ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。
何度もけたたましく呼び鈴が鳴らされ、憮然としながら泰明は玄関に向かっ
た。
「はい、なんでしょうかっ?」
苛つきながらも一応来客なので丁寧語で出るとそこにいたのは泉水と出か
けている筈の茉莉だった。
「北山?」
「泰! 泉水はっ?」
茉莉は焦燥と苛々の入り混じったような表情をしている。
「一緒に遊びに行ったんじゃなかったのか?」
「だって、いくら待っても来ないんだもん! 携帯も通じないし! 体調悪くて連
絡できないのかと思って一応様子見に来てみたんだけどさ。違うの?」
嫌な予感がした。背筋を冷たい汗が伝う。
そういえば今日は朝から泉水は様子がおかしかった。
「北山、どっかあいつが行きそうなとこは?」
泰明が靴を履きながら茉莉に尋ねた。
「ちょっと待ってよ。泉水、もしかして行方不明ってこと?」
「まだ決まったわけじゃねえよ。でもとにかく見つけなきゃ」
「……私、他の友達にも連絡とってみる」
茉莉が携帯を取り出した。
「何かあったらこっちにも連絡してくれ。俺の番号わかるよな?」
「おっけ」
泰明は自転車に乗るとスピードを上げて坂道を下っていった。
「泉水、無事でいろよ」
もう少し気をつけていれば、と後悔ばかりが自分を責め立てる。
「もし。あいつに何かあったら………」
泰明は唇を噛みしめながら泉水の足取りを追った。
泉水が出かけてからもう二時間以上経過している。どれくらい遠くまで行った
のか見当もつかない。
もう少しで踏み切りを越えるというところまで走ってきた時、携帯が鳴った。茉
莉からだった。
「どした?」
「泉水を見たって子がいたの」
「場所は?」
「江ノ島の近く。なんだかわかんないけど逃げるみたいに走ってたって」
「わかった」
泰明は携帯を切ると教えてもらった目撃場所へ向かって全速力で自転車を走
らせた。
やっと探し当てた頃には陽が傾いて見渡す景色にも薄墨が広がっていた。
泉水は大きな桜の幹にもたれかかるようにして倒れていた。
「泉水っ!」
茉莉が血相を変えて駆け寄った。泰明も自転車を止めるのももどかしく置き
捨てると立ち入り禁止の看板を無視して走った。
「北山! 泉水はっ?」
「どうしよう。起きないよ」
いつもは強気が売りの茉莉が気弱な顔で泰明を見上げる。泰明は慎重に泉
水を抱き起こすと軽く肩を揺さぶった。
「泉水? 聞こえるか? ……泉水?」
「う……」
弱々しい声が薄く開いた唇から漏れた。瞳がゆっくり開き、不思議そうに目の
前の二人を見つめた。
「泉水!」
茉莉が泉水に抱きついた。
「よかったぁ。心配したんだからね!」
「え? え? 何? どしたの? 私……?」
現状が把握できずおろおろしている泉水に泰明も安堵の息をついた。
「大丈夫そうだな。……立てるか?」
泰明が手を引っぱって立たせてやると泉水はよろりとしながらもなんとか立ち
上がった。
申し訳なさそうにしている泉水に茉莉は気遣うように優しく笑んだ。
「気にしなくていいから、今日はゆっくり休むんだよ。またいつでも遊びに行ける
んだから」
「うん。……ごめんね、心配かけちゃって」
「じゃ。北山も気をつけて帰れよ」
「あいよ。じゃね」
三人はそれぞれ言葉を交わして家路に着いた。
「泉水」
自転車を押しながら歩いている泰明がふいに口を開いた。
「何?」
「今日は……ごめんな」
意外な言葉を聞いたように泉水は首をかしげた。
「どうして謝るの?」
「だって。俺がもっと気をつけてればこんなことにはなってなかったかもしれない
だろ。だから……ごめん」
責任を感じている風の泰明に泉水はにっこり笑った。
「大丈夫だよ。私はちゃんとこうして無事なんだもん。ありがとう」
罪の意識さえ払拭してしまいそうなその笑顔に泰明はほっとし、はにかんで笑
った。
助けて!!
「っ?」
泰明はびくっとして後ろを振り返った。遠くからでも黒く桜の樹のシルエットが
臨める。
「どしたの?」
泉水も驚いて一緒に後ろを振り向いた。やはり桜が見えるだけだ。
「いや、なんでもない。たぶん勘違い」
「そ? 変なの」
くすくす笑いながら泉水は泰明と並んで家路を歩いた。
夜風に揺られ、桜の枝が大きくざわめいた。
そのひときわ大きな桜の傍で小柄な少女が小さな声ですすり泣いていた。身
体が透き通っていて背後が透けて見える。
「助けて………」
その少女は泉水だった。
泉水の魂魄は完全に桜に縛りつけられていた。まるで人柱のように。
「人柱」という風習がある。
天災や難工事の際、神の心を和らげる為という名目で生きた人間を贄とし、
水底に沈めたり土中に埋めたりする、いわゆる因習である。
「人柱に、ですか?」
「左様。紫が選ばれた。選定の為の桜の前を通ったのだ」
何も言えなかった。
「よって、おまえとの婚礼の話は白紙だ。よいな?」
「…………はい」
安倍 深苑は浮かぬ顔で席を立った。
「紫………っ」
深苑は自らの無力さに拳を握りしめた。
ここは陰陽寮である。陰陽師たちが日々修行を重ね、暦や天候を読み、吉凶
を占う。深苑ももちろん陰陽師である。但し、それほど能力はない。人並みだ。
先日任された鎮めの儀式も上手くいかなかった。
工事をする度怪我人が出るというので海の見える丘の上に祭壇を設け、何
人もの陰陽師で祝詞を上げた。が、効力はほとんどなく、結局「人柱」という最
悪の手段をとることになった。選定手段は簡単。橋の傍の桜の下を最初に通っ
た生娘を贄とする。
そして、深苑との婚礼を間近に控えていた紫が運悪くその桜の下を通ってし
まったのだ。
逃げようとしたものの役人に力ずくで捕らえられ、人柱として埋められるまで
陰陽寮で軟禁という形がとられた。
座敷牢のように締め切られた一室に紫はいる。なんとか一陰陽師としての
謁見を許され、深苑は座敷に入った。紫は憔悴しきった顔で深苑を見つめた。
「紫、すまない」
人に会話を聞かれてはまずいので声を押し殺しながら深苑は紫に頭を下げ
た。
紫はゆっくり首を横に振り、深苑の両手を握った。
「紫?」
深苑の手に小さな水晶の欠片を握らせ、紫は涙をいっぱいに溜めて微笑ん
だ。
「深苑様。紫を、忘れないでくださいませね」
監視の目がなければ抱きしめていた。明日には死んでしまうこの娘をどうす
ることもできない自分に悔し涙が流れ、拳にも畳にも雫がぱたぱたと音を立て
て落ちた。
目を覚ました泰明は濡れている頬を手の甲で無造作に拭った。
「何だ、ありゃ」
全く知らない人間ばかり、自分は一度も出てこない、そんな物語か何かのよ
うな夢を見ながら涙を流していたとはどういう了見なのか。
泰明は枕もとの数珠を手にとってみた。この数珠にも水晶が申し訳程度につ
いている。父・泰継が言うには霊力あらたかな数珠らしいが、泰明から見れば
年代ものの古ぼけたただの数珠である。
「ま、ただの夢だよな」
泰明はひとつ欠伸をするとのろのろとベッドから這い出した。
階段をだるそうに降り、居間へと続く縁側の廊下を行くとその先に桜を見上げ
る泉水がいた。いつもの明るい子供のような泉水ではなく、どこか悲しげでむし
ろ儚さすら感じられた。
「泉水……」
声をかけることすら憚られるようで泰明は名を呼ぼうとして口ごもった。それに
気づいた泉水は陽炎のような危うさでゆっくりこちらに首をかしげ、柔らかく微笑
んだ。
「おはよう、泰明」
今まで見たこともない静かで穏やかな笑顔に泰明は一瞬どきりとした。
「どしたの? ぼーっとしちゃって」
泉水は可笑しそうにくすくす笑う。これはいつもの泉水だ。
「なんでもねーよっ。ぼけーっと桜なんか見てるから昨日の後遺症でも残ってん
のかと思っただけだよ」
泰明は動揺を打ち消すように悪態をついてみせた。
「へぇ、心配してくれてたんだ」
「おい、二人とも。飯だぞ、さっさと座れ」
父・泰継の声に二人はいつものように食卓についた。
桜は血をすするのだなどという俗説があるが、自分の短い生涯の中でこの言
葉を呪わしい程意識することになるとは紫自身思ってもみなかった。
何も知らず通りかかった桜の前で訳もわからず捕らえられ、人柱として埋めら
れた自分の上にはまるで冗談か皮肉のように桜の木が植えられた。
人々はその桜を崇め、霊魂を慰めるようにと傍らに小さな社を建てた。
毎年春になると桜が咲き、風に舞って散っていく。
紫は何度も見たこの光景が、自分から全てを奪いとっていったこの忌まわしい
木が、悪寒が走るほど大嫌いだった。
が、自由を得た今。何事もなく桜を見上げ、美しいと感じている自分に気づき、
その現金さに苦笑した。
あの場所から離れたいとずっと願っていた。
離れるより先に社を壊されたことには怒りを感じたが、今となってはそれもどう
でもいいことだった。
やっと自由になれた。何百年も望み続けたことだ。
「……何の為に?」
ふと紫は考えを巡らせた。
頑なに思いつめていた想いは長い年月の間にその目的をすっかり曇らせてし
まっていた。
「ったく。調子に乗ってしごきやがって。くそ親父」
近づいてくる玉砂利を踏む足音。
顔を上げるとそこには見覚えのある衣装を身につけた少年の姿があった。
「深、苑………」
思わず涙が零れ落ちた。が、それは嬉しい涙などではなかった。
嗚咽が漏れそうになった口を手で押さえると紫は泉水の部屋だという場所へ
駆け込み、布団にくるまって自らの身体を抱きしめ、がちがちと震えながら泣き
出した。
込み上げてきたものは恐怖。
桐の樽に押し込められ、土中深くに埋められる。
それは暗く孤独で。愛しい深苑を想って泣きながら紫は一人で死にゆく恐怖
に押し潰されていった。
陽は昇ったのか沈んだのか。何日くらい経ったのか。生きながらにして紫の
時間は止まってしまっていた。まるで生者の世界から置いてきぼりにされたよ
うに。やがて、本当に止まってゆく紫の心臓。呼吸。
気がつけば、紫は霊魂として地上に姿を現すことができるようになっていた。
但し、この地に捧げられた贄として地縛されている為、動くことはできない。
桜が舞っている。
紫は深苑を待っていた。ここに逢いに来てくれるのを待っていた。
あの日。水晶を手渡したあの日。深苑はすまないと言って泣いた。
きっと逢いに来てくれると信じて待っていた。
季節が過ぎる。緑が映え、紅葉が舞い散り、雪が地面を白く埋めた。そして
また春が来る。その繰り返しを紫は何度も見続けた。一体何度見たことだろう。
際限なく過ぎる時間。どれだけ待てば逢えるのだろう。
「紫を、忘れないでくださいませね」
約束の日を思い出しては呟き、果てのない時間に恐怖を覚え、叶わない絶
望に涙が零れた。
「泉水! 泉水! どうしたんだよ、大丈夫か?」
布団の向こうからあの少年の声が聞こえる。
「おい!」
無理矢理布団を剥がされた紫の目には深苑と同じ衣装を着た少年が心配
そうに見つめている姿が映った。
「え……?」
泣いていることに驚いたのか。一瞬躊躇する少年。
深苑がこうして迎えに来てくれるのをずっと待っていたのに。
どうして目の前の少年は深苑じゃないのだろう。
「どうして……。どうして………っ」
「泉水、何言ってんだ?」
どうしても涙を止めることができなかった。土の中の冷たさを思い出したせ
いか。それとも救ってくれたのが深苑じゃなかったことへの悲しみか。
「あ……」
少年が突然子供をあやすように紫を抱き寄せた。
「大丈夫だから。もう泣くな。な?落ち着くまでこうしててやるから」
どうしてこの少年が深苑じゃないのだろう?
紫は泰明にしがみついて声をあげて泣いた。
読経の声が響く。
紫が小さな樽に押し込められ、蓋を閉められた上から土がかぶせられてい
く。
自分をこれほど呪ったことはなかった。これが自分の無力さと奥歯を噛みし
め、儀式をただ眺めていた。右手に紫からもらった水晶の欠片を握りしめなが
ら。
紫のすすり泣く声が聞こえる。深苑にはもうこれ以上耐えられなかった。
束帯姿の群れをすり抜け、儀式から遠ざかる。読経の声がまだ小さく聞こえ
るが、現実から切り離すには充分だ。深苑は人気のない木陰に隠れ、小刀を
抜いて首筋に当てた。少し力を入れて引きさえすれば自分も死ねる。
ぐっと指に力を込めた瞬間、その手に何かが触れた。振り向くとねずみ色の
頭巾をかぶった老尼僧が深い慈愛を湛えた微笑でゆっくりと首を横に振った。
死んではならぬと。
それはまるで仏の御言葉を聞いたようだった。
差し延べられた手に触れた深苑はそれまで堪えてきた嗚咽を耐えきれず漏
らした。誰に言うこともできなかった想いを、尼僧を前にして溢れるように留め
おけなくなった感情を、一度に吐き出して情けないくらいに泣いた。
「ん……………」
やはり涙が流れている。
泰明はさっきまで見ていた夢を注意深く反芻してみた。
自分は全く出てこないのに、物語のように展開され、違う人物の視点から周
囲を見る夢。
「何が言いたいんだ? ったく」
訳がわからず、苛立ちで髪をかき上げくしゃくしゃにした。
確かに何度か霊が何事かを訴えようと脳内にイメージを送ってくるという事例
はあった。しかし、今回においてはどうすればいいのかがまるでわからない。
ふと、泰明は自分の数珠についた水晶を眺めた。前の夢も今日の夢も水晶の
欠片が出てきた。それは何か象徴的なもの。
今までは何もなかったのに。
泰明は寝ぼけ眼で首を傾げた。
不安にさせる。
紫は丘の下に広がる町を眺めながら深苑のことを考えていた。
何故、ここに来てくれないのだろうか。
病気だろうか。怪我で動けないのだろうか。それとも………。
「いや……っ!」
紫は否定しようとかぶりを振った。
何度も打ち消してきた。だが、もう何度数えたか判らない季節の巡りが紫の
思考を完全に喰らい潰していた。
深苑が自分のことなどとうに忘れ、他の女と所帯を持っていたのだとしたら?
子供ができて、何も知らない顔をして笑って暮らしているのだとしたら?
「いや……ぁっ!」
激しくかぶりを振るが拭い去ることができない。問いただしたくても動くことす
らできない。猜疑心はやがて激しい憎しみへと姿を変える。
「深苑…深苑………」
深苑に愛される筈であった身体を、指を、唇を、紫は意識した。
自分が受ける筈であった全ての恩恵を深苑は他の女にくれてやっているの
か。
死んだ女のことなど。不要なものは記憶から都合よく消し去ってしまえるの
か。
愛しているとはよく言ったものだ。
吹けば飛ぶようなその言葉を信じていた自分の愚かさに紫は声を押し殺し
て泣いた。
「お慕い申し上げております。深苑さま……あなたを殺めたいほどに」
ここから離れることができれば深苑の元へ行くことができる。
人柱が必要だ。自分の代わりとなり、身体を提供してくれる依代が。
この日から紫は通りかかる娘を迷わせ、誘い込み、殺し始めた。
本当は身体が欲しいのだが、のうのうと何の苦しみも知らずに生きている娘
を見るとつい力が入りすぎて殺してしまうのだ。
死体は桜の下へ引きずり込む。桜は娘の血肉をすすって美しい花を咲かせ
る。
町では神隠しだと大騒ぎになっていたらしいが紫には知ったことではなかっ
た。
まず、自分が自由になることが必要なのだから。他人の命など、自分が受け
た苦痛に比べればたやすい。
いつしか紫は深苑を殺める日を待つようになった。
神にもなりきれず、成仏もできず、降りつもる業の中で、ただ待ち続けた。
何度も夢に見た。
毎日思い描いていた。
驚く深苑の恐怖にひきつる顔を。
深苑の真っ赤な血に染まる自分の手を。
「あ……」
気がつくと紫の指から血が流れていた。どうやら包丁で指を切ってしまった
らしい。
浅く切った割に出血量は著しく、それは指を伝って手首に流れ落ちた。
まるで、あの夢を連想させる。
「おまえ、何やってんだ?」
泰明が流れ落ちる血を見て呆然としている紫に一喝した。傷口を確かめる
泰明の指に血液が付着する。
「え……?」
「ぼけっとしてないで止血くらいしろよ」
救急箱を持ってきてさっさと手当てを始める。
「最近おかしいぞ、おまえ。あんまり世話かけさせんなよ」
口調ははねつけるような言い方なのにこの少年は優しい。
指が触れるとその場所が熱を帯びるような錯覚に陥る。もっと触れてほしい
と感じる。確かにおかしいのかもしれない。
泰明は優しい。
この身体の持ち主を大切にしているのがよくわかる。
あの桜の下にも助けにきた。
昨日も泣きじゃくる自分の話を聞いてくれた。
泉水が羨ましい。
どうして、私は助けてもらえなかったのだろう。
どうして、私だけ忘れられてしまわなければいけなかったのだろう。
どうして、深苑は 。
「泰明………」
「はい?」
「ありがとう」
泰明は溜息をついて苦笑いした。
「へぇへぇ。仕方ねえから夕食つくんの手伝ってやるよ。どこまでできてんだ?」
怪我した指を気遣って何も言わずに傍にいてくれる。
この少年が深苑だったらどんなによかっただろう。
愛したい。触れたい。この身体で。
紫の時間を神が奪ったのなら、この少女の残りの時間を私が奪っても誰も
きっと文句は言わない。
きっと、誰も。何も言わない。 |