【 年 譜 】

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弘化 |
元年(1844) | 1歳 | − | 伊庭八郎秀穎、心形刀流8代目・御家人・伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれる(母は秀業の後妻マキ)。 |
| 弘化 | 2年(1845) | 2歳 | 7/12 | 秀業隠居。門弟の塀和惣太郎が伊庭家を相続し心形刀流9代目を継ぐ。 |
| 安政 | 3年(1856) | 13歳 | 3/1 | 養父・伊庭惣太郎、講武所剣術方となる。 ※出仕要請されたのは秀業だったか、秀業は辞退し、代わりに惣太郎を推薦 |
| 安政 | 5年(1858) | 15歳 | 8/13 | 実父・秀業、コレラにかかり急死。伊庭惣太郎は軍兵衛秀俊と名乗る。 ※心形刀流の宗家は代々「軍兵衛」と名乗った。 |
| 文久 | 元年(1861) | 18歳 | 8/5 | 養父・秀俊が講武所剣術師範並に昇進。 ※八郎が剣術を始めたのは16歳の時だとされており、それまでは読書好きの文学少年だった。剣術を始めた途端、天賦の才ゆえか、たちまち「伊庭の小天狗」と呼ばれるほどの剣客になった。八郎の構えや技はどことなく華やかで、少年剣士たちがこぞって真似をしたらしい。 |
| - | - | − | 12/3 | 秀俊が将軍家茂の親衛隊・奥詰に選ばれる。 |
| - | 3年(1863) | 20歳 | 12/26 | 秀俊が講武所剣術師範役に昇進。 |
| 元治 | 元年(1864) | 21歳 | 1/15 | 秀俊は奥詰として、八郎は講武所剣術方として、家茂警護の一行に加わり上洛。以後、公務をこなしつつ、グルメ、観光、ショッピングを楽しむ。 ※八郎の名著(迷著?)「征西日記」はこの間の記録。 |
| - | - | - | 5/7 | 八郎ら、家茂に従って京都を発ち大阪へ下る。 |
| - | - | - | 5/16 | 八郎ら、大阪天保山沖から海路で江戸に戻る家茂を見送る。18日に幕艦「黒龍丸」で江戸へ戻るよう要請されるが(さらなる観光を楽しむため?)陸路で帰りたいと希望して認められる。 |
| - | - | - | 6/6 | 大阪を出発。 |
| - | - | - | 6/8 | 八郎ら講武所剣術方18名、早駕籠で京都へ引き返す。 ※「池田屋事件」勃発により町奉行から出動命令がきたため(着いた頃には収束していた)。 |
| - | - | - | 6/14 | 八郎ら、再度京都を発つ。 |
| - | - | - | 6/17 | 八郎の実の弟(武司=三郎)の急病により、亀山城下「柏屋」に逗留して看病。 ※亀山藩で大いに歓迎される。 |
| - | - | - | 9/7 | 「部屋住み」から江戸城へ召し出され、御書院番松平駿河守組となる。 |
| - | - | - | 9/10 | 正式に奥詰を任命(石高300俵10人扶持)。 ※2.5俵が1石だから300俵は120石。なかなかの高給取り。 |
| 慶応 | 元年(1865) | 22歳 | 5/16 | 八郎ら、第二次征長戦争のために上洛する家茂を護衛して江戸を発つ。 |
| - | - | - | 閏5/22 | 八郎ら、江戸に到着。 ※八郎には関係ないけど新選組も家茂の出迎えに来た。 |
| - | - | - | 閏5/25 | 八郎ら、家茂に従って大阪へ。 |
| - | - | - | 6/29 | 八郎、乗馬の競走で優秀な成績をおさめ、家茂から褒美として扇子をもらう。 ※八郎は乗馬の名手。 |
| - | - | - | 12/11 | 八郎、剣術の上覧試合で優秀な成績をおさめ、家茂から褒美として刀の下げ緒をもらう。 ※八郎は当然名剣士。 |
| - | 2年(1866) | 23歳 | 7/20 | 家茂、大阪城内で没。 ※享年21歳。同年の和宮は21歳で未亡人。お気の毒。 |
| - | - | - | 9/9 | 八郎ら、大阪を発つ。 |
| - | - | - | 9/23 | 八郎ら、江戸に到着する。 |
| - | - | - | 10/22 | 奥詰、講武所剣術方など366名で遊撃隊発足。 ※遊撃隊は幕臣の中から選び抜かれた剣客集団。 |
| - | - | - | 10/23 | 秀俊、遊撃隊入りを拝命。 ※八郎も同時に遊撃隊入り。 |
| - | - | - | 11/18 | 秀俊、遊撃隊頭取(副長格)となる。 ※遊撃隊頭並(隊長格)は今掘越前守。 |
| - | 3年(1867) | 24歳 | 10/22 | 大政奉還後の京都情勢に対処するために今掘越前守に上京の命が下る。 |
| - | - | - | 10/25 | 今堀以下遊撃隊士312名、江戸を発つ。 ※八郎も加わっていたはず。 |
| - | - | - | 12 | 幕臣(ただし生まれも育ちも京都)人見勝太郎、遊撃隊士に抜擢される。 ※人見は後の遊撃隊におけるキーパーソン。長生きしえ実業家として成功。箱根の早雲寺に遊撃隊士の墓を建てた。 |
| - | - | - | 12/12 | 遊撃隊士、将軍・慶喜を護衛して大阪へ。そのうち半数は駒井但馬守とともに大阪城に残り、八郎ら130名は今掘越前守に率いられて新選組や会津藩士と共に伏見に布陣。 |
| - | 4年(1868) | 25歳 | 1/3 | 午後5時頃、鳥羽・伏見の戦が勃発。八郎は甲冑の上から被弾し大量吐血。遊撃隊は夜になって中書島へ退却。 ※遊撃隊士は鎖帷子、篭手、胴などで身を守った上に縞の高袴をはき、割袴を着用し、陣笠を被っていた。 |
| - | - | - | 1/4 | 旧幕府軍は淀へ引き揚げることになるが、淀藩が入城を拒否したために、大阪へ敗走。 |
| - | - | - | 1/7? | 八郎、旧幕府軍の江戸退却を涙を流し反対。 ※八郎がいくらがんばっても肝心の将軍が前日に夜逃げしていたので戦闘続行は不可能。 |
| - | - | - | 1中旬 | 遊撃隊、幕艦で江戸へ。 |
| - | - | - | 2/12 | 慶喜は恭順の意を表明し、江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎。 |
| - | - | - | 2/25 | 遊撃隊、上野寛永寺で謹慎中の慶喜警護にあたる。 |
| - | - | - | 3上旬 | 八郎、人見勝太郎らと共に、旧幕府・海軍副総裁・榎本武揚の邸宅を訪れ、同盟を約す。 ※武器弾薬を密かに品川沖の榎本艦隊へ運搬 |
| - | - | - | 4/11 | 江戸城開城。慶喜は水戸へ引退。遊撃隊本隊は水戸へ随行。八郎ら36名は千住大橋まで慶喜を見送った後に脱走し、旧幕府艦隊(以後、榎本艦隊と呼ぶ)に身を投じる。同日、艦隊は品川から館山へ移動。 ※評定所の官吏だった親友の本山小太郎も八郎に付き合って脱藩。なじみの料亭「鳥八十」の料理人・鎌吉も行動を共にする(なぜ料理人が!?)。 |
| - | - | - | 4/16 | 勝海舟、榎本艦隊を訪れ榎本を説得。榎本が脱走を思いとどまったため、八郎らは別行動をとる。 |
| - | - | - | 4/28 | 八郎ら遊撃隊士、榎本艦隊の行速丸で木更津へ渡る。隊長の人見と八郎は請西藩の陣屋に赴き、請西藩主・林忠崇に同盟を申し入れる。林は同盟を即決。 ※林忠崇に面会しちた人見&八郎は徳川家復権の協力を頼んだ。請西藩は新政府軍に恭順することに決めていたので藩主自ら70名の藩士を率いて脱藩し遊撃隊に合流(さすがは若干21歳の青年藩主、やることが大胆)。 |
| - | - | - | 閏4/3 | 請西藩士約70名、遊撃隊士36名からなる新遊撃隊、出陣。前橋藩の富津陣屋に至り、20名の兵と軍資金、武器、食料を調達。 ※挙兵の大義名分は、紀伊、尾張、彦根3藩の問罪(「譜代・親藩の大大名が1番に幕府を見捨てるとは何たること!」ってなぐあい) |
| - | - | - | 閏4/4 | 遊撃隊、飯野藩の陣屋に赴き、約20名の兵を徴発。 |
| - | - | - | 閏4/8 | 遊撃隊、勝山藩から約30名、館山藩から14名の兵を徴発。 |
| - | - | - | 閏4/10 | 遊撃隊(200名以上いた)、箱館の関をおさえ、江戸の彰義隊と呼応して新政府軍を挟撃するために館山から和船2艘に乗って出航。 ※沖まで榎本艦隊の大江丸が曳航している。別行動をとってからも榎本らとの関係は友好。 |
| - | - | - | 閏4/12 | 遊撃隊、相模真鶴に上陸し、小田原藩主・大久保忠礼に同盟を求め拒否される。 ※大久保忠礼を盟主として箱根の関を制圧しようとしたのだが、新政府軍から圧力をかけられていた小田原藩は経済的援助を約束したのみで態度を明らかにしなかった。 |
| - | - | - | 閏4/14 | 遊撃隊、小田原を退去する。 |
| - | - | - | 閏4/15 | 遊撃隊、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に同盟を求め拒否される。 |
| - | - | - | 閏4/16 | 遊撃隊、甲府城を接収するために御殿場へ移動。 ※三島から御殿場を経由して甲府城へ行こうとした。 |
| - | - | - | 閏4/18 | 元幕臣の山岡鉄舟が現れて解兵の説得にあたる。 ※八郎らは紀州、尾張、彦根の3藩を糾弾する上書を作成し、山岡を通じて新政府軍総督府に提出。10日間の期限をもうけて回答を待つことにした。 |
| - | - | - | 閏4/19 | 遊撃隊、御殿場を発つ。 |
| - | - | - | 閏4/20 | 遊撃隊、甲府黒駒へ到着。黒駒にいる間に、幕臣30名、岡崎藩士10余名が加盟。 |
| - | - | - | 5/1 | 遊撃隊、回答期限が過ぎたので甲府へ向かって出発したが、さらに10日間沼津で回答を待つことにする。 |
| - | - | - | 5/5 | 遊撃隊、沼津に到着し、香貫山の霊山寺に入る。 ※沼津藩の監視下におかれていたが、この間に前橋藩の脱走者などが加盟し、遊撃隊は275名になった。 |
| - | - | - | 5 | 遊撃隊再編成、八郎は第2軍の隊長となる。 ※参考 第1軍隊長 人見勝太郎 第2軍隊長 伊庭八郎 第3軍隊長 和多田貢(岡崎藩士) 第4軍隊長 林忠崇(請西藩主) 第5軍隊長 山高^三郎 |
| - | - | - | 5/17 | 15日に上野で彰義隊と新政府軍の戦争が始まったという知らせが遊撃隊にもたらされる。 |
| - | - | - | 5/18 | 人見勝太郎、彰義隊に呼応するため、第1軍を率いて抜け駆けで江戸へ向かう。 ※正確には19日の払暁。夜来の雨が激しく降り続いていたらしい。「令なしにみだらに進退すべらからず」という軍律を無視した抜け駆け。上野へ向かおうにも箱根の関を守っていた小田原藩兵が通過を許さなかったので「さらば兵力をもって通行すべし」とたちまち戦闘状態に(過激だ〜)。霊山に残された遊撃隊は、軍律違反とは言え、見捨てるわけにはいかないので後を追った。 |
| - | - | - | 5/19 | 遊撃隊の援軍、人見の第1軍に合流。夕方頃には小田原藩から和睦の申し入れがあり小田原藩は箱根の関を遊撃隊に明け渡した。 ※八郎も箱根で奮戦。小田原藩では佐幕派が勢いを盛り返し「遊撃隊と協力して官軍に対抗しよう」ということになった。 |
| - | - | - | 5/20 | 遊撃隊全軍、箱根の関に到着。 |
| - | - | - | 5/23 | 八郎の第2軍、人見の第1軍、小田原へ向かう。 |
| - | - | - | 5/24 | 八郎、人見と共に小田原城内に入る(新政府軍に対する防御策を小田原藩士と話し合うため)。この後、人見は応援要請のため、品川沖に碇泊している榎本艦隊のもとへ向かった。ところが話し合いの途中で、小田原藩の藩論が再び佐幕から新政府への恭順に転換。そのことを知った八郎は、「反復再三、怯懦千万、堂々たる12万石中、また1人の男児なきか」と居並ぶ小田原藩士を前に言い放ち、武器、弾薬、軍資金1500両などをせしめて城を出た。 ※これに先立ち小田原藩の江戸藩邸にいる連中が、自藩が遊撃隊と和議を結んだことを知って驚き、急遽江戸家老を小田原へ派遣していた。藩主の大久保忠礼は佐幕派を退け藩論は再び新政府への恭順となった。一気に藩論が引っくり返ったのは、新政府が鳥取、長州、岡山、津などの藩兵を差し向け「25日までに謝罪せよ」と圧力をかけていたからで、小田原藩も必死だったのだ。新政府恭順に藩論を転じた小田原藩は、期限前日の24日に新政府に謝罪し、それを受けた新政府軍は遊撃隊を討つために小田原へ出陣した。 |
| - | - | - | 5/25 | 遊撃隊、湯本へ移って戦闘準備。 ※付近の百姓たちを雇って、砲台を作ったり、土俵を積み上げて防塁を作ったりした。住民たちは城山に非難して高みの見物を決めこんだが、その人たちの語りの越した所によれば、戦いを前に、防塁の中で本を読んでいる者がいたという(豪胆!)。 |
| - | - | - | 5/26 | 箱根山崎の戦い。八郎の第2軍と、第1軍(隊長の人見は不在)、新政府軍と戦闘になる。八郎、夕刻に三枚橋付近で腰を撃ち抜かれ、左手首を半ば切断される重傷を負う。その後、遊撃隊は畑宿まで敗走し、八郎は左腕を肘から切断する手術を受ける。 ※戦いが始まったのは午後1時過ぎ。先鋒隊の小田原藩がなかなか進まないので長州藩が前へ出た。長州軍の抜刀突撃の命を受け、小田原藩以外の全軍(長州藩、因州藩、岡山藩、津藩)が遊撃隊へ向かって突進したという。奮戦空しく重傷を負った八郎だが、負傷した後に片手で3人斬ったとか、ついでに岩をも切り裂いたとかの逸話がある。この時の八郎の様子を描いた錦絵があるそうな。 |
| - | - | - | 5/27 | 遊撃隊、箱根退去。箱根の関、箱根峠、鞍掛山、十国峠と移動し、午後5時頃熱海着(熱海で人見勝太郎と再会)。漁船を雇って網代港へ向かい、網代で大船に乗り換えて館山へ向かう。 |
| - | - | - | 5/28 | 遊撃隊、館山に到着。重傷を負った八郎は榎本艦隊の病院船で再手術を受け、そのまま榎本艦隊に留まる(友人の本田小太郎、中根淑は八郎に同行)。 ※八郎は、腕を押さえ真っ青な顔をして、榎本武揚に「やりそくないました」と語ったという(か、かわいそう…)。また、見舞いに来た他の者には、片手では力が入らないが、鉄砲もあり元込銃もあると言って、瓶をつるして撃ち当ててみせたりしたという(つ、強がり…)。麻酔が効かず手術は悲惨をきわめたが八郎は平然と耐えたという(さすがは武士)。 |
| - | - | - | 6/1 | 八郎ら離脱者を除く遊撃隊140人は、人見、林に率いられ、榎本艦隊の長崎丸で奥州へ向かう。 |
| - | - | - | 8/19 | 榎本艦隊8隻、蝦夷地へ向けて品川沖を出向。八郎は本山小太郎、中根淑と共に美加保丸へ乗船。 |
| - | - | - | 8/21 | 美加保丸、台風のため下総黒生海岸沖で座礁。 ※絶望した八郎は自殺を決意するが、中根、本山に説得され、中根と共に上総に潜伏。八郎を中根に任せて江戸へ戻った本山は、急幕臣の尺振八に協力を以来。八郎はその後、数カ月間にわたって、横浜の尺の自宅に匿われる(尺が開いていた英語塾の塾生として生活)。横浜潜伏期間については涙なくしては語れない逸話がいくつかが「伊庭八郎の生涯」も掲載したのでここでは割愛。 |
| 明治 | 元 ※9/8改元 |
- | 11/25 | 八郎、本山と共に横浜からイギリス艦に乗り込む。 ※乗船には50両もの大金が必要だった。本山が、八郎から託された書状を、吉原「稲本楼」の遊女・小稲に渡した所、小稲はその書状を読んで涙を流し、一晩で金をつくったという(美しい話だ)。 |
| - | - | - | 11/28 | 八郎ら、箱館に到着。箱館奉行支配組頭の杉浦清介と面会。榎本艦隊と合流。 ※榎本艦隊は10月20日に蝦夷鷲の木に上陸。箱館五稜郭を接収し、松前及び江崎を攻略して、全島平定を宣言。事実上の政権を樹立して明治政府に対する抗戦団体を主張。 |
| - | - | - | 11/29 | 八郎、本山、杉山らと酒宴。 |
| - | - | - | 12/2 | 八郎、翌日の松前出発にあたり、杉浦と別れの盃を交わす。 |
| - | - | - | 12/3 | 八郎、遊撃隊が駐屯している松前に移動。八郎より先に蝦夷へ到着していた遊撃隊士と再会。 ※本山は箱館奉行の支配下に籍を置くこととなり、いったん八郎と別れるが、翌年1月5日には遊撃隊頭取となって八郎たちに合流。 |
| - | - | - | 12下旬 | 箱館の五稜郭で役職選挙が行われ、陸軍奉行として八郎に1票が投じられる(誰が入れたの?人見さん?)。八郎はその後、歩兵頭並、遊撃隊隊長に就任。人見勝太郎は松前奉行となる。 |
| 明治 | 2(1869) | 26歳 | 1某日 | 遊撃隊、組織編成。 ※本山小太郎、頭取として復帰。 |
| - | - | - | 3/11 | 八郎、箱館の杉浦清介を訪問。 |
| - | - | - | 3/14 | 八郎、箱館病院訪問。その後、船見町の咬菜園で榎本武揚、榎本対馬、川上録四郎、中島三郎助、高松凌雲(箱館病院医師)らと酒宴。 |
| - | - | - | 4/9 | 新政府軍、乙部に上陸し進軍を開始。遊撃隊ニ小隊(92名)、松前から応援に向かい、江差に駐屯していた一連隊、砲兵、工兵らと合流して石崎に宿陣。 |
| - | - | - | 4/10 | 石崎から引き上げた遊撃隊ニ小隊、江良で小戦の後、根武田に宿陣。 |
| - | - | - | 4/11 | 遊撃隊ニ小隊、松前に帰還。夜になって、遊撃隊、陸軍隊、一連隊、彰義隊、工兵隊、砲兵隊など500余名は江差奪回のために出陣し、根武田で戦闘となる。八郎は円陣の中央に立って自軍に檄を飛ばし、遊撃隊に斬り込みを命じて、ついに新政府軍を打ち破った。 ※か、かっこいい! |
| - | - | - | 4/12 | 遊撃隊ら、江良に進軍するが、木古内口、二股口の戦況悪化のため、五稜郭本営より松前まで退却せよとの命令が下る。江差奪回を目前にしての退却に、八郎は涙を流して悔しがった。 ※五稜郭本営と、戦場で戦う八郎たちの間には、認識の差があり、連携がいまひとつとれていない。 |
| - | - | - | 4/14 | 遊撃隊ら、江良に再び進軍するが、五稜郭本営の退却命令により松前に戻る。夜になって三度目の進軍。根武田に宿陣。 |
| - | - | - | 4/15 | 遊撃隊ら、三度びの退却命令により松前に帰還。 ※出陣する度に退却命令。八郎でなくても切れそう。 |
| - | - | - | 4/16 | 木古内口、ニ股口の戦況が好転したことにより、松前口の遊撃隊ニ小隊、陸軍隊三小隊、彰義隊一小隊、一連隊五小隊、砲兵隊一分隊など500余人、四度目の進軍開始。 |
| - | - | - | 4/17 | 官軍陸海軍の挟撃を受け、折戸台場で激戦の後、瓦解して松前を放棄。遊撃隊も多数の戦死者を出して福島まで退却。 ※折戸攻防戦で本山小太郎も戦死。遊撃隊92名は死傷、行方不明などにより52〜53名に激減。悲しんだ八郎は友人のために、「まてよ君 冥土もともと思いひしに しばし遅るゝ身こそかなしき」の挽歌を詠み、これが後に八郎自身の辞世となる。 |
| - | - | - | 4/18 | 遊撃隊、木古内を経て札苅に布陣。 ※地図でルートを追っていくと、官軍におされて、だんだん五稜郭のある箱館方面に移動しているのがわかる。 |
| - | - | - | 4/19 | 遊撃隊、五稜郭本営の命令により木古内へ移動。八郎は、同じく木古内への移動命令が出ているにも関わらず到着が遅れている一連隊を単独馬を飛ばして迎えに行き、同隊を連れて夜半に帰還。 ※この行動力を見よ!片腕でもやっぱり馬術の名手。 |
| - | - | - | 4/20 | 早朝、木古内への総攻撃を受ける。不意をうたれて苦戦し、札苅海岸を経て昼頃にはさらに後方の泉沢へ退く。ここで応援に駆けつけた伝習歩兵対と合流して引き返し、さらに知内守備隊の応援を得て、木古内を回復した、しかし、五稜郭本営から来た大鳥圭介と議論の末、総軍、木古内を捨てて矢不来へ転陣。遊撃隊は五稜郭へ戻って休兵した。 ※この戦いで。八郎は胸部に被弾し再起不能の重傷を負う。泉沢から船で箱館に送られ、箱館病院に収容される。この日、江戸に戻っていたはずの鎌吉が箱館に到着。八郎の介護にあたると言う。 |
| - | - | - | 4/29 | 矢不来敗戦。 |
| - | - | - | 5/11 | 箱館市街奪還に失敗。官軍、箱館制圧。 |
| - | - | - | 5/15 | 孤立した弁天台場は降伏勧告を受け入れて恭順。上湯の川の衝峰隊ら600余名も武装解除。 |
| - | - | - | 5/16 | 早朝の千代ヶ岡台場陥落により五稜郭は完全に孤立。午後になって傷病者200名余を湯の川へ送り出し最終決戦に備えた。この後、榎本武揚は自刃しようとして止められ、このことがきっかけとなって議論は恭順へ一変。 ※田村銀之助が語り残した話によると、箱館病院にいた八郎は湯の川への移動を拒絶。周囲が何と言っても「五稜郭へ棄てて行ってくれ」というので、やむを得ず五稜郭内に移された。傷は紫色に変じてほとんど腐蝕していたけど、だたの1度も痛いとは言わず、榎本武揚が「我々も直ぐ後から行くから貴公は一足先に行ってくれ」と言って渡した薬椀入りの毒薬を、にっこり笑ってきれいに飲み干し眠るように落命したという。 |
| - | - | - | 5/17 | 五稜郭内を説得した幹部は、亀田軍門に投降。 |
| - | - | - | 5/18 | 五稜郭開城。箱館戦争終結。戊辰戦争終了。 |
| - | - | - | - | 一般に伊庭八郎が亡くなった日は5月12日とされているけど、田村銀之助の話が正しければ、八郎の命日は5月16日ではないかと思われる。 享年26歳。 遺体は五稜郭内の一画に埋葬され、遺髪のみ鎌吉の手によって持ち帰られ、伊庭家の菩提寺である浄土宗貞源寺に葬られた。 関東大震災によって遺品はほとんど失われてしまったようだが、市立箱館博物館が、伊庭家から寄贈された八郎の刀の「鍔」と「縁頭」、そして、子供の頃に使っていた「迷子札」(「下谷和泉橋通角伊庭軍兵衛倅八郎」と刻まれている)を所蔵している。 |