「紫………」
深い念。
「紫………」
呼ぶ声。
祭壇には蝋燭の灯燃ゆる。揺らぐ影。しんとした部屋の白壁に映える。
手には数珠。そして埋め込まれた水晶の欠片。
「それは……」
それには見覚えがあった。
泰明はがばっと頭を上げた。どうやらうたた寝をしていたらしい。
「見えた? でもこれが一体……?」
父からもらった数珠。由来は聞かなかったが名前だけは教えてもらってい
た。
これは”シキの数珠”だと。
「春夏秋冬の四季、じゃないのか?」
幼い頃からずっとそう思っていたのに。何かが違う。
泰明は語る筈もない数珠をじっと見つめていた。
「帰ったぞ」
玄関ががらりと開いた音がし、泰継の疲れきった声が聞こえた。
「おかえり」
居間に辿り着きざまぐったりと座り込んだ父に泰明は一応の挨拶は述べた。
「今日、あの場所のお祓いだったんだろ?相当ひどかったみたいだな」
泰継は深く溜息をつくと口を開くのもだるそうな口調で話し始めた。
「あの土地は業が深すぎる。根っこは人柱の風習か何かだな」
”人柱”という言葉に泰明は一瞬びくりと身体を震わせた。
「神隠しなんて言われてきたがとんでもない。蓋を開けてみればあの場所一帯
が墓場みたいなもんさ。若い娘の無念や恐怖が凝り固まって、成仏もできず
にいる。哀れなものだ。念の為に霊が指し示す場所を掘ったら人骨がわんさ
と出てきたよ。不思議なことに年代もばらばらな骨がひとつところに、桜の根
元に埋まってるんだ。社を建てていたことで今まではいろいろなものが抑えら
れていたのだろうな」
「それ全部、祓ってきたのか」
泰明はその仕事量の過酷さに顔をしかめた。
「仕事だからな、やらねばなるまい。で、ちょっとびっくりするものを持って帰っ
てきた」
「え?」
「泉水だよ」
「はあっ?」
泰明は父を怪訝な表情で見つめた。
「こないだ、あの場所に行ったんだろ?」
「あ、ああ」
「あの桜の木に泉水が磔にされていたんだよ。気づかなかったのか?」
「あ………」
助けて!!
帰り道で聞いたと思った空耳を思い出して泰明は愕然とした。
「大方、泉水がいなくなったことで気が動転しておったんだろ? だからこういう
簡単なことを見落とすんだよ」
泰継はあくまで冷静そのものである。
普段はただのオヤジのくせに、やはりかなわない。
「じゃ、今いる泉水は?」
「あの場所に地縛されていた親玉だろ。さ、どうする?」
まるで挑戦するようににやりと泰継は笑う。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
「何だ?」
「この数珠の名前、教えてほしいんだ」
「名前?」
泰継は不思議そうに息子を見つめた。
「シキの数珠ってのは知ってる。シキって何ていう漢字を使ってるのかが知りた
いんだ」
泰明が真剣に頼み込むのを見て泰継はおもむろに立ち上がると自室へすた
すたと歩いていった。やがて戻ってきた泰継の手には小さな桐の箱があった。
「これがその数珠の箱だ」
泰明は蓋に書かれた銘を確かめた。そこにはこう書かれてあった。
『紫姫の数珠』と。
この身体の持ち主にとってあの少年は弟にあたるらしい。
紫はその事実を知って尚、恋慕の情を抑えることができずにいた。
「私は……………」
泰明の部屋のふすまが僅かながら開いていた。春の柔らかな風が通り抜け
ていく。覗いてみると泰明がベッドで静かに寝息を立てていた。
どくん。
心臓が高鳴り、身体は自然に部屋へと吸い込まれるように入っていった。
泰明の額にかかった細い前髪をおそるおそる指先で触れると泰明はくすぐっ
たげに寝返りを打った。間近にある泰明の顔に紫の頬は紅潮した。
「泰明……」
窓から見える桜は満開。そよぐ風に花びらが舞っていた。
愛しい少年の頬に触れ、耳許から撫で、全てを求めるようにかき抱く。
昔、深苑にそうしたかったように。
頬と頬が触れる。溶け合いたい想いが腕に力を込めさせた。
「いず……み?」
起きた泰明が物事を把握する間も与えず、紫は唇を重ねた。柔らかく重ねた
唇を離すと泰明は夢現のような表情で紫を見つめた。
絡み合う視線に溶け合うように、形までなくなってしまいそうに、溺れてしまい
そうに。
「泉水………」
優しい声で名を呼ぶ。だが。
「……じゃ、ないよな。おまえ、誰?」
優しいままのその言葉に紫は怯えて立ち上がった。
「泰……」
優しいのに。
でも、この人は私が泉水でないことを知っている。
泰明が起き上がるのを見ることもせず、紫ははじかれたように逃げ出した。
「おい………っ」
泰明も反射的に追いかけた。が、生身の身体の筈の紫はもうどこにも見当た
らない。場所は予想がついていた。全ての始まり、今頃は美しい桜で満開だっ
た筈のあの場所へ泰明は自転車を走らせた。
巨大な桜の根元が掘り返されたその場所で、紫は震えていた。
また何もかも奪われてしまう。桜はなくなった。社もなくなった。そしてまた自
分の身体さえも。やっと見つけた愛しい人までも。
冷たい土の感触を思い出して紫は恐怖に怯えて呻いた。
「泉水っ!!」
紫は声のした方を振り向いた。
「ほら。やっぱり……」
泉水が羨ましい。
紫は寂しそうに微笑んで立ち上がった。
「私は、泉水ではありません」
落ち着き払った紫の言葉に泰明は苦笑した。
「だっけな。名前は……」
「紫、と申します」
「紫さん。泉水の身体、返してやってくれよ」
紫は微笑んだままで一歩後ずさった。
「嫌、と言ったら?」
「却下、かな。あんたに泉水の人生奪う権利があるわけじゃない」
「じゃ、私の人生を奪った方たちにはその権利があったと、あなたはおっしゃる
の?」
紫は悔しさに顔を歪めた。
「私は、婚礼を前にして人身御供としてこの地に埋められました。目の前にあっ
た幸せも、愛していた人も、人に当たり前に与えられていたものをある日突
然全て取り上げられました。その私の気持ちが、あなたにわかりますか?」
一瞬、深苑の前で憔悴しきって泣いていた紫の顔が脳裏を掠めた。
土中に埋められながら死に怯えていた紫も。
それが紫の事実。でもそれだけじゃない。
「だからってそれを他の関係ない奴らにも強要するのか?それじゃあんたの人
生奪った奴らとやってること変わらねえだろ?何で人生を奪われる苦しみを
知ってるあんたがそういうことするんだ?」
「人は忘却する力を持ってるのよ。知ってますか?」
紫は挑戦的に泰明を睨んだ。
「人が一人死んだところで何も変わらない。次の日も朝日は昇るし時間は止ま
りもしない。そのうち風化されて、忘れられていって、存在していたことさえも
嘘になる」
ただ、深苑への憎しみだけで存在していた。忘れられていく恐怖と絶望を長
い年月のうちにいやというほど覚えさせられた。
「人は死ぬまで忘れないよ。家族や好きな相手がある日突然いなくなったら、
いつまでも覚えてるからずっと悲しいし、生きていた証を大切にするよ。あん
たが殺した子たちの親や恋人がどれだけ捜して悲しんだかあんたこそ知って
るのか?」
「そんなもの知らないっ! 私は誰からも忘れられたのっ! 恋人でさえ私のこ
とを忘れたわ。私の為に立てられた社も忘れられて壊された。それで何を信じ
ていろとおっしゃるの?」
「これ」
激情に駆られた紫に泰明は古ぼけた数珠を差し出した。
「何?」
「これがあんたの生きていた証、らしいよ」
紫は意味を解せず、その数珠を見つめた。
「この数珠さ。実はかなり大昔から伝わってきたかなりの神力を宿した数珠らし
いんだけど。名前、ゆかりひめって書いて紫姫の数珠って言うんだぜ」
「ゆかり………?」
「これが入ってた箱見るか?」
泰明は小さな桐の箱を紫に差し出した。『紫姫の数珠』と書かれた蓋の裏に
はかすれてはいるもののこの数珠をつくった者らしい名が記されていた。
「安倍…深苑……?」
紫の声が震えた。信じられず、何度も見返した。
「あんた、その深苑って男に水晶渡さなかったか? この数珠についてる水晶、
それじゃないのか?」
泰明が手にしている数珠には確かに見覚えのある水晶の欠片がついてい
た。数珠の大きさに合わせて一緒に繋がれている。あの日、深苑に手渡した
あの水晶だ。
「でも…深苑は……」
「あんたがうちに来てからずっと夢を見せられたよ。水晶に閉じ込められてた
深苑の念ってやつかな。やばいくらいに泣いてたぜ。後を追って死のうとした
りとか。それ、あんた知らないだろ」
紫は話の真偽を見極めようと泰明をじっと見据えた。
「あの人、あれから世俗を捨てて、たった一人で、ずっとその数珠に念を込め
続けてたんだぜ。そこまでしか見てないから後は知らないけどさ」
泰明が手渡した数珠を紫は信じられずじっと見つめた。
「……あの人にそんな力、なかった筈なのに」
「どうしてもあんたの生きた証をつくりたかったんだろ?自分の中だけじゃなく
て、何百年でも語り継がれるように、そうやって自分の生命削りながら念を込
めて。結果、今の時代まであんたの生きた証は存在してる。深苑さんの神力
と共に」
「そんな………」
紫は力なく膝をついた。
「私は……あなたに会いたかっただけなのに。そんな証いらないから………あ
なたに会って、愛してると言ってもらえれば、こんなに、あなたを恨まなくて済
んだのに………」
切なくて涙が零れた。数珠を握っていると深苑が一人で念を送り続けている
姿が見えるような気がする。
逢えなかった時間がようやくここで繋がる。紫は大切そうに数珠を握りしめて
いた。
満開の桜が風に花びらを舞わせる。
が、泰明は不機嫌そうにそこにいるべきではない者を見つめていた。
「で? おまえはな・ん・で、成仏してねぇの?」
幽体でふわふわしている紫は嬉しそうににこにこ笑った。
「だって。まだ思い残すことがたくさんあるんですもの」
泰明はめんどくさそうに眉根を寄せた。
「深苑のことは納得いったんだろ?」
「ええ」
「じゃ何で?」
紫は頬を薄紅に染めてはにかみながら泰明を見つめた。
「私、あなたのことが好きなんです」
「はあっ?」
驚愕する泰明に紫はじゃれるようにまとわりついた。
「お慕いしております、泰明さま」
「やめいっ!! 祓うぞ、いいかげんにっ!!」
「何をおっしゃいます?口づけまで交わした仲ではありませぬか」
がしゃんっ!!
陶器の派手に割れる音に振り向くとそこには顔面蒼白の泉水が羞恥に震え
ながら立っていた。
「口……づけ?」
「い、泉水……?」
嬉々として口づけのことを反芻してはしゃぐ紫を横に泉水からは異様な雰囲
気が漂っていた。擬音で表すなら「ごごご………」とか「ずおおおん」とか、地の
底から響くような、そんな雰囲気である。
「だ…誰の身体使って、そんなこと………」
泉水が恐ろしく低音で尋ねる。
「また近いうちに泉水の身体をお借りしますわね。泰明さま、よろしいでしょう?」
逆鱗直撃な台詞をのたまった紫に泉水の怒りが頂点に達した。
「あんたになんか貸すわけないでしょうがあああああっ!!」
紫に掴みかかろうとするものの幽体なので当然無理。怒りの矛先は泰明に
向けられた。
「泰明!! あんた、本当にキスなんかしたのっ?」
「え? あ、だって、俺知らねえよっ!!」
「知らないって何なのよ?」
「寝込み襲われたんだからしょうがねえだろ!!」
「てことは……したのねえええええっ!!」
泉水は怒りに任せて泰明の胸倉を掴んで揺さぶった。泰明も懸命に抵抗を
試みるものの泉水の怒りにはかなわない。
「何が悲しくて実の弟とキスなんかしなくちゃいけないのよっ!!」
「俺だって被害者だろうが!! どうせやるならもっと可愛い子が相手の方がよ
かったつーの!!」
「なぁんですってえ!!」
「泰明さまを独り占めしないでよ!!」
「あんたは黙ってろ!!」
さすがは双子、一喝は二人同時だった。
「珍しく姉弟喧嘩か? 騒がしい」
ひょいと顔を出した泰継はそこで大喧嘩している二人ときょとんとしながら浮
遊している紫を交互に見て何を思ったかうんうんと頷いた。
「何をどう納得してるんだよ、親父?」
訝しむ泰明に泰継は感慨深く腕を組んで更に頷いた。
「泰明。おまえもとうとう式をしたがえたか」
「はぁ?」
「ちゃんと使いこなせるようになるんだぞ」
恐ろしく誤解をしまくっているらしい泰継はのほほんと廊下を通りすぎていっ
た。
「ち、違……っ」
「お父さまからも了承をいただけましたし。これから末永くよろしくいたしますね。
泰明さま」
丁寧な言葉遣いのくせに行動はというと背中から抱きついてべったりの紫。
「ファーストキスの相手が弟だなんて……泰明の馬鹿あああっ!!」
ショックで泣きながら泰明をぽこぽこ殴る泉水。
その二人に挟まれて泰明も頭を抱えて絶叫した。
「何でだあああっ?」
春の宵のそれは夢か現か。
人を惑わす夜桜も終わり。
もうすぐ葉桜が陽に透ける季節が訪れる。 |