【人見寧履歴書】

- ponpoko流意訳 -


人見勝太郎が建てた遊撃隊戦死士墓
(箱根・早雲寺)




人見寧(人見勝太郎)は伊庭八郎と共に遊撃隊の隊長を務めた人物です。
箱館戦争で重傷を負いながらも生き残り、実業家として成功しています。

ここでご紹介する「人見寧履歴書」は、人見自身が書き残した自伝で、茨城県農業史内部資料第18号」に転載されているそうですが、私は氷上れい様が再編集された資料を参考にさせて頂いてます。


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<1>

俺の名は人見寧。
初めは勝太郎といい字(あざな)は君寿。模坪と号す。
徳川幕府の微臣だった。

天保14年・癸卯(みずのと・う)(1843年)の9月16日に、京都・二条城の西にあった十軒屋敷で生まれた。
父は勝之丞といい京都文武場の文学教授。母は清水家の出で仙子という。

10歳で京都の儒家・牧先生(号は百峰)の私塾に入門。
さらに、大野庄之助の門弟となって撃剣を、江川流の山田某に師事して西洋砲術を学んだ。

文久3年(1868年)。俺が19歳の時のこと。ご上洛して二条城におられた将軍・家茂公は、京都在住の幕臣に号令して文武をご奨励になった。
父と一緒に召された俺は、上様の御前で「孟子」の「梁恵王・上篇・第一章」を講義して白銀3枚を頂戴し、撃剣の上覧試合でも同じく白銀3枚の恩賜(おんし)を拝領した。

慶応3年(1867年)12月。俺は遊撃隊の隊士に抜擢され、二条城で将軍・慶喜公にお仕えすることになった。そして同月12日には、上様のお供をして大阪城に入った。


<コメント>
人見さんは伊庭さんより1歳年上です。
京都で生まれ育っているので言葉は京都弁?
(中村彰彦氏の「幕末遊撃隊」は、その点もクリア)
19歳の時に将軍・家茂公の前で孟子を抗議して白銀3枚。さらには上覧試合で同じく白金3枚…文武両道に秀でてます。
遊撃隊に入ったのは慶応3年の12月。「抜擢」とあるように、名誉なことだったのでしょうが、いきなり負け戦に狩り出されるはめに(>_<)



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<2>

慶応4年(1868年)戊辰1月2日。勅命によって慶喜公がご上洛なさることが決定し、先発の命を受けた我々は、船で淀川を下って、3日の明け方に伏見へ入った。

聞くところによれば、薩長の兵が鳥羽・竹田の両街道に関門を設け、幕府方の通行を阻んでいるために、交渉を続けているとのこと。
先発して伏見に到着している砲兵、歩兵、遊撃隊などは、早朝から黄昏時までなすこともなくて退屈しきっていたが、対する薩摩兵はと言えば、三々五々、大声で歌を歌いながら我々の面前を横行し、幕府軍を馬鹿にしきった態度だった。

怒り心頭に達したものの、あろうことか我ら遊撃隊の隊長は、決して手を下してはならないと一同に厳命した上、我々が携えていた武器を取り上げ、どこかへ隠してしまった。
我々の激発を恐れるとは、全く笑止千番である。

日暮時になると、鳥羽・竹田の両方面で、敵が大砲を撃ち始めた。
それを合図に戦闘が始まったが、薩摩兵が民家の二階や土蔵の窓から狙撃してきたために、味方に大勢の死傷者が出た。ひどく苦戦したものの、我が軍の砲兵、歩兵、会津兵などは良く戦い、遂に敵を撃退した。

ほとんど夜を徹しての戦闘となったが、敵兵が御香宮まで退却したために、我が軍も中書島へ引き揚げて休息をとった。


<コメント>
将軍が上洛することになり、幕府軍の先鋒を務める遊撃隊は、大坂から船に乗り込んで、3日の明け方には伏見入りしています。
ところが、いざ現地入りしてみると、薩長軍との間で「通せ」「通さない」交渉が進行中。
ちなみに、この時、幕府方代表として交渉にあたった滝川播磨守は、箱館戦争旧幕府軍・伝習士官隊隊長・滝川充太郎のお父上。
滝川隊長はお坊ちゃまなのです。



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<3>

翌1月4日。伏見・竹田の両道から敵を蹴散らして洛中に入るべく、大いに士気が上がっていたのに関わらず、あろうことか、塚原田島守がやって来て、総督・松平備豊前守殿の命として全軍を引き揚げさせた。

「なぜ、そのような、わけのわからぬ命令を?」
一同呆然としたが従わぬわけにもいかない。やむを得ず、全軍、伏見を引き払い、淀を目指して出発した。それを見た薩摩兵たちが、すぐに進撃してきたが、幕府軍はそれに防戦せず、淀をも捨てて南へ走った。

我ら遊撃隊士数名は、会津藩士数十名と共に、鳥羽街道筋、伏見道、淀川沿岸の堤防でしばらく戦ったために、同僚の中には負傷者もいた。
そこで、負傷者をかばいながら、殿(しんがり)になって淀へ引き揚げたのだが、淀にたどり着いてみると、味方の姿はどこにもなかった。仕方なく、淀を去って橋本まで行くと、ここにも同僚の負傷者が数名いた。

この時、山崎の関門を守っていた藤堂藩がにわかに反覆して、橋本の砲撃を開始し、若州藩・見回役との間で戦闘となった。
負傷者が危機に瀕しているというのに、混乱して、誰も彼らを助けようとしない。
見るに忍びず、弾丸が雨のように降る中を奔走し、小船一隻を買い入れた俺は、同僚の負傷者全員を船に乗せ、6日に大阪に到着した。

負傷者を遊撃隊の宿舎だった天満組屋敷に収容し、自分は大阪城に登城してみると、城門を守る兵はなく、場内はしんと静まり返っていて、ほとんど人影がなかった。
大手口にいた3、4人の会津藩士に訊ねた所、主君は軍艦に乗って江戸へ御帰東になり、陸軍および諸隊の兵はみな、紀州へ落ちて行ったとのこと。

「嘘だろ、おい…」
寝耳に水の出来事に、俺は呆然となった。


<コメント>
人見さん、かっこいい!
逃げ遅れて戦場に取り残されていた負傷者たちを助けながら、殿(しんがり)になって逃げる姿は涙ものです。
敵の弾丸が雨のように振る中を奔走して小船を買い入れ、負傷者全員を乗せて大坂入りする行動力はすごすぎます。



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<4>

大阪城の御玄関から入り、大廊下を通って殿中へ足を踏み入れると、書類、持ち物入れ、衣類、酒樽、弁当箱などが散乱していて、驚き呆れつつも情けなくなった。

監察の妻木民弥氏がいたので、橋本から負傷者数名を救護してきた顛末を話し、この先どうすれば良いかを相談した所、「軍はひとまず紀州・和歌山へ向かうことになったので、あなたが引率してきた負傷者は、安治川沖に停泊している迅動丸に乗せて運ぶのが良いだろう」と言い、一切を任せるから、安治川口の御船役所へ行って交渉して欲しいとのことだった。


<コメント>
妻木さんがこんな所に!
吉田稔麿と関わりのある人です(詳細は2003年6月のメルマガに掲載)。
長州サイドの史料(東風不競密話)では妻木民弥ではなく、妻木田宮となっていますが恐らく同一人物でしょう。



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<5>

天満組屋敷に走って戻り、負傷者たちに城の様子を告げた所、皆、男泣きに泣き出した。
ぼやぼやしてはいられない。俺は軽傷の梅沢銭三郎(水戸藩出身・大目付・梅沢孫太郎氏の三男で俺の親友である)と共に奔走して、釣台(※人や物をのせて運ぶ台)と釣台を担ぐ人足を雇った。
負傷者をかばいながら安治川口の御船役所へ行ってみると、下っ端役人がただ一人いるだけだけで、聞けば、迅動丸は昨日のうちに出航したということだった。

一同愕然としていると、長州兵を乗せた小船が何艘も、小旗を立てて安治川を上ってくるのが見えた。
そうこうしている間に、大阪本願寺の御御堂が燃え上がり、逆巻く炎が天を焦がし、烈風が砂塵を巻き上げて視界を奪った。

ふと気が付くと、人足たちは逃げ去って、姿もかたちもない。
船を雇って紀州・由良港へ向かうことに決めたのは良いが、風が激しくて危険だと言って、船頭は船を出そうとしない。船賃をはずむからと諭しても、大勢の負傷者を見て逃げ出そうとする始末。

眼前を敵兵が通過していく様を見て、負傷者たちは早く船を出せと騒ぎ出す。
進退ここに窮まり、絶体絶命の窮地に立たされた。

「やむを得ぬ。やるぞ!」
「よかろう」
俺と梅沢は互いの顔を見てうなずきあうと、共に抜刀して大船に飛び乗った。
船には3人の舟子が乗っていたが、そのうち船頭と思われる男に迫り、
「この連中を乗せて、ただちに出航せよ。さもなければ、首を叩っ切るぞ!」と恫喝した。

すっかり怯えた舟子たちが船を出すことに応じたので、すぐに負傷者を収容し、逆風もかまわず船出した。途中、風を避けて船を碇泊させていると、夜の10時頃には風も収まり、海面も穏やかになったので、ようやく胸を撫で下ろすことができた。

決して忘れることはできない。
あの、悪夢のような、慶応4年1月7日の夜のことを。



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<6>

安全に航海できるめどがついたので、一同協議の末、俺と梅沢はそのまま上陸した。
大阪の状況や官軍の動向などを調べた後、陸路をとって紀州へ向かうか、あるいは大和から伊勢路をとって帰東することを約束して商人に変装し、短銃をそっと懐にした。
船が陸地を離れていく。
心配そうな面持ちの負傷者たちに笑顔で手を振ってから、大阪市中に入った。

夜を徹して大阪城の様子を探った所、官軍がまだ進軍してきていないことがわかったので、道を堺筋にとり、天王寺を経て界浦に到り、そこで小休止してから徒歩で進み、8日の夜に和歌山に到着した。

大阪で別れた負傷者たちの安否をたずねた所、海は穏やかで順風に恵まれ、早々に着船して、今は全員が寺院にいるとのことだったので、飛び立つような思いで会いに行った。

互いに喜び合ったことは言うまでもない。
ただ、嬉しいことばかりではなく、悲しいこともあった、
喜多氏が船の中で亡くなったことを聞かされ、俺はがっくりと肩を落とした。



*


<7>

「負傷した隊士を戦地に置き去りにするとは、どういうことです?!」
俺は遊撃隊の隊長である今井、駒井両氏に会うなり、怒りをぶちまけぜずにはいられなかった。

その後、陸軍は伊勢路を経て帰東したが、負傷者は全員が軍艦に乗ることになった。
俺たちは三加保丸で由良港を発し、1月13日に浦賀へ着いた。
陸路をとって江戸に入った後、俺は牛込赤城明神下にある、同僚の山高^三郎の家に寄寓することになった。



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<8>

慶喜公は上野の寛永寺で謹慎なさり、我々遊撃隊は慶喜公の警護をすることになった。

ある日のこと。俺は赤坂・氷川にある勝先生の屋敷を訪ね、初めて勝先生に面会した。

先生の卓論に心を動かされ、師事するようになった。



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<9>

大目付・鵜殿団二郎、御徒目付・下山蓬吉、小目付の某2名、そして俺たちの一行10名は、途中3泊して甲府に入った。

甲府城の城代は既に江戸へ去ってしまっていたので、町奉行・若菜某と代官の中山精一郎に面会して官軍の動きを訊ねた所、東海道先鋒総督府の使節として土佐藩の黒岩治部輔と肥後藩の林某が来て、城はもとより金子や食料の引渡しを命じてきたため、引渡し作業を行っている所だとのこと。

俺は堀氏と一緒に、一蓮寺を宿舎にしている黒岩と林を訪ね、東海道総督府へ嘆願に行く途中であることを告げ、支障なく通行できるよう手配して欲しいと頼み込んだ。

「管轄外のことなので本来は応じるわけにはいかないのだが、我々の一存で連絡を入れておこう」
2人がそう言ってくれたので、早速、出発しようとしている所に、追討使を名乗る「高松殿」とかいう者が信州路からやって来た。

飯田藩、高遠藩の藩兵に護衛され、旗を翻し、太鼓を打ち鳴らしながら威風堂々と甲府入りした高松殿の一行は、早速町奉行や代官を呼びつけて、あれこれと命じているらしい。
不信に思った俺は、堀氏と相談した上で、岡田斧吉と共に一蓮寺へ行き、黒岩、林の両名に高松殿について訊ねてみた。

黒岩と林は、「東海道先鋒総督は柳原殿と橋本殿のお2人だし、中山道の総督は岩倉殿だ。他に追討使はいないはずだが、調べた上で後ほど返答しましょう」と答えたが、どうやら高松殿は偽勅使だったようで、高松殿も高松殿の仲間数名も皆、翌日のうちに処刑されてしまった。

(※高松殿とは公卿の高松実村のこと。高松殿の処刑は赤報隊の偽官軍事件と並んで偽勅使事件と呼ばれる有名な事件らしい)



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10

東海道へ向けて出発しようとしていると、近藤勇が兵を挙げて甲州へ進軍しているとの風聞がたびたび伝わって来た。

「近藤が暴発したというのは本当だろうか?勝と大久保がいかに力を尽くそうと、海軍、陸軍や旧幕臣たちの激昂を抑えることは不可能だ。連中がひとたび暴発すれば、上様御恭順の道も塞がれてしまう。その時は我々も巻き添えを食って空しく犬死することになろう。ここはいったん江戸へ戻り、実情を見届けた後、あらためて出発することにしようと思う」

堀錠之助氏は、一行を集めて告げたが、俺と岡田は真っ向から反対した。
「たとえ暴発する者があろうとなかろうと関係ありません。使命を帯びて出府した以上、任務を果たすことなく途中で引き返すのは、家臣の道にそむくことになります。不幸にして縛り首にあい、犬死することになっても行かねばなりません」

どんなに訴えても、堀氏は、血気にはやる無謀な行為だと言って取り入れてくれない。
ついに俺は切れた。
「我らはいやしくも哀訴嘆願の使節の末端に連なるもの。所思を実行してその任を果たさざるべからず!」
ごう然と言い放ち、堀氏が所持していた嘆願書を奪い取るようにして懐に入れると、岡田と2人で出発した。

鰍沢で船に乗り込み、岩淵まで降りて、府中(現在の静岡)に入った。



*


11

静岡では、官軍先鋒の砂土原藩、大村藩、長州藩の兵士らがぞくぞくとやってくるのに出くわした。

「これでは東海道を進むのは難しそうだ」

そう判断した俺達は、間道をこっそり進んで見附(※現在の静岡県磐田市)に入り、宿場の役人を介して、先鋒総督府の参謀に来意を告げ、面会を求めた所、参謀の海江田武司から、「今夜はこのように混雑した状況なので面会できないが、明日、掛川にある総督府の宿営でお会いしましょう」との返答があった。

さっそく出発して掛川で一泊。
翌日、総督府で参謀・海江田武司と木梨精一郎に面会し、携えてきた嘆願書の取次ぎ奏上を頼んだ上で、慶喜公が上野で謹慎なさっていること、勝安房、大久保一翁が昼夜西の丸に詰め、鎮撫のために全力を尽くしていること、江戸状況などを説明した。

「嘆願書は早速大総督へ届けさせましょう。勝、大久保の両先生のご苦労はお察し申し上げます。御尽力の効果はなかろうと考えている者も少なくないが、謹慎の効が現れ、何とか平穏に入府したいものです」

海江田氏はそう返答した後、勝、大久保の労をねぎらう伝言を託されるなど、丁寧な対応だった。



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12

海江田氏に丁寧に礼を述べた後、帰路についた。
総督府の印鑑を受けたことにより、宿場の馬や人足を使うことができるようになったので、早駕籠に乗って奥津に着いた時のこと。

近藤勇が大久保猛と変名し、甲州道の笹子峠で、官軍の土佐兵と戦闘中であるとの情報を聞きつけた俺達は、急遽方針を変更し、小島から、萬沢、南部、切石などを経て密かに郡内へ入った。

ちょうど猿橋に出た所で、近藤の軍勢が八王子方面に敗走するのに出くわした。
近藤、土方たちに面会し、東海道を下る官軍の兵力や形勢など視察してきたことを伝え、「俺たちも、江戸へ戻り、今後のことを同士たちと話し合うつもりです。くれぐれも自重して再挙を図り、雪辱を果たされますように」と告げた後、酒を酌み交わして別れた。

それから馬を馳せて江戸に戻り、江戸城・西の丸で勝と大久保に面会し、海江田、木梨などとのやり取りについて報告した。



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<13>

「人見君、近藤の所在を知らないか?」
大久保さんから訊ねられた俺は、いやな予感がして真実を告げなかった。
「昨日、道中で伝え聞いた所によりますと、甲州で敗れた後、どこかへ立ち去ったということです」

大久保さんによれば、近藤の暴発に対して上様は激怒されているとのこと。
大久保さんは度々上野に召し出され、上様から、近藤勇の所在を捜索し、首級を揚げ、速やかに官軍の軍門を差し出せという厳命を受けており、大変当惑しているとのことだった。

服部綾雄氏と山岡鉄太郎氏が、嘆願の使者として、東海道官軍の先鋒へ会いに行くので随行するようにとの命令が下ったので、俺は2人に同行し、戸塚に入った先鋒隊長・薩摩の村田新八に会った。

任務を終え、、一行、江戸に戻った。



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<14>

慶喜公は水戸でご謹慎することになり、遊撃隊士の多くは水戸までお供したが、俺は、伊庭八郎、和田助三郎、佐久間貞一郎、岡田斧吉ら数名と謀る所があり、千住大橋まで上様にお供した後、脱走挙兵することにした。

それに先立ち、昼夜奔走して銃器、弾薬などを集めていると、榎本釜次郎が海軍を率いて脱走するという話が伝わってきた。
さっそく、伊庭、宮路、佐久間などと共に、下谷にある榎本さんの屋敷を訪ね、同氏との会見の中で、同盟することを即決したのが三月上旬のこと。

乗船の準備をただちに開始。
武器弾薬は密かに神田川・和泉橋の船宿から品川沖へと運んだ。
乗船したのは3月14日。遊撃隊士は全員が長鯨丸に乗り込み、その他の4名は開陽丸に乗った。

翌日、大総督府の有栖川宮が、池上本門寺の大本営より江戸へ入城した。
官軍が品川を経てぞくぞくと入城していく様を艦上から望見した後、開陽丸以下12隻の旧幕府艦隊は一斉に抜錨した。
その後、房州館山湾に碇泊し、薪水米穀その他の食料を買い上げて積載した。



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<15>

榎本さんは他艦の艦長や俺達を艦長室に召集して軍議を開いた。
榎本が示した方針は以下の通りだった。

艦隊を3つに分け、そのうち1つは鹿児島を砲撃し、1つは馬関を攻撃して九州との連絡を絶ち、残る1つは開陽を旗艦として兵庫に置く。
遊撃隊は兵庫組に加わり、水兵たちと共に上陸して、中国筋から来る敵を支える。
もしも大軍が攻めてきたなら再び軍艦に乗り込んで、神出鬼没の奇襲攻撃をかける。

一同、大いに賛成し、士気は天を衝く勢いとなった。
「やるぞ!やってやる!」
俺達は船が出航するのを、身震いするような思いで待ちわびた。



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<16>

「勝さんが来ると何かとうるさい。あの人が来ないうちに急いで出発しよう」
榎本さんがそう言うものだから、出航の準備は急ピッチで進められた。

遊撃隊士の中には、「大義のためには親をも滅ぼすと言うではないか。勝がもし来たら、斬ってしまえば良い」などと言い出す者もあり、俺達は連中をなだめるのに苦労した。

そうこうしているうちに、本当に勝さんが現れた。
赤い毛布をかぶり、蝙蝠傘を差すという奇妙ないでたちで、押送船に1人座し、船頭に指示して開陽丸の下まで漕ぎ寄せてくる。

「榎本釜さんはいるか?」
大声で呼ばわるなり、するすると梯子を登ってきた。
それを見た榎本さんは、水兵に命じて捧げ銃の礼をさせ、その傍らに立って勝さんを迎えた。俺達も榎本さんにならって遊撃隊士に立礼をさせたが、相手は我々を睨みつけ、「貴様らは何のためにここにいる!」と一喝した。

「と、とにかく艦長室へ」
それを見た榎本さんは、あわてて勝さんを艦長室へと導き、他人が入れぬように扉に鍵をかけてしまった。
じりじりしながら待っていると、およそ1時間ほどして榎本さんが出てきて、各艦の艦長と我々を艦長室へ招いた。



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<17>

呼ばれて行ってみれば、勝さんはさきほどとは打って変わった穏やかな調子でこういった。
「おまえ達の元気には感じ入ったよ。委細は釜さんに話しておいたから、話を聞いてくれ」
釜さんの言うことに従うように。くれぐれも面倒を起こすなと諭した後、勝さんは再び小船に乗り込んで去って行った。

「君たちと盟約を結んだものの、実行に移すことは難しくなってきた。勝先生が言うには、追討しようにも官軍には海軍がないわけで、我々の脱走に対し、大総督府は大いに心痛しているとのことだ。朝廷の命に従わなければ徳川家のご処置に対する道も開けないから何とかしろと言ってきた」
榎本さんの話によれば、官軍参謀の西郷吉之助から勝さんの所へ、臨機応変に対処せよとの申し入れがあったという。
そして、勝さんは承諾してしまった。

「ということで、官軍の申し入れを拒絶することはできない。徳川家のために軍艦2、3隻を引き渡すことに決定した。ついては、品川湾に戻って、徳川家に対する処遇を確認しようと思う。不満はあると思うが、ここは堪えて欲しい。私の意見に従ってもらえないか」
榎本さんの言葉に、各艦の艦長たちは服従したが、我々遊撃隊はそうはいかない。

「ここは勝つか負けるかの瀬戸際です。事情に流されて連中の言いなりになることは、軍機を失い、士気を阻喪し、大事を誤る千載の失策だ!」

3、4名の同士と共に、必死で説得したが、榎本さんの意思は変わらない。
やむを得ず、遊撃隊一同、上総地方へ上陸し、房総で兵をつのって、ことを起こそうと決意した。



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<18>

艦隊はすでに横浜沖を航行中だったので、漁船をやとって上陸するつもりで準備を進めていると、榎本さんがやって来た。

「同盟したにも関わらず、意見の食い違いで、誠忠勇壮の君たちと別れることは遺憾でなりません。両総の沿海は浅瀬なので、吃水の浅い小艦<行速丸>に私が乗って、お送りしましょう」

遊撃隊一同、榎本さんの厚い友情に感謝し、行速丸に移って木更津付近に至り、徒歩で上陸した。その日は寺に投宿した。



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<19>

この時、城ヶ崎・八幡方面で砲声が轟いた。
聞けば、挺兵隊の松波権之丞と江原素六が官軍と戦闘中とのことだった。
この夜、初めて軍議を開き、諸々のことを定めた。
遊撃隊を分けて2隊とした。
詳細は以下の通り。

第一軍隊長 人見勝太郎
第二軍隊長 伊庭八郎
参謀 岡田斧吉、佐久間兵一郎
軍監 山高鎬三郎、和多田三郎、宮路一郎、前田丈三郎
輜重長 海上総一郎、本山小太郎、杉田金太郎



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<20>

数か条にわたる軍律を定め、房総の諸藩を説得し、兵を募り、東海道へ出て背水の挙兵をするとの方針を固めた。
この日の夕方、4時頃のこと。
和田と俺は、二、三の護衛兵を引き連れて林昌之助の貝淵陣屋を急ぎ訪れた。
重臣に面会して来意を告げ、同盟出陣を願い出ると、陣屋はたちまち騒然となったが、評議の結果、少年藩主・林昌之助氏が三十名ほどの家臣を率いて遊撃隊に加わることに決定し、林氏の兵は、各々小銃を構え、四斤野戦砲一門をひっぱって、同盟出陣した。
我々は大喜びして、林隊を第三軍とし、林氏を隊長とした。



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<21>

翌日、夜明けを待って、第一軍を先鋒とし、松平大和守殿(上野前橋の藩主)の富津陣屋に向けて進軍した。
陣屋は大変な騒ぎとなり、兵の姿があちこちで見られたものの、連中が発砲しなかったので、こちらも攻撃はしなかった。
どうやら抵抗する気がないようなので、和田と2人で陣屋に近づき、番頭に面会して同盟出兵を迫った。

「当陣屋にはわずかの兵しかおりません。同盟出兵の件は何卒ご容赦頂きたく…」
番頭は必死で訴えた。
兵がいないのなら仕方ない。俺達は、富津を去って佐貫を目指すことにした。

その夜、富津に駐在中の前橋藩足軽頭・滝沢喜太郎が、小銃を携えた兵士20名ばかりを率いて脱走し、我々に同盟を求めてきたので、第三軍に編入した。
佐貫でも20名あまりが加わったので、彼らも第三軍に編入。
さらには、飯野、保科の藩士数名も、同盟を求めて来た。

房州勝山では、我々の説得に応じて、酒井家が歩兵数小隊を差し出した。
勝山を去って北条館山へ移動し、そこでも若干名の兵を得た。
総勢300あまりとなったので軍議を開き、当初の目的通り、伊豆へ進軍することにした。



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<22>

館山から数隻の小船に乗り込んで、伊豆の真鶴に上陸した。
小田原藩に同盟を求めねばならない。根生川の裏関所に小田原藩兵が駐在していることを知った俺は、和田と2人で関所へ出向いて行き、番頭に会って来意を述べ、同盟を求めた。

「この度の変事に対し、弊藩は微力なりとも、主家の恩義に奉ずるため、藩力を尽くして箱根を守る覚悟でおりましたが、慶喜公からのご訓令を奉じ、藩の方針を転換しました。今は朝命を奉じて箱根の関所を守っておりますので、同盟に応じることはできかねます。とは言え、諸君ら義兵に対し、敵対するつもりはありません」

番頭の言葉に内心腹を立てつつも、今、小田原藩と戦うことは、計画上不利であることから、連中の請求を受け入れて道を韮山にとり、代官所を目指した。

韮山代官所で柏木総蔵に面会し、我が軍の方針を告げた。
伊豆の農兵を募集することと、軍資金や兵糧の調達について相談した所、柏木の返答は以下のようなものだった。

「当主の江川太郎左衛門は年少ですし、太政官から召し出されて今は京都におります。先代の太郎左衛門が没してから長い年月を経た今、農兵や銃器については、その痕跡すらありません」

柏木氏の斡旋で兵糧だけは多少なりとも手に入れることができたものの、俺達がひどく落胆したことは言うまでもない。



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<23>

東海道筋の諸藩へ以下の檄文を贈って同盟を求めた。

「尾州は徳川氏の末家でありながら、鳥羽伏見で兵を出し、宗家である徳川家を討とうとした。彦根藩にいたっては、徳川家の臣下であるにも関わらず、その主君を討とうとした。これらは人の道に反し、王制維新を旨とする朝廷の意向にも背くものである。徳川宗家に仕える我々は、とるにたらぬ微臣ではあっても、この状況を見過ごすことなどない。尾張、彦根の罪を問うために、勝ち負けを顧みることなく挙兵うる。諸藩に請う。我らと同盟せられんことを」



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<24>

五月上旬に沼津に出た。
沼津藩の丸山寛太郎氏が大いに尽力斡旋してくれたものの功を奏さず、我ら遊撃隊は東海道を下ってくる新政府軍の大軍に孤軍であたることとなった。
そうなれば沼津は地形上不利なので、甲州に入り、山路をとって西へ向かうこととし、沼津を去って御殿場に宿営した。

その夜、山岡鉄太郎が田安中納言の命を奉じてやって来た。
「伊庭八郎、人見勝太郎両名に御用あり。至急出府すべし」とのご沙汰を伝えた後、我々を諭してこう言った。
「東北へ脱走した連中は大鳥はじめ全員が鎮撫された。朝廷において徳川家のご処置が今にも決まるという大切な時だ。おとなしく君命を奉じて俺と一緒に出府してくれ」

俺はこう答えた。
「田安殿は我々の主君ではありません。俺達は、末家が宗家を討ち、臣下が主君を討とうとする、尾張、彦根のごとき天下の倫理に反する者たちの罪を問おうとしているだけです。もしも連中に味方し、我々に抵抗する者がいれば、やむを得ず応戦し、志を果たすことができなければ、倒れて止むのみ。このことを書面にしるし、東海道先鋒総督府において一面識のある海江田武司へお送りするつもりです。田安殿には不敬ながらよろしくお断り願いたい」

山岡氏は空しく江戸へ戻って行った。



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<25>

先に述べた脱走挙兵の趣意書を、伊庭八郎との連名で、海江田と木梨に宛てて江戸へ送った。

吉田、川口などを経て、三阪峠を超え、甲州黒駒に宿営していた時、江戸から石坂周三と水沢主水の2人が田安中納言殿の使者としてやって来た。
山岡さんが持っていたのと同じ内容の辞令を渡し、我々と共に出府せよと促したが、先日御殿場で山岡さんに告げたのと同じ理由から、謝絶して応じなかった。

彼らもまた空しく江戸へ戻って行った。



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<26>

我が軍の斥候が、伊沢の地で官軍の斥候と衝突し小競り合いとなった。
知らせを聞いて、すぐに援軍を率いて甲府に入ったが、甲府の防衛を任されているはずの松代藩士の姿はすでになく、同地で休養をとることにした。
酒食を喫して一息ついていると、甲府勤番の旧幕臣数名が来て、我が軍への加盟を申し出た。また、和多田貢氏ら20名余の参州・岡崎藩士が脱藩加盟した。

道を南信にとり、尾州を目指そうとしていると、江戸にいる同志から急報がもたらされた。
「彰義隊をはじめとする諸藩の脱走兵が、多数上野に集結し、まもなく戦になる模様」

評議の結果、山の中の僻地にとどまっていたのでは進むにも退くにも不便なので、いったん沼津に引き返し、沼津で今後のことを決めようということになり、大急ぎで出発し、沼津から近い伊豆の香貫に宿営した。
連日、すさまじい雨。



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<27>

5月17日。
同士の某が、江戸からものすごい勢いでやってきた。

「払暁、上野で戦が始まり、ご府内は大騒乱だ!」
思いもよらぬ知らせに、俺たちは一斉に立ち上がった。

ぼやぼやしてはいられない。
さっそく軍議を開き、援軍に向かうことに決したものの、この日はあいにくの暴風雨で、大木の枝は折れる、小屋は倒れる、濁った水が堤の上に溢れて大水になる…目も当てられぬ状況だった。
渡し舟を頼むと、村の役人も、船頭たちも、申し合わせたように首を横に振った。

「この大水では、渡し船を出すことはできません。危険すぎます」
「転覆してもかまわん!船を下ろせ!」

大喝した俺は、連中に厳命して、五隻の大船に兵士百有余名、大砲一門、小銃弾薬などを搭載させた。
それから、数十間の長さの曳き綱を大勢の人夫に持たせ、船を堤上二町ばかり上流へ曳き上げさせてから、一斉に号令を下して綱を断った。
五隻の船は、たちまち濁流に流され始めたが、必死で楫(かじ)取りをして、北岸、すなわち東海道の松並木の間に着船した。

この時、無難に渡船できたのは、天佑だった。
少壮血気の暴挙であり、今、当時のことを思い返すと、背筋が寒くなる。



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<28>

官軍は三嶋に新しい関所を設け一小隊をつけて守らせていた。
偵察の結果、土佐藩と砂土原の藩士に加え、松下嘉平治(幕臣だが官軍に組している)が、これらの兵を統率していることがわかったので、夜来の暴風雨に乗じてふいをつき、関所を破って箱根の峻険を占拠することにした。

まだ暗いうちに三嶋に到達。
官軍は我々の侵入に気付かず、眠りについているようだ。
関所を包囲し、兵を配して、十分な戦闘準備をした頃になって、敵兵もようやく事態に気付いたようで、俄かに騒然となり、狼狽し始めた。

和田と2人で関門に近づき、
「我らは徳川の臣にして脱走遊撃隊の者である。今般、江戸上野において戦闘が開始されたと聞いている。同所は徳川家累代の廟であり、臣下として即刻駆けつけねばならぬので、お通し願いたい」
と告げると、関所の役人は総督府の通行書を持っているのかと聞いてきた。

「我々もとより脱走の徒にて、通行書などあるはずがない」
当然のように答えると、連中はあたふたと陣営に戻って行った。
軍議を始めたらしく、何やら大騒ぎをしている。
武力をもって抵抗するなら、一撃のもとに倒してやろうと待ち構えていたが、数十分立っても何の返答もない。
それどころか、五挺の駕籠に乗り込んで、箱根の山を登り始めた。


新政府軍は箱根の手前の三嶋宿にも新しい関所を設けていたようですね。



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<29>

俺達も大急ぎで三嶋を出立したが、山中村で小休止している時に、児嶋竜雄(後に遠山翠、また、雲井竜雄と変名)と名のる男に声をかけられた。
児島は米沢藩士で、藩命を奉じてこれまで太政官に出仕していたが、わけあって帰国の途にあるのだという。

「薩長の権謀術数によって鳥羽伏見の戦いが引き起こされたことは明らかです。連中が先に発砲し、一方的に戦端を開き、天子を擁してことをあげ、徳川家、会津藩、桑名藩などを冤罪に陥れた。薩長が天下を欺く奸族であることを確認できたからには、太政官などに出仕してはいられない。昼夜兼行で帰国し、殿の面前で全てを述べた後、奥羽諸藩に檄を飛ばして同盟を結ばせ、会津の囲みを解いて薩長を討伐する。それにしても、こんな所で君たちのような義軍に出くわすとは…これからどうするつもりです?」

「どうするもりか」と訊ねられた俺は、上野で戦争が始まったことを告げ、「これから箱根の関所を破り、小田原を突破して、江戸へ向かうつもりだ」と答えたが、児島は妙なことを言い出した。
「心意気は感に堪えざるものの、わずかな軍勢を率いて敵地に入り、勇敢な義兵たちを無駄死にさせることは上策とは言い難い。いかがでしょう、全軍を率いて海路をとり、常州と奥羽の境にあたる平潟に上陸して、南奥羽の諸藩を説得してはもらえないでしょうか。兵糧や軍資金のことは棚倉藩に頼み込んで何とかしてもらいますから、俺に任せて下さい」

児島の言葉にも一理あるが、いきなりそんなことを言われても、「はい、そうですか」と応じるわけにはいかない。
「お心遣いには感謝しますが、我が軍の方針は定まっており、すでに箱根の関所に向かっている最中ですから、今さらあなたの申し出をお受けするわけにはまいりません。しかしながら、場合によっては、将来、奥羽へ行くこともあるでしょう。その時は、あなたを頼ることになるかも知れない」

「お待ちしています」と児島は笑った。
俺達は酒盃を傾けた後、盟約を結んで分かれた。


雲井竜雄登場。
明治3年に内乱罪で捕らえられ、小塚原の刑場で梟首された人物です。



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<30>

箱根の山頂にたどり着いたのは、夕陽が辺りを染める頃だった。
300名の小田原藩兵が関所を守っているというので、兵を散開させて応戦の準備をした。

箱根宿の役人を通し、和田と2人で関所へ行って小田原藩兵と交渉するつもりでいると、小田原藩の目付役・某が宿舎に訪ねて来た。
某は隊長・吉野大炊之介の命令を伝えてこう言ってきた。

「弊藩は朝命を奉じてこの関所を守っています。大村ら土佐藩士数名が軍監として元箱根村に滞在しているのですが、先ほど関所に参りまして、貴隊をただちに掃討せよとの厳命を下しました。しかしながら貴隊と戦火を交えるのは我々の本意ではない。間道をお教えしますから、関所を避けてそちらの道を通って頂けませんでしょうか」

気持ちの上ではそうしてやりたいが、軍機を逸するわけにはいかない。
俺はこう答えた。

「上野で戦が始まり、臣下の情として急行しなくてはなりません。多数の兵や機械類などを迂回させている余裕はないので、何とか関所を通行させて頂きたい。もし貴藩が兵力をもって我々を拒むというのなら、やむを得ず応戦して通過させて頂く」

この旨を隊長の吉野氏にお伝え頂きたいと告げて袂を分った。
5月19日のことだと記憶している。


人見さん、かなり強引です(^^;