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Tさんの旅行記 (2001.9.18-9.22) 1日目 2001年9月18日(火) 【サンファンへ出発】 DC郊外のボルチモア空港から憧れのサンファン行きの飛行機は朝7:15発。テロの影響で少なくとも2時間前に空港へ来いということなので、逆算で早朝(というか未明)の4時にエアポートサービスのバンに乗り込む。5時前には、空港着。そこでびっくり、チェックインロビーは黒山の人だかり、どのエアラインにも長蛇の列が、最後尾からはいつになったらチェックインできるのかと不安になる。ちょうど並んだ前の人は、50代後半のおばさん、スペイン語をしゃべっている、ムム、プエルト・リコ行きかと思っていたらその通り。結構プエルト・リコ行きの人もいるようだ。 なんとかチェックインをして、厳しいボディチェックも通り、いざ飛行機へ。乗り込んでから、1時間たっても機体はエプロンから動かない。それにまだ乗り込んでくる人もいる。いきなり時間がラテンの雰囲気に。乗っているのは、ビジネスマンらしきアングロサクソン(こちらはファーストに鎮座ましまし)に、私はカリブの出身ですと顔に書いてある人ばかり、アジア系は私たちだけ。サンファンへは4時間弱のフライト。お腹がすいていたので、機内のなんでもないクロワッサンサンドイッチがうまかった。エディー・マーフィーの声が印象的なCG映画「シュレック」を見た後は、爆睡。
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【来たぞ!プエルト・リコ】 まもなく到着のアナウンスに起きてみると、島影が窓から見える。エルモロ要塞、から、コンダード・イスラベルデと、当たり前だが地図と同じ地形にちょっと感激。 着きましたよ、憧れの「プエルト・リコ」。機外に出るとムッとした湿気が体を包む。蒸し暑い。この感覚は、そうだ、なんだか沖縄に似ている。空港の標記はスペイン語が先、聞こえる声もスペイン語ばかり。異国に来たなあという感じ。 荷物を取って外に出てみるが、タクシーベイがない。係員がいたので聞いてみると、この列に並べといわれる。6人ほど待っていたのだが、タクシーがなかなか来ない。待つ間にスコールが、でも皆平気で傘もささずに歩いている。 |
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手前がミラマールとコンダード。向こうは旧市街
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【ホテル到着】 結局約30分後にようやくタクシーに乗ってイスラベルデのインターコンチネンタルに。ちょっと奮発してオーシャンビューにしたので、部屋に入って窓から見られるエメラルドグリーンの海に感激。「綺麗だー」。 気になっていたハリケーンの心配もないのでよかった、よかった。楽しむぜプエルト・リコ!!!待ってろよプエルト・リコ!!!(どこも行きやしないって)。 荷物ほどきもほどほどに、さっそく町にくりだした。 タクシーは使わずにA5のバスでオールドサンファンへ。料金は25セント!安い!!バス停で待って、さっそく乗り込む。この路線は生活路線だね。アジア人は珍しいのか、ジロジロと視線を感じる。久しぶりの外国人体験。 車窓から眺める景色は、イスラベルデの豪華さとはかけ離れた、実生活の厳しさを感じさせるものだった。途中、アジア人が乗車してくる。声をかけられるが、中国語だったので、うまくコミュニケーションがとれなくて残念。 |
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待ってろよプエルト・リコ
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【旧市街へ】 サントゥルセ・コンダード地区を通ってオールドサンファンのバスターミナルへは混んでいたので約40分。途中で、もくもくと黒い雲が空一面を覆いまたもやスコールが。バケツの水をひっくり返したようなすごい雨。無料のトローリーバスに乗ったが途中雨が凄いので、もう1周車内で過ごす。20人ほどが乗れる緑色のケーブルカーを模した造り。いいサービスである。 シティホールの前で降りて、歩いてエルモロ要塞へ。途中の路地は、なかなか雰囲気がある石畳の道が多い。そして、猫が多い。猫好きの私たちの足を止めさせる。皆痩せている。うちのデブ猫とはえらい違いだ。 |
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なに見てんだよ
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【でかい!】エルモロ要塞の印象である。要塞に続く一本道がいい雰囲気。中は、頑丈な造りで、日本の歴史で言えば、信長・秀吉・家康がいた戦国時代に建設が始められた訳だ。日本のお城の石垣と比べると、一つ一つの石が小さい。でも、たいしたものだ。 要塞の突端に立って、海を眺めると、なんだかやる気が出てくる。(自分の単純さに驚くのはこういう時である。)建物の方を振り返ると虹が懸かっている。やってくれるぜプエルト・リコ。 |
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その後、クリスト通りへ抜ける間になんとも言えない雰囲気の階段通りがあった、そこでも猫の出迎えを。アイスクリームで一息入れて、クリスト通りを下る。コーチやラルフローレンのアウトレットのお店が並んでいた。コーチラバーの相方の目が光る。安い!相方の目がギラギラ光る。なんと消費税がないことも知らされる!もうまぶしくて相方の目が見てられない。(でも、店が6時に閉まるということで、再度来ることに)。お店の時間は10時から6時が一般的だそうだ。(観光名所は5時まで。) 【で夕食は】 その後は、「アヒリ・モヒリ」に向かう。まず、ピニャ・コラーダを飲んで、オーダーは、もちろんモフォンゴ。シーフードモフォンゴを頼んだのだが、ココナッツの入れ物にシチューが載っている。モフォンゴはどこ?そうなんだ、このシチューの下にあるんだ。一口食べる。「美味い!」こりゃいいや。ニューオリンズのガンボと通ずるところもある。相方は、ロブスターの雑炊。これも美味い!そうこうしている内に、睡魔が私を襲う。時差ぼけとともに、今日の朝3時半おきがつらかった。その後は、ホテルへ戻った、ロビーでは生ピアノでラテンのリズムが、部屋に帰って出直そうと思ったのだが、窓の外から聞こえる波音を聞きながら、引きずり込まれるように眠りに落ちてしまったのである。
こうして、プエルト・リコ1日目は静かに幕を降ろしたのである |
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2日目 2001年9月19日(水) 【プラザ・ラス・アメリカス】 昨日早く眠ったためか、早朝に目が覚める。窓を開けると、波の音が聞こえてくる。とてもリゾートという感じである。ビーチに出て、波打ち際で戯れる。こんなのは何年ぶりだろう。イスラベルデの砂は、とても細かく。裸足であるく足の裏が気持ちいい。ゴミもない。また、何より日本の海で感じる潮の匂いというものがあまりしない。どうしてだろうと不思議に思う。 ホテルで朝食をとった後、ショッピングモールの「プラザ・ラス・アメリカス」へ。 イスラベルデからは、タクシーで片道15ドル、時間は15分ほど。ドライバーのお兄ちゃんは、誇らしげに「このモールはプエルト・リコで一番大きいだけじゃないぜ、カリブで一番なんだ。」と。モールに到着。シアーズ・JCペニー・メーシーズ等の定番デパートもあり、確かに大きいことは大きいが、本土のそれと比べると中規模のモールという感じ。入っている店は、アメリカ本土とほとんど同じ。もっとカリブ色が強いかなと期待していたのだが、少し残念。でも、通路に並ぶ屋台がとても面白い。色々な民芸品もあれば、怪しげな調理器具などもある。 【色々な店】 人だかりがしていた屋台があったので除いてみると「スパイショップ」という盗聴器や隠しカメラを売っているところであった。覗き趣味は万国共通のものなのだろうと妙に納得。キリスト教関係の絵・彫刻・飾り物を扱う出店が多い。どこもスリーキングス(三賢人)のモチーフが多い。カトリックの土地柄だろうか? このモールでは、言葉の苦労は無い。もっとスペイン語を喋りたいという気持ちも出てくる。まあ、アジア人の外見からして、はなから英語で喋りかけてくる向こうの気持ちも分からないわけではない。ある店で、ブルース・リーのフィギアが置いてあった。店のおじさんが、それを指差して「お前もやるのか」と身振りで聞いてくる。これも海外のお約束事「勿論」と答える。とたんにおじさんの目に尊敬と憧れの色が浮かぶ。ごめんな、おじさん、ウソついて。 |
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【ベニシオ・デル・トロ】 屋台のひとつにプエルトリカンの有名人の写真を売っているのを発見。プエルト・リコ出身の大リーガーの合成写真やジェニファー・ロペスの写真が飾ってある。今ジェニファーはここプエルト・リコに来ていて、凱旋コンサートが明日行われるとのこと。皆誇りに思っているんだなあと思う。 相方は、ベニシオ・デル・トロ(プエルト・リコ出身の映画俳優。今年のアカデミー助演男優賞受賞)の写真があるかを聞く。と、ファイルの中から何枚かの写真を取り出してきた。とたんにミーハー状態に陥る相方。ま、しょうがないか。これが目的できたんだしなあ。値段を聞くとA4大の写真1枚が20ドルだという。「何ボッてんだよう」と交渉して、2枚で25ドルで商談成立。(これでスペイン語がベラベラ喋れれば、もっとほんとは安いんだろうとは思う。でも、まあ楽しめたので、これで良し。) |
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【CDショップへ】 写真を抱えニヤニヤしている相方を連れて、ボーダーズ(書店・CD)へ、本屋の平積みにはスペイン語の本が並ぶ。CDのコーナーは当然のごとく、サルサがドーンと並んでいる。名前しか知らなかった人の顔が分かる。(ティト・ロハスは演歌顔だ。)さっそく何枚か購入。ふと相方を見ると、ベニシオの出世作「トラフィック」のDVDを握りしめていた。(音声にスペイン語吹き替えがあるのはさすが)毎年、欠かさず購入していた「Far Side」の日めくりカレンダーの来年分が売り出されていたので、これもゲット。でも、この日めくりは来年分が最後ということ。とてもショックである。デスクの上の、息抜きだったのに。 モールでランチを食べてホテルに戻る。でも、ほんとに美男美女が多いなあ。(相方はウエイターが可愛いとはしゃぎ、私は隣の若い女性につい目を奪われる) 【で、夕食は】 ホテルに戻った後は、ビーチに。色々と旅行はしているが、こういうビーチリゾートは初めてなので、メチャクチャ気持ちいい。砂浜にチェアーとパラソルを広げてもらい。海で泳ぐ。沖合いに低気圧があるみたいで、波は少し高めであるが、波は冷たくなくて気持ちがいい。天気も上々、童心に帰って遊ぶとはこのことだと感じる。ビーチが閉まる時間まで、ゆっくりと過ごす。やはり、オフシーズンなので人は少なく。イスラベルでの海岸全体でも100人もいない。積み上げてあるビーチチェアとか見ると、オンシーズンはここも人でごった返すのだろう。オフシーズンは天気さえ恵まれれば、安いしゆったりできるしいいかも。 夜はシーフードレストラン「アトランティカ」へ。Mofongoさんから聞かされていた本物のウナギの稚魚の値段を聞いてみる「120ドル」と紙に書いてくれた。おいおい一皿120ドルかよ!?何度聞いてもその値段。高くても50ドルぐらいだろうと思っていたので、ほんとビックリ。残念ながらオーダーは見送り。 シーフードサラダと生カキを前菜に、エビとウナギの稚魚(偽物)のグリンソースがけとイカ墨のご飯をオーダー。味は文句なし。とても美味い!来てよかったプエルト・リコ。でも、ひとつ感じたのは、全体に味が濃い目だよね。白いご飯も塩味がつけてあるし。ちょっと塩の使い方が全体的にきつい感じもする。でも、それはそんな気にすることはない。ほんと美味しいよここは。 ホテルに帰ってロビーでやっていたピアノを中心としたライブを聞いて、早めに就寝。明日はレンタカーでポンセとサンヘルマンへのドライブだ。 3日目 2001年9月20日(木) 【今日はドライブ】 |
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朝食を早めに済ませて、ホテルに紹介してもらったイスラベルデにある「チャーリー・カー・レンタル」に行く。ホテルからは歩いて5分のところ、なんと24時間営業のレンタカー屋だった。車は三菱のミラージュ4ドアで保険全部込みで1日45ドルと大変お値打ち。早速26号線から18号経由で52号を一路ポンセに向けて出発。 プエルト・リコのドライブは楽しい!道はフリーウエイだからかとても良く整備されている。話には聞いていたが、目的地までの距離の表示はキロで、スピード表示はマイルで示されている。いちいち1.6を掛けたり割ったりちょっとめんどくさい。ポンセまでのドライブは、とても快適なものだ。 途中に料金ゲートがあり、そこのバスケットに決められたお金を放り込むとバーがあがる単純な仕組み。35セントとか1ドル15セントとか、ゲート毎によって料金が違う。結構頻繁にあってポンセまでに4つぐらいあった。小銭を用意しておくと、流れの速いお釣り不要のゲートにいけるので、お勧めする。 |
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ナンバープレートには島の形が
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【ポンセヘ!】 今まで2日間はビーチと街中だったので、目にしていた緑はリゾートの作られた緑だったが、道中の自然は本当に素晴らしい。カグアスを越えたあたりから、山越えになる。結構標高も高く、延々と登りが続く。そして、その後の下りも結構長い。下りになると、風景が変わってくる。北部のシダ系の植物に変わって、牧草のような草も数多く見られるようになってとても面白い。 車は日本車が多いみたいだ。ミラージュもたくさん走っている。運転マナーはラテンの乗り。ラジオのFMからはサルサがずっと流れている。街ごとにFM局があるようで、少し走ると違う局をサーチしながら走る。でも、ほとんど全部スペイン語。くそ!もっと勉強するぞスペイン語!
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2時間弱でポンセに到着。町の真ん中の大聖堂近くまで行き、駐車場に停める。料金は1時間1ドルもしない。安い。大聖堂前の消防署の建物はオフシーズンということもあり、改装中。街はこじゃれた店が多い。また、中央広場の周りの路上には、宝くじ売りの屋台が軒を連ねていて面白い。 シティバンクの2階にある観光案内所で情報をもらう。(ここ分かりにくい。看板ぐらい出しといてよ)ここも無料のトローリーが走っており、その一つ北コースに乗る。所要時間は1時間。ベネズエラから来ていた家族と一緒に回る。どこへ行くのかなと思っていたら、最初は墓地。墓地には専門のツアーガイドがいて、英語でも説明してくれる。ニューオリンズの墓地に較べると小さめだが、これはこれで面白かった。 | |
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ビクトリア様式の消防署
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次に40程の真っ赤に塗られた小さな小屋が立ち並ぶ一角で止まる。その通りは1月25日通り(29日だったかな)と呼ばれるところで、1999年のその日ポンセを襲った大火事の鎮火で命を落とした消防士7人の子孫のために、その小屋が建てられているということだった。特権として家賃はなし、家の修理もポンセ市が面倒を見てくれるということだ。100年を越えてもこのような扱いを受けるとは、その消防士たちは街のヒーローなんだなあ。NYやDCのテロで命を落とした消防士や警察の人々を思い複雑な気分になる。 因みにポンセの街のカラーは赤と黒で、赤は「炎」黒は「灰」を表しているとのことだった。中央広場に戻って街を歩く。ポンセ美術館にも行きたかったのだが、時間がなくて断念。駐車場近くのカフェでチキンと豆ぶっ掛けご飯のランチを取る。これが、またウマイ!
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教会のステンドグラス
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【そしてサン・ヘルマンへ!】 腹ごしらえの後は、次なる目的地「サンへルマン」へ。ここからは、フリーウエイではなくて、国道とでもいうのか、信号もある道となる。でも、途中は結構飛ばせる。1時間弱でサンへルマンの標識が見えてくる。 相方はソワソワしだす。ここはベニシオ・デル・トロの父親の出身地。何か彼の情報が得られるかもと淡い期待を抱きつつ、街の中心にある広場に車を停める。生憎、雨が落ちてくる。 まず宗教美術館に足を向ける。レンガで造られた急勾配の階段を20段ほど上る。建物の中には木彫りの彫刻が何点も飾られている。なかなか雰囲気のあるいいものだ。 | ||
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エベリンさんというガイドの人がいたので、この町とベニシオのことについて聞いてみる。この人がホントニいい人なんだ。受付には3人ほどの友人もたむろしていて、日本からベニシオのことを調べにきた私たちのことで盛り上がる。 スペイン語であーでもない、こーでもない。という議論が始まり、まず市の観光担当部長に会ってみたらどうかと言われ、市庁舎まで出向くが、ここは見事に空振り。木で鼻を括るとはこういうことをいんだという対応。ま、どこでも役所は一緒ってこと。
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ベノ、待っててね。
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【ベニシオは見つかるのか?】 それで、また美術館に戻って見ると、また、違った人たちがたむろしており、ベニシオはこの前サンへルマンに来ていて、地域のミニコミ紙にその記事が載っていたということが判明。それを出版している印刷屋を教えてもらう。そこへ行こうとしたところに、エベリンさんの上司のギドさんが帰ってくる。この人がマタホントニいい人なんだ。「じゃあ、僕がついていってあげるよ」の一言。信じられない。やはり、はるばる日本から来たというのも効いている感じである。 助手席にギドさんを乗せて印刷屋に向かう。彼は英語が使えるのでほんとに助かる。印刷屋に到着するも、そこではお目当てのミニコミ紙「パヒナス」の発行はしてなかったのだが、なんとそこのおじさんはベニシオのお父さんと小さいころに良く遊んだ仲だった。そして、その印刷屋の通りをはさんだ2軒目の家が、昔彼が住んでいた家だったと分かる(実際は建て直されていたのだが)。 次に、印刷屋さんに教えてもらったパヒナスの編集長の自宅に向かうこととなった。ここら辺から、なんだか自分が探偵になった気分になる。大雨の中、編集長の家を探し当てると、ラッキーにも彼、ロドリゲスさんは在宅していた。彼もマタマタホントニいい人なんだな、これがまた。
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【ミニコミ紙発見!】 さっそく、事情を話すと、山のようにその「パヒナス」をくれる。その一面にはベニシオがちゃんと載っている。彼は、父親の故郷であるサンへルマンを訪れ、恵まれない子どもたちのチャリティーに参加をしていたとのこと。このネタに相方は大喜び。まあ、来た甲斐があったというもの。ロドリゲスさんとは今後も連絡を取り合うこととして、 次は、デル・トロの姓が多い地区へ移動。色々と調査をするが、結局そこではあまり収穫はあがらなかった。でも、短時間のアポなし突撃にしては、ほんと予想外の成果を得ることができ感激した。これも、ギドやみんなプエルトリカンの優しさのおかげである。ホントニいい人ばかりだあ。 【ビエケスの事】 ギドは「パス・パラ・ビエケス(ビエケスに平和を)」のポロシャツを着ていたので、そのことについて聞いてみた。彼自身は、プエルト・リコはアメリカから独立すべきだという考えだった。彼の祖先はイタリアからここに移ってきたとのことだが、プエルト・リコの文化や歴史に誇りをもっており、ハロウインの仮装などアメリカの文化や習慣に影響されている今の状況を苦々しく感じているとのことだった。政府の役人でもある彼が、こうした感想をいえる社会と言うのも考えてみれば、素晴らしい。 プエルト・リコ本島の東にあるビエケス島には、大きな米軍基地があり、訓練で民間人が死ぬなど問題も多い。この点でも、沖縄とよく似ている。ロドリゲスさんの「NYでテロがあったが、ここプエルトリコでは60年以上も戦争が身近にある。」と言った言葉が印象的である。今日もビエケスの米軍基地では、アフガン侵攻への厳しい訓練が続いている。 ギドは、夜にビエケス関係のミーティングがあるということで、最初の美術館まで送って別れる。ありがとう、アミーゴ・ギド。 【サンファンへ】 サンへルマンを出るのが7時を過ぎてしまったので、島の西を回って帰るルートはあきらめて、また来た道を戻る。途中、なれた手つきで料金ゲートにコインを投げ込んでいく。一つのゲートは、3ドル50セントくらい取るとこともあった。行きと帰りで値段も違うのが面白い。結構飛ばしたら、2時間30分もかからずにイスラベルデに到着。ガスを入れてレンタカーを返却。楽しいドライブの一日だった。多くのプエルトリカンと知り合ってとても実りのある一日だった。 ホテルに戻って、ホテルのカフェでシュリンプサラダを食べて、ラウンジでピアノを聞いて就寝。ホテルのカジノも覗いてみるが、ラスベガスと違ってなんだか家庭的な雰囲気さえする。ブラックジャックのテーブルをしばらく見ているが、ディーラーが強すぎる。とても太刀打ちできないとすごすごと退散。 なんだか、ここに来てから、夜は直ぐ寝てしまう。平日と言うこともあり、なかなかディープなサルサに漬かる機会には恵まれてはいない。でも、いつも回りにあのリズムがあるここプエルト・リコでは、軽い楽しみ方もまたありなのかもしれない。 4日目 2001年9月21日(金) 【ベニシオを尋ねる旅は続く】 今日は、昨日サンヘルマンのエベリンに教えてもらった、プエルト・リコ文化庁の図書館を訪ねることにした。ベニシオの情報が何かあるかもしれない。 A5のバスに乗ってオールドサンファンへ、1日目より道は空いていて、思ったより早く到着。この路線では、途中ベニシオが育ったサントゥルセ地区を通る。2回目なので、余裕ができて色々な街並を見ながら揺られているのも楽しい。車内で「カラマリ(イカ墨の黒いごはん)は食べたか?」と聞かれる。ええ、食べましたよ。で、到着。 文化庁の図書館はエルモロ要塞のすぐ近くにあった。残念なことに今は移転のための改装中で直接いろいろな文献やデータベースをあたることはできなかった。しかし、それ以上のことが私たちを待っていたのである。応対してくれた司書マリアさんとの出会いである。この人もマタマタマタイイヒトなのだ(なぜこんなにイイヒトが多いのだ。プエルト・リコ)。 ベニシオの件で調べているというと、色々と彼女のネットワークを考えてあたって くれた。そして、イボンヌさんという女性に連絡をとろうということになった。彼女 はドキュメンタリー映画作家だ。マリアさんによると、イボンヌさんが現在企画中の 作品にベニシオが関わっているというのだ。 さっそくマリアさんが彼女に電話をする と、運良く彼女が出た。幸いにも彼女は英語が話せるので途中で相方が出て話し始め た。どうやら、ベニシオが関わるプロジェクトとは、Julia De Burgosというプエル トリコの女流詩人の人生についてだという。相方によると、これはまだどこにも流れ ていない情報らしい。「ここまで来たかいがあった!!」と相方はかなり満足の様子 だった。 これで、今回のベニシオについてのミッションは一先ずの終結をみることとなった訳である。 昨日も感じたのだが、これが、アメリカ本土、特にハリウッドだったら絶対こんな展開にならない。こんなにホイホイ・ホイホイ事が進む訳がない。やはり、プエルト・リコはそれ自体一つのコミュニティでもあり、遠く日本から来た奴になんとかお土産を持たせてあげようと言う気持ちもあるのだと思う。 そして、もう一つは、私たちの調査対象がベニシオ・デル・トロであったことも幸いしたのだと思う。司書のマリアさんが「ベニシオはプエルトリカンとしての誇りを持っていて、それを事あるたびに口にもしてくれている。彼は私たちの本当の仲間で、とても親しみを覚えるのよ。リッキー・マーティンとは全然違うのよ」とも言っていた。自分たちが誇りに思っている人を地球の裏側から来た人に紹介したいというのもあったのだろう。 午後からは、コーチのアウトレットストアに寄って、相方を差し置いて私がブリーフケースを購入。日本で買うのの約半額。これはいい買い物をしました私。それから、オールドサンファンのはずれのカーネギー図書館で少し調べ物をした後、サントゥルセの街を歩く。下町と言う感じで、通り一つで町の表情が変わる。美術館やコンサートホールや高級マンションが立ち並ぶ山の手あたりを歩いて、帰りはまたA5のバスでホテルへ帰る。
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【で、夕食は】 夕食は、最後の夜と言うことで、プエルト・リコ料理を食べたいとホテルに相談したところ、歩いて5分イスラベルデ内のメトロポールというところを紹介してもらった。キューバ料理もあるとのことだった。相方はシュリンプ・クレオールを、私はシーフードとステーキのセットで最後の夜を締めくくる。飲み物は地ビールのメダーヤ。これもまたウマいんだなあ。ほんとお勧めですプエルト・リコ料理は。 この日は、テロのための特別音楽番組の生放送があるので、ゆっくり部屋で見ることにした。番組の早い段階で、アラブ系の子どもたちへのヘイトクライムを諌めるシークエンスがあって、あれは良かったと思う。報復イコール殺戮となるのが分かりきっている中で、どう着地点を見出すのか。 後日DCで見た今回のテロ関連の写真展でパキスタンで「アメリカ人よ、何故君たちが世界からそんなに嫌われるのか考えてみろ」と書かれた布を広げている写真があった。ただ単純な報復では何も変わらない。アメリカだけではない、私たち人類全体に突きつけられている問題だ。 余談だが、滞在したホテルのケーブルでは、NYと同じ番組が全部見られた。ローカルニュースはほとんど見ることができず、NY発のものばかりだった。普通の家はどうなのだろうか?
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5日目 2001年9月22日(土) 【HASTA LUEGO, PUERTO RICO!】 早いもので、もう今日が最終日。名残惜しいが、しかたがない。フライトは夕方なので、それまで、ホテルでゆっくり楽しむことにした。プールで泳いで、ビーチで寝そべって。風が気持ちいい。あいにく途中でスコールが降ってきたがとてもリラックスしたひと時であった。 荷造りを終え、チェックアウトして空港へ。 プエルト・リコから本土へ行く場合、着ない預かり荷物はチェックインする前に果物等の持ち出しがないかのレントゲン検査を受けなくてはならない。 警備は厳しく。相方は小さな毛抜きを凶器とみなされ没収されました。一体それで何ができるんじゃい。 夕闇迫る中、離陸する窓からサンファンの町を見ながら、また来るからなと思わず口にしてしまった。 何もかも恵まれた楽しい旅だった。ありがとうプエルト・リコ!!!
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