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現在の五稜郭。 中央に映っている四角い建物は函館市立博物館五稜郭分館。 伊庭八郎(遊撃隊)の遺品(迷子札など)、中島登(新選組)の「戦友絵姿」、荒井郁之助(額兵隊)の「蝦夷錦」、榎本武揚の超男前写真(必見!)などを見ることができます。 五稜郭分館に隣接して建っている建物は箱館戦争当時からある唯一の建物・兵糧庫。 |
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M2.5.4-5.7 |
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5月4日 |
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M2.5.8 |
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新政府軍の蝦夷上陸以来、1つずつ拠点を奪われ、敗走を続けていた旧幕府軍だが、もはや逃げ場はなかった。 |
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M2.5.11 |
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明治2年5月11日。この日について語るのに、どの史料を参考にしようかとあれこれ迷ったが、土方歳三の最期に比較的詳しい「箱館戦記」を選んでみることにした。 |
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M2.5.11 |
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箱館総攻撃の名にふさわしく、この日は海軍陸軍が四方に入り乱れ、戦場は七カ所に及んだ。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.11 箱新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁 榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。 明治元年(1868)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立。土方はその陸軍奉行の要職についた。 翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。 しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。 函館市 ※案内文全文 |
![]() 一本木関門と土方歳三のお墓。 土方さんの墓標に手を合わせて車に戻ろうとすると、後から来た40代ぐらいの男の人が上着の内ポケットからすっと数珠を出したのにびっくり。 思わず目で追っていると、真っ直ぐお墓の前に進み、じっと祈りを捧げておられました。 幕末史跡めぐりに数珠は必需品。 |
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M2.5.11 |
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五稜郭では、総裁の榎本武揚が台場に孤立した兵たちの救助に向かおうとしていた。 |
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M2.5.11 |
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その他の場所でも、壮絶な戦闘が繰り広げられていた。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.14 明治2年春。五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面大地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空濠をめぐらし、郭内(面積約2300u)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちに四稜郭を完成させたといわれている。 明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。 同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府軍は五稜郭へと敗退した。 五月十八日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。 函館市・文部省 ※案内文全文 |
![]() 四角く土が盛り上がっているだけです。 つわものどもが夢の跡。 |
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M2.5.11 |
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箱館病院で起こった事件を紹介して11日に関する記述を終えようと思う。 |
| <旅行こぼれ話> H15.8.11 明治2年(1869)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっとも坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分印にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲になったという。 明治12年(1879)高龍寺は移転、翌13年旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。 碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。 函館市 ※案内文全文 |
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M2.5.12-5.13 |
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5月12日 |