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ルイス・ペリーコ・オルティス/Luis Perico Ortiz

ルイス・ペリーコ・オルティスはカリブのリズムのエッセンスを尊重しつつ、今までにないジャンルや新しい音とのコラボにより新時代を切り開き、新世代の音でサルサという新しい音楽を作り上げた重要な位置を占めるアーティストだ 。ウイリー・コロンやエディー・パルミエリ、そして彼のようなプエルトリカンのアーティストたちなくして、サルサがという音楽が出来る事はなかったろう。

サルサ・ファンに新鮮な衝撃を与え、大ヒットしたルベン・ブレイズとウイリー・コロンの「パブロ・プエブロ」のアレンジから、今日まで常に新しい挑戦を続けている。



→ルイス・ペリーコ・オルティスの作品一覧はこちら

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ルイス・エステバン・オルティス・ルイス(Luis Esteban Ortiz Ruiz)は1949年12月26日、プエルトリコのサンファンの下町サントゥルセのトラスタジェーレス生まれ。 その後、グアイナボのカッパラ・テラスとムニョス・リベラあたりの住宅地で育った。


彼の音楽人生は父親のエスティバン・オルティス・リベラによって決定付けられたと言っても良いかもしれない。エステバンはロマンティックなボレロを歌うトリオのギタリストで当時から一流ホテルだったカリベ・ヒルトンで演奏するようなグループのメンバー。その為、ペリーコが5才の時からギターを手にする事になり、彼の音楽・芸術への興味がスタートした。

「父はきちんとした人だった。"ボヘミアン"で、ギターを弾き歌うのが好きだった。 ミュージシャンの友人がたくさんいて、家にはフェリペ・ロドリゲスミゲル・"エル・チノ"・アルカイデラファエル・イティエールマルティン・キニョーネスなどがやってきてはバルコニーでラムを一杯やりながらおしゃべりしてたよ。バルコニーの奥には僕の部屋の窓があり、彼らの話し声を聞きながら眠ったものだ」とペリーコは語る。



10才の時、アト・レイにあるエスクエラ・リブレ・デ・ムシカ(音楽学校)"Ernesto Ramos Antonini"に入学。トランペットを始める。

その頃、やりたかった楽器はサックスだったという。「メレンゲを演りたかったし、エディー・ペレスがコルティーホのところでやってたヒット曲をやりたかったんだ。」。

ペリーコというニックネームは彼がコルティーホとイスマエル・リベラの大ヒット曲"Quitate La Via Perico"が好きでよく吹いていたためだという。
YouTubeでCortijoの"Quitate de la Via Perico"を見る。


そしてペリーコは幼なじみのホセ・セペーダとともにロス・エストゥディアンティレスに参加。

「ホセはマヌエル・A・ペレス団地に住んでて、僕らは彼の家で練習した。そのグループの後、僕らはフェリックス・クルースというトレス弾きのバンドに入りトランペットを吹いた。12才頃だ。そしてロス・インペリアスル・ボーイズに引き抜かれて、ティト・ロドリゲスやコルティーホ、エル・グラン・コンボの曲などを演奏した。

この頃、プロとして最初の一歩を踏み出す。オルケスタ・チャコン(Orquesta de Chacon,)のトランペッターとなり、ナイトクラブ"Armandos High Way"で働く。週に6日、夜11時から翌朝の6時まで働き週70ドルを稼いでいた。このバンドで初録音"Chacon: Su orquesta y su sabor" (1965)も行った。


プエルトリコ音楽院
そして1966年、16歳のときそこを卒業してプエルトリコ音楽院(コンセルバトリオ・デ・ムシカ・デ・プエルトリコ)に進む。

音楽院に在籍中、クラシックの世界的チェリストとして有名なパブロ・カサルスにも教えを受けた。 カサルスは1960年、プエルトリコに移り住み、亡くなるまでプエルトリコの音楽教育に尽くしている。

そんなカサルスをペリーコは一度悩ませたことがあるという。オーケストラの編曲の試験の時、ボンバとプレーナのリズムを織り込んだのだ。これにはさすがの大カサルスも頭をかかえたとの事。意欲的なアレンジに挑戦するペリーコの面目躍如なエピソードだ。
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音楽院で学ぶと同時に、カグアスで活躍するラファエル・ブラセロ(Rafael Bracero)のバンドに加入、 「ここではしっかりしたオーケスタのマネージメントについて色々と学んだんだ」

そして、1967年、名門オルケスタ・パナメリカーナ(la Orquesta Panamericana)に参加。なんと17才の時だ。

「このリト・ペーニャのオルケスタに入って殆どのTVの音楽番組には出たよ。トミー・ムニス(Tommy Muniz)の "El show del mediodia", "Los genios" とか "Ja, ja, ji, ji, jo, jo"とかね。 それからカルメン・ヒメネス、ヨランディータ・モンヘとか色んなスターたちの伴奏もね」2、4、11チャンネルの色々な局を掛け持ちし、週に37もの番組をこなしたという。

オルケルタ・ミゲリート・ミランダ


同時に、夜はマリオ・オルティス(Mario Ortiz)のオルケスタにも参加、その後ミゲリート・ミランダ(Miguelito Miranda)のバンドに入る。こうした活動の中、彼の名前が売れてくると、エドニータ・ナサリオルセシータ・ベニーテスダニー・リベラロベルト・ロエナトミー・オリベンシアなどの売れっ子のアレンジも手がけるようになる。

加えてリッチー・レイエル・グラン・コンボからも誘いを受けたが、さすがにトランペッターには命の唇がもたないので断ったとか。

こうして20才の時、ペリーコは既にプエルトリコの一流バンドでの地位を手に入れてしまい、何か次のステップの必要を感じていた。
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「当時の夢は島を出て音楽家として成長することだった。自分の名前がマジソン・スクエア・ガーデンに掲げられたいと思って、それでそれまでのすべての仕事を捨て、ニューヨークに行ったんだ。モンゴ・サンタマリアのところへ。1970年だった。」

こんな風にしてペリーコは身一つで、そして夢を抱いてニューヨークに到着した。幸運なことに空港の出口でペリーコは旧知のイシス・フェリウにばったりと出合う。彼はオルケスタ・パナメリカーナの時のベーストで、その時はニューヨークでティト・プエンテのバンドにいた。


「これがNYとの最初の出会いだ。僕はモンゴ・サンタマリアと会いたかったんだ。それでイシスはティト・プエンテとの仕事でイタリアン・クラブに行く前に、モンゴの息子でブロンクスに住んでいたピアニストのモンギート(Monguito)を紹介してくれたんだ。

で、クラブへ行ったら、今度はグループのトランペッターだったトニー・クロフェシ(Tony Crofesi,)が偶然これなくなった。それでイシスは音楽監督のジミー・フリサウラ(Jimmy Frisaura)に僕を紹介し、その日のステージに推薦してくれた。おかげで僕はティト・プエンテのステージ吹くことができたんだ」

"Pa'lante/Tito Puente (1970)


こうしてニューヨークでペリーコは一流のラテン音楽家の世界に入る完璧なパスポートを手に入れた。そしてまたモンギートによりモンゴ・サンタマリアにも会うことが出来た。

「彼の家に着いてドアをノックした。そして自己紹介して名刺を差し出したんだ。その時の出会いからプロとしての関係も始まったんだ」

モンゴと知り合った後、ペリーコはプエルトリコに戻りジャズ・グループ" The Chosen People"を結成する。しかしこのグループの活動は短期で中断。それはNYからのオーディションの誘いだった。


「(モンゴ・サンタマリアのプロデューサーである)マーティー・シェラーが僕を呼んだんだ。というのはモンゴのバンドのトランペットのレイ・マルドナードがやめることになったから。僕はニューヨークに飛びオーディションに飛び込んだ。で、スーツケースを開いたらな、なんどトランペットもマウスピースがなかった。でレイから楽器を借りて演奏したんだよ。」

その瞬間ペリーコのジャズへの扉が大きく開かれた。オーディションに受かったペリーコはモンゴのグループで1974年までプレイする。ファニア製作の映画"SALSA"にもモンゴと参加。この時期はサルサが一杯に開花していた時代でペリーコも多くの知己を得る。その一人がジョニー・パチェーコで彼の為に様々な曲をアレンジする。

またモンゴのグループでのプレイと平行して、フランク・ギィジョ"マチート"アンヘル・カコ・バスターティト・プエンテなどとも演奏した。カコとの仕事は彼にバタなどサンテリアに関わる音楽の影響も受けた。

まだ彼の名声が高まる前のこの期間、多くの演奏旅行で腕を磨いていったが、モンゴのバンドを去る日がやってきた。

「イギリスの演奏旅行から帰ってきたらね、娘が僕の事を覚えてないんだよ。ずっと働いてて家族とすごす時間がなかったからね。で、生活のペースを変えようと。」

そして、クラウディオ・ロドリゲスに後を託してファニアのプロデューサーとアレンジャーとして働くことを決意した。
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ペリーコのファニアへの参加は70年代という時代に対する新世代からの音による主張という意味をなしていたと言える。

それまでサルサは基本的にカリブの音(主にプエルトリコとキューバ)を元に50年代の(主としてプエルトリコ)移民とその子供たちのリズムと音という文化をベースに出来上がっていった。 一方で、 70年代中盤以降はラテン・アメリカの人々が新しい息吹を求めた時代で、それは時代のリズムが吹き込まれたサルサの音にも呼応している。

こうしてルベン・ブレイズウイリー・コロン"Pablo Pueblo"は生まれた。この曲はサルサの歴史の中で初めてセミ・クラシックなインタールードを挿入し、チューバをダンス音楽に使うなどとても斬新なものだ。そしてその後の"Plastico"。ソウル風のベースラインのイントロで始まり、リスナーが何打?と思う中、ようやくカリブ・フレーバーのトランペットが流れ出す。

70年代末のサルサの中に見えるアメリカからのハーモニーの概念はラファエル・コルティーホイスマエル・リベラロベルト・ロエナエル・グラン・コンボなどが作り上げたリズムと出会い、ペリーコによってその時代のラテン・アメリカの人々の気持ちや感性を見事に捉えたのだ。


ファニア/インカでのプロデューサーとしての仕事の一つトミー・オリベンシアのプロデュースは、この意味でもとても重要だ。オリベンシアは60年代初頭、NYがまだブガルーやチャランガのヒットに沸いている頃から、プエルトリコで「サルサ」といえる音を作り上げていた。それは、プエルトリコを軸にカリブの音を抱合したしたような音だ。

名盤「プランテ・バンデーラ」がペリーコによってプロデュースされ完成したのは偶然ではない。プエルトリコの「感覚と汎カリブ、汎トロピカルな感覚をすでに持っていた両者が響きあった為だからだ。これ以降、ペリーコはオリベンシアの7枚をプロデュースしており、どれも素晴らしい出来である。

またニュー・ヨークに在住の間チャランガ・イデアル(La Charanga Ideal)、オルケスタ・ブロードウェイ(la Orquesta Broadway)ほか多くのプロデュースを行い多忙な日々だった。


ファニアで働いた9年間にエストレージャス・デ・ファニアの一員として、海外公演も多くこなし、ヨーロッパ、アフリカ、そして1976年、日本でもコンサートを行っている。 しかしそんな活動の中、自分のオルケスタで音を作りたい気持ちが徐々に高まってきた。
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「ジェリー・マスッチに言ったんだ。ソロでやりたいって。でも彼は興味をしめさなかった」

ペリーコは既にLatin Percussionレーベルから"My Own Image" (1977)をリリースしていたが、1978年、ヴォーカルにラファエル・デ・ヘススを擁した初のサルサ・アルバムを発表。"Super Salsa"だ。 この作品はとロマンティックなトーン、リズムとハーモーニーで今までにないフレッシュなサウンドを作り上げてヒットした。

「僕はオルケスタの音、そしてそれを大きく響かせるのが好きなんだ。。それは繊細なエネルギーを表現するものでウイリー・コロンやエディー・パルミエリなどのハードコアとは違うタイプのものだ。僕の音楽を聴いてもらえばそこには静かな対話があるのが分かると思う。」


彼の最初のヒットは"Super Salsa"の中から"Julian del Valle" (1978)だ。そして翌年の作品 "One of a Kind"からの "De patita"と続く。

→YouTubeでコンサートを見る/Luis Perico Ortiz y Rafael de Jesus-Julian Del Valle

そして次の作品は "El astro" (1980),この作品から ロベルト・ルーゴ(Roberto Lugo)がボーカルだ。サウンドはより分厚く、バンド・カラーだったリリカルなトーンから離れ70年代初頭のソノーラのような音に変わってくる。次作の"Sabrosos"(1981)でも"Bohemio"などがヒット。斬新で繊細な音はサルサの新世代の音といっていいだろう。

→YouTubeでコンサートを見る/Luis Perico Ortiz "Bohemio"

ロベルト・ルーゴの時代は5年間に4枚の作品を発表。その最後が "El Isleno" (1984)でドミンゴ・キニョーネスも起用しており、彼は次の作品のメインボーカルとなる。


そのドミンゴのその新鮮な声がグループを特徴付けて行く。 "La vida en broma" (1985), "In Tradition" (1986)。

この"In Tradition"でペリーコはシンセサイザーを導入する。ロックの要素でオルケスタの音を広げるなど、カリブのオーセンティックな音の上に様々な試みを重ねてゆく。

そして "Breaking the Rules" (1987)の発表。 ここでは、タイトルの通り、かなり挑戦的な音作りで48チャンネルの録音機器を使いデジタルな音を果敢に融合させている。
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この時から、ペリーコはオルケスタの演奏活動から一歩引き、自分のスタジオでの制作とプロデューサーとしての活動に集中する。それは1990年、"Vuelvo otra vez"のリリースまで続く。

この作品にはビリー・カリオン(Billy Carrion,)をメイン・ボーカルにヒルベルト・サンタ・ロサラファエル・デ・ヘススアレックス・デ・カストロがコロで参加。

このアルバムを発表した後、ペリーコはラテン・ジャズの世界に戻る。"At Valley Cottage" (1990), そして "The Man, His Trumpet and His Music" (1991)を発表。


一方サルサのエリアでは、1995年にはRMM・オールスターズとも言うべき"Combinacion Perfectaに参加し。ファンを沸かせた。

→YouTubeでコンサートを見る/Recordando a Louie- RMM Combinacion Perfecta


またペリーコはラテン・ジャスをコンスタントにプロデュースする一方で、2003年11月にはサルサの"Puerto Rican Master"をリリース。過去30年シーンの歩みを纏めるような作品だ。


今年3月にはプエルトリコで毎年行われる「サルサ国民の日/Dia Nacional de la Salsa」の大コンサートに出演、ラファエル・デ・ヘスースロベルト・ルーゴをフロントに配し、モントゥーノの部分ではダビド・サンチェス(ts)やカチェーテ・マルドナード(cajon)なども参加したデスカルガで観客を大いに沸かせた。
→コンサート・レポートはこちら

→YouTubeでコンサートを見る
また今年8月にはカロリーナで行われたChico O'Farillに捧げるジャス・フェスティバルでLatin Jazz BigBandを率いるなどしている。

また2年前からは音楽を学ぶ若者ののための奨学金基金「Beca Luis Perico Ortiz y Amigos」を立ち上げ、同時にプエルトリコ音楽院で教育やStage Band del Conservatorioの指導も行うなど、演奏と平行してエネルギッシュに活動を続けている。

2007年8月には"Cristo Esta En Victoria"をリリース。9月には来日して赤木りえのコンサートに参加する。これからもどんな音を聞かせてくれるか楽しみだ。



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