『しょっぱい川を渡って夕陽にホクロを見た』
(金星の太陽面通過(Venus transit 2004/06/08))
「夕陽にホクロ」(金星の太陽面通過)

2004/06/08 19:10, 北海道積丹岬付近にてカメラ用三脚で固定撮影。
OLYMPUS OM-ZUIKO AUTO T 350mm F2.8, F11, 1/60sec.
Canon EOS 10D, ISO 100, LARGE(3072x2048), FINE, AWB, JPEG

 水平線近くに降りてきた太陽の下側にはホクロのような真っ黒の金星が見えていました。大気で減光されているので、減光フィルターなしでの撮影です。


 私は青森県の中小都市弘前市で精神科単科病院に勤務する精神科医である。年齢は53歳、現役バリバリの診療最前線におり、月から金曜日まで毎日数十人の外来診療をこなし、入院も40名ほどを担当している。当直や日直も週1,2回あり、当然ながら当直明けも通常の仕事があり、診療後にも法人の会議や介護保険審査会などの業務もある。先日、試みに1週間の労働(拘束)時間を計算してみたところ、約80時間という数字が出て、我ながらよくこんな激務で倒れないものだと感心した。
 そういう私の長年の趣味が天文、すなわち天体を見たり写真を撮ることである。振り返ってみると、小学校3年生の頃に当時住んでいた札幌の中島天文台に出入りするようになり、口径20cmの屈折望遠鏡で月のクレーターや土星の輪を見せてもらってから星に興味を持つようになったもので、天文歴としては中断を含めると半世紀近くにもなる。
 弘前の自宅からは車で30分ほども走れば岩木山にいたり、快晴の夜には満天の星空を眺めることができる。キラキラと瞬く星の光を受け、目的の天体写真を撮ることができると日常診療の疲れも吹っ飛んでしまう思いがする。星によって癒されるのである。いや、もしかすると、私から星の趣味を取り上げたりしようものなら、自分が壊れてしまうかも知れないとすら思う。

 今年2004年は天文現象の「当たり年」ということができる。5月にはリニア彗星、ニート彗星という二つの肉眼彗星が同時に見えると予想され、そうなると約400年ぶりの珍現象であるといわれた。その予想の最中に、さらに第三の新彗星ブラッドフィールドが4月下旬に大出現し、肉眼彗星が同時期に3個という観測史上初めての事態が出現した。
 続いて起こったのが6月8日の「金星の太陽面通過」である。日本で見られるのは1874(明治七)年以来なので130年ぶり、世界的に見ても122年ぶりという非常に稀な天文現象なのだ。こういう珍しい天文現象は是非とも見てみたい、写真も撮ってみたい、と思うのが天文マニアの習性であり、私も忙しい中でも当日は年休を取って観測することとした。外来予約があるので、少なくとも4週間前には休診の公示をしなければならない。決意したのは5月連休明けだった。
 金星は月と違って非常に遠方にあるため、月が太陽を隠す日食とは大きく異なって、太陽が見えている地域ではどこでも同じように観測される。つまり晴れていさえすればどこでも見える。現象の持続時間も午後2時過ぎから日の入りまでの5時間ほどもあり、その間に太陽が少しでも顔を出せば現象そのものは見ることができる。しかしこの時期、本州ではちょうど入梅時期と重なるため、天候が危惧された。私の事前予想では梅雨時期とはいっても、東北のどこもべた曇りということはないのではないか、青森から福島まで足を延ばせば、どこか晴れの地域に行けるのではないか、というものだったが、その予想は甘かった。
 2,3日前からインターネットの天気予報に注目した。梅雨前線が張り出しており、本州は太陽が拝めそうにもない。北海道ならなんとか晴れそうだ、ということで青森から一番近い北海道となると函館になる。函館山からなら日本海に沈む夕陽が望めるだろう。天文ソフトでシミュレートしてみたところ、当日、函館山における金星の没は 19:08頃、日没は 19:11 頃となる。列車や航空機も検討したが、津軽海峡線だと、最終列車が函館駅 18:40 発なので、日没前に出発しなければならず、全経過が観察できない。航空機で札幌(千歳空港)から青森への便も同様の事態だったため、青森・函館間のフェリーで行くことにしたのは6日(日)、日当直の夜だった。
 しかし事態はさらに悪化する。前日、7日(月)の天気予報では北海道南部も雨と出た。北海道北部では晴れるが、道央は晴れたり曇ったりという。そこにインターネットのメーリングリストで気象庁職員の星仲間から「北海道は長万部以北が晴れそうです。函館は曇りで可能性は少しありますが状況次第でしょう」という情報を得て、積丹(しゃこたん)半島に行くことを決意した。積丹は札幌や小樽の西北西にあり、北に行けば行くほど晴れる可能性が高くなり、西海岸を望めるからである。
 問題は函館から250kmほどの距離があり、車で5,6時間かかることが予想されたことだ。当初予定した当日朝青森発のフェリーでは間に合わないことになり、深夜に出発することとした。7日は法人の理事会が午後8時半まであった。帰宅して撮影機材を準備し、10時過ぎから仮眠を取ることとする。
 深夜12時半に目覚ましを鳴らして午前1時前に弘前の自宅を出発した。途中の青森市内で給油し、午前2時前に青森フェリー埠頭に到着。2:50発のフェリーに乗り込んだ。船室がどうなっているか分からないので、1等船室(差額1860円)にした。大型のフェリーで、車室から客室にはエスカレータで行くようになっている。深夜の便なので乗客は少なく、4人用の船室を一人で使った。といってもひたすら寝るだけ。
 6時半に函館到着。15分ほど前から洗面などの準備をした。雨模様で、函館山は頂上が雲に包まれて見えない。函館山を諦めて正解だったと思う。フェリーを降りてフェリーの背景に函館山を置いて撮影。偶然にもフェリーの名称は「びなす」であった。もちろん、美の女神ビーナスから取った名前であろう。ビーナスは金星なので、「金星の太陽面通過」を観測に来た私にとって相応しい名称となった。ちなみに帰りの船名は「びいな」であった。

binasu&Mt.Hakodate
函館埠頭に着いたフェリー「びなす」と雲を抱いた函館山

 車を一路北に向ける。北海道の道路は広くて真っ直ぐで走りやすい。途中で聞いたSTVラジオでは、「道内各地は天気が悪く、いわゆる蝦夷梅雨です。札幌も今は晴れていますが、午後までもつかどうか」と不吉なアナウンス。それでもなんとか、寿都(すっつ)付近に来ると太陽が顔を見せた。積丹岬には11時頃に到着。しかし観測地にしようと思っていた岬には車では行けないという。望遠鏡などの機材が多いので、諦めて海岸を少し戻ることにした。
windwheel at Suttsu
寿都は風力発電で有名な町。大きな風車が目に入ってくる。寿都からは晴れ模様となった

 昼食は積丹岬付近の食堂に入り、「うに丼」を注文しようと思ったら、「すみません、うにの解禁は6月10日からなのでまだできないんです」とのこと。仕方がないので、「かにイクラ丼」にした。
kani-ikura-donburi
かにとイクラがたっぷりと載った丼。鮭汁も付いていた。

 野塚野営場というところの駐車場が西海岸を望め、駐車スペースも広いので、ここを観測地とした。12時半頃にはほぼ快晴で、太陽の方角から北の見当をつけ、三脚、赤道儀、望遠鏡を設置して準備を始める。
Nozuka camping field
北海道積丹町、野塚野営場(E140°27m 24.9s, N43°20m 16.9s)

Takahashi 90S+FC-100
高橋製90S赤道儀と10cm屈折望遠鏡FC-100、キヤノン EOS 10D

 するとまた雲行きが怪しくなってきた。ちょうど太陽面通過の始まる14:11頃には薄雲の中に入ってしまい、第1,第2接触は観測できず。それでも西側の低空には青空も見えているので、雲の流れるのを待っていると、14:30頃から待望の太陽が姿を現した。すでに太陽の縁から少し離れてはいるものの、真っ黒な金星の姿が望遠レンズ越しにカメラのファインダーから見えた時には感激した。普段、太陽黒点観測で見慣れている太陽面とは大違いで、金星の大きさを実感する。見かけの金星は太陽面の約1/30もあるのだ。

「金星の太陽面通過(Venus transit)」のほぼ全経過の様子

 肉眼で金星が見えないものかと、1万倍の減光フィルターで覗いてみたところ、天頂近くにあるときはまぶしくてだめだったが、低空になると肉眼でも金星の黒い点を見ることができた。肉眼で黒い金星を見た、数少ない人類になったのだと思うと感慨深いものがあった。なにせ、明治7年以来のことなので、現存する人間は誰も見たことがなかった現象なのだ。
 その後は順調に撮影を続け、西の低空に差し掛かる頃、それまでは1万倍の減光フィルターでしか見えなかったものが、望遠レンズ越しにではあるものの、ノーフィルターで見えて、撮影もしました。水平線近くの夕陽にポッカリとホクロのような黒い穴が開いて、太陽の光が海面に反射している。海の上には水鳥が飛んでいく。事前に狙っていた通りの写真も撮影することができた。
 結局、観測は8割方成功といえる。少し無理してでも遠征してよかった。

 ということで大満足の遠征ではあったのだが帰りがまた大変。
 19:30頃に機材を片付けて函館に向けて出発。午前0時台のフェリーに間に合うように車を走らせた。前日も1時間ほどの自宅での仮眠のあとはフェリーの中での3時間ほどの睡眠しかとってないので、目がショボショボしてくる。でも、一旦、眠ってしまうと起きられない可能性が強いので、ノンストップで夕食も摂らずに一路、函館へ。結局、23時頃には函館フェリー埠頭に到着して、遅い夕食はフェリー事務所の食堂での「いかさし定食」にした。
 0:30発のフェリーで、4:10頃に青森到着。弘前の自宅には5時頃に到着。若干の画像処理をして、1時間ほどの仮眠を取った後に出勤。9日(水)は通常勤務の後に当直でもあった。さすがに体力の限界に達したようで、その週末はヘロヘロ状態となり抜け殻が仕事をしていたのだった。

 さて、8年後の2012年6月6日にも金星の太陽面通過が見られる。その時は日本では現象の最初から最後まで見ることができるのだが、逆にいうと夕陽にはすでに金星の姿はないのだ。それを見ようと思うならアメリカ西海岸に行けばよい。その時は私は61歳なので定年退職しており、嘱託医として働いているはずだ。1週間ほど休みをもらって、連れ合いを連れてサンフランシスコに行こうかと思っている。


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