監督:森 達也
1999年9月。再び森達也は退去直前の足立区オウム真理教施設を訪れた。前作「A」
がクランクアップ゚した1996年以降、地域住民達のオウム排斥運動が激化し、住民票
の受理を拒絶する行政も相次ぎ、施設を追われた信者達の漂流が始まっていた。だ
が、信者と住民との軋轢が最も激しいと喧伝されていた地では、オウム排斥運動に
関わる住民達と信者との間に、不思議なコミュニケーションが築かれつつあった。教
団が起こした凶悪犯罪を憎みながらも、信者達を人間として受け入れようとする意識
が住民の中に芽生えていた。オウムを通じて日本社会の歪んだ断層を暴いた森は、
信者達の内側にある矛盾、さらには社会の側に生まれはじめた“受容への萌芽”を
鮮やかに描き出す。
オウムの施設が近所に出来たとなると、近隣住民は騒ぎ出して、「オウムは出て行
け」というヒステリックな運動が行われるという光景は、日本の色んなところで起きた
ものだった。実際、実は私が以前住んでいたところの近くに、一時オウムの拠点が
できてしまって、当時の勤務先のすぐ近くだったということもあり、かなり話題にもな
ったので他人事とも思えない。もっと遡った話をすれば、私が幼年時代を過ごした場
所の目と鼻の先に「オウム真理教杉並道場」というのが出来てしまっていて、たまた
まかつての家のそばを訪れたら存在していたので、びっくりしたこともある。
罪もない人々を死に至らしめたテロ行為を行ったカルト教団が、近隣に施設を作って
しまったら、追い出したくなるのは当然のことだろう。住民票を自治体が不受理にし
たり、教団の子供の就学を拒否するという、人権をあからさまに侵害するような事態
が起きていても、少なくとも彼らにはそばにいて欲しくないという気持ちはわかる。
たしかに、ここにいる信者達は地下鉄サリンや松本サリンの実行犯ではないし、見
たところ真面目で善良そうな青年達だが、それでも「あのときサリンを撒けと言われ
たらやっていますよ」なんて答えちゃったりしている人もいるのだ。カメラの前でそん
なことを平気で言えるということは、よほど自分達が世の中からどう見られているか
ということに無自覚な証拠である。
でも、日本には一応信教の自由は認められているわけだし、ここに出てくるオウム
信者たちは別に犯罪行為をしているわけではない。住民運動などで追い出したとこ
ろで、彼らはモグラ叩きのようにまた別の場所に引っ越していって、そこでまた排斥
されたりするわけで、今まで延々とそれが繰り返されてきたのである。このドキュメ
ンタリーは、本当に多くの彼らの拠点を取材しているのだが、それは、それだけ彼
らが何回も移動し、ちりぢりばらばらにならないと活動できないということの裏返し
でもある。彼らを追い出そうとする住民運動を見ていると、「自分たちのそばにさえ
彼らがいないんだったらいいや」という「自分達さえよければもいい」的な精神が見
えてきてしまうのである。
一方のオウム。この映画は荒木広報部長を中心にいろんな信者達を取材している。
一人一人の信者は驚くほど純粋で真面目で善良だ。荒木は広報部長という立場
上、記者会見でマスコミの質問に答えている。彼は一生懸命誠実に答えているの
だが、残念ながらその論理は一般の人々にはわかりにくいし通用しにくい。言って
みれば、自分達が世の中からどのように見られているのか、あんまりよくわかって
いないし、自分達の危険性を全く自覚していない。。彼らの矛盾点を、マスコミはさ
らに悪意に満ちた報道で飾り、真実を歪曲した報道を目にしたオウムはオウムで、
マスコミに対する不信感をますます募らせてしまうのだ。上祐氏が出所した後の記
者会見のテレビ報道を見て、荒木部長や上祐が、「なんでこんなに歪んで伝えるの
」とテレビの前で憤然としていた姿が非常に印象的だった。こうやって、オウムも、
住民も、マスコミも永遠に交わることなく、平行線のまま理解しあえないのである。
ところが、そんな中でも、住民とオウム信者が不思議な交流を始めてしまった地域
もある。住民達はオウム排斥運動で団結して、これまでバラバラだったコミュニティ
がまとまってしまうという意外な副産物も産まれる。建前上は、オウム信者が悪さを
しないようにと住民達は見張っているのだが、彼ら住民達は、いつしか監視活動を
楽しむようになっているのだ。ある住民が語っていたが、これまでは単なる退屈な
村だったのが、いきなり、テレビにもさんざん出てきた大いなる悪者=オウム真理
教がわが町にやってきてしまったというのは、かなりドラマチックな出来事だってこ
とで、人々は色めき立ってしまう。さらに、監視活動でしばしば信者達と接している
うちに、敵対しているはずの住民と信者達が親しくなってしまい、住民は彼らに本
を貸したり食べ物を差し入れしたりして、なんとか彼らを改心させようとするのだ。
もちろん、彼らが信仰を捨てるはずはないんだけど。さらに、「オウムは出て行け!
」という立て看板がいっぱい並んでいる前で信者と記念撮影したり、彼らが退去す
るときには別れを惜しんで涙まで流してしまう始末。「うちの息子に似ている」「今時
一つのことにこれだけ真剣になれる若者はいない。感心だねえ」なんてすっかり情
が移っちゃっているのだ。この描写には思わず大笑い。
もう一つ、ものすごく面白いエピソードがある。横浜の黄金町にできた彼らの拠点
で、右翼団体のメンバーが大挙して押し寄せる。右翼団体のリーダーは、警備に
当たっている警察官に「彼らに会わせろ」と詰め寄るが拒否される。「オウムはサ
リンを撒くけど、俺達は鉄砲を撃ったり刺したりするだけだぞ」と警察の人に言っ
ちゃったりして、ヲイヲイ。大笑いだ。しかし、ある意味、右翼の人たちは大真面目
だ。「オウムは解散しろゴルァ!!」なんてドスを聞かせて叫んでいるが、事なか
れ主義の地域住民より当事者意識が強いのかもしれない。なぜなら、「オウムは
出て行けと言ったところで、彼らは別の場所に移るだけのことで、全然問題の解
決にはなっていない。解散させなきゃダメだ」という、非常に真っ当な考え方を持
っているのだ。しかも、右翼の皆さんは、ドキュメンタリーでまともに自分達が取
り上げてもらえるのがとっても嬉しいらしくて、なんだかとってもはしゃいでいる。
そう、右翼団体の主張というのは、いつもマスコミからは全く無視されているのだ
ものね。
いずれにしても、教団の人たちというのはとっても真面目な人たちではあるのだ
が、やっぱりとーってもズレていることは否めない。彼らは、松本サリン事件で第
一通報者であり、当初犯人と疑われ、しかも奥さんは未だに意識不明という被害
者である河野義行さんの家に、謝罪に訪れる。この場面をカメラに収めようと、マ
スコミもたくさん来ている。河野さんも、ひどい目に遭いながらも何とか彼らを許そ
うという気持ちでいる。ところが、オウムの方では、河野さんに謝罪するという明
確なコンセンサスがなく、しかも「謝罪なんていりませんよ」なんて彼に言われて
しまって戸惑い、なんだかわけのわからない方向に迷走してしまって、ものすご
く滑稽な姿をマスコミの前にさらすことになる。
あるいはこんなシーンがある。とあるオウム信者の元に、新聞記者が訪れる。
実はこの二人は大学の同級生で友人であった。久しぶりの再会に、親しく歓談
する二人はごく普通の青年達のようだ。だけど、信者のほうは「マスコミはなん
でウソばっかり書くの」という疑問があるし、記者の方は「どうして友達や家族を
捨ててオウムという怪しい集団の中でこんな生活をしているのか全然理解でき
ない」という。やっぱり、信者と一般人やマスコミというのは、永遠に理解し合え
ないんじゃないかという、絶望感に囚われてしまうのだ。
出家信者といっても人の子だ。ある信者は、何がつらいの、と聞かれて性欲だ
と素直に告白する。横浜の黄金町などは風俗街の真っ只中だ。修行するという
のはカルマを捨てることなので、性欲なんてもってのほかだし、自慰することだ
って許されない。で、彼は「夢精ばかりするんです」と恥ずかしそうに言うのだ。
女性信者は、携帯電話のストラップにキティちゃんをつけて喜んでいるし、その
へんの若い子とそんなに違っているわけではない。なんだけど、彼らと私たちは
理解しあえない。
オウムという宗教団体の人たちが大真面目でありながら、とってもヘンだしズレ
ている存在であるのはよくわかるのだが、同時に、排斥運動をしている住民も、
都合のいいことしか報道しないマスコミもヘンだということがよくわかる映画なの
だ。オウムだって人の子だということを伝えようとした前作「A」は一部では「オウ
ム寄りだ」と顰蹙を買い、未だにビデオだって出ていない。「オウム」を語ること
自体、一種のタブーになっていしまっているのだ。でも、この映画を見たことで、
この作品を見なければ見えてこない真実が、山のようにあったことに気づかされ、
目から鱗が落ちまくる思いである。そして、私たちは、この映画に出てくるような、
マスコミには決して報道されることのない現実を直視して、自分の頭でちゃんと
考えて生きていかなればならないんだと真剣に考え込んでしまった。決して交
わることのなさそうな平行線を、それでも、私たちは埋めていかなければならな
いんだろうな。だって、このギャップこそが、あらゆるテロリズムとか、犯罪とか
社会問題とか戦争の原因になるものなんだから。