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フレデリック・レイトン"Flaming June"(「燃え立つ6月」)

ポンセ美術館 の代表的作品といっていい、このフレデリック・レイトンの"Flaming June"(燃え立つ6月)。

レイトンの代表作と言われるこの作品がなぜ、プエルトリコにあるのか?それにはプエルトリコの知事にもなった有名な政治家ルイス・A・フェレが関係しているのでした。

■略歴

フレデリック・レイトン(1830-1896)はヴィクトリア朝時代の古典主義を代表する画家。フィレンツェ、ベルリン、パリ、ブリュッセル、フランクフルトなどで学び、1852年からはローマで、1855年から59年初まではパリに在住。1856年にロイヤル・アカデミーニ出品した作品「フィレンツェを行進するチマブーエの聖母像」がビクトリア女王の目に止まって買い上げられた事から一躍名声を得た。

当時の古代ギリシャ・ブームもあり、19世紀後半に絶大ない人気を博し、1868年にロイヤル・アカデミーの正会員に、1878年には会長に就任した。1896年に亡くなる直前に貴族の爵位を受けている。

■この作品の魅力

レイトンの集大成と言われるだけあり、6月の暑い午後にまどろむ女性のけだるく甘美な時間を、単に甘美に流す事なく、オレンジ色の燃え立つような鮮やかさ、薄いドラペリーの繊細な表現とその下に横たわる力強い生命感を持って、観る者を圧倒的に引きつける作品です。

■この作品がプエルトリコに来るまで

Flaming Juneは1895年に完成し、ロンドンのロイヤル・アカデミーに初めて展示されました。しかし誰も買い手が付かなかったようで、レイトンは翌年、65才で亡くなります。絵は遺族の物と成り、しばらくはそのまま保持されましたました。

しかし、20世紀に入り、モダニズムの台頭に従い、ビクトリア朝時代のスタイルは急激に人気を失います。そして1930年代まで「ビクトリアン・アートは時代遅れ」という認識が続いたため、レイトンの作品も200ポンドくらいで購入できたとの事。Flaming Juneも最後はメイフェアのアルブメール通り(Albemarle St.)の美容院のサロンに流れていったとの事です。

その後、何人かの手を通ったようですが、あまり持ち主の評価もぱっとせず、サウス・ロンドンのクラファム・コモン(Clapham Common)の家の壁のパネルの間に置かれたままになってしまいました。そしてそれは1962年まで忘れ去られたままになり、家の取り壊しの時に初めて発見される事となりました。

しかし、せっかく発見されたにもかかわらず、Flaming Juneの不遇は続きます。取り壊し業者は全く絵に価値を感じず、作品をその額装の値段で売り渡しました。

額装はルネサンスのアルターピースとギリシャ建築との影響を残したタバナクル・スタイルの物で、ビクトリア朝の作品にとても合ったものでした。

クラファムのポーランド人の額装屋は絵に50ポンド、額に60ポンドで折り合って買い取ったそうです。そして額と絵はこのときから離れ離れになってしまったのでした。

なお、ポンセ美術館での展示にはこの額のレプリカが使われています。

絵のほうには、お客が現れました。その客はショーウインドーにかけられた"額なし50ポンド"の絵を見たのです。しかし、そのお客には50ポンドはとても出せない金額でした。

「当時僕は15才だった」と、彼は当時を思い出して語ります。

「50ポンドなんてもってなかった」

この若者の名前はアンドリュー・ロイド=ウエーバー。ご存知かと思います。世界的なビクトリアン・アートのコレクター、そしてミュージカル「オペラ座の怪人」の作曲者です。

さてその後最終的に、絵はロンドンのウエスト・エンドで売りに出されました。落札したのはビクトリアン・アートのディーラー、ジェレミー・マスです。彼は落札後、英国中の美術館にこの絵を売り込んだそうです。しかし買い手は現れませんでした。

 

◆◆◆

一方、プエルトリコに現代史・政治史を語る時になくてはならない人物がいます。ルイス・アルベルト・フェレです。フェレは1904年生まれ、キューバからやってきた父とプエルトリコに住んででいたの母の間に生まれました。両親が出会った時期はまだキューバもプエルトリコもスペイン領だった時代です。

交易、商業で財を成した名家で、フェレ自信もセメント事業での成功など一層財力を大きくして行く一方、プエルトリコの地位向上の為に活動し最後は知事も務めました。

元々音楽に傾倒し、ボストンで音楽を学んだ程の人ですから芸術に対する理解も深く、その財力を背景にしたパトロナージュでも有名です。

1956年、彼がヨーロッパへ旅行したとき各地で絵画に魅せられて、名作の模写も含め何点か購入したその時、プエルトリコに美術館を作りたいと思いが産まれました。 それから彼のコレクション購入がスタートし、ニューヨークでの最初の購入の71作品は現在の収蔵作品のベースとなったそうです。そしてそのエル・グレコやゴヤの作品を含むコレクションを展示する為の美術館を作る事とし、それは1959年にポンセのクリスティーナ通りに完成しました。

その後ラファエル前派、ビクトリアン、フランドル派などの作品を充実させていったわけですが、ここに登場するのが1962年にこの美術館の館長に招かれたイギリス人レネ・テイラーです。 レネは1916年ロンドン生まれで1933年にスペインに渡りバルセロナ大学で哲学と文学を学びました。スペイン市民戦争の時英国に戻りロンドン大学で学びますが、スペインでの生活による彼の地の芸術への思いは心に刻まれ、1941年スペインの建築に関する論文で学位を取得します。

その後スペインのグラナダ大学で講師をしたりしながらスペイン美術について学び続け、アメリカのコロンビア大学やイエール大学の招聘教授となったりしています。 そして1962年、前述のフェレがテイラーをポンセ美術館の館長として迎え入れます。そしてその時代にイギリス絵画の購入が進みます。テイラーがフェレに提言したのでしょうか。

60年代はラファエル前派、ビクトリアンの作品群は不遇の時代で、Flaming Juneも140ドルでオークションに出されたこともあるそうです。

◆◆◆

そして、ついにFlaming Juneとフェレが出会います。オークションでか、直接の取引でかはわかりませんが、フェレはジェレミー・マスからこの作品をUS$6,000の値段で買い取ったのでした。

さて、余談でロイド=ウエーバーの話です。

50ポンドが払えなかった若者は、世界的コレクターとなり、フェレに何度もFlaming Juneを譲ってくれと持ちかけたそうです。提示価格はなんと6百万ポンド

もちろん、その他の有名な収集家、例えばイサベル・スミス、ジョン・シェーファー、ジェリー・デイビスなどもフェレ翁に話を持っていったようです。 しかし、翁はいたずらっぽく微笑み、99歳で亡くなるまで全てのオファーを断り、ポンセ美術館でプエルトリコの人達や島に来た鑑賞者と共に絵を楽しむことを選んだのでした。

なんと幸せな人生でしょうか!

 

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