杉浦日向子 1997年9月4日 PHP研究所
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著者の杉浦日向子は、作家としてだけでなく漫画家としても有名。彼女が描く江戸時代を舞台とした漫画は、風景一つとっても嘘の部分が極めて少なく、専門家も絶賛するほど。同氏の江戸風俗に関する知識は幅広く、宮部みゆき、北方謙三といった人気作家との対談形式でまとめられたこの本を読んでいると、江戸時代からタイムスリップしてきた人の話を聞いているようでとても面白い。この本の中で杉浦氏が教えてくれた江戸っ子の風俗を少しだけ以下に紹介してみたい。 |
| ご飯と飯(めし) |
| 炊き立ての銀しゃりだけがご飯で、それ以外はすべて飯(めし)。江戸の町人がご飯を炊くのは1日に1回、朝だけだったから、ご飯が食べられるのは朝だけ。朝はご飯とおみおつけ(お味噌汁のこと)、昼は冷や飯とほうじ茶、夜は茶漬けが定番だった。(それで足りなければ夜食をとった)一番豪華なのはお昼で、焼き魚などもついた。当時の人は、1人あたり1日にお米5合を食べるのが基準で、1日2食しか食べない人は、1回で2合半食べた。だからどこの家にも2合半の桝があったという。ここから転じて「この一合野郎」と言えば、半人前のこと。 |
| おかずは手抜きが江戸流 |
| インスタント味噌汁は江戸時代にもあった。味噌にねぎとだし数種が練りこんであって、一食ずつ玉になっているのを、お湯で溶いて使った。当時は、まな板や包丁があまり普及していなかったから、菜っ葉などは手でちぎったし、豆腐は崩してぐちゃぐちゃにするか、豆腐屋さんに頼んでサイの目に切ってもらった。大根などの根菜類を切るときは、包丁の代わりにブリキ板のような「かなべら」を使って乱切りにした。惣菜屋さんの利用も一般的で、1人分〜4人分など色々なパッケージで売っていた。「四文屋」なんて店では、芋の煮っ転がしから大根の煮付け、麩を煮たものまで何でも四文で売っていた。 |
| 水は買うもの? |
| 江戸の井戸水は地中の鉄分がしみ込んでいて紅茶色だった。だから井戸からくみ上げた水は、太い竹筒の節をくりぬいたところに木炭と砂利と石灰を入れ、そこに水を通して濾過した後、煮沸しなくては飲めかった。だから時代劇などで井戸の水を直接飲んだりするのは嘘。濾過するのも大変だったから、瓶単位で水を買う家が多かった。これは月契約で朝の決まった時間に届けてくれた。 |
| ご飯は七輪で |
| 江戸には竈のある家が少なかったので七輪などで炊いていた。七輪にしても長屋全体8件〜12件で、七輪のある家は2〜3件あればいい方だったので、長屋全体で使いまわしをしていた。 |
| 江戸の屋台 |
| 江戸前屋台四天王と言えば、そば、鰻、鮨、天ぷら。江戸の長屋には竈のある家が少なかったし、独り者の男性が多かったので、三食とも屋台ですましてしまう人も結構いた。 |
| 江戸の居酒屋 |
| 江戸の居酒屋にはメニューがなく、つまみと言えば味噌か目刺しぐらい。だから、時代劇などで、居酒屋にお品書きの紙がぶら下がっていたりするのは嘘。ついでに言えば、飲み屋がテーブル席になっていたりするのも嘘。当時は銘々膳かお盆のまま畳の上に置くスタイルだった。 |
| そばの歴史 |
| 最初のそばは麺ではなく「そば実雑炊」だった。これはそばを実のままでゆでて、浮いてきた殻とあくをすくって捨てて、味付けをしたもの。その次に「そばがき」ができて、その後つみれのように鍋で煮込むようになって、その後やっと短冊状に切って食べるようになり、細く切るのが一般的になったのは江戸時代中期のことである。ちなみに江戸っ子は、そばにねぎを入れず、陳皮(みかんの皮を干したもの)や大根おろし、七味唐辛子で食べるのが普通。なお、江戸時代に「そばを食べた」と言えば、一般的には「そばがき」が「そば実雑炊」のことで、麺状のそばは「そば切り」と呼ばれていた。 |
| そばの種類 |
| もともとは、皿に盛った冷たいそばが「もり」、せいろに盛ったのが「せいろ」、ざるに盛ったのが「ざる」、海苔がかかっているのは「海苔かけ」、あったかい汁そばが「かけ」、冷たいの、またはぬるいのが「ぶっかけ」。現代のそばは、一人前が、乾麺で100グラム、ゆであがりで250グラムぐらいだけど、江戸のそば屋で出すのは、その3分の1〜4分の1の量。おまけに何杯も食べるのは野暮だったので、「おなかがすいたからそばを食べよう」ではなく、「ちょっと時間があるからそばでも食べよう」ってノリだった。 |
| 鮨 |
| 鮨の握り方は現代とほぼ同じだが、上方の太巻きに対して江戸は細巻きだった。江戸では鮨をつまみにお酒を飲むので、刺身をつまみに一杯飲んで、それからお鮨というのは関西風。江戸では野暮とされた。江戸では鮪は「下魚」とされ、トロなど見向きもされなかった。わずかに赤味の部分を醤油とみりんにつけ込んだ「ヅケ」にして食べていた。握り鮨が二巻ずつ出てくるようになったのは幕末で、これは、江戸前の握り鮨が全国に広がった際、江戸では普通の鮨が、上方の人には大きすぎて一口では食べられない。だから、これを真中で切って、二つにして出すようになった。 |
| 櫛 |
| 櫛を贈るのはプロポーズの意味を持っていた。離婚するとき、妻は櫛を投げ返して亭主を追い出す。追い出された亭主は、妻の櫛を質に入れて、その日一泊はできた。 |
| ファッション |
| 18世紀の中ごろになると、江戸と上方の風俗は全く違ったものになってくる。例えば女性の服装については、上方ではきっちりと着付けたのに対し、江戸ではだらしない着方をしていた。打ち合わせが浅いので走ると裾が割れるし、女の子でも懐手をするので胸のあたりがはだけてしまう。柄の好みも正反対で、上方の女性がきれいな色を好んで着たのに対し、江戸の女性は渋めの柄を好んだ。江戸の女の子にとって、赤は最後の決め色で、今日こそは、というときにはじめて赤い紅(べに)をさしたり、赤い下着をつけたりした。ちなみに男の子の決め色は紫で、紫の襟をちらっと出したりすると男前になる。 |
| 着物の枚数 |
| 江戸の長屋の住人は一生のうちでもせいぜい3枚〜4枚の着物しか持っていなかった。それも親から譲り受けたり、古着を買ったりしたものだったから、裏当てをしたり、半身が違う柄になっていたりと様々だった。なるべく着物が傷まないように、袖はおろさずいつも襷がけをし、男は裾を守るために尻っぱしょりをしていた。尻っぱしょりは褌をしめていないとできないので、尻っぱしょりをしているだけでステータスになった。当時褌の生地は高級品で、銭湯でもよく盗まれたから、風呂に入るときは、頭の上に褌を手ぬぐいでくくりつけて入る人が多かった。それでも江戸の褌普及率は日本一だったし、女性の腰巻き率は、ほぼ100%だった。 |
| 化粧 |
| 上方では、女と生まれたからには、しっかりお化粧するのが身だしなみと言われていたが、江戸ではすっぴんの素肌を自慢するところがあった。髪型も上方では、髪をきれいに結い上げるが、江戸では、湯上がりの洗い髪が一番粋。まだ湿っているような髪を背中にたらして櫛を横にさしているような姿が魅力的とされていた。 |
| 努力する男たち |
| 江戸には参勤交代で地方からやってきた武士や、上方からやってきた商人があふれていたので、圧倒的に男性が多く、男性は結婚難だった。男の子たちの中には、結婚するために涙ぐましい努力をする者もいた。美顔術でお肌をすべすべにし、髭剃りで剃ったのでは頬ずりした時にチクチクして嫌われるというので、毛抜きで抜いたりもした。また、「口が臭いわよ」と言われるのが一番怖かったので、何度も歯を磨いて、うがいをして、その後に梅のつぼみか何かをちぎって噛んで、さわやかにして出かけた。 |