7.新政府軍の軍艦、箱館沖に現る〜旧幕府軍七重浜を夜襲

七重浜
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M2.4.21-4.24 |
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4月21日 |
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M2.4.28-4.29 |
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総勢1500余名の新政府軍は旧幕府軍に総攻撃をかけるべく泉沢まで進んだ。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.16 箱館戦争の時、最も激しい戦いがあった台場です。 箱館の押付台場と向かい合い、箱館湾を守るため最初は寛政〜文政年間(1799〜1821)に作られ、南部藩が守っていました。 安政元年(1854)蝦夷地は、幕府が直接守ることになり、箱館奉行の竹内保徳などによろい、この台場の増強が必要なことを幕府に話しています。 明治2年(1869)箱館戦争では、この台場を幕府脱走軍が修理し大鳥圭介ほか約500名が守っていましたが、同年4月に官軍の激しい攻撃にあり七重浜方面に逃げています。 この戦いで衝鋒隊長 天野新太郎ほか死傷者約70名を出しています。 上磯町教育委員会 ※案内文全文 |
![]() 矢不来台場。 私が行った時はボロボロの看板が立っているだけでしたが、「北海道教育庁生涯学習部文化課文化財保護グループ主査」様より頂いたご回答によりますと、国の指定史跡として指定されることになっているそうなので、今頃は案内板も新しくなっているかも。 (そうだと良いのですが) |
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M2.4.29 |
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額兵隊2小隊が冨川を守っていたことは既に述べたが、「蝦夷錦」の著者である荒井宣行(額兵隊改役頭取・荒井平之進)も、矢不来戦には参加せず、冨川駐屯組に属していた。
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M2.4.29 |
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額兵隊は有川の北裏を防衛することになり、それまで額兵隊が守っていた富川口には、間喜太夫率いる見国隊2小隊が移動した。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.16 亀田郡大野町・光明寺で「幕府臣永井蠖伸斎 仙台士網代清四郎」のお墓を発見。 衝鋒隊改役だった永井さんは矢不来の戦いで戦死。額兵隊の網城さんは29日の有川戦で戦死しています。 矢不来も有川も大野からはずいぶんと離れています。 敗走しながらここまで運ぶのは大変だっただろうなあ。 永井さんと同じ日に亡くなった天野新太郎のお墓はありません。 脇哲氏の「誰も書かなかった箱館戦争」によりますと、衝鋒隊の副隊長格だった天野さんは、新政府軍の軍艦・春日の艦砲射撃を受けて即死しています。 21歳の美丈夫で、鷲ノ木に駐屯していた頃は、村の娘達の憧れの的だったそうですが…。 |
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M2.4.23-25 |
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土方歳三が守る二股口はどうなっただろう。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.15 江差町招魂社には新政府軍戦死者92名のお墓があります。 その中でちょっと大きめなのが整武隊軍監・駒井政五郎の墓標です。 勇敢に戦い、壮絶に散ったとか…。 旧幕府軍兵士の手記にも名前が記されています。 |
![]() 江差招魂場にある駒井政五郎のお墓。 |
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M2.4.29-30 |
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蝦夷地平定を祝って101発の祝砲を放った日からわずか4ヶ月間。 |
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M2.5.2-5.4 |
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明治2年5月2日 |
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M2.5.3-5.5 |
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七重浜夜襲は「蝦夷錦」では5月3日となっているが、大鳥圭介の「南柯紀行」では5月6日となっている。本来なら大鳥の6日を採用するべきなのだろうが、「蝦夷錦」に「また、七重浜に向こうたる我が兵も、その夜八つ時頃同所にいたり…」とあり、赤川夜襲と七重浜夜襲は同日に行われたことになるので、いちおう3日としておく。 |