃隊は、本道から向かって来る新政府軍を迎撃した。
額兵隊の三田村徳太郎は、1小隊を率いて海岸に身を伏せ、波に濡れながら道なき道を進んで来る敵兵に一斉掃射を浴びせた。
天神の森の胸壁を守っていた衝鋒隊も、三田村たちに加勢して、上方から敵兵を狙撃したため、新政府軍は海岸道を捨て本道へ回った。

新政府軍は「陽春と」「丁卯」に加え、「甲鉄」「春日」「朝陽」「飛竜」を投入して、砲撃を続けた。そのため旧幕府軍では死傷者が続出。艦砲を避けながら山上の胸壁まで後退した。

天神森では、海と陸とから攻められつつも、衝鋒隊士官・永井蠖伸斎と天野新太郎は懸命に兵を励まし、必死になって防戦したが、2人とも死んでしまった。
隊長を失った衝鋒隊は、総崩れとなって一番に敗走を始めた。

これを見た額兵隊の太田貞泰は、兵を散開させて敵軍へ突撃し、複数の敵を倒したが、数十人対数千人では勝負にならず、太田は敵兵に下腹を貫かれ、腸が傷口から漏れ出るほどの重傷を負った(3日日に箱館病院で死亡)。
この時、前後の胸壁が破られ、一度に50名余が戦死した。負傷者にいたっては数えることもできないほどで、旧幕府軍は富川へと敗走を始めた。

星恂太郎は、当初、砲台で指揮をしていたが、甲鉄の艦砲で砲車が破壊されてから後は、山上の胸壁にのぼり、自ら小銃をかまえて敵兵を狙撃した。
弾丸を撃ち尽くし、ふと顔を上げて左右を見れば、味方はことごとく逃げ去った後で、四方は敵に囲まれており、そばにいたのは大砲差図役の今野七十郎と、額兵隊士・三浦富之助の2人だけだった。

「敵の手に死ぬよりは自殺せん」
星恂太郎が自刃しようとするのを、今野と三浦があわてて止めた。
「今、この矢不来、敗れるといえども、富川にいたりては、二百余人の兵士あらん。今、隊長自殺する時は、隊士ことごとく瓦解にいたり、おのおの同盟を約し、この地に来たれるの大旨を失う、短慮にして大事を謝るなかれ」
2人は星を励ましながら、敵のいない場所を探しつつ、深い沢を渡ったり、高い山によじのぼったりしながら、富川を目指した。
長時間の戦闘で疲労困憊していた星が、携えていた小銃を捨てようとすると、三浦はそれを拾って自分の小銃と一緒に左手に持ち、右手で星の手を引きながら、険しい山道を歩き続けた。

箱館戦争の史料を読んでいると、小説のような場面が次々と登場するのはなぜなのだろう?
活字というフィルターによって悲惨な戦闘シーンは浄化され、華奢で小柄な、けれども男気のある隊長の手を引きながら、黙々と山道を進んで行く若い兵士の姿が、妙に鮮やかに目に浮かぶ。
3人が身につけていた真っ赤な戦闘服は、血の汗と涙と硝煙とで、一体、どんな色に変わっていたのだろう。
額兵隊長・星恂太郎は、生きて富川にたどりついた。



<旅行こぼれ話> H15.8.16

箱館戦争の時、最も激しい戦いがあった台場です。
箱館の押付台場と向かい合い、箱館湾を守るため最初は寛政〜文政年間(1799〜1821)に作られ、南部藩が守っていました。

安政元年(1854)蝦夷地は、幕府が直接守ることになり、箱館奉行の竹内保徳などによろい、この台場の増強が必要なことを幕府に話しています。

明治2年(1869)箱館戦争では、この台場を幕府脱走軍が修理し大鳥圭介ほか約500名が守っていましたが、同年4月に官軍の激しい攻撃にあり七重浜方面に逃げています。
この戦いで衝鋒隊長 天野新太郎ほか死傷者約70名を出しています。

上磯町教育委員会

※案内文全文

矢不来台場。
私が行った時はボロボロの看板が立っているだけでしたが、「北海道教育庁生涯学習部文化課文化財保護グループ主査」様より頂いたご回答によりますと、国の指定史跡として指定されることになっているそうなので、今頃は案内板も新しくなっているかも。
(そうだと良いのですが)



M2.4.29
冨川戦。

額兵隊2小隊が冨川を守っていたことは既に述べたが、「蝦夷錦」の著者である荒井宣行(額兵隊改役頭取・荒井平之進)も、矢不来戦には参加せず、冨川駐屯組に属していた。

冨川では、29日の未明から兵を整列し、荒井自ら砲台に上がって戦闘準備を整えている所に、「陽春」と「丁卯」が現れた(この2艦が新政府海軍の先鋒だったようだ)。
二艦が台場を砲撃してきたので、荒井も部下に命じて砲台から迎撃させた所、そのうちの一発が見事「陽春」に命中した。

「陽春」が退いたのとあい前後して、矢不来から味方が次々と敗走して来た。
一番に逃げて来たのは衝鋒隊だった。それに諸隊の兵が続く。陸軍奉行・大鳥圭介も姿を現した。

荒井は大鳥に走り寄り、星恂太郎と額兵隊の安否を尋ねたはずだ。
大鳥は次のように答えている。
「すでに矢不来敗れ、星もその行く所を知らず。この胸壁にて防がずんば、わが軍ますます瓦解に到らん。兵をとどめて防ぐべし」
隊長が行方不明だと聞かされて、荒井は暗澹たる思いだったに違いない。けれども歎いている余裕はなく、矢不来から引き上げてきた隊士らを一カ所に集め、山上の胸壁に拠って敵をくいとめようとしていた所に、星たち3人がようやくたどりついた。

「予をはじめ、兵士まで、隊長死せりと憂うる所なれば、大いに喜び、互いに無事を祝し、勇み進んで防戦す」
「蝦夷錦」にも記されているように、額兵隊は懸命に防戦したが(他の隊はことごとく敗走してしまっていた)、新政府軍は四方の山野に兵を分け、倒しても、倒しても、押し寄せてくる。やがて所持していた弾薬も尽き、さすがの額兵隊も敗退するしかなかった。

「応援に来た杜陵隊が、村の西裏から山越えして、敵の横合いを急襲しようと山中に入ったが、味方はことごとく瓦解して、彼らを助ける者がいない。額兵隊の隊士を派遣して救って欲しい」
富川で、伝習隊頭取の山口朴郎に頼まれた星は、荒井に1小隊を与えて、ただちに救出に向かわせた。山口朴郎と荒井が山中に入って行くと、杜陵隊は既に敵に囲まれて逃げ場を失い、生き残っていたのは、わずかに7、8人だけだった。
荒井たちは、杜陵隊の生き残りを連れて、有川へ退いた。

矢不来から敗走した大鳥圭介は、富川八幡宮まで退き、軍を建て直しをはかったが果たせず、有川へ退いた。



M2.4.29
旧幕府軍、有川にて瓦解。

額兵隊は有川の北裏を防衛することになり、それまで額兵隊が守っていた富川口には、間喜太夫率いる見国隊2小隊が移動した。

ここでとんでもない事件が起きた。
間喜太夫が、敵兵を、敗走してきた味方の兵と勘違いしたために、新政府軍は易々と有川の南裏に回り込み、にわかに小銃を撃ち始めた。

ふいをつかれた旧幕府軍は先を争って逃げ出した。
五稜郭から様子を見に来ていた榎本武揚は、刀を抜いて兵が逃げるのを止めようとしたが、踏みとどまる者は誰1人としていなかった。
馬上で刀を抜いたまま、呆然としている榎本の所へ、星恂太郎が走り寄って来た。

「我が兵、この裏手を守りて散伏せり。我が軍ことごとく引き退くにおいては、敵のために皆殺しとならん。総督令してこれを救え」
星は涙を流して訴えたが、榎本にはどうすることもできなかった。

榎本武揚は確かに旧幕府軍のトップだが、彼の命令では兵士は動かない。
兵を動かすことができるのは、それぞれの隊の上長だけだった。
榎本は額兵隊士の命を諦めたが、星恂太郎は諦めない。
何とかして部下を助けようと、中村万橘、二階堂駒之輔の2人に命じて現地の様子を探らせた。

2人は危険な任務を果して戻って来て、指図役の網代清四郎は戦死したが、残りの兵は自力で退路を確保して、大野へ退いたことを星に報告した。

網代は死んだが、とにもかくにも皆殺しだけは免れた。
最後まで有川に留まっていた星恂太郎と、彼に従う額兵隊士7〜8名は、ようやく五稜郭へ向かって歩き始めた。


<旅行こぼれ話> H15.8.16

亀田郡大野町・光明寺で「幕府臣永井蠖伸斎 仙台士網代清四郎」のお墓を発見。
衝鋒隊改役だった永井さんは矢不来の戦いで戦死。額兵隊の網城さんは29日の有川戦で戦死しています。
矢不来も有川も大野からはずいぶんと離れています。
敗走しながらここまで運ぶのは大変だっただろうなあ。

永井さんと同じ日に亡くなった天野新太郎のお墓はありません。
脇哲氏の「誰も書かなかった箱館戦争」によりますと、衝鋒隊の副隊長格だった天野さんは、新政府軍の軍艦・春日の艦砲射撃を受けて即死しています。
21歳の美丈夫で、鷲ノ木に駐屯していた頃は、村の娘達の憧れの的だったそうですが…。



M2.4.23-25
旧幕府軍、二股口より撤退

土方歳三が守る二股口はどうなっただろう。
4月10日に台場山に到着した300名の土方軍(衝鋒隊2小隊・伝習隊2小隊 300名)が、激闘16時間の末、数で倍する新政府軍を敗退させたことは既に述べた。

14日に稲倉まで退いた新政府軍は、8日後の22日に再び攻めて来たが、またもや土方軍に撃退されてしまう。どんなに激しく攻めても胸壁を破ることはできなかった。

4月23日午後4時
胸壁突破を断念した新政府軍は、深い谷を穿ち、峻嶮によじ登って、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろした。そのまま夜を徹しての大戦争になる。

24日未明
伝習隊士官隊隊長の滝川充太郎率いる一軍が五稜郭から派遣されて来た。
戦況を見た滝沢は、馬に乗ったまま胸壁を乗り越え、敵中に突進した。伝習隊の隊士たちも一斉に抜刀して隊長に続く。その勢いのすさまじさに、新政府軍は敗走を始め、軍監の駒井政五郎(長州藩)も討ち死にした。

数で勝る新政府軍は、一度や2度の敗退などものともせず、次々と新しい兵を投入して執拗に攻めて来た。対する旧幕府軍は、あまりの射撃数で銃身が熱くなり、桶に汲んだ水で銃身を冷やしながら応戦した。

25日午前3時
新政府軍はついに撤退した。

土方歳三は、要所に兵を振り分けた後、残りの兵を矢不来に向かわせたが、援軍派遣にも関わらず矢不来は敗れた。
事ここに到り、前後から挟撃される危険が生じ、土方は五稜郭への撤退を決める。
悔しくないはずはないが、やるだけやったという満足感もあったに違いない。
最後まで防衛拠点を守り抜いたのは土方軍だけだった。

もちろん土方は、二股口を易々と新政府軍に譲り渡したりはしない。置き土産として地雷を埋めて立ち去った。
箱館へ目指して進む途中、はるか後方で爆発音した。
「…踏んだか」
土方はにやりと笑ったに違いない。

二股口の戦いはこれで終わりだが、土方歳三の名将ぶりを窺わせる逸話を、ついでにもう1つ紹介しておきたい。

滝川充太郎が敵軍に突入した際、彼に従った弥三郎という隊士が新政府軍の兵士に撃ち殺された。弥三郎を殺した官軍は何を思ったのか、弥三郎の顔の皮をはぎ、目をくりぬいて(!)立ち去った。

これを見た伝習歩兵隊隊長の大川正次郎が切れた。
「君、なんぞ策なきや、いたずらに殺傷して軍気をくじく。軍総督の命ありや?」

自分の軽挙が、部下を悲惨な死に追いやったことを責められて、滝川は沈黙した。
そこに颯爽と現れたのが土方歳三である。
「大川氏の言、もとよりその理あり。滝川氏の勇、また感ずるべし」
(大川君の言葉はもとより理にかなっている。滝川君の勇もまた感じるものがある)

さすがは新選組の鬼副長。集団を統制させれば彼の右に出る者はいないのではなかろうか。この場合、どちらが正しいかを論じることには意味がない。もっとも大切なことは味方の結束を維持することであり、土方の行動は正解である。



<旅行こぼれ話> H15.8.15

江差町招魂社には新政府軍戦死者92名のお墓があります。
その中でちょっと大きめなのが整武隊軍監・駒井政五郎の墓標です。
勇敢に戦い、壮絶に散ったとか…。
旧幕府軍兵士の手記にも名前が記されています。

江差招魂場にある駒井政五郎のお墓。



M2.4.29-30
額兵隊、千代ケ岡へ派遣。
旧幕府軍、七重浜夜襲に成功。
千代田艦、新政府軍に奪われる。
新政府軍の間者、生け捕りになる。
仏軍人、遁走。

蝦夷地平定を祝って101発の祝砲を放った日からわずか4ヶ月間。
そして、新政府軍の蝦夷地上陸から1カ月足らず。
旧幕府軍は江差を失い、松前を失い、木古内道、二股道をおさえられ、箱館より西の海岸道もあらかた奪われてしまった。

「この虚に乗じ、千代ケ岡を敵に取らるる時は、箱館の通路を絶ち、我が兵、翼を失うが如し」
新政府軍はすぐ近くまで迫っていた。千代ケ岡の陣屋を守るため、榎本武揚は、急遽、額兵隊を千代ケ岡陣屋へ派遣することにした。

千代ケ岡(現在の函館市千代台町)では、陣屋の四方に胸壁を造営し、6門の大砲を設置して敵襲に備えていた。
ここを守るのは箱館奉行並の中島三郎助。中島は元浦賀奉行所の与力で、長男の恒太郎(22歳)、次男の英次郎(19歳)の他、奉行所の与力や同心30人を引き連れて来ていた(彼らは「中島隊」と呼ばれていた)。

4月30日。
七重浜(現在の上磯軍上磯町)夜襲が敢行された。
陸軍隊、彰義隊、伝習隊、新選組、砲兵隊による夜陰に紛れての一斉射撃に、ふいをつかれた新政府軍は、たちまち有川まで後退した。

だが、喜んでいる場合ではなかった。
斥候に出ていた旧幕府軍の軍艦「千代田」が七重浜沖の暗礁へ乗り上げてしまった。パニック状態に陥った艦長の森本弘策は、士官たちが諌めるのを無視して、大砲の火門に釘を打ち付け、蒸気機関を壊し、端船を下ろして逃げ去った。
翌朝満潮時に「千代田」はやすやすと離礁し新政府軍に奪われた。
弁天台場に逃げ込んでいた森本は、五稜郭に呼び出され、一介の兵卒に格下げとなった上、苦役を命ぜられた。

話はこれだけでは終わらない。
責任を感じた軍艦役の市川真太郎が「回天」で自刃した。
「軍艦役・市川真太郎、回天艦にいたり自殺してその罪を謝す。海軍奉行・荒井郁之介、これを助けんとす。しかれども真太郎、ついに死す」

「蝦夷錦」の淡々とした記述を眺めていると、生と死の狭間の人間ドラマが鮮やかに浮かび上がってくる。
責任を取るべきは艦長の森本なのに、彼が降格されたために、ナンバー2の市川が全ての罪をかぶった。森本はこの事実をどのような思いで聞いたことだろう。生きるも地獄、死ぬも地獄とは、まさしくこのことである。

夜になって、さらなる事件が起こった。
弁天台場に備え付けてあった大砲の火門に、釘が打ち込まれていたのである(火門に釘が打ち込まれていたのでは大砲は使用できない)。
下手人は砲兵取締役の斎藤甚三郎だった(新政府軍が送り込んだスパイだった)。逃げそこなって捕まった斎藤は斬首刑に処せられ梟首される。
さすがの旧幕府軍も恩情を見せてばかりはいられなくなっていた。

旧政府軍のために力を尽くしていた8名のフランス軍人も自国の船で逃げ去った(旧幕府軍に見切りをつけたのだろう)。
援軍はもうどこからも来ない。
最悪の状況の中、旧幕府軍、最後の死闘が始まろうとしていた。



M2.5.2-5.4
赤川夜襲

明治2年5月2日
新政府軍の軍艦が箱館沖に現れ砲撃を開始。
この戦いで、回天の40斤砲に甲鉄の破裂弾が命中し、士官1名が即死。
勝敗を決せぬまま新政府軍は有川まで引き上げた。

5月3日
中島隊と共に、千代ケ岡を守っていた星恂太郎が、五稜郭にいる榎本武揚のもとにやって来た。
「我が兵、しばしば勝利を失い、五稜郭、箱館、両所に迫り、四方みな敵なり。不日箱館も破られるべし。これにより今夜不意に敵陣を撃ちて一方を破らんとす。いずれなりとも一方を任ぜよ。予、兵を引いて攻撃せん」

このままでは箱館が敗れるのは時間の問題だ。それをみすみす待つぐらいなら、五稜郭、箱館両所に迫って来た新政府軍に夜襲をかけようと思うから、是非とも自分にどちらか一方を任せて欲しい。

闘志満々の額兵隊隊長に榎本はこう言った。
「我、大川の敵を防ぐがため、赤川へ衝鋒隊を出す。この口破るる時は五稜郭の危うき事、箱館を取らるるの倍せり。氏、幸いにここに向かい衝鋒隊と共に力を合わせ攻撃せよ」

つまり、箱館より赤川(四稜郭のすぐ先)の方が重要なので、衝鋒隊と共に赤川方面の敵を攻撃して欲しいということだ。
星は了承し、ただちに兵を率いて出陣した。中島隊の5名が大砲一門を引いてこれに従い、衝鋒隊、遊撃隊、陸軍隊、彰義隊も次々と五稜郭を出た。
全軍の指揮を取ったのは総裁の榎本武揚自身。
もはや失敗は許されなかった。

この日は風雨が激しかった。
旧幕府軍は、真っ暗な中、ずぶ濡れになりながら行軍し、ようやく赤川に着いた時は午前2時頃になっていた(五稜郭を出てから6時間が過ぎている)。

風雨の中、長時間に渡って山道を行軍したのだから、さぞかし疲れていただろうが、もちろん休んでいる暇はない。

衝鋒隊は二手に分かれて村の左右から、額兵隊は本道を進んで村の入口から、一斉に小銃を撃ち始めた。三方からの攻撃に、新政府軍の兵士は、あわてふためいてあちこちの宿陣から出てきたが、真っ暗な中、味方の兵を敵と感じ違いして、味方同士で戦いを始めた。

旧幕府軍は1人の兵を失うこともなく、夜襲を成功させた。



M2.5.3-5.5
七重浜夜襲

七重浜夜襲は「蝦夷錦」では5月3日となっているが、大鳥圭介の「南柯紀行」では5月6日となっている。本来なら大鳥の6日を採用するべきなのだろうが、「蝦夷錦」に「また、七重浜に向こうたる我が兵も、その夜八つ時頃同所にいたり…」とあり、赤川夜襲と七重浜夜襲は同日に行われたことになるので、いちおう3日としておく。

新政府軍が七重浜まで迫って来たことを知らされた陸軍奉行・大鳥圭介は、彰義隊1小隊、新選組、伝習隊2小隊を率いて、夜11時頃、亀田新道の陣屋を出発した。

七重浜に近付くにつれ、先鋒の新選組が進軍をためらったので(名前は新選組だが隊士は京都時代の新選組とは全く違う)、代わりに彰義隊を前に出して進んで行くと、新政府軍の番兵14、15名が橋のたもに立っているのが見えた。

篝火のせいで、橋の周囲は昼のように明るい。
大鳥は自軍の兵を二手に分け、1隊には海岸道をとらせ、残りの1隊には橋に向かって小銃を乱射させた。

橋を守っていた番兵を退け、一気に村へなだれ込む。
ふいをつかれた新政府軍は、応戦もままならず、有川方面へ逃走した。
逃げる新政府軍を伝習隊が追った。大鳥はラッパを吹かせて兵を呼び戻し、夜が明けるのを待って帰還した。

夜襲の成功に気を良くした旧幕府軍は2日後に再び七重浜夜襲を敢行したが、この時は、村に火をかけている。
「放火するとは、はなはだ悪しき趣を申しおきたれども、これを用いず。憐れむべきことなり」と「南柯紀行」にあるように、大鳥は放火を禁じていたが、それを守るほどの余裕は、最前線で戦う兵士たちには、もはやなかった。


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