リトル・ダンサー Billy Elliot

監督:スティーヴン・ダルドリー
出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲアリー・ルイス

炭坑の町で暮らす少年ビリー・エリオットの夢は、バレエ・ダンサーになること。炭坑
ストライキで失業中のパパは猛反対。サッカーやボクシングのような男らしいことをや
って欲しかったのだ。でも、ビリーはめげずに家の中で踊りの練習に熱中し、ひたむ
きに夢に向かって羽ばたいていくのだった…。

バレエという芸術は、どこか高尚なものというイメージがある。イギリス北部の炭坑街
とクラシックバレエという取り合わせは、最初なかなかピンとこない。ところが、この映
画は、不況に苦しむ炭坑の町で、バレエを通して自己実現していく少年の物語なので
ある。ワーキングクラスの人々の心の叫びが、バレエに託された、そんな作品なのだ。

ビリー少年がバレエに夢中になる理由は、未来のない炭坑の町から出たいとか、有
名になりたいといったものではない。ロイヤル・バレエ学校の面接で、試験官は訊ね
る。「踊っているときは、どんな気持ち?」すると、ビリーは「何もかも忘れて、体の中
に炎が燃え、鳥になって空を飛んでいるような気持ち」と答える。ビリーはただ、体の
中からわき上がってくる「踊りたい」という強烈でシンプルな情熱のまま、踊っている
だけなのだ。彼がボクシングを習いに行っていると偽って、バレエのレッスンを受けて
いたことが父親にばれてレッスンを禁止されたとき、ビリーが、怒りと踊りたい!という
気持ちをぶつけるようにタップを踊るシーンの躍動感。これがもう本当に素晴らしいの
だ。T-RexやJamのビートの利いた(そして反骨精神にあふれた)ロックがとても似合
っている。ミュージカルを見ていると、登場人物の感情が高ぶってダンスシーンに突入
する場面というのが必ずある訳なのだが、まさにそれと同じウキウキした高揚感が肌
に伝わってくる。バレエといったって、お上品なものだけではないし、ロックしているの
だ。

ビリーが家の中、バスルームや寝室でダンスの練習をするシーンと、バレエ教室で踊
るシーンがオーバーラップして、とってもテンポがよくてノリノリ。貧しい環境でも一生
懸命頑張るところもひたむいでいい。だけど、ビリーは健気なだけの子供ではない。
ボクシング教室のお金を、バレエ教室に使ってしまう。お父さんやお兄さんが大変な
のも良くわかっているけど、でも、自分の夢をなんとか実現させたいと強く願っている
のだ。バレエの先生が一生懸命語っている「白鳥の湖」のストーリーを、「つまんなそ
う」なんて言ってしまうような、良く言えば正直、悪く言えば反抗的な子供なのだけど
そこがいいのだ。

この映画、登場する人物が全員いいキャラクターなのである。お父さんはボクサーだ
ったこともあってマッチョ志向。ビリーにも、家の貧しい家計の中からお金を出してボ
クシング教室に通わせている。だから、ビリーが実はバレエ教室に行っていたという
ことを知って猛反対。バレエなんて、女のやることなのだ、と。でも、そんな彼も、ビリ
ーがクリスマスの夜に親友のマイケルの前で踊っている姿を見て、ついにバレエを習
うことを認める。それどころか、ロイヤル・バレエ学校の試験を受けるための旅費を得
るために、裏切り者と罵られ、卵をぶつけられながらもスト破りをする。逮捕されてしま
うほど組合活動に入れ込んでいたお兄さんがお父さんに駆け寄る。そのときのお父さ
んの台詞に号泣。「おれたちにはもう未来はない。だけど、ビリーはまだ11歳だ。彼
にチャンスを与えたいんだ」父と息子が抱き合って泣くこのシーンの、ふたりのビリー
に対する限りない愛情、そしてビリーが彼らにとっての希望であるということを強く強く
思い知らされる。やがて、ビリーは家族だけでなく、炭坑街の人々の希望となり、受験
費用のカンパまで寄せられるようになるのだ。

ちょっとぼけてしまったおばあちゃんが、「あたしだって、レッスンさえ受けられたらバ
レリーナになれたのよ」と言って、一番最初からビリーを応援する姿も素敵。おばあち
ゃんと同様、自分の叶えられなった夢をビリーに託すバレエ教師のウィルキンソン先
生。授業料なしでビリーに個人レッスンをつける彼女は、タバコをつねに離さない、や
さぐれている女っぷりがカッコイイ。先生のちょっとおませな娘はビリーに「あたしのあ
そこを見せてあげる」と言ったら「見せなくても君が好きだよ」なんて答えるビリーって
本当にイイ奴。ビリーの親友マイケルは、ビリーとはちょっと違った意味でまわりとは
少し浮いている少年。彼はビリーに恋心を抱いているのだった!女の子の服を身に
つけたマイケルの美少年っぷりには思わずドキドキ。自分はゲイではないけれど、マ
イケルのことを大好きなビリーは、マイケルのたっての願いを聞いて、クリスマスの夜、
マイケルにチュチュを着せてバレエのレッスンをつける。そしていよいよ旅立つとき、
そっとマイケルにキスをするのであった。

バレエの先生の話に「白鳥の湖」が登場するのには意味があった。大人になり、晴
れてロイヤル・バレエ団のダンサーになったビリーは、お父さんやお兄さん、マイケ
ルの前で「白鳥の湖」を踊り、ひときわ高く飛翔する。「白鳥の湖」は本来はバレリー
ナが白鳥を演じるわけだが、ここで男が白鳥の役を踊るのは、自分の生きたいよう
に生きることのできたゲイの大親友マイケルへのオマージュを捧げるという意味もあ
る。先生のおませな娘とビリーが子供時代、白い羽根の中で戯れるシーンも、ビリー
の性の目覚めをあらわしていた。白鳥が飛ぶ姿は、ビリーのアイデンティティの目覚
めを象徴するものなのだ。炭坑の町で異端児=みにくいアヒルの子であったビリーが、
殻を突き破って美しく成長した姿を咲き誇り、家族や街の人々の誇りとなって、自由
に飛び立っていくことをあでやかに示したものであった。

オーディションの結果を待つところの、家族がそわそわしていたり、ビリーが部屋にこ
もって出てこなかったりするところなど、何気ない描写の一つ一つが本当に細やかで
秀逸な作品。何よりも、踊っているときのジェイミー・ベルの表情が生き生きしていて、
見ていて気持ちいい。今の殻を突き破りたい!体の中の炎、本能の命ずるままに踊
って感情を表現したい!という彼の熱い気持ちにこちらも燃えて、家族の愛に涙して、
希望を与えてもらえる、この映画はそんな素敵な作品なのだ。

アギーレ 神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes

監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、ヘレナ・ロホ、ルイ・グエッラ、セリシア・リベーラ
1560年、伝説の黄金郷エル・ドラドを目指して総督ピサロに率いられたスペイン人たち
は、インディオの奴隷を引き連れアマゾンの奥地を進んでいた。厳しい自然に阻まれ食
糧も底をついたところで、食料の調達や周辺の情報収集のため、40人からなる分遣隊
が作られる。隊長にペドロ・デ・ウルスア、復調にはアギーレ。渦に巻き込まれた一隻の
筏の隊員たちが全滅しもう一つの筏も流される。アギーレは、本隊に戻ろうとするウルス
アに対して、あくまでもエル・ドラドを目指すことを主張しクーデターを起こす。そしてアマ
ゾンを下っていくのだが食糧も減り、インディオの攻撃を受け、一行は次第に正気を失っ
ていく…。

冒頭の、アマゾンの切り立った峰を下っていくピサロ総督の一行の鳥瞰が壮大だ。人
間は蟻のようにしか見えない。大自然の前に、いかに人間の存在がちっぽけなのかを
示している。人間なんて虫けらも同然に過ぎないのに、それに敢然と立ち向かう一人の
男がいた。その男こそ、アギーレである。彼は、自分だけは特別な人間であると頑なに
信じ込んでいた。この化け物じみたアマゾンの大自然や、野蛮なインディオに立ち向か
えるのは自分一人であり、我こそは神なのだと。アギーレは誇大妄想狂に取り憑かれ
た男である。彼はスペイン帝国からの独立を宣言し、傀儡政権をうち立てる。自分自身
の帝国をうち立てる第一歩としたのだ。そして、彼は黄金に取り憑かれるあまり、地獄
のような未開の森林をひたすら突き進んでいく。彼は生存本能が異常に発達している
のだ。その狂った様を体現するのが、怪優クラウス・キンスキー。ギョロッとした大きな
青い目に狂気の光を湛えている。彼の娘を演じる美しい女優は、実際の娘ナスターシ
ャ・キンスキーにそっくりだ。

平たくいえば、ミイラ取りがアギーレ以外全員ミイラになってしまう話なのである。しか
し、アギーレ自身は、黄金の国エルドラドに取り憑かれていたというより、この禍々し
い奥地そのものに魅せられ、この場所に自分の光り輝く王国を築くこと、自分が王にな
るという狂気じみた幻想に取り憑かれていたのである。

黄金郷を目指してアマゾンの奥地を進んでいくピサロ、そしてアギーレたちは紛れもな
い侵略者である。インディオたちから財宝を奪い、奴隷とした略奪者たちである。彼らは
聖職者を同行し、キリストに対して敬意を表しない原住民を容赦なく殺していく。未開の
地の民、そしてジャングルに西洋の文明を押しつけようとしたのだ。ところがどっこい、
彼の地が持つ得体の知れない圧倒的な力は、容易に西側の文化に屈しない。それど
ころか、手痛いしっぺ返しを侵略者たちに与えるのである。

分遣隊が下っていくアマゾンの自然は凶暴である。一体その中に何が潜んでいるのか
わからない不気味さが圧倒的だ。食糧は底をつき、ぬかるみに足を取られ、病に倒れ
る者が相次ぐ。アマゾン川の奇妙な渦にはまって抜けられないでいるうちに、筏の上の
隊員たちは漕ぎ手のインディオに殺されてしまう。ウルスアはアギーレや、このジャング
ルのパワーに圧倒されて見境のつかなくなった隊員たちに処刑されるし、立ち寄った村
は人喰い族の集落。生き残った者たちも原因不明の熱病にやられ、気が狂ってくる。さ
らには、川の両岸から、姿の見えない敵が放ったとおぼしき弓矢が飛んでくる。一人、
また一人と隊員が死んでいく。アギーレの最愛の娘までもが矢に倒れ、たった一人生
き残ったのはアギーレだった。隊員たちが一人一人死に、もしくは消えていく様は不条
理で恐ろしい。あんな悪夢のような様子を見ていて、気が狂わない方がおかしいと思う
ほどである。彼ら隊員たちは、この大自然という魔物に飲み込まれていってしまったの
だ。この映画のもう一人の主役は、もちろんこの邪悪なアマゾンの大自然である。

アギーレは、高木に刺さったように浮いているカヌーを見て、あれが現実に存在してい
るものなのか幻なのか、問いかける。これはすべて、夢なのではないかと…。そんな
精神状態に追い込まれても、たった一人になった彼は高らかに宣言する。腕の中に、
冷たくなった愛娘を抱き「我こそは神の怒りである。俺は神話の通り我が娘と結婚して
地上にかつてない大帝国をうち立てるのだ」と。そして筏の上を這い回る無数の猿たち
の王となるのであった。猿たちと戯れて微笑み、歪んだ体を屹立させて誇り高くその大
きな目を見開いたアギーレは、たった一人、狂気のジャングルに呑まれることなく、人
間を超越した存在となったのであった。その神々しいまでの勇姿には、思わず目が吸
い寄せられてしまうのであった。

とにかくすべてが圧倒的な力を持ってぐいぐい押し寄せてくる、とてつもない映画だ。西
洋文明と、野蛮とされている未開地の大自然の力がぶつかり合った結果生まれた落と
し子が、アギーレという、神を自称する狂った男なのであったのだろう。ほんと、アギーレ、
そして彼を演じたクラウス・キンスキーは凄すぎる。ともに正気の人間とは思えない。そ
して、実際にアマゾンの奥地に撮影機材を持ち込んでこの映画を撮ったヘルツォークも
また然りだ。ヘルツォーク自身が、アギーレのようにこの闇の奥のジャングルに魅入ら
れていたのだろう。