【人見寧履歴書】
- ponpoko流意訳 -
![]() |
| 人見勝太郎が建てた遊撃隊戦死士墓 (箱根・早雲寺) |
| 人見寧(人見勝太郎)は伊庭八郎と共に遊撃隊の隊長を務めた人物です。 箱館戦争で重傷を負いながらも生き残り、実業家として成功しています。 ここでご紹介する「人見寧履歴書」は、人見自身が書き残した自伝で、茨城県農業史内部資料第18号」に転載されているそうですが、私は氷上れい様が再編集された資料を参考にさせて頂いてます。 |
| 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 |
| 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 38 39 40 |
|
俺の名は人見寧。 <コメント> |
|
慶応4年(1868年)戊辰1月2日。勅命によって慶喜公がご上洛なさることが決定し、先発の命を受けた我々は、船で淀川を下って、3日の明け方に伏見へ入った。 <コメント> |
|
翌1月4日。伏見・竹田の両道から敵を蹴散らして洛中に入るべく、大いに士気が上がっていたのに関わらず、あろうことか、塚原田島守がやって来て、総督・松平備豊前守殿の命として全軍を引き揚げさせた。 <コメント> |
|
大阪城の御玄関から入り、大廊下を通って殿中へ足を踏み入れると、書類、持ち物入れ、衣類、酒樽、弁当箱などが散乱していて、驚き呆れつつも情けなくなった。 <コメント> |
|
天満組屋敷に走って戻り、負傷者たちに城の様子を告げた所、皆、男泣きに泣き出した。 |
|
安全に航海できるめどがついたので、一同協議の末、俺と梅沢はそのまま上陸した。 |
|
「負傷した隊士を戦地に置き去りにするとは、どういうことです?!」 |
|
慶喜公は上野の寛永寺で謹慎なさり、我々遊撃隊は慶喜公の警護をすることになった。 |
|
大目付・鵜殿団二郎、御徒目付・下山蓬吉、小目付の某2名、そして俺たちの一行10名は、途中3泊して甲府に入った。 |
|
東海道へ向けて出発しようとしていると、近藤勇が兵を挙げて甲州へ進軍しているとの風聞がたびたび伝わって来た。 |
|
静岡では、官軍先鋒の砂土原藩、大村藩、長州藩の兵士らがぞくぞくとやってくるのに出くわした。 |
|
海江田氏に丁寧に礼を述べた後、帰路についた。 |
|
「人見君、近藤の所在を知らないか?」 |
|
慶喜公は水戸でご謹慎することになり、遊撃隊士の多くは水戸までお供したが、俺は、伊庭八郎、和田助三郎、佐久間貞一郎、岡田斧吉ら数名と謀る所があり、千住大橋まで上様にお供した後、脱走挙兵することにした。 |
|
榎本さんは他艦の艦長や俺達を艦長室に召集して軍議を開いた。 |
|
「勝さんが来ると何かとうるさい。あの人が来ないうちに急いで出発しよう」 |
|
呼ばれて行ってみれば、勝さんはさきほどとは打って変わった穏やかな調子でこういった。 |
|
艦隊はすでに横浜沖を航行中だったので、漁船をやとって上陸するつもりで準備を進めていると、榎本さんがやって来た。 |
|
この時、城ヶ崎・八幡方面で砲声が轟いた。 |
|
数か条にわたる軍律を定め、房総の諸藩を説得し、兵を募り、東海道へ出て背水の挙兵をするとの方針を固めた。 |
|
翌日、夜明けを待って、第一軍を先鋒とし、松平大和守殿(上野前橋の藩主)の富津陣屋に向けて進軍した。 |
|
館山から数隻の小船に乗り込んで、伊豆の真鶴に上陸した。 |
|
東海道筋の諸藩へ以下の檄文を贈って同盟を求めた。 |
|
五月上旬に沼津に出た。 |
|
先に述べた脱走挙兵の趣意書を、伊庭八郎との連名で、海江田と木梨に宛てて江戸へ送った。 |
|
我が軍の斥候が、伊沢の地で官軍の斥候と衝突し小競り合いとなった。 |
|
5月17日。 |
|
官軍は三嶋に新しい関所を設け一小隊をつけて守らせていた。 新政府軍は箱根の手前の三嶋宿にも新しい関所を設けていたようですね。 |
|
俺達も大急ぎで三嶋を出立したが、山中村で小休止している時に、児嶋竜雄(後に遠山翠、また、雲井竜雄と変名)と名のる男に声をかけられた。 雲井竜雄登場。 |
|
箱根の山頂にたどり着いたのは、夕陽が辺りを染める頃だった。 人見さん、かなり強引です(^^; |