Mi Raices ラファエル・エルナンデス
Rafael Hernandez

当地で最も愛されている作曲家と言えば、ラファエル・ エルナンデス。もう35年も前に亡くなってますが、プエルトリコ、アメリカ、 メキシコ、プエルトリコと活動の場を移しながら生涯に2000曲もの作品(作詞・作曲)を 残した、ラテン・アメリカを代表する作曲家です。代表曲の一つ「エル・クンバンチェロ (El Cumbanchero)は当地、メキシコは当然として、キューバや中南米、またアメリカの ポピュラーやジャズにも多く取り上げられているこの巨匠の作品のほんの一例です。 その他にも「カンパニータス・デ・クリスタル」や「プレシオサ」などなどの 名曲は当地の人々が愛しているメロディーなのです。

代表的作品

"LAMENTO BORINCANO", "CAMPANITAS DE CRISTAL", "CACHITA", "EL CUMBANCHERO", PERFUME DE GARDENIA", "PRECIOSA", "SILENCIO", "EL BUEN BORINCANO" , "TRAICION", "CUCHIFLITOS", "VENUS", "DESMAYO", "LOS CARRETERROS", "TU NO COMPRENDES" , "CAPULLITO DE ALHELI", "AHORA SEREMOS FELICES", "NO ME QUIERAS TANTO", "INCONSOLABLE" , "LINDA QUISQUEYA", "ESO SOY YO", "BUCHE Y PLUMA NA'MA", "DESVELO DE AMOR",....

・・とあまりにもあり過ぎるのですが、とりあえず下記のCDを お勧めします。

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EL ARTE DE RAFAEL HERNANDEZ
ラファエル・
エルナンデス
の芸術
Bomba BOM-3006 1958年と1963年録音の原盤からのカップリング
ROMANCE DEL CUMBANCHERO Mi Raices BPPRCD-98002-2 当地最大の銀行BANCO POPULARによる年末企画盤。1998年暮れに リリースされたこのCDはラファエル・エルナンデスの作品集を当地の現在のトップ ・アーチストが歌ったもの。
サルサからはヒルベルト・サンタ・ロサ、マーク・ アンソニー、インディア、イスマエル・ミランダ、ティト・ロハス、マイケル・ スチュアート、ビクトル・マヌエル、リッチー・レイが参加。

そしてポップス/バラーダ/ボレロからはエドニータ・ナサリオやリッキー・マーチン、 カルロス・ポンセ、チューチョ・アベジャネ、ダニー・リベラ、ルセシータ・ベニーテス、 、ルース・フェルナンデス、マルコ・ナントニオ・ムニスが、メレンゲからは エルビス・クレスポやオルガ・タニョン、メリーナ・レオンが、その他にも 大御所ティト・プエンテやチチ・ペラルータ、プレーナ・リブレなどなど 大変お得な内容。マーク・アンソニーの歌う"PRECIOSA"は当地でもヒットしました。

ビデオもあり。ヒルベルト・サンタ・ロサ、マーク・ アンソニー、エドニータ・ナサリオがエルナンデスの昔の映像などを見たり その魅力を語りながら進行し、上記のアーティストが歌っていくという趣向。 商業ベースの作品ではないので今日本で手に入るかどうか不明ですが、 発売直後はDISC UNION(お茶の水)やVIRGINで入手出来たとか聞きます。

BIOGRAPHY

YEAR 出来事
1891 10月24日、プエルトリコのアグアディージャ(Aguialdilla)、 バリオ・タマリンドに生まれる。
1903-1914 12才の時音楽を学び始める。後にサンファンのプエルタ・デ・ ティエラに転居。21 才の時最初の作品"MARIA VICTORIA"(Waltz)を作曲。
1915 陸軍入隊。第一次大戦に従軍し軍楽隊で演奏。
1917 初めて作品が買い取られる("MI PROVISA")
1918-1920 除隊後ニューヨークに移住。ラッキー・ロバーツ・バンドに加入し 全米ツアーに出たり、オルケスタ・イスパノアメリカを編成したりする。
1921-1939 ニューヨークのイースト・ハーレム(エル・バリオ)に雑貨店を 開業。妹のビクトリアらと共にクアルテート・ビクトリアを結成。"LAMENTO BORINCANO" がヒット。メキシコに招かれる。ラジオ番組"SAL DE UVAS PICOT"制作。メキシコ人やキューバ人から 成る35人編成のオルケスタを率いる。同時にメキシコ国立音楽学校でファン・レオン・マリスカルに ついて学びクラシックの技法の学位を取得。また、"EL GENDAME DESCONOCIDO"と "AGUILA O SOL"の2本のメキシコ映画に音楽監督として参加。
1940- 1940年12月にMARIA PEREZと結婚。4人の子供をもうける。
1947-1953 1947年23人編成のメキシカン・パフォーマーによる 凱旋公演を行なう。プエルトリコ政府のラジオ局のシンフォニー・オーケストラの 指揮者就任を乞われ、帰国を決める。
1963 ニューヨークのプエルトリカン・シアターで記念公演。
1965 プエルトリコ・インターアメリカン大学より名誉学位授与。 バンコ・ポプラールによる記念TV番組制作される。一方、癌の病状が悪化し 番組には出演出来ず。
1965 1965年12月11日癌の為亡くなる。臨終の言葉は "Hasta siempre, mis jibaros" (私の国の人々よ、永遠に)。旧市街の墓地に埋葬される。

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