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プエルトリコ旅日記 by Jun Koyama (2002年 7月 )

 

7月17日(水曜日) 11年ぶりのプエルトリコ

8時起床。 即席ラーメンで朝食を済ませ、3週間前からすでにプエルトリコへ里帰りしている家族に 電話を入れフライト番号とサンファン到着予定時刻を伝えてから10時過ぎに家を出てまずは会社へ。 冷蔵庫の中の残り物を同僚のK子に渡し、金魚鉢はY子へ預け世話を頼み、12時にはM氏にオヘア空港へ送ってもらう。

昨年の9月11日以降は荷物検査が厳しくなった為、出発2時間前には空港に着いてないといけない。 あのテロの直後からしばらくは皆飛行機を避け航空産業は大打撃を受けたが徐々に需要は回復し10ヶ月以上経った今では航空運賃の値下げ効果も あってかほぼ完全にテロ以前の状況に戻っているようで、アメリカン航空のカウンターはもう黒山の人だかりだ。

約1時間並び搭乗手続きを終えたのが出発1時間前。 満席ではあったがほぼ定刻通り2時過ぎ にはゲートを離れる。 ところが滑走路の端まで行くと出発待ちの飛行機の長蛇の列で離陸したのは結局3時過ぎ。 すぐに時計を1時間進めプエルトリコ時間に合わせる。 乗客は8割以上が里帰りのプエルトリカンのようだ。

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シカゴでの遅れが響いたがそれでも定刻より30分弱遅れただけで8時20分にはサンファン到着。 いつもの事だが着陸と同時に歓声と拍手が巻き起こる。 僕も思わず拍手をしてしまう。 ポンセ出身の家内と子供達は毎年のように来ているが僕に とっては11年ぶりのプエルトリコである。

飛行機の外へ一歩踏み出した途端にあの独特の南国の湿った空気の匂いがしてプエルトリコに来たことを実感する。 僕の住むシカゴでは夏の間 この時間帯はまだまだ明るいが緯度の低い南国プエルトリコはもうとっぷり闇夜である。

しかし着陸直前に見た首都サンファンの街は人口42万以上の都市だけ あってほんと明るい。 エルモロの要塞も照明でシルエットが浮き出ているので判別出来る。


旧市街のライトアップ

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プエルトリコは面積こそ四国の半分程度だがもし四国の四隅の出っ張りを大きく切り取ったら面積も形もほぼ同じになり、サンファンが高松、ポンセが高知、マヤグエスが宇和島、アレシボが松山みたいな位置関係になる。

荷物は機内持ち込みサイズのスーツケースとショルダーバッグだけだったのですぐに外へ出るが迎えに来ているはずの家族が見当たらない。 3週間も居てすっかり時間の感覚がプエルトリコ式に麻痺してしまっているのだろう。 20分程待たされて家族と再会。 子供達はもう真っ黒に日焼けしている。

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まだ夕食をしていないとのことなのでイスラ・ベルデ通りの小奇麗なレストランで蟹サンドイッチなどを食べてから女房アナの弟ペドリートの運転でポンセの実家へ向かうが、 そのレストランと同じ並びに「将軍」という日本食レストランがあるのを発見。 さらには「東京グリル」なんてのもアトレイ市で見かけ昔とはだいぶ変わったプエルトリコにちょっと感心する。 20年前のプエルトリコは日本食が食べたくても無理だったので。

ポンセ到着は午前様になったがアナの両親、 そして現在ドイツに住む里帰り中のアナの妹ダマリスも息子二人と共に僕の到着を待っていてくれたので寝たのは明け方3時頃になる。




7月18日(木曜日) ポンセ市内

ダマリスの旦那ロベルトがドイツから到着するためダマリス一家はサンファンへ。 僕らは寝坊して午後からゆっくりポンセ市内へ。

ポンセ北部グレンビュー地区の実家を出るとすぐ角に僕とアナが19年前に結婚した教会がある。 建物はそのままだが今では宗派が変り、あの時の神父さんも他の教会にいるという。 時代は変り、その教会にはHPがあるらしくURLが白い壁に書かれていた。

JUNなんて名前はここにはないので誤字だと思われ勝手にJUANと訂正されてしまった結婚証明書の事を想い出す。 アナの母校カソリック大学が見えるともうすぐ中央広場だ。


カソリック大学


プレーナの達人、アンヘル・ルイス・トゥルエージャスのCDにもポンセの消防署の写真が使われている

 

赤と黒の派手な縞模様に塗られた消防署は今でもポンセ市のシンボルとして健在のようだ。 数年前にサービスが始まったという汽車の格好をした無料のトロリー車にポンセ市役所前から乗り、ポンセ市民憩いのビーチであるラ・グアンチャへ。

沖には棺桶の形に似ているからなのか、はてまた18世紀の悪名高き海賊のボスが一目ぼれし誘拐、そして結婚した娘をかくまい、彼女の死後はその島の洞窟に埋葬したからなのかは知らないがムエルト島(棺桶島)が見える。

売店では巨大な餃子の形に似た挽肉とかロブスターが中に入り油で揚げたエムパナディージャを1個1ドルで買いかぶりつく。


ポンセの中央広場



7月19日 (金曜日) プエルトリコの物価

明日はビーチへ行くことになったので、午前中はそのための買物へ。 色々とビーチでのバーベキューのための肉類、野菜、パン、ビール、コーラなどを買い込む。

アメリカ本土に比べると食料品類は多少高目だ。 地元で作られる物以外はすべて本土から運ばれて来るせいだろうと思ったがそういうことでもなさそうだ。 バドワイザーの6缶パックが6ドル以上もするが、地元産のメダージャでも20セント程度安いだけだ。

ところが僕が最近好んで飲むノン・アルコールのドイツ製ビールが6本パックで4ドル50セントで買えるのにはビックリ。 シカゴではこれが7ドルから8ドルもする。 マッチョー・カルチャー(男らしさを誇る文化)が浸透しているので「男らしくない」アルコールの入っていないビールなんかはほとんど需要がないのかもしれない。


メダージャ

 

その他では1ガロン(約4リットル)のミルクがシカゴでは3ドル以下なのにここでは4ドル近くもする。 肉類も2割程度高い。 ガソリンはリッター当たり32セント位(35円)なので日本と比較すれば約3分の1、シカゴでは現在ガロン当たり1ドル60セント位なのでプエルトリコの方が多少安いことになる。 だけど今の日本やアメリカ本土とは違い消費税を払う必要がないので計算は単純明解だ。

家の値段は地域にもよるがハリケーン対策の為コンクリートブロックを積み上げセメントで固めただけの簡単な構造の上、土地が安いので7万ドル位(約850万円)からあるのでこれはバーゲンに等しいと言えるが、プエルトリコの給与水準はアメリカ本土に比べれば低いので、それなりに一軒家を持つのは大変な事なのかも知れない。

新車の値段は本土に比べ1割ほど高いが消費税が無いので実質ほとんど同じと言える。 気候が良いせいか車は長持ちするらしく30年以上前のコロナなんかがまだまだ現役で走っているのをよく見かける。 ちょっと見た感じでは6割が日本車、3割がアメ車、残り1割が欧州車と韓国車といったところか。

さて午後は10年前に出来たというポンセでは一番大きなショッピング・モールであるプラザ・デル・カリベへ行ってみる。 まだ来てから2日目だがいつも帰る直前にお土産の事で頭を悩ますので大体どんな物があるか下調べをしておくためである。



7月20日(土曜日) カニャ ゴルダ

日本の海の日にふさわしく、カニャ・ゴルダ というポンセからカリブ海沿いに西へ1時間ほど車を走らせたグアニカ市にある海水浴場へ。

駐車場料金5ドルを払って入場するが大変な混雑で一時間も駐車スペース探しに費やしてしまう。 海は水そのものはきれいなのだが海草が相当混じっているので透明度はいま一つだ。 もう少し足を伸ばしボケロンまで行けばもっときれいになるのだが。 それでも泳いで食べて飲んで日光浴をしてあっという間に一日が過ぎて行く。




7月21日 (日曜日) オールド・サンファン

 

アナの弟ペドリートの奥さんであるアンジーのお姉さん、マリエリを訪ねるためにサンファンの郊外、トゥルイージョ・アルトへ。

マリエリはCPA(公認会計士)の資格を持ち、プエルトリコ政府の労働省に勤めるお役人である。 プエルトリコに初の女性知事が誕生した今、将来マリエリが知事になってもおかしくない程の高官である。 そんな彼女にふさわしく検問所を2回通過しないとたどり着けない白亜の豪邸に旦那のルイスと住んでいる。

 

◆◆◆

昼食後マリエリとルイスの案内でオールド・サンファンのクルーズ船が停泊する波止場の辺りからパセオ・ラ・プリンセサを通り、サンファン・ゲートを抜けてエルモロ要塞までの石畳を歩く。

何度来てもこの16世紀から18世紀にかけて築かれたエルモロの大要塞には感心する。 よくもあの時代にこんな大規模な物を総石造りで、それもちっぽけで資源に乏しいこんな島で、と思うのである。

帰りはエルモロからサンタ・マリア・マグダレーナ墓地と大西洋を左手に見ながらサン・クリストバル砦の横を通り波止場へと戻る。 ポンセに帰ったのが午前2時。 シャワーを浴びて寝たらもう3時を回っていた。

 




7月22日(月)から 7月24日(水)プエルトリコ北西部

今朝3時過ぎにベッドに入ったのにもかかわらず9時前には起床。 本日はアナの妹ダマリスの友人を訪ねるために北西部のアグアダ市へ

毎度の事ながら大人数での行動なので午前中の出発予定が午後2時になる。 16人が4台の車に分乗し、はぐれてもすぐ分かるようにと両方のウィンカーを点滅させながら(ここでは当たり前の習慣らしい)ポンセから2号線を西へ走り、サバナ・グランデの辺りからその2号線が北へ進路を変え、マヤグエスを過ぎるとアグアダ到着である。 3時間程かかっただろうか。

ロドリゲス家の人々は我々が大人数で押しかけたのにもかかわらず嫌な顔ひとつせず我々を大歓迎してくれる。 客をもてなす心遣いをプエルトリコの人達は今も忘れずに持ち続けている。

ご主人のベンジーさんは真っ黒に日焼けした顔に真っ白い歯の笑顔がとても良く似合う紳士である。 僕が日本人だと分かると彼の従兄弟が日本人の女性と結婚し近くの町で小学校の校長先生をしているという話しを英語でしてくれ、連絡を取ろうと電話をしてくれたがあいにく不在でその日本人女性に会うことは出来なかった。

ちょうど22日はアナの父親ペドロの68歳の誕生日だったため夕食後は全員でハッピーバースデーの大合唱。 しばらくは飲んで食べて踊って大騒ぎをするが、就寝時間になればなったで今度は外で虫とコキー(Coqui - プエルトリコのシンボルである陸ガエルの種)の大合唱がうるさい程である。 この辺りはまだまだ手付かずの自然が残っている。

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翌日は午前4時過ぎにニワトリが鳴き出し早起きを強いられる。 一般的なプエルトリコの家庭には湯沸かし器が無くシャワーは水で浴びることになるので、朝一のシャワーはちょっとした覚悟が必要なくらい冷たい。 それでも最初の10秒程冷たさを我慢すれば後は暖かく感じて来るから不思議だ。

アグアダとアグアディージャ両市内を午前中に見学後、女性軍の強い希望もあり午後はアグアディージャ・モールへ買物に。 そして夕食はベンジーの奥さんお手製のパステレスアロス・コン・ガデゥーレス、ビールは地元のメダージャと100%プエルトリカン。


アグアダの中央広場

食事の後はベンジーと隣人達が4人で表のポーチに置いたテーブルでドミノを始める。 各ゲームが終わる度にドミノをかき混ぜる様はちょうど麻雀をしているようである。 そのドミノをする人達やそれを見に立ち寄った他の隣人達にも夕食やビールが振る舞われ、なぜか僕には江戸時代の長屋で暮らす町人達の暮らしぶりとその光景とがダブって見えてきた。

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マヤグェスの海岸部の駅(1900年代初頭)1891年に建設が
始まった鉄道は最終的に1907年 ポンセから
サンファンまで繋がった。しかし1957年に経営不振で廃線。
今でもところどころに名残を見ることが出来る

翌朝は別れを惜しみ涙を流しながら見送ってくれるロドリゲス家の人達をあとにし、イサベラ、グアハタカ、カムイ、アレシボと回る。

イサベラからグアハタカにかけての海岸沿いには50年前までプエルトリコにも鉄道があったことを物語る天井部分が煤で真っ黒になったトンネルがあるので行ってみる。

東京の僕の実家にある古い世界地図帳にあるプエルトリコには確かに鉄道を意味する白黒の線が島全周ではないがサンファン辺りからポンセまで島の西端を回る海岸沿いに描かれている。

カムイでは洞窟見学を予定していたが平日は12時が最終ということで見られず。 アレシボでは遅いランチというか早目のディナーを取るため「Mr. Mofongo」へ。 もちろんモフォンゴとカルネ・フリータを。 一人あたり15ドルといったまぁまぁの値段。

 

アレシボからは10号線で島を縦断して直接ポンセへ帰る手もあったが、夜の曲がりくねった山道は危ないとのことなので海岸沿いの2号線を使い、来た道を帰ることに決定。 ポンセには11時頃に無事到着。



7月25日(木曜日) 憲法記念日

本日はプエルトリコの50回目のいわば憲法記念日である。 朝からシラ・カルデロン知事がブッシュ大統領の使者である共和党の上院議員と共に何やら演説している姿が首都サンファンよりテレビ中継されている。

明日はプエルトリコ北東部の沖合いにある離れ小島クレブラへ行くことになり、午前中はその準備の為の洗濯を。 洗濯物は容赦無く照り付けるカリブの太陽と絶え間無く吹く貿易風のおかげでまたたく間に乾く。 ポンセからフェリー乗り場のあるファハルドまではあまりに遠いので、将来のプエルトリコ知事になることが嘱望されているマリエリの白亜の豪邸に泊まることになり夕方トゥルイージョ・アルトへ。 明朝は4時起きで5時には家を出るとのことで皆10時にはそれぞれの寝室へ。




7月26日(金曜日) 憧れのクレブラ島

4時はやはり無理だったが、それでも4時半には全員起床。 これはほぼ奇跡に近い。 5時15分には出発。 フェリーは9時発だがここからフェリー乗り場のファハルドまで1時間以上かかる上、4連休の真っ最中で混雑が予想されるので早く出た訳だがこれが大正解。 6時半にはフェリー乗り場に到着するが切符売り場はもうすでに長蛇の列が出来ている。

ポンセを午前4時に発った女房の妹ダマリス一家は8時に到着。 まだ切符を買えず並んでいた我々が彼らの分も買う事になりまたも16人の大グループになる。 出発時間ギリギリの8時45分に一人片道2.25ドルのチケットをようやく買う事が出来すぐに乗船するが往復チケットは販売していないとのことで、帰りにまた長い列に並ぶ事を考えるだけで憂鬱になってしまう。

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船は500人は乗れるであろう結構大きなモダンなものでちゃんとレーダーまで備え付けられている。 9時発の予定だったが少し遅れ9時半発。

海の色がエメラルド・グリーンから深度が増しブルーに変化する頃には波が高くなり船は大揺れでデッキを歩くのも困難な程になるが陽気なプエルトリカン達は飛沫を浴びながらも大喜びでエンジョイしている様子。

乗客の一人がイルカを見付け叫び声をあげると皆がどっと片側に寄って来る。 航路右側には米軍の実弾演習場として島の半分が占領され、地元民だけでなく世界各地からやって来る演習反対派との摩擦が絶えないビエケス島が見える。 わずか片道2ドル25セントの船賃なので30分やそこらで着くと思いきや2時間 もかかってようやく憧れのクレブラ島に到着だ。


クレブラのフェリーの船着場

 

◆◆◆

ここのフラメンコ・ビーチは旅行番組を専門にケーブルやサテライトでやっているトラベル・チャンネルが選んだ世界のベスト10・ビーチにノミネートされ、以前から行ってみたいと思っていた所である。 船着き場の左手奥に乗合バスの乗り場があり、フラメンコ・ビーチとの間をマイクロバスでピストン輸送している(1人片道2ドル)。

我々は16人のグループなのですぐに1台をチャーターし、10分程でフラメンコ・ビーチに到着。 ビーチの入り口では荷物検査があり、ガラス容器は一切持ち込みが禁止になっており、ビン入りのビールを持っていた我々はその場で渡されたペットボトルに移し替えねばならず貴重な時間を 無駄にしてしまう。

 

小高い砂丘を登りつめると、そこには今までに見たことのあるどこの海よりもきれいな海が広がっていた。

 

水の透明度といい、砂の白さといい、空の青さといい、すべてがパーフェクトだ。

全員がクレブラは初めてなのでその素晴らしい光景に見とれ感激している。 こんなきれいな所に来れたのもJUNのおかげだと皆に言われ、来た甲斐があったというものだ。

感激と興奮のあまり僕らは思わずTシャツを脱ぎ捨てそのまま競うように砂浜を水に向かって突進し飛び込んでしまう。 50メートル程の沖には水の色の違うところがあり、そこは珊瑚礁になっている。

マスクとスノーケル、足ヒレを持って来なかったのが悔やまれるがその珊瑚礁と砂の境目で水深約2メートルの所で浮かびながら下を見ると真上から照らす太陽のせいで僕の影が海底に映し出され、水の透明度が高いので宙に浮いているような錯覚を覚える。

この島は18世紀の頃にはカリブの海賊達の隠れ家になっていた場所で、このフラメンコ・ビーチの入り江に船を停め、砂浜で水遊びする海賊達の事を想像すると海賊としての生活も案外悪くなかったのも知れないなどと考えてしまう。

皆後ろ髪を引かれながら乗った帰りの船は潮の流れにうまく乗り、1時間半弱でファハルド着。 ルキージョの辺りで夕食を済ませてからマリエリの白亜の豪邸に戻る。 サン・スクリーンをたっぷり塗ったのにもかかわらず日焼けしてしまった肌には水のシャワーが心地よい。

7時間かけて行ったフラメンコ・ビーチに居たのはわずか5時間弱だったが十分に価値のある小旅行であった。 16人それぞれの想い出は語り継がれ半永久的に残るのだから。




7月27日(土曜日) ピニョーネスとプラサ・ラス・アメリカス

昨日の疲れが残り元気のいい小人数だけでサンファンのすぐ東にあるピニョーネスの海岸へ。

クレブラの海の色を見てしまった後なのでこの辺の海では物足りない。 海岸沿いを散歩し、 日本の海の家みたいな店でトストーネスピンチョバカライートなどを食べてから寝坊組と落ち合うためにプラサ・ラス・アメリカスヘ向かう。

途中、明日は色々世話になったマリエリとルイスのために餃子を作ることにしたが餃子の皮がどこで入手出来るか分からないので初日に見付けた「将軍」に寄ってみることにする。

 

そのレストランでは食べないのに餃子の皮の入手先だけを教えてもらおうとする心臓な我々に開店準備中の日本人みたいな顔立ちをした地元従業員が親切に近くの華僑のやっている東洋食品店への行き方を教えてくれた。

1パック(50枚)で4ドルの餃子の皮を3パック買い、プラサ・ラス・アメリカスへ。

グランコンボ40周年記念のライブでない方のCDを見付けたので買うが、ペドリートが言っていた通り最近は若い世代を中心にサルサ離れが進んでしまい、その店のサルサのジャンルも片隅に追いやられたように小さくなっていたのには驚いてしまう。 最近の流行は何と言ってもスパニッシュ・レゲェーだそうだ。


プエルトリカン・レゲエのトップはCultura Profetica。 昨年のライブ盤はティト・プエンテ野外劇場でのもの。ダブやラップとの融合でなく、ゆったりしたルーツ・レゲエ系の音がやはりプエルトリコににあう。



7月28日 (日曜日) カロリーナ・モールと餃子作り

エル・ユンケへ行く予定だったが朝から久し振りの雨でそれも一日中降り続くというのでまたも買物へ。

昨日とは違うカロリーナ・モールヘ。 土産にボタンを押すと鳴き声の聞けるコキーのぬいぐるみや、息子の名前を印刷してもらったエルモロ要塞の見張り台をデザインした本物とまったく同じアルミ製の車のライセンス・プレートなどを買い、夕食準備のため早目にマリエリ邸へ。 150個の餃子を作るが大好評で、人数も20人に増えあがったので一瞬で無くなってしまう。 夕食後しばらくしてから夜道の52号線を疾走し11時半ポンセに無事帰還。




7月29日 (月曜日) アドフンタス と ウトゥアド

ドイツへ家族より一足先に戻るロベルトを見送った後、残ったダマリスの家族と共に 新しくなったポンセから北へ伸びる10号線を使い、まずはアドフンタスへ。

四方を1000メートル級の山に囲まれた山麓の町である。 中央広場脇のベーカリーでケーキを立ち食いしてからさらに北上し、先住民ウトゥアド族で知られるウトゥアド市へ。

プエルトリコではどんな小さな町へ行っても必ず中央広場がありそこには常に噴水とベンチがあり住民の憩いの場になっていて、集会とか祭りもここを中心に行われる。 そして道もここを起点として四方へ伸びるので都市造りの基本を見るようだ。


アドフンタスのトロリーバス



7月30日 (火曜日) フアナ・ディアス

明日は家族と共にシカゴへ戻るので午前中から昼過ぎにかけては土産を買うためプラザ・デル・カリベへ。

ラム酒の小ビンやTシャツ、裏にマグネットの付いたエルモロ、パルケ・デ・ボンバス(ポンセの消防署)、コキーなどといったプエルトリコの名所やシンボルをデザインしたちょっとしたアクセサリー類を買う。

ランチはモール内でマビというある植物の根から抽出したエキスを醗酵させた甘いビールのような飲み物とタコのサンドイッチで簡単に済ませ、午後はペドリートとアンジー夫妻の住むポンセの隣町、フアナ・ディアスへ。

燃えるような赤い花を付けたフランボヤンが美しい新興住宅地のようだ。 夕食はアンジーお手製のサンコチョというチキン、牛肉、コーン、里芋、ユカ、青バナナなどをごった煮にしたようなスープを汗だくになって食べる。 薄目の塩味に肉類から出たダシが良く効いて日本人の口にも良く合う。




7月31日 (水曜日) Hasta luego, Borinquen!

長いようであっと言う間だった2週間が終わろうとしている。

家族にとっては5週間に及ぶ長い休暇だったが、滞在が短かろうが長かろうが別れはいつも辛いものだ。 朝から皆心持ち口数が少ない。 洗濯をしてから荷造りをし、午後1時半にポンセを発ちサンファンへ向かう。

2時間弱で空港到着。 4人分の荷物を出発レベルのカーブサイドで降ろし、USDA(米農務省)の検査(植物やその種などの本土への持ち込みを防ぐ目的)を受け、ターミナル内には入らずそのままカーブサイドのアメリカン航空のカウンターで10分程並んだだけで荷物を預けチェックインする。

ここでラム酒を持っていないか聞かれ分かった事だが、もっとも度数の高いラム酒は可燃性液体と見なされ危険品扱いになるそうでせっかく土産として買っても持って帰れなくなるそうだ。 ターミナルの中にもチェックイン用のカウンターはあるが足の踏み場も無い程の混雑ぶりだった。

出発30分前になったところで空港まで一緒に来てくれた皆に別れを告げゲート内へと入る。

オンタイムで離陸した機内には2週間前に着陸と同時に起こった歓声や拍手はむろん無く、あったのは休暇が終わり明日から仕事だという虚脱感と現実感だけであった。





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