8.新政府軍の軍艦、箱館を襲撃〜五稜郭砲撃


現在の五稜郭。

中央に映っている四角い建物は函館市立博物館五稜郭分館。
伊庭八郎(遊撃隊)の遺品(迷子札など)、中島登(新選組)の「戦友絵姿」、荒井郁之助(額兵隊)の「蝦夷錦」、榎本武揚の超男前写真(必見!)などを見ることができます。

五稜郭分館に隣接して建っている建物は箱館戦争当時からある唯一の建物・兵糧庫。



M2.5.4-5.7
新政府軍の軍艦、箱館を襲撃

5月4日
新政府軍の海軍が箱館を襲撃。
旧幕府軍の台場及び、回天、蟠竜の応戦により、雌雄を決せぬまま湾外へ退去。

実はこの時、旧幕府軍は、弁天台場から七重浜へかけて数十本の鋼鉄の綱を張りめぐらして、敵の軍艦の侵入を防いでいた。
新政府軍が対応策に頭を痛めていると、箱館の商船で働く水夫たちが、綱の切断に協力しようと申し出た(無理やり年貢をとったり、苦役に借り出したりしていた旧幕府軍は、いつの間にか民心を失ってしまっていた)。
丸2日間の作業の後、6日の晩に、ようやく綱は切断され、新政府軍の海軍は本格的な箱館攻撃に乗り出した。

5月7日明け方
新政府軍の軍艦「甲鉄」「春日」「陽春」が再び箱館湾に姿を現した。
旧幕府軍はただちに「回天」を出動させたが(蟠竜は4日の攻撃で機関を損傷していた)迎撃どころか二十発以上の砲弾をくらった上、蒸気機関を破壊されて、進退不能に陥ってしまう。

動けないからといって戦場を放棄すれば箱館がやられる。何が何でも戦い続けなければならなかった。そこで、海軍奉行の荒井郁之助は(「回天」の艦長だった甲賀源吾は宮古湾海戦で死亡)、弁天台場のそばの浅瀬に「回天」を乗り上げさせると、全ての大砲を海側へ移して、砲撃を続けさせた。

「回天」が動けなくなったのを幸いに、敵の軍艦が箱館湾の奥深くに進攻して来たのを待って、沖之口砲台と弁天台場も一斉砲撃を開始した。浅瀬の乗り上げた「回天」も、碇泊したまま動けない「蟠竜」も、ただひたすらに艦砲を撃ち続けた。

双方激しく撃ち合い、旧幕府軍からも新政府軍からも死傷者が続出。
新政府軍の軍艦は、ついに箱館湾から去って行った。



M2.5.8
旧政府軍、大川進撃

新政府軍の蝦夷上陸以来、1つずつ拠点を奪われ、敗走を続けていた旧幕府軍だが、もはや逃げ場はなかった。
さらに言えば、五稜郭に閉じこもっていた所で、援軍はやって来ない。
残された道は1つしかなかった。

明治2年5月8日早朝
榎本武揚は、自ら彰義隊、見国隊、陸軍隊、一聯隊、神木隊、衝鋒隊、砲撃隊(計500余名)を率いて五稜郭を出た。出陣前に酒樽をぬき、全員で盃をかわしたというが、この時の兵士たちの心境は、現代を生きる私には想像もつかない。

榎本は、衝鋒隊を伏兵として山上に配置し、残りの兵を3つに分けて大川村の新政府軍を攻撃させた。
遅れて蝦夷に入った見国隊は、この日が初陣だった。
周囲に抜きんじた手柄をたてようと、見国隊頭取の片山源五左衛門と南条武蔵之助が、それぞれ1小隊を率いて攻め込んだが、血気にはやって深入りしたために、片山は胸を撃たれて即死。南条も右腕を撃たれて退いた。

1千余人の敵を相手に、旧幕府軍は奮闘したが、死者数十人を出した見国隊を筆頭に、その他の隊でも死傷者があいつぎ、襲撃どころか、さんざんな目にあって、ついに敗走を始めてしまう。勝ちに乗じて追撃してくる新政府軍の側面を、山の上から駆け下りてきた衝鋒隊が突き、やっとの思いで五稜郭へ帰還することができた。

新政府軍からも百名以上の死傷者が出たというが、お話にならない。
何度夜襲をかけようと、自分の命と引き換えに何人の敵を倒そうと、事態は何一つ変わらない。そのことは十分わかっていながら、敵の死傷者について記録せずにはいられない、旧幕府軍兵士の心境を思うと何だか切ない。



M2.5.11
新政府軍、箱館総攻撃 @

明治2年5月11日。この日について語るのに、どの史料を参考にしようかとあれこれ迷ったが、土方歳三の最期に比較的詳しい「箱館戦記」を選んでみることにした。

「箱館戦記」の著者である大野右仲(当時31歳)は唐津藩士。
唐津藩世子(藩主の世継ぎ)・小笠原長行に同行するために、新選組に入隊して蝦夷地に渡った(新選組入隊が蝦夷地へ渡るための条件だった)。

蝦夷について間もなく新選組頭取に抜擢され、さらには、土方歳三の側近である陸軍奉行添役に選ばれていることから、土方に気に入られていたようだ。
(それだけ優秀だったということか)

箱館総攻撃の前日、大野は同僚の相馬主殿と妓楼に上がり、夜を徹して酒を飲んだ。
新政府軍による総攻撃の情報は事前に旧幕府軍に漏れており、大野だけでなく、榎本武揚や人見勝太郎など旧幕府軍幹部たちは揃って「武蔵野楼」に上り、別盃を交わしている。

艦砲を耳にした大野は、楼閣の最上階に上って目をこらした。
夜はまだ明けきっていなかったので敵艦は見えなかったが、海上に火光を確認した大野はすぐさま弁天台場へ向かい、相馬は馬を馳せて海岸方面へと向かった。

新政府軍の軍艦のうち、「甲鉄」と「春日」が弁天台場と「回天」を攻撃し、「朝陽」と「丁卯」は「蟠竜」を襲った。
対する旧幕府軍の軍艦は、機関の修理が終わったばかりの「蟠竜」のみ。
時間が経過するにつれ、旧幕府軍の敗色は明らかになってきた。

小銃の音を耳にして、頭上を振り仰いだ大野は、思わず目を見張った。
真っ青な空をバックに1千余人の新政府軍兵士が箱館山の頂上から小銃を撃ち下ろしてくるのが、はっきりと見えた。

大野は弁天台場を出ると、兵を率いて援軍要請のために五稜郭へ行こうとするが、その途中、千代ケ岡台場のあたりで、額兵隊2小隊を率いて、今まさに応援に駆けつけた土方歳三に出会う。

そのまま土方軍に合流し1本木の関門まで戻った所で、大野は足をとめた。
抜き身の刀を手にした男が、馬を馳せてこちらに向かってくる。
二股口の戦いで、胸壁を乗り越えて抜刀切り込みした、伝習士官隊隊長・滝川充太郎だった。

「七面山に戦ふも、支ふるあたわずして退く。かつ、我も傷つき、ふたたび戦うべからず。今日すでに迫れり。我が隊・惰者あらば、すなわち請う。君、これを斬れ」

流れる血で馬の鞍は赤く染まっていた。
再び戦うことができないほど傷ついていながら、自分の隊の隊士の中に臆病者がいれば、自分に代わってそいつを斬ってくれと言うあたり、恐るべき闘魂である(ちなみに彼は、負傷のおかげで箱館戦争では命拾いするが、西南戦争に従軍して戦死する)。

そうこうしている間にも、箱館山の新政府軍は二手に分かれて一気に山から降りて来て、一方は弁天台場と五稜郭との間を遮断し、もう一方は弁天台場を守る旧幕府軍を攻撃した。

新政府軍の進軍を阻むために、砲台を守っていた兵士が、周囲の民家に火を放った。
火はたちまち燃え広がり、870戸を焼き尽くした。この大火は「脱走火事」(旧幕府軍は「脱走軍」と呼ばれていたため)として、歴史に名を残すことになる。

どうしてこんなことになってしまったのか。
榎本武揚は戦などしたくはなかった。榎本の望みは、生活の手立てを失った旧幕臣のために、蝦夷地開墾の許可を得ることだった(という建て前になっている)。だからこそ嘆願書を何度も提出し、捕虜を大切にあつかい、敵方の死者は手厚く葬った。
けれども敗走を重ねるうちに、資金が尽き、武器弾薬が尽き、兵力が尽き、ついには本当に新政府軍に討たれるにふさわしい「脱走軍」に成り下がってしまったかのようだ。

戦争とはこんなものなのかも知れないが、どうにもやりきれない。



M2.5.11
新政府軍、箱館総攻撃 A
箱館海戦。
土方歳三、1本木で戦死。

箱館総攻撃の名にふさわしく、この日は海軍陸軍が四方に入り乱れ、戦場は七カ所に及んだ。

ほとんど活躍しないまま沈没した「開陽」とは対照的に、最後まで残った「蟠竜」の活躍はすさまじく、五隻の敵艦に取り囲まれ、四方から砲弾が雨のように飛び交う中、果敢に砲撃を続けていた。
やがて、そのうちの一発が、「朝陽」の弾薬庫に命中し、「朝陽」はあっという間に炎に包まれ轟沈した。船に乗っていた肥前藩士230余名はほとんどが即死し、助かったの30余名は英国の軍艦に救出された。
ちなみに「朝陽」艦長の中牟田倉之助は、文久2年(1862)に、高杉晋作たちと共に、幕府の上海視察団に同行した男だが、海中に吹き飛ばされて助かっている。

「この機、失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども、敗兵はにわかには用いがたし。我、この柵(一本木関門の柵)にありて、退く者は斬らん。氏(大野右仲のこと)は率いて戦え」

土方は大喝したが、数で勝る新政府軍は小銃を撃ちながら戦いを挑んできた。
新政府軍は、伝習士官隊の隊士たちが、銃の扱いはうまいが、刀での戦いには不慣れであることを見抜くと、全員が銃を捨て、抜刀して斬りかかって来た。
白刃を見て怖気づいた隊士たちは、隊伍を乱して敗走を始めた

土方が一本木の関門にいると思っていた大野は、旧幕府軍の兵士たちが関所を越えて逃げる様を見て首をかしげたが、土方は既に戦死していた。

「島田魁日記」によると、その最期は以下のようなものだった。
「…1本木街柵に到り戦う。すでに破り、異国橋近くほとんど数歩にして、官軍、海岸と砂山とより狙撃す。数人倒る。しかるにたわむ色なし。すでに敵弾、腰間を貫き遂に戦没。また、我が軍進んで攻めるあたわず、退いて千代ケ岡に到る」

敵に狙撃されて味方が倒れる中、顔色1つ変えずに馬を進めた土方は、敵の銃弾を受けて戦死した。司馬両太郎の「燃えよ剣」のラストを彷彿とさせる、ドラマチックな幕引きである(他にも色々な説あり)。

この頃には「蟠竜」もその役割を終えていた。
20発以上の砲弾を受け、蒸気機関が壊れた「蟠竜」は、夕方頃には弾薬をも撃ち尽くし、戦闘力を完全に失ってしまった。
事ここに到り、艦長の松岡盤吉以下乗組員は、「蟠竜」に火を放ち、端船を下ろして弁天台場へ逃げ込んだ。

「回天」に留まっていた乗組員も、新政府軍が箱館市街を占拠し、背後からも銃撃を受け始めたことから、同じく端船を下ろして1本木関門近くに上陸し、敵前突破して五稜郭へ入った。


<旅行こぼれ話> H15.8.11

箱新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁 榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。

明治元年(1868)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立。土方はその陸軍奉行の要職についた。

翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。

しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。

函館市

※案内文全文

一本木関門と土方歳三のお墓。
土方さんの墓標に手を合わせて車に戻ろうとすると、後から来た40代ぐらいの男の人が上着の内ポケットからすっと数珠を出したのにびっくり。
思わず目で追っていると、真っ直ぐお墓の前に進み、じっと祈りを捧げておられました。
幕末史跡めぐりに数珠は必需品。



M2.5.11
新政府軍、箱館総攻撃 B

五稜郭では、総裁の榎本武揚が台場に孤立した兵たちの救助に向かおうとしていた。
「新選組の砲兵2隊、砲台に囲まるるを知りて、これを救はざるはすなわち不信なり。なんぞ、もって諸隊に令せん。我、自ら進みて戦はん」

今にも馬に乗って飛び出しそうな榎本を副総裁の松平太郎がとめた。
「総裁、砲台に向はば、すなわち方面をいかんせん。総裁は不可なり」
総裁ともあろうものが、境地戦に関わっていてはならないという松平の言葉は正しい。
それではどうれば良いかということになるが、松平の答えは明白だった。

「我、総裁に代わりて行かん」と自ら馬にまたがり、颯爽と五稜郭を出て行った。
その後を、諸隊が続く。
額兵隊と見国隊は海岸方面を行き、彰義隊と新遊撃隊は田圃のぬかるみ踏みしめて進んだ。伝習士官隊は本道を行き、多くの隊士を失った上、隊長が負傷して指揮者を失った神木隊は伝習士官隊と行動を共にした。

新政府軍はすでに1本木のあたりに布陣して、兵を柵の周辺に散開させて、旧幕府軍を待ち受けていた。再び激しい戦闘となる。

大野右仲の言葉を借りれば、「両軍交戦するに、かつ集まり、かつ散り、かつ侵し、かつ支ふ。起きて銃を放つ者もあれば、臥して放つ者もあり。あるいはかさねて小隊の銃を放ち、あるいは大隊の令を下して、戦ふこと数刻。勝敗を決するあたわずして我が軍退き、官軍もまた敢えて進まず」といった状況で、関門突破を断念した諸隊は、千代田ケ岡台場に集結した。

見国隊は、隊長・二岡源次の屍を担いで千代田ケ岡に到着した。
額兵隊隊長の星恂太郎は、すらりと剣を抜き、「我が額兵隊は甚惰にして、面目諸君にまみゆるなし」と歎いたという。
杜陵隊隊長の伊藤善次は、「我、今日、労れたり。我が杜陵隊もまた多く死傷す」と言葉をつまらせた。
小彰義隊隊長の渋沢成一郎は、髪を振り乱し、目をぎらぎらさせて、ただならぬ面持ちで立っている。
新遊撃隊隊長の柏崎才一は黙り込んだまま何も語らない。
ただ1人、千代ケ岡台場の総督である中島三郎助だけが、傷を布で包んだ痛ましい姿で、「我の死するはこの岡のみ」と言ってのけた。

いつしか夕陽は西に傾いていた。
松平太郎は、諸隊に千代ケ岡の防衛を任せ、数人の部下を率いて五稜郭へ戻った。



M2.5.11
新政府軍、箱館総攻撃 C

その他の場所でも、壮絶な戦闘が繰り広げられていた。
急ごしらえで作った四稜郭には、松岡四郎次郎率いる一聯隊が立てこもって防戦したが、前方の赤川と、背後の権現山から挟撃されて、20名近くの死者を出した。
それでも夕方まで持ちこたえたが、神山、赤川方面で戦っていた衝鋒隊が退いたことから、退路を断たれて全滅するのを避け、やむなく五稜郭へ退却した。

この日、陸軍奉行の大鳥圭介は、伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊、彰義隊を指揮して、大川、有川の両道、及び海岸方面の防御にあたった。

大鳥は、大川正太郎率いる伝習隊に大川道を守らせ、春日左衛門率いる陸軍隊を海岸に向かわせ、遊撃隊をその中間地点に配置した。
午前8時頃、4千人の新政府軍が大挙して攻め寄せて来た。
砲声が雷のように轟き、弾丸が霰のように飛び交う中、大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦した。銃弾が何度も服をかすめたが、不思議と大した怪我もなく防戦を続け、新政府軍の進攻がやんだ午後8時後、大川正太郎(乗っていた馬は撃たれて即死したが本人は無傷だったという)らと共に五稜郭へ引き上げた。

大鳥は無事帰還したが、大鳥のすぐ横で指揮をしていた陸軍隊隊長の春日左衛門は銃弾に倒れた。
瀕死の重傷を負った春日は、この後、五稜郭に運び込まれ、伊庭八郎と同じく服毒死する。
同じ部屋にいて、同時に毒を飲んだとする説もあるが、実際の所はよくわからない。
ちなみに「戊辰役箱館戦争人名簿」では、伊庭八郎は5月12日。春日左衛門が16日に亡くなったことになっている。

両者が別々の日に死んだことを裏付けるかのように、伊庭八郎が五稜郭表門の南西に埋葬されたのに対し(11日に戦死した土方歳三の埋葬地のそば)、春日左衛門の埋葬地は五稜郭表門より北東方向の土塁沿いだとされている。

伊庭八郎は「温雅な風情で色が白く眉目秀麗」だったとされるが、春日も「容貌美麗にして尤も強気あり」と形容される美男子だった。
春日左衛門25歳。詳しい史料はもちろんのこと、写真も肖像画も残っていない幻のヒーローである。



<旅行こぼれ話> H15.8.14

明治2年春。五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面大地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。

四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空濠をめぐらし、郭内(面積約2300u)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。

なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちに四稜郭を完成させたといわれている。

明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府軍は五稜郭へと敗退した。

五月十八日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。

函館市・文部省

※案内文全文

四角く土が盛り上がっているだけです。
つわものどもが夢の跡。



M2.5.11
新政府軍、箱館総攻撃 D

箱館病院で起こった事件を紹介して11日に関する記述を終えようと思う。

箱館病院のトップは、箱館病院頭取の高松凌雲(34歳)だった。
高松は適塾で西洋医学を学んだ秀才で、後に一橋家に仕え、幕府の奥医師にまでのぼりつめた。慶応3年には、パリ万博に派遣された徳川昭武に随行して欧州へ渡り、上野戦争の2日後に帰国した。

旧幕府軍が敵味方なく治療にあたったのは、高松凌雲が人命尊重の赤十字精神にのっとって患者に遇したからである。

箱館総攻撃の折、箱館病院ならびに高龍寺には400人の負傷者が収容されていた。
患者を守るため、高松は全員の武器を預かり、非武装中立を徹底させた。

5月11日午前10時
新政府軍が箱館病院内に乱入してきた。
玄関から入ってきた兵士たちは、傷病者を見るなり、「賊あり!」と叫んで小銃をかまえた。

凌雲は、兵士たちの前に立ちはだかり、「欧州各国においても、負傷して戦闘力なき者は、彼我の別なく、互いに治療を施すの法あり」と訴えたが、殺気だった新政府軍は聞き入れようとしない。しばらく押し問答を続けているうちに、薩摩藩の士官・池田次郎兵衛が姿を現し、凌雲の言い分を聞き入れて兵を引き、病院の門前に「薩摩隊改め」と墨書きして立ち去った。

分院の高龍寺では犠牲者が出た。
箱館山から市中になだれ込んできた松前藩士は、高龍寺に押し入るなり、旧幕府軍の負傷兵4〜5人を切り倒した(非武装が徹底しておらず抵抗した者がたためとされている)。

その後、凌雲の要請でロシア領事がかけつけ「病院はことごとく我が国にてこれを護す。病者を殺すは不義の甚だしきなり。これを害することなかれ」と告げて、松前藩士を追い出した(他の説あり)。

外国の領事は船で箱館を脱出したというが、どうしてロシア領事だけが留まっていたのかはわからない。また、高松の要請を受け、危険な戦場にかけつけた点にも疑問を感じる(よほど親交があったのか?)。
それはともかく、高松凌雲の尽力により、患者が保護されたことだけは確かである。

長い1日はこうして終わった。
この夜、大野右仲は、五稜郭の堤の上を歩きながら、ただ1人、物思いにふけった。

「月は欠けて天にあり、広野渺漫(びょうまん)たり。砲台は湾を隔てて雲煙の中に髣髴(ほうふつ)たり。ひとり兄事する所の奉行(土方歳三のこと)の死を歎き、同胞のごとく交わりたる者は、皆彼にありて(弁天台場のことか)、我のみ敵陣のさえぎる所となりて到るを得ず。涙を垂れて楚の項羽の『時利あらず、騅行かず』の句を吟ず」

上記は「箱館戦記」からの抜粋だが、月光を浴びて涙する男の姿が目に浮かぶような名文である。漢詩が口をついて出るあたりは映画や小説のワンシーンのようだが、当然のことながら、作り話ではない。



<旅行こぼれ話> H15.8.11

明治2年(1869)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっとも坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分印にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲になったという。

明治12年(1879)高龍寺は移転、翌13年旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。

碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。

函館市

※案内文全文
高龍寺境内にある傷心惨目の碑 同じく高龍寺境内にある土方歳三と新選組隊士の供養碑。
碑は昭和48年に建立されたもので、他に新選組隊士4名の名前が刻まれています。



M2.5.12-5.13
新政府軍、五稜郭を砲撃

5月12日
新政府軍の旗艦「甲鉄」は亀田村の沖合いから五稜郭に向けて砲撃を開始。
次々と飛んでくる砲弾が、屋根を突き破り、柱をへし折り、あるいは兵士たちを吹き飛ばし、五稜郭内をパニックに陥れた。

高松凌雲の兄、衝鋒隊隊長の古屋作左衛門も重傷を負った。
甲鉄の放った砲弾の1つが、食事中だった衝鋒隊隊士の上で破裂したからである。
5人の隊士が即死し、古屋を含む4〜5人が負傷した。
古屋はその後、病院に送られるが、弟の必死の治療のかいもなく、6月14日に亡くなっている。古屋作左衛門。享年37歳。外国兵書「歩兵操練図解」の翻訳者であり、幕府洋式の先駆者というべき存在だった。

夜になっても砲撃は止まず、兵士たちは、土堤や石垣の側に畳を敷き、屏風を立てて、外へ寝た。

これほど悲惨な状況の中でも、旧幕府軍は戦うことをやめなかった。
この日、額兵隊と見国隊は大森浜を襲撃したが、何倍もの敵に四方を囲まれ敗退した。
これまでに何度も紹介してきたが、額兵隊と見国隊は共に仙台藩士からなる軍隊である。見国隊隊長の二岡源治は前日の戦闘で討ち死にしていたから、恐らく両隊を率いたのは星恂太郎だろう。

額兵隊は14日にも1本木関門を襲撃し、16日には千代ケ岡台場で中島隊と共に戦って十人以上が討ち死にしている。千代ケ岡の台場で「諸君に合わせる顔がない」と額兵隊の惰弱さを詫びた星恂太郎は、最後まで戦い続けることで、武士の義を果そうとしたのかも知れない。

艦砲掃射で旧幕府軍を恐怖に陥れた新政府軍は、時を同じくして別の動きを開始していた。この日の夕方、薩摩藩の池田次郎兵衛、村橋直衛、そして、名前は明かさなかったが新政府軍参謀・黒田清隆が箱館病院を訪れている。

3人の薩摩兵は病床の諏訪常吉(会津遊撃隊・隊長)を見舞い、降伏勧告の使者になって欲しいと頼んだが、矢不来の戦闘で重傷を負った諏訪には、もはやそんな元気はなく(16日に亡くなっている)比較的軽傷の患者が使者に選ばれた。
なお、勧告書は、五稜郭だけでなく、弁天台場の永井玄蓄のもとにも届けられている。

5月13日
降伏勧告に対する榎本の回答(5月13日付)は以下のようなものだった。
「もとより覚悟の事なれば、今に至り降伏すべき心なし。いずれも潔く戦死せんと誓いしなり。ただし我ら、一、両人、罪に復し、自余の者に蝦夷地の内、相応の場所を給らば、朝裁につかん」

「我ら一両人」とは総裁の榎本と副総裁の松平のことである。
「他の者に相応の土地を与えてくれるなら、自分たちは罪に伏しても良い」との言葉には榎本の執念が感じさせる。この段階においてもなお、榎本は幕臣のために蝦夷地の開拓権を得るという当初の目的を捨ててはいなかった。

榎本は返書と共に、一冊の本を使者に托した。
本の名を「海律全書」といい、榎本自身が翻訳した、海の国際法と外交に関する書物である。

「これ、海内無二の良本なれば、今ともに戦場の灰燼に帰するは遺憾少なからず。願わくば、これをとどめて、長く皇国の重宝となし給はば、すなわち、予が寸忠も空しからず」

新政府軍は、蝦夷地を旧幕府軍に与えるつもりなど全くなかったが、「万国海律全書」に添えられた文章は黒田清隆をひどく感動させていた。


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