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A さんのPuerto Rico紀行
1999.7
その1: 到着〜バカルディ工場
Puerto Ricoは1493年に、2度目の航海時にコロンブスが 「発見」し、その後、スペイン
人が 植民を始めた。1898年の米西戦争後、アメリカの自由連合州になっている。最近で は、ハワイに次いでアメリカに州として加わるか、それとも現状維持かで、国民投票が実施さ
れ、 僅差で現状維持派が優勢だったと聞いている。PRはSalsaの生まれ故郷のひと つ。 Salsaはアメリカがキューバとの関係を断絶したあと、NYに住むキューバやPRの移民が、
ソンというキューバ音楽をベースにして生まれた音楽だ。そんなPRには、僕は第3者である が、 現状を維持してもらいたい思っている。
San Juanについたのは、夜の12時近かった。Condadoという地区にあるSan Juan Marriott Resort & Casinoに泊まった。さっそく、生バンドがでているラウンジに降
り、 少し踊った。部屋にもどりベランダから外を眺めると、ライトアップされたプールと海 が見える。明日の朝、海の色をみるのが楽しみだ。
PRでは、だいたいスペイン語でなにか、話かけると返事は英語で帰ってきた。全 てをスペイン語で話されても、勿論、わからないが多少不満であった。
朝食の後、早速、ホテルの前のビーチに出た。妻はボディーボードをしたいと、来る前
から 盛んに言っていた。ビーチいた男からボードを借りて、挑戦するものの波が弱く、 物足りなかったようだった。
その後で、この日はラムで有名なBacardiの工場に見学にいくことにした。サルサの
イベントとかで、よくBacardiが協賛しているので、親しみを感じていた。Bacardiは どこの市場にも上場していないことや、創立者Bacardiはやはりスペイン人らしかった。
大航海時代には、カリブの島々で精糖産業が興ったらしい。ラムもさとうきびから作る し、現代にも植民地時代の影響が色濃く受け継がれている。 Bacardiの工場は、Old
Sun Juanという植民地時代のパステルの建物が集中する観光地区から、フェリーにのる。 帰りのタクシーでは、PR人カップルとシェアすることになった。ずっとタクシーの
運ちゃんとこの二人 は陽気に話をしていたが、突然、俺達に話かけてきた。そして、 PRも昨年のハリケーン・ジョージによって被害をかなり受けたことや、その為、
ホームレスになった人が多数い ることを知った。 言われる前は、倒壊しそうな家がかなりあったので、PRはかな り貧しいのかとぐらいにしか思わなかったが。
その2:エル・モロ〜サルサ・レッスン
Old Sun Juanにもどり、El Morro(モロ砦)に 向かった。これはスペイン人が海賊の 襲撃から町を守るために、1570年から1783年の間に作られた要塞は、ユネスコの世界文化
遺産にも登録されているらしい。着いたのが遅く、中に入ることはできなかった。 このモロ砦のある海辺の広場の芝生の上に、しばらく寝転びぼーっとした。この
広場のそばに墓地がある。また、このあたりは砂浜ではなく、岩場になっている。ま た、 海の色も透明ではない。この墓地のせいか、天気が悪いせいか、もしくは、もう
夕方にさしかかっていたためか、このあたりは、PRには似合わないが、哀愁が漂っ ていた。
7時ぐらいから、サルサのレスンを受けにいった。MOFONGOさんのPRに関するHP
でリストされていたスクールの中で一番Hotelに近いArthur Murray Franchised Studioとい うと
ころに出かけた。レッスンは当日の予約でも受けることができた。30分で50ドルだとい う。 六本木の相場は1ドリンク付きで、2000円強であり、それよりも、かなり高いた
め、プライベートではなくグループレッスンはないかと聞いてみたが、ないと言う。せっかく、 PRに 来たし、サルサのライブも滞在期間中にはないため、受けることにした。
まず、奥の 部屋に通され、二人で踊ってみせろと言われ、踊った後に、修正すべき点を指摘 された。指摘された内容は、かなり基本的な点で、六本木の裕子さんにも指摘される
事がある内容だった。日本に戻って、また習いに行くかと思った。妻はこの先生のこ とをふざけて、「情熱のサルサ教師」と呼ぶ。レッスンも30分のはずが、30分を過ぎても止め
ようとしない。1万も請求されるかもと、少し不安であったが、最初の30分はサービス してくれた。この先生はサルサに関する本を現在、書いているようで、教えてくれたステップ
等を、その本をみせながら、こういうことだと理解しているか繰り返し確認しなが ら教えてくれた。また、パーカッションを使って、リズムの取り方を教えてくれて、レッスンはか
なり親切だった。
この教室は入ってすぐ、かなり広いスタジオがあり、そこでは、初 心者の人がインストラクターにマンツーマンで教わっていた。 別の奥の部屋では、中級者たちが
グループレッスンを受けていた。教えている内容は裕子さんが教えているステップに似ていた。俺 も、この国にしばらく住んで、スペイン語でレッスンを受けたいと感じた。
その3:フィッシング〜旧市街
次の日は、Deep Sea Fishingに出かけた。 ホテルのツアーデスクの
おばさんに、PR の海 はメキシコ湾とかと違い、大西洋なので、揺れるから覚悟しておいた方がいいと言わ れて いたため、酔い止めの薬を飲んでいった。
ボートのキャプテンはPR人もこんなに時間に 正確なのかと思わせる人だった。どうせ 多少 遅れるだろうと思っていたが、いちいちこれこれしかじかの準備をしているの
で、あ とこのぐらい待ってくれと言いにくる。この時期はブルーマリンが釣れるらしかっ た。俺 としてはでかいのよりも、カツオでも釣って刺し身にして食べたかったが。
残念ながら、午前中に4時間ほどトライしたが、まったく食いつきもせず、釣果 はゼロであった。数年前、メキシコのカンクンで釣りに行った時は、かなり大きなやつが釣れ、
同じ 程度に釣れることを期待していたが、途中から降り始めた小雨のお陰で、最後は もう どうでもよくなった。
午後はOld San Juanの観光に出かけた。まずは、Fort San Cristobal(サン・クリストバル 要塞)を見学した。ここは1771年に作られた要塞だ。トンネルが縦横に走っていて、
こう いうところで、拷問だとか、いろいろと血なまぐさいことが起こったのかと想像 させ る。 ここで、松葉杖をついて、肩にはオウムをとまらせ、片手にはラムのボトルを持った
海賊 の小さな金属製の人形が売っていた。なかなか良いできだったので、小さいくせ に$ 14もしたが、思わず買ってしまった。
この海賊人形の国籍は一体、どこなのだろ うという素朴な疑問が浮かんできた。それに、幼い日に読んだ「ロビンソン・クルーソ」や「15人 少年漂流記」などを思い出させた。後で本を読んでみると、カリブの海賊というのは、
以外にも、スペイン人ではなく、イギリス人がメインだったらしいのだ。イギリスというと紳士の 国と言われているが、海賊行為までしておきながら、世の人に紳士の国と呼ばせる何
かがあの国にはあるのだろうか?
当時、南北アメリカ大陸の大部分はスペインに支配され ていたわけだが、あまりにも植民地が広い為、完全には掌握できていなかった。新世 界における植民地政策に関して、スペインに遅れをとっていたイギリスでは、海賊船に商人
や皇室までが出資し、ペルーなどより銀を輸送するスペイン船を襲わせていたらしい。こ のような海賊行為が、産業革命前のイギリスに富を蓄積させる手段のひとつであったら
しいのだ。また、ロビンソン・クルーソが漂着したのは、南米大陸北部に位置するオリノコ 川沖という 設定になっているらしいが、これも、イギリス全体がカリブ・南米に熱い目を向けていた
時代に乗っかるためだったのかもしれないとのことだ。 それにしても、あの当時、船であんなに 遠出をすること自体、命懸けであり、 なおかつ、海賊行為や奴隷売買まで行って、リッチになろうなんて、考えること自体、
他人を踏み台にして成り上がろうとする行為であり、許されてはならないことである が、その意志の強さには見習うべき所があるのかも知れない。
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