9.弁天台場降伏〜五稜郭開城


榎本ら生き残った幹部たちが戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために明治8年に建立。

碑銘の三文字は大鳥圭介の字とされているが、碑には揮毫者の名前も建立発起人の銘もないので実際の所はわからない。

ただその背面には、以下の16文字が刻まれている。

明治辰巳実有此事
立石山上以表厥志

「明治辰巳に実にこのことあり。山上に石を立て以ってその志を表す」



M2.5.13-5.15
弁天台場降伏

「蝦夷錦」では、弁天台場が新政府軍に降伏したのは5月13日とされている。
15日となっているものもあるが、どれが本当なのかわからないので、いちおう13日ということにしておく。

5月13日
薩摩隊の軍監・片山米右衛門は弁天台場を訪れて降伏を勧めた。
箱館奉行の永井玄蕃は、陸軍奉行添役の相馬主計(大野右仲の「箱館戦記」の相馬主殿と同一人物)、砲兵隊長・関広右衛門、「蟠竜」艦長・松岡磐吉などと協議した上で、ついに降伏を決意した。

「孤立して応援もなく、進退既にきわまりし上は、降伏して天裁を待つにしかず」
(孤立して応援もなく、進退もすでに極まったからには、降伏して運を天に任せるしかない)

この言葉の通り、孤立した弁天台場では、すでに食糧が底を尽き、弾丸は撃ち尽くし、砲撃で井戸を破壊されたために飲み水すらなかった。

5月15日
榎本武揚は、永井玄蕃の口ききにより、千代ケ岡台場で薩摩の中山良蔵ら3名と会見した。薩摩藩士は降伏をすすめたが、榎本はこれを拒絶し、降伏はしないが、五稜郭内にいる負傷者(200名以上いたという)を湯の川へ非難させたいから、攻撃を一時中断して欲しいと頼んだ。

新政府軍は榎本の依頼を受け入れたため、傷病者はその日のうちに湯の川へ送られた(新政府軍の捕虜11人も送り返された)。
田村銀之助が史談会で語った所によれば、伊庭八郎と春日左衛門の2人は湯の川へ行くことを拒否して五稜郭へ留まったという。となると、16日に亡くなった春日左衛門はともかくとして、伊庭八郎が12日に亡くなったというのは、どうもおかしい。
いくら考えた所で答えは出ないが、4月20日負傷してから20日以上が経過しており、胸の傷は腐蝕して紫色に変じていたという。
戦うことはもちろん、逃げることすらできない2人に、服毒死を勧めた榎本武揚の気持ちもわかる気がする。

この頃になると、旧幕府軍では脱走者が相次いだ。
小彰義隊の隊長・渋沢成一郎は、隊士共々五稜郭を抜け出し、その足で官軍に投降した。他にも、陸軍奉行添役・津田主計や、彰義隊長・池田大隅といった、士官クラスが次々と戦線を離脱し、降伏者の数は340余名にのぼった。

「我が軍、同盟を破り、脱走する者、ことごとく多し。勢い及ばぬ時は、我が身を捨て、兵を助ける事、将の常なり。しかれども、わずかの兵をおさめかね、瓦解に及ぶこと、我、これを大いに恥ず。足下、兵隊を引きて門を守り、兵の脱するを防ぎ、共に力を合わせ、死すとも義名を残さんことをはかれ」
(我が軍では同盟を破って脱走する者が甚だ多い。勢いが及ばない時は、我が身を捨てて兵を助けることが将たるものの常であるのに、わずかの兵すら統率できず、瓦解に及んでしまったことを、私は大いに恥じている。星君、兵を率いて門を守り、脱走者を防ぎ、共に力を合わせ、たとえ死んでも義名を残せるように力を尽くしてくれたまえ)

榎本の命を受けた星恂太郎は、16日に表門に移ったが、その目的が防衛のためではなく、味方の脱走を防ぐためだったというのは何とも空しい。

榎本が「海律全書」を送って黒田清隆を感激させたことは既に述べた。
ここで黒田は義理人情に厚い、薩摩隼人らしい行動に出る(無駄な消耗を避けるための単なる心理作戦かも知れないが)。
すなわち彼は、海軍参謀の名前で、酒5樽に書状を添えて五稜郭に送った。

書状には「兵糧弾薬乏しく候はば、送りつかわす」(食料や弾薬が乏しいようでしたら、お送りします)とまで書かれていたが、榎本は、「弾薬兵糧共に、当分、乏しきにあらず。…いつにても攻撃せらるべし。送り賜わる所の樽は、厚志に任せ、落手致す」(弾薬にも食料にも当分は困りません。いつでも攻撃なさって下さい。お送り頂いた酒樽はご厚意に感謝して頂戴します)と返答した。

受け取ってはみたものの、毒が入っているかもしれないからと、誰も酒を飲もうとしなかった。それを見て、前に進み出たのは、ご存知、星恂太郎である。

「おのおの、少しもあやしむことなかれ。我が兵、この一郭を守り、すでに一挙にして滅びんとす。仮にも勅命を旨として人民を救うことを名とする者、この場にいたりて毒をもって窮兵を害する者あらんや。我、試みにこれを飲まん」

(心配いりません。我々はこの五稜郭に立てこもり、あと一戦をもって全滅しようとしているのです。かりにも連中は、勅命をもって民を救うことを大義名分としているのですから、いまさら毒を盛るなどとう姑息な手段で、ジリ貧の我々を害することはしませんよ。試しに私が飲んでみましょう)

そばにある石を取って樽を破り、酒を大椀で2、3杯飲んだ星は、「これ、真の美酒なり」と告げたという。(星は本来酒豪である。ただし蝦夷地についてからは飲まなかった)
これを見た榎本は大いに笑い、酒を各隊に分けて労をねぎらった。

額兵隊士の手による「蝦夷錦」には、「額兵隊隊長・星恂太郎」と副題を付けてもおかしくないほど、星の逸話が登場する。これほど特定の人物にスポットを当てた史料は珍しい。荒井宣行は、年下の隊長を、さぞかし敬愛していたのだろう。



<旅行こぼれ話> H15.8.11

「八郎君墓は箱館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らにあり」
明治32年9月10日に上野東照宮で開催された「伊庭八郎を偲ぶ会」での出席者のひとこと。

下の画像は片上楽天という人が、大正時代の調査結果に基づき「伊庭八郎埋葬の地」として発表した場所です。
けれども片山氏は、ここに伊庭八郎と共に埋葬されたのは、酒井兼二郎、川井卓郎、松村五郎、田上義之助、田島安二郎、石島徳二郎、秋山重松の7名としており、土方歳三の名前は出てきません。

田村銀之助の発言が真実なら、伊庭さんは陸軍隊隊長の春日左衛門と同じ部屋で共に服毒自殺したことになりますが、春日さんの埋葬場所は「五稜郭東門より北東方向の土塁沿い」だそうです(遺族が遺骨を発掘し持ち帰ったそうですが真偽は不明)。

五稜郭でお仕事なさっている方に、「ここが伊庭八郎や土方歳三の埋葬地だと言われているのに、どうして案内板を立てないのですか?」とお聞きした所、「確証がありませんからねえ」とのことでした

桜を植える作業をしていた所、軍服を着た遺体が発見されて大騒ぎになったという話を、老人から聞いたことがあるとおっしゃっていました。

伊庭八郎埋葬の地(?)は兵糧庫の裏手にあります。

兵糧庫は箱館戦争当時からある唯一の建物。



M2.5.17-18
千代ケ岡決戦
五稜郭開城

千代ケ岡台場の最後は悲壮だった。
中島は、五稜郭へ退却するようにと大鳥圭介らに勧告されても、「この郭は我が墳墓の地なり」と言って相手にしなかった。

千代ケ岡台場を守っていたのは、元浦賀奉行・中島三郎助率いる中島隊12名の他に、額兵隊大砲長・菅野半左衛門をはじめとする砲士20名と陸軍1小隊の50数名。

5月17日
新政府軍は、降伏した旧幕府軍兵士を先鋒とし、抜刀して攻め込んで来た。
中島三郎助と2人の息子は大砲でこれを迎え撃つ。
1時間の戦闘で半数以上が死に、中島父子も戦死した。
長男の恒太郎は22歳。次男の英太郎は19歳の若さだったという。

中島隊の中に、柴田俊輔という50代の隊士(元浦賀同心)がいた。
味方の兵がことごとく戦死し、敵兵が郭内に充満した後、柴田は郭外に潜み、敵兵が砲台へ上って遠見をする所を狙撃した。小銃を撃ちまくって2人を倒し、最後に自らの胸を撃って倒れた。

千代ケ岡台場が破れたこの日、五稜郭の一室では、総裁の榎本武揚が自刃しようとしていた。彰義隊改役の大塚鶴之丞が身体をはってこれを止め(短刀の刃をつかんだために左手3本の指がぶらぶらになるほどの大怪我をした)、そのことがきっかけとなって、旧幕府軍は一気に降伏へと傾いていく。

榎本の自殺は狂言自殺だとする人が少なくない。
あるいはそうかも知れないが、もしそうだったとしても、榎本が保身に走ったわけではないことは、これまでの経緯からも明らかである。

天才・榎本武揚は、身の置き場のなくなった幕臣のために、自らの能力を総動員して蝦夷地を手に入れるという勝負に出た。その後の栄達ぶりが際立ったために、大勢のねたみをかっただけで、彼もまた義侠心に厚い江戸っ子であり、誇り高い幕臣だった。

明治2年5月18日の五稜郭開城をもって箱館戦争は幕を閉じる。
徳川幕府に象徴される武士の時代は終わり、生き残った者たちは新しい時代に向かって歩き出した。


中島三郎助父子最後之地

千代ヶ岡台場跡。現在はスポーツ施設。


前へ 完


- あとがき -


(その1)

最後までお付き合い頂いた方、本当にありがとうございました!
伊庭八郎の最期の地をたずねるべく函館へ行くことにしたものの、箱館戦争のことを全く知らなかったので、この際、調べてみようという気になりました。

複数の史資料を読み比べながら、おもしろい逸話などを取り上げつつ、箱館戦争を最後まで追いかけてみたわけですが、史料によって日にちが違ったり、人物の名前が違ったりで、思ったより大変な作業でした。

日にちなどは、きちんと調べるべきですが、時間がなかったので、史実を検証するどころか、誤字脱字も無視して、とりあえず最後まで進めてしまいました。

箱館戦争に関する史料を読み比べていくと色々なことがわかります。
「蝦夷錦」と「星恂太郎日記」と「仙台戊辰史」は内容がとても似通っているし、「島田魁日記」と「箱館戦記」にも多くの共通点が見られます
書き手の思い入れによって、特定の人物にスポットが当っているのも、おもしろい所です。

旧幕府軍兵士が書き残した史料の多くは、新政府軍に投降した後、謹慎中にまとめられたようで、同じ場所に謹慎していた者同士、互いに情報交換しているようです。

ですから、情報交換する相手のいなかった大鳥圭介の記した「南柯紀行」あたりは、日にちにずれがあると共に、内容もちょっと独特です。
戦争中であるにも関わらず、残酷な行為をことさら嫌い、被害を最小限に留めようと努力している点も印象的でした。

史料を補足するものとして、3冊ばかり解説本のようなものを読みましたが、事実と異なる点も多々ある上に、作者の思い入れが強すぎたりして、参考にはなっても、鵜呑みにするべきではないと思いました。

ということで、この「箱館戦争を追え」も、特定の人物に肩入れしている上に、新政府軍の史料は全く見ていないことから、史実とはかけ離れているかも知れません。

何はともあれ間に合って良かったです。
それでは明日から4泊5日で箱館へ行って来ます。

2003.8.10

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(その2)

「あと書き1」にもあるように、このサイトは旅行の予備知識を得るために作成したものですが、その後、画像を入れたりして作り直したのは、実際に現地へ行ってみて、箱館戦争ゆかりの地に建てられた碑や案内板がぼろぼろになっていたことに驚いたからです。
参考画像

「碑や案内板を建て直して欲しい」
このまま放置しておいたのでは箱館戦争の史跡がわからなくなってしまいます。
そのために何ができることはないかと思い、エッセイをメルマガに載せて配信したり、マスコミ、行政etc…にお願いのメールを送ったりした所、唯一、北海道教育庁生涯学習部文化課より平成15年9月12日付で、「御意見もありますことから、できるところから適切に対処されるよう関係市町村にお伝えいたします」というお返事を頂きました。

大変嬉しいお言葉ですが、伝えるだけではだめだと思います。
過去から伝わってきたものを後世へとバトンタッチするのは、現代を生きる私たちの当然の義務です。

たかが史跡、されど史跡。
文字の読めなくなった木碑が意味するものを、行政の方はもちろん、1人でも多くの方に知って頂きたい。
史跡は史跡としてきちんと次の世代へ伝えていきたい。

碑や案内板を建て直しが実現したら、また道南へ遊びに行ってみたいと思います。
この件に関して情報などお持ちの方がいらっしゃいましたら、メールでご一報頂けると嬉しいです。

メールアドレス
ponpoko.y@nifty.com


「箱館戦争関連遺跡の保存について」

メールによる御意見をいただきありがとうございました。
御意見のありました箱館戦争関連遺跡につきましては、国指定文化財又は北海道指定文化財ではないことから、文化財保護法など法令の適用がなく、関係市町村の対応に委ねている状況にあります。

しかしながら、御意見もありますことから、できるところから適切に対処されるよう関係市町村にお伝えいたします。なお、文化庁におきましては、経済・社会・政治などに関する近代の遺跡について、我が国の近代の歴史を理解する上で欠くことのできないものであり、適切な保護を図ることが急務であるとして、それら遺跡の保存状況の全国的な調査を実施しております。

この調査につきましては、各市町村教育委員会の協力を得て実施しておりますことから、近代の遺跡の保存に対する機運が地元から盛り上がるよう、北海道教育委員会としても支援をしてまいりたいと考えております。

また、箱館戦争史跡につきましては、一括して史跡として保存するための基礎調査を行っており、今後は、個々の遺跡の保存状態等を確認し、地元や文化庁とも相談しながら進めてまいります。

さらに、矢不来台場跡は国指定史跡として国指定の準備が進められており、近々指定される予定となっております。

以上、簡単ではありますが、お答えと致します。
今後とも、御意見をいただきますようお願い致します。

平成15年9月12日
北海道教育庁生涯学習部
文化課文化財保護グループ主査


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