インテグラルは完全、なのか

 〜ベティ・ブルーをめぐる2本の映画。

 "37.2 Le Matin - L'Integrale" -

【1988年、早稲田松竹】

 私が『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』をはじめて見たのは、大学2年生のとき。学校を
サボり、近くの名画座「早稲田松竹」に暇つぶしのつもりで入ったのだった。当時は大学生
でひまなくせにさほど映画を見ていなくて、この映画も評判を呼んでいたなんてことは全く
知らなかった。今でこそ早稲田松竹は改装されてきれいな映画館になっているが、当時は
汚くて臭くて痴漢が出没する場末の映画館という感じだったが、2本で800円と激安価格な
ので大学生にとってはありがたい場所である。

 そんな劇場へ一人でふらりと入り、いきなり全面ボカシ入りまくって何が写っているのか
わからないほどで、喘ぎ声出しまくりの場面が始まったものだから、当時まだ19歳の私は、
始めのうちはどうしようかと困ってしまっていた。しかし2時間後、すっかり打ちのめされて
劇場を出ることになったのだ。2本立てだというのに、もう一本の映画を観る気にはならな
かった。ベティのあまりにも激しい愛に全身を貫かれたような気持ちになったからだ。手負
いの美しい獣のような彼女の姿と、優しく包むゾーグ。生まれて初めての大失恋を経験し
たばかりの私は、ベティに感情移入して立ち上がれないほどの衝撃を受けるとともに、こん
な愛のかたちもあるのだと、少し勇気さえももらった気がした。こんな平凡な生活をしている
私の中にも、ベティは存在していると思った。このときから、ベティという女が自分の中に住
みついたのであった。

 【1992年、渋谷・パルコパート3】

 さて、『ベティ・ブルー』の"完全版"である『ベティ・ブルー インテグラル』が封切られたの
は1992年。私が早稲田松竹で観てから4年が経っていた。女の子の友達と、パルコパート
3(今のシネクイント)というおしゃれな場所で、1時間以上並んで観ることになったのだ。『ベ
ティ・ブルー』はあれから、いろんな女性誌などで、その愛や、ベアトリス・ダルのファッション
などが取り上げられるおしゃれな映画ということになっていた。4年前の私にはとても想像で
きないことだった。『ベティ・ブルー』はすでに伝説になっていた。

 そして映画『ベティ・ブルー インテグラルの印象は、『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』と
違っていた。ベティの破滅的ですべてを焼き尽くすような激しい愛ももちろんここにはあった
のだが、何かが違う。上映時間にして1時間も違うのだから、いろんなところが違っていてあ
たりまえなのだが、「ふつうの恋愛映画」になってしまっているという印象を受けたのだ。ベテ
ィとゾーグがごく普通の恋人同士のように笑い、遊びに出かけ、仲間と親しくしている。二人
で過ごした日々が、激しいだけでなく穏やかな部分もあったのだと思わせたのだった。「これ
は私が10代のあの日に観た『ベティ・ブルー』とは決定的に違う!」というもやもやを抱え、
果たして本当のベティ・ブルーって何だったんだろうか、と釈然としない思いを持ったまま、ま
た10年近くの月日が流れたのであった。

 そして、今回の特集のお話をいただき、ふたたびこの2本の映画をビデオで見返すことにな
ったのである。

 

【2001年 自宅にて】

 『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』はいうまでもなく、ベティの映画であり、ベアトリス・ダル
という女優の映画である。冒頭の激しいベッドシーンの鮮烈さ、初めてベティが昼間にゾーグ
を訪ねたときの、エプロンドレスの下には何も着ていない奔放で野性的な姿。パリの友人リザ
の家に着いたときも、寸暇を惜しんですぐにベッドに直行し愛の行為を始めるほどで、深い泉
のようにとめどなく湧き出す愛をぶつけてくるその姿は、あまりにも強烈で忘れがたい。スクリ
ーンから滴ってきそうなまでに過剰な、そして自らを傷つけずにはいられない、青い炎のような
彼女の情念。彼女の声がゾーグに「筆は進んでいる?」とささやきかけるところで物語が終わ
るなど、徹頭徹尾ベティの映画になっている。

 ところが、『インテグラル』になると、これはゾーグの映画になっているのである。ゾーグがベ
ティなしで存在しているシーンがたくさん存在しているのだ。ゾーグの、彼女に寄せる想いを説
明するかのように、『愛と激情の日々』にはなかったシーンが数多く追加されている。ゾーグの
書いた小説を酷評する手紙を送ってきた編集者をベティが襲撃した後、ゾーグが警察に出向く
シーン。ベティのためにゾーグが女装して銀行強盗するシーン。ベティが決定的に精神に変調
をきたすきっかけとなった事件や、入院したベティを探し当てるためにゾーグが奔走する様子な
ど、とにかく「ゾーグはこれだけベティのことを優しい気持ちで包んであげていたんですよん」と
説明したいがためのシーンが付け加えられているのだ。しかし、そうやって説明的な場面を加
えることによって、かえって二人の愛の純粋さが薄められてしまっているのが、とても皮肉だ。
これは、ベティを救うことができなかったゾーグの「言い訳」バージョンなのではないかと思って
しまう。

 『愛と激情の日々』はある意味いびつな映画だ。エキセントリックなベティの剥き出しの愛が
突出している。勢いで押し切って地獄へ突き進んで行くさまがあまりにも鮮烈だった。『インテ
グラル』は、「この映画はセックスと熱情だけの映画ではないよ、シンプルなラブストーリーなん
だ」と訴え、ゾーグとベティのバランスを取ろうとして作られた作品のように思える。しかし、その
ことが作品の勢いを殺し、ひいては魅力を消してしまったように思えてならない。なるほど、付け
加えられたシーンの中でも息を呑むほど美しい場面はたくさんある。ゾーグが全財産をはたいて
買ったクラシック・カーをベティのめちゃくちゃな運転で走らせるところなどは、キラキラ輝きとって
も魅力的だ。ベティがなぜ破滅してしまったのかの説明もつく。だけど、『ベティ・ブルー』の物語
は、理屈とか、説明とは最も遠い場所にあるところがたまらなく、一つの愛の伝説を作ったので
はなかったか。一時間も長い『インテグラル』では、ベティとゾーグのカップルが、エディやリザ、
ボブなど周囲の温かい人たちと親しく交遊するエピソードもふんだんにある。が、これは、13年
前に観たときの印象、「社会から切り離されても愛し合うカップルの物語」なのではなかったの
か。

 もちろん、基本は同じ一本の映画なのであり、あらすじにしてしまえば同じストーリーなのであ
る。でも、もし自分が19歳のときに『インテグラル』を先に見ていたら、果たしてベティは自分の中
に存在したのだろうか。30代になり、家庭を持った私が、9年ぶりにベティ・ブルーの物語に浸り
ながら自分の人生を振り返ると、たった一本の映画の1時間の違いがどんなに大きなものだった
のか考えさせられたのであった。『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』を観た何万人もの人たちの
人生だって、もしあの時違うバージョンの『ベティ・ブルー』を観ていたら違っていたかもしれない。
映画というのは、編集によっていかに変わってしまうかを思い知らされた、2001年の私なのだっ
た。

 

初出:夫馬信一さんのネット映画館 DAY FOR NIGHT 特集 ファイナル・アンサー!