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朝凉や 人より先へ 渡里ふ祢
(朝涼(あさすず)や 人より先へ 渡り船)
「征西日記」 元治5月26日の記述より
※「朝涼」とは「夏、朝の涼しい時間に、外出すること」。
早朝の涼しい時間帯に、渡し舟に乗って
向かった先は、どこなのだろう?
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其む可し 都の阿とや せミし具れ
(その昔 都のあとや せみしぐれ)
「征西日記」 元治5月26日の記述より
※聖武の時代に、都は一時(744年〜783年)
難波の地に移された。そのことを詠んだものか。
5月21日〜22日に仲間と共に楽しんだ奈良旅行の影響?
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寒草月
かれわ多る 尾花かそて留 霜とちて
やと連累月の 影乃佐無希望さ
(枯れ渡る 尾花がそてる 霜とじて 宿れる月の 影のさむけさ)
年代不明
※大正6年8月9日発行の「江戸」23号に
「秀穎」と署名の入った短冊の写真が掲載されているらしい。
真偽は不明とのことだが、個人的には他の作品と作風が違う気がする。 |
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あめの日は いとゝこひしく 思ひけり
我がよき友はいづこなるらめ
(雨の日は いとど恋しく思ひけり 我がよき友は いづこなるらめ)
慶応4年(1868)8月末〜11月25日の間
※中根淑の遺稿集「香亭遺文」の中の
「尺振八君の伊庭八郎を救いたる始末」の中で紹介されている。
八郎が、横浜の尺振八に匿われていた頃、
本山小太郎が手土産として持ってきた、
古本の中の一冊に記されていたという。
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まてよ君 冥土もともと思ひしに
志はしをくるゝ 身こそかなしき
(待てよ君 冥土もともと思ひしに しばし遅るる 身こそかなしき)
明治2年(1869)4月17日〜5月16日の間
※伊庭八郎の辞世とされているが、内容は友への挽歌である。
「君」は、明治2年4月17日に戦死した本山小太郎と思われる。
小太郎が死んだ3日後に八郎も負傷。胸から腹にいたる重傷で
ろくに口もきけなかったというから、4月16日〜20日の間に
詠まれた可能性が高い。
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