1998年7月24日

ビヨンド・サイレンス


耳の聞こえない両親に育てられた少女ララ。奔放な叔母に憧れる彼女はその影
響でクラリネットに熱中、音楽の道を志すようになる。耳が聞こえない父は
音楽好きな家庭で育ち、疎外感を感じていたことから彼女の選択には大反対。
それぞれに心の傷を抱えた親子が、それらを乗り越えて行くプロセス、そして
ララがその夢に向かってまっしぐらに成長し、自立していく様を描いている。

しかし、見事な作品です。静かで淡々としていながらも、きらりと光る輝きが
あります。ひんやりとした美しさのアイススケートや雪のシーン、夜の湖の、
何とも言えないふるえるような美しさ、そして俳優たちの演技の見事さ。賢く
て大人っぽい少女 時代のララ、笑顔が生き生きとしている青春時代のララ、
二人のララ役はそれぞれに魅力的です。本当に聾唖の父親役も、母親役も素晴
らしい。耳が聞こえないはずの母親が一緒にクラリネットのコンサートに行こ
う、と言ったときには涙が出そうになりました。
そして、さらりとした終わり方が、余韻を残します。
大傑作という言葉は大袈裟なので、心に残る珠玉の小品、という感じでしょう
か。音楽ももちろん素晴らしいです。


シーズ・ソー・ラブリー

監督:ニック・カサベテス
出演:ショーン・ペン、ロビン・ライト・ペン、ジョン・トラボルタ、
   ハリー・ディーン・スタントン、ジーナ・ローランズ

エディとモーリーンは貧しく無軌道な生活を送っているが、お互いのことを深
く愛し合っているカップルだった。

ある日、妊娠しているモーリーンを置いてエディは飲みに出かけ、帰ってこな
かった。情緒が不安定になっていたモーリーンは隣人の男と酒を飲むが、彼に
レイプされそうになる。ボロボロになって逃げてきた彼女をエディが見つけ、
隣人に発砲したあげく大暴れ。彼女の通報で彼は精神病院に収容された。
10年の月日が過ぎ、モーリーンはジョーイと結婚。エディとの間の娘に加え
ジョーイとの間にもふたり子供をもうけ、以前とは比べものにならないような
安定していて豊かな暮らしを送っていた。そこへ、精神病院から出てきたばか
りのエディが訪ねてくる。彼女を取り戻しに来ると言って。

ジョーイが語った言葉「夢の女」は、いろんな解釈が出来ると思える。
一つには、手の届かない存在という意味。いくら自分が愛していても、自分の
烈しい思いほどには手応えがないということ。エディから見てもモーリーンは
夢の女。エディが長い病院生活の中でずっと夢見ていた、現実ではない、女
神のような女性。だから、「She's So Lovely」なのだろう。

エディのモーリーンへの愛情というのは、一種常軌を逸した烈しいものだとい
う印象を強く受けた。モーリーンの通報で精神病院に収容されたエディは、彼
女の「3カ月だったら出られるわ」という言葉を信じて、10年間経った後も、
10年間が3カ月だと思いこんでいた。二人の愛は、その長いブランクの中で、
純化されていた。かつて二人が踊りに行ったとき、エディは、「踊りに行ったこ
とは、年取ってもずっと思い出に残るんだ」と言うが、病院に入っている10年
間、彼はあの楽しかった、愛に満ちあふれた夜の思い出を心に秘めていたの
だろう。

彼は、現実のモーリーンに会うのがこわかった。「夢の女」が会うことによっ
て夢の女ではなくなってしまうかもしれないし、逆に、もう手の及ばない存在
になっているかも知れない。だけど、それでも自分は絶対彼女を取り返しに行
ってしまうだろうと。

モーリーンも、エディに会うのがこわくて、止めたはずの煙草を吸い情緒不安
定になっている。自分の通報で彼は10年間も病院に閉じこめられ、自分は新
しい夫と子供たちと、豊かで幸せな生活を送っている。エディに対する思いと
いうのは、「愛情」と言えるものかどうかはわからない。でも、エディに会えば、
自分はすべてをなげうって、愛しているはずの夫や子供たちを捨てて、明日を
も知れないエディとの生活に身を投じてしまうことがわかっていた。理性という
ものを捨てて、他人には理解できない行動をしてしまう自分が現れてしまう。
ジョーイとの結婚生活の中のモーリーンは、まるで別人で、牙をもがれた野獣
のように見えていたが、エディの出現で、ふたたび牙を磨くときがきてしまった
のだった。

ジョーイも、その時が来るのをおそれていた。エディに会えば、きっと彼女は
彼の所へ行ってしまう。ジョーイにしてみれば、どこから見ても自分はエディよ
りも上の人間であるはずなのに、モーリーンの心のどこかにエディへの思いが
息づいているのを感じとっていた。エディがモーリーンを取り返しに来たとき、
その時こそ、彼のモーリーンへの愛はエディよりも大きいものであると証明で
きるチャンスであると、大きな賭けに出ようと思ったのだろうか。本当に自分を
愛しているのかわからない、そんな「夢の女」を現実に引き戻すための賭けに。

エディとモーリーンの娘ジーニーは、牙をもがれた野獣のような母と、本当に
自分を愛しているのか自信を持てない継父の元で育ち、すっかり大人びて強く
なっていた。そして、モーリーンは、そんな娘がそばにいるから、ジョーイは
大丈夫だと判断した。ジーニーなら、家族全員を不幸にしてしまうはずの母
の選択を理解してくれるだろうと。
エディも、「俺の二番目の友達になってくれ」と彼女に言ったくらいだから、
この娘がいれば・・・と判断したのだろう。

エディが家に来た時点で、ジョーイは、もうモーリーンは戻らないものと思っ
てしまったように見えた。でも、99%エディの元へ行ってしまうとしても、
彼女への愛を証明するため、ジョーイは1%の可能性に賭けた。このシーン
はとても哀しいはずなのに、不思議とコミカルさが感じられた。

モーリーンの選択、それは周りの人たちを不幸にしてしまう選択だったけど、
(そして、それは10年前の愛はあるけど不安定な生活への逆戻りを示してい
るが)でも、そのときの、迷うことなくエディとの生活を選んだ彼女の表情、
エディの表情、友人ハリー・ディーン・スタントンの表情、みんな素敵だった。

愛というものの持つ、破滅的なパワー、そしてそれをめぐる人間たちの葛藤が
とてもいとおしく感じられる作品だったと思う。

バタフライ・キス

「神」とは何か。神に見捨てられるというのはどういうことか?

特に信仰する宗教のない者にとっては、「神」とユーニスとのかかわり合いが
わかりにくいような気もする。が、「神」を「愛」と読み替えることはできな
いだろうか? 「愛」に見捨てられたと感じていたユーニスが、決して見捨て
られてはいなかったと信じることができるようになった、一つの救いの物語だ
と。ユーニスの側から見ると、「愛」はどんな悪人をも見捨てるわけではない、
というのがテーマである。

そして、もう一人のヒロイン、ミリアムのテーマは、「見返りを求めない愛は
可能か」ということだと思えた。

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ユーニスは、ジュディスという女性を探し求めてガソリンスタンドを次々と訪
れ、その女性がいないと知るとその立ち去った後には死体を残していく。この
ユーニスという名前は、旧約聖書に出てくる、敵将の寝室に忍び込んで首を切
り落とした聖女で、クリムトやアルテミシアの絵で有名な「ユーディット」か
らその名前を得ている。

彼女はガソリンスタンドの店員で片耳が不自由なミリアムと知り合い、二人で
旅をしながらも、ミリアムに見せつけるように人を殺し続ける。しかし、どん
なに人を殺しても、警察にも捕まらず、罰を受けることもない。故に、彼女は
「あたしは神に忘れ去られた女」と語り、自らを罰するかのように、全身にボ
ディピアスを入れ墨を施した上、「痛いよ」と泣きながらもチェーンを裸体の
上に巻いており、そのチェーンは体に聖痕のような痕をつけている。まるで、
殉教者のように。

狂気に満ちたその行動、殺風景なイギリスの街道をさすらい、どれも同じよう
に見えるガソリンスタンドの売店で「わたしを見て」と叫ぶ姿は、痛々しい。
彼女にこれまで何があったのか、説明はいらない。その姿かたちが、すべてを
表している。

これまで、母や祖母にしかキスされたことのない引っ込み思案のミリアムは、
自分にキスをしたユーニスに恋をして、ユーニスについてあてのない旅を続け
る。ユーニスが殺した男の死体を、ミリアムは自ら進んで一人で埋める。ユー
ニスは「頼みもしないのにこんなことして」と怒鳴る。ミリアムは旅を続けな
がら、ずっとユーニスの悪事の尻ぬぐいをし続ける。ユーニスは、ミリアムが
どんなに尽くしても彼女に優しくしない。「あんたはわたしを善い人にしようと
しているかもしれないけど、そうしているうちにあんたが悪い人間になるよ」と
繰り返す。
これは一つの愛の試練なのだ。見返りを期待しているうちには、本当の愛には
出会えない。

そして、旅の終わりの近くに出会った男に、ミリアムは不快感を覚え、ユーニ
スと交わっている彼を、殴り殺してしまう。初めて、ミリアムが「悪事」と自
覚せず、積極的にそういった行動に出たときであった。
もちろん、ユーニスのためにした、という気持ちもあったのだろう。だが、こ
こで、「ユーニスに喜ばれて、そのことにより見返りとしてユーニスに愛され
る」という気持ち抜きで、自分がそうしたいからした、というところが大きな
転換点であったように思えた。そして、この時、ユーニスも、初めて、混じり
っけなしの純粋なミリアムの愛を感じて、自分の運命を彼女の手にゆだねる、
という気持ちになったように思える。
「愛したい」ミリアムと、「愛されたい」ユーニスの気持ちが初めて合致した
場面・・・。

ラスト、海辺でのシーンは神々しいまでの美しさと、激しく痛い愛に満ちあふ
れていた。やっと、ユーニスは神から罰を与えられることができたのだ。それ
は、彼女の人生の中でも、一番幸せな瞬間だったことだろう。

そして、ことの次第を淡々と語るミリアムの顔は、物語の初めよりもずっと美
しく自信に咲き誇っていた。

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アマンダ・プラマーの、ユーニスその人が完璧に乗り移ったが如き、キレた部分
と痛々しい純粋さが共存した演技はすごかった。サスキア・リーブスの、本当は
とても綺麗なのに、地味で内向的で孤独な女性が少しずつ変わっていく様を描
いていくところもすばらしい。

それにしても、強烈なのはユーニスのキャラクター。
私たちは、心の奥底に、本当はユーニスのように振る舞いたいという願望を隠
しているのかもしれない。だけど、私たちには「社会生活」があるので、その
願望をしまい込み、そして臆面もなく心のままに感情を剥き出しにしているユ
ーニスに嫌悪感を抱くのだろう。
ミリアムは、ユーニスに出会うまでは、殺風景な街道沿いのガソリンスタンド
で退屈で閉ざされた生活をしていて、自分の感情にかたく蓋をしていた。しか
し、初めて自分を一人の人間として、女として扱ってくれたユーニス、絶望的
にジュディスを求めていて、愛の歌を探しているユーニスによってその蓋が、
まるで天の岩戸のように開かれてしまった。
しかし、ミリアムの愛し方というのは、ある意味倒錯している。蓋を開けるこ
とに慣れていないせいか、ユーニスのように奔放に振る舞うことが出来ず、「
悪」そのものであるようなユーニスを「善」に変えようとしたり、頼まれても
いないのに死体を埋めたりする。本当に蓋を開けることができて、自分の心か
ら、自分の本当に欲することを成し遂げる、それは他でもない彼女にとって一
番大切な存在となったユーニスをその手で殺すことだった。

ユーニスにゴミのように殺されていった人たちは、おそらく彼女たちのような
絶望や孤独を知ることはなかっただろう。ああいった形で殺されても、彼女た
ちよりそれまでは幸せな人生を送っていたに違いない。
もちろん、人を殺すことは、どんなことがあっても正当化されてはならない。
相手が罪もない人間だったら、なおさらだ。
しかし、そこまでのことをさせてしまうのは、愛の恐ろしい力だった。

この映画は、決してユーニスやミリアムの行為を正当化しているわけではない、
だけど、孤独で愛を激しく求める人間に対するどこか温かいまなざしがあるか
らこそ、あのような美しい終わり方を見せてくれたのだと思う。

万人にはとても勧められない作品だが、胸につっかかるような、小さな澱を残
すような映画である。

チェイシング・エイミー


自分がもう少し若かったとき、友達とか、ボーイフレンドとかと一生懸命青臭
い恋愛論を語っていたころのことを思い出して、胸がきゅんとしてしまう映画だ。
一つ一つの台詞が面白くて、身につまされて、せつない。
ヒロインのジョーイ・ローレン・アダムスは今までに見たことのないタイプだ
が、魅力的だ。美人じゃないけど、あの甘い声とふにゃ〜っとしててちょっと
ハスに構えた笑顔。ヒロインが魅力的じゃないと、この話は説得力がなくな
ってしまう気がしてしまう。

漫画家のホールデンはコミケで同業者のアリッサを紹介され、彼女と恋に落ち
る。アリッサは魅力的な女性だが、レズビアンで、さらに男性経験も豊富だっ
たということがホールデンの相棒バンキーによって明かされる。彼女の奔放な
過去が気になって仕方なくなり、思いっきり引いてしまったホールデンだった・・。

この映画は、まず、背景がとても面白い。漫画家同士の恋で、出会いの場も
コミケ会場。アメリカでは、コミックというのはとてもクールで最先端のカルチャ
ーだということが伺える。シンポジウムの会場で、ホールデンの友人の黒人
ゲイが大騒ぎを起こしたり、冒頭バンキーがファンに「お前は漫画家じゃなく
てトレーサーだろう」といわれて激怒するところなど、洒落が効いていて楽し
い。さらに、レズビアンクラブに遊びに行ったとき、アリッサとパンキーがお互
いにセックスの時に出来た傷の話を自慢していたりするシーン、自分が若い
ときのバカな行動を振り返ってしまったりして大笑い。

アリッサは、過去は発展家であったことを認め、それでも彼が好きだと告白す
る。「いろんなことを試して、いろいろ迷い道をして、やっと見つけた本当の
愛だったの」という、心に痛い言葉で。そこまで言われたのに、根ほり葉ほり
訊いたあげくつれない態度を取ってしまい、しかし彼女を忘れられず悩みまく
るホールデン。

でも、きっと世の中の男性は、ホールデンのような態度を取ってしまうに違い
ないと思う。そう、若いころの恋愛って、こんなつまらないことにこだわって
しまって、人生で最高の恋になるはずのものを、自分の手で壊してしまったり
するんだな。しかも、ホールデンというのが、「男のメンツ」みたいなのにこ
だわっていてアリッサより自分が経験が少ないということが恥ずかしいと思っ
てしまうような人だったので、よけい気になってしまったのだろう。

バンキーとも仲が悪くなり、アリッサも傷つけてしまったホールデンは困り果
てて、ある提案をする。その思いついた提案がまた、よくもまあこんなバカな
ことを思いついたものだ、という解決策で笑ってしまったが、彼は彼なりに悩
んだのだろう。彼は頭で考えるタイプで、自分の素直な気持ちではなくて、理
論で考えてしまったのだろう。素直な気持ちを彼女にぶつければ、彼女は戻っ
てきたかもしれないのに・・。

情けなくて未練がましいホールデンに比べて(そこがまた微笑ましいのだけど)、
アリッサは潔くてかっこいい。大人になりきれないホールデンは、自分の心情
を綴った「チェイシング・エイミー」というコミックを描いて、筆を折る。

L.A.コンフィデンシャル


この映画は、ジェームズ・エルロイの「LA4部作」の3作目を原作としている。
エルロイの小説の世界は強烈だ。過剰な暴力と深く激しい情念が燃えさかって
いる。彼の、子供時代に母親を惨殺された経験が強烈なトラウマとなって文章
の行間に覗いている様子は痛ましくも、文体に異様な迫力を与えている。慣
れるまでは大変読みにくいが、途中からは止められなくなってしまう。
原作は上下2巻、ずっしりとした読み応えの小説で登場人物も非常に多い。こ
の原作をそのまま映画にするのは不可能だと言わざるを得ない。

結果的に、映画は原作を大幅に整理し、すっきりとした脚本となった。引き締
まった印象を与え、緊張感にあふれている。

エリートのエド、気性が荒く手が早いが男らしいバド、そしてクールな伊達男
ジャックの3人の対照的な性格の刑事たちの人物像を丁寧に描きわけ、彼等が
烈しく反発しながらも一つになっていく様がひとつのエクスタシーを作ってい
く、まさに興奮が持続する映画だ。とともに、50年代のノワールな雰囲気と
虚飾の都ハリウッドの赤裸々な様が蠱惑的である。
ナイト・アウル虐殺事件の現場、ここでのカメラの動きは、次にどんなものが
出てくるのか観るものの想像力を刺激して凄いとしか言いようがない。クラシ
ックなファッションやクラシックカーといった時代考証も完璧。

ただ、原作を端折っている以上、必然的にあのドロドロとした情念の世界は薄
められている。致し方ないのだが、「原作と映画は別物」と言わざるを得ない。
それでも、これだけのものを作り上げたのは素晴らしいことだと言える。

俳優たちの演技も見事の一言。もちろんキム・ベイジンガーも母性を感じさせ
る、男にとっては理想的な(そしてどこか哀しさを 漂わせた)女性を素晴
らしく演じてはいるが、果たしてオスカーを取るほどの演技かと言われるとち
ょっと首を傾げてしまう。ケヴィン・スペイシーの「ロロ・トマシ」と言い放
った演技こそが、鳥肌もの、オスカー級の素晴らしさを見せつけてくれた。男
たちの輝きが、この映画をさらに魅力的なものにしている。

マスク・オブ・ゾロ

ものすごく単純な勧善懲悪チャンバラ映画という感じではあるが、楽しい作品。
余計なものを盛り込まずにエンターテインメントに潔く徹しているのがいい。

冒頭のゾロ大活躍の登場シーンはあっと驚かせて小気味よい。剣術での対決シ
ーンは、生身の人間のぶつかり合いという感じがして、撃ち合いに慣れっこに
なっている身には新鮮に映る。アクションの切れ味がとてもいい。

粗野な盗賊だった(とても彼がヒーローになるとは思えないほど汚らしい)新
ゾロ(愛するバンデラス様)が、旧ゾロのアンソニー・ホプキンズに鍛えられ
て磨かれ、スペイン貴族を名乗るほどのいい男になって行くところはたまらな
い。バンデラスが鍛えられるゾロの道場は「虎の穴」みたいで渋い。ホプキン
ズは長髪は今ひとつ似合わないが、バンデラスでは表現されにくい品格をたた
えて、抑えた演技ではあるが非常に魅力的に映る。ヒロインのキャサリン・
ゼタ・ジョーンズも強く美しく凛々しくて素敵。そんな彼女がバンデラスのペ
ースに乗せられ、ふたりでセクシーな踊りを見せるところや、ゾロと馬小屋で
剣を交えるところも、いかにもスペインぽく情熱を感じさせて、定番ではある
けれども魅せる。

最後のクライマックス、真剣勝負の中でもユーモアを忘れないところがバンデ
ラスらしくて、気に入ってしまった。名作とか傑作といえるような映画ではな
いが娯楽作品としては一級品。


ウェルカム・トゥ・サラエボ Welcome to Sarajevo


1997年イギリス 監督マイケル・ウィンターボトム 
出演:
スティーブン・ディレーン/ウディ・ハレルソン/マリサ・トメイ/エミラ・ヌシェ
ヴィッチ/ケリー・フォックス/ゴラン・ヴィシュニッチ/ジェームス・ネズビット
 
ボスニア紛争真っ只中、戦火のサラエボにて働くジャーナリストたち。英国
人ジャーナリストのマイケル・ヘンダーソン(スティーブン・ディレーン)は、取
材に訪れた孤児院で、エミラ(エミラ・ヌシェヴィッチ)という9歳の少女と出会
う。 それからしばらくして、救援隊のニーナ(マリサ・トメイ)が、子供たちの
避難計画を携えてマイケルたち取材陣の元を訪れた。マイケルはエミラを自
分の養子に迎え、ともに国外へ逃れる手筈を整える。

実際の報道映像を交えた映像は衝撃的である。冒頭、娘の結婚式のために着
飾って教会へ歩く途中の母親が射殺される画面から、何の罪もない人間が容
赦なく死んでいくという現実が叩き付けられる。孤立した孤児院は爆撃され、
幼い子供たちにも生命の危機が迫る。しかし、ジャーナリストたちが命懸けで
撮影した映像も、本国では王室スキャンダルの特集のため放映されなかった
りする。その程度の認識なのだ。政治家も、他にもっと危機に瀕した国が存在
するという認識を持っている。ジャーナリストたちも、戦争を報道することによっ
てある意味、戦乱を飯の種にしているのではないかという気持ちになる。

ヘンダーソンはそんな中、少女エミラを養子に迎え、他の子供たちとともに国
外への脱出を図る。子供たちを国外に連れて行くという行為は違法だけど、一
人の人間として何ができるかと自問したとき、自分の良心に従って行動した。
しかし、単なる美談に終っていない。エミラの母親が見つかり、彼女は親権を
主張する。ヘンダーソンはボスニアに戻り母親に会いに行き、母親とエミラは
電話越しに話すが、すっかりロンドンの生活に慣れたエミラは「あなたなんて
知らない」と答える。いつ命を落すのかわからないボスニアより、安全で豊か
なロンドンの暮らしの方がいいに決まっているのだが、親子の絆とはその程度
のものだということもまた、現実なのだ。久しぶりに再会した、ジャーナリスト
たちの運転手で、女性ジャーナリストの恋人であるボスニア人の青年も、戦
況の悪化にともない自ら銃を持ち闘いに参加し、命を落す。

冒頭の花嫁の母の射殺から始まり、市民が虐殺されている様子の報道映像、
生々しい銃声と、現実と虚構が織り交ぜて巧みに紡ぎあげられた映像には、
説得力がある。戦争には大義名分はあるだろうけど、現実はそんな奇麗事で
はなくて正義とか民族自決とかそんなことを言う前に、子供たちを始め数え切
れないほどの命が奪われ、人々がこれまで築き上げられてきたもの全てが破
壊し尽くされているということを改めて感じる。

戦争を前にして、一人の人間ができることってほとんどない。この圧倒的な負
のパワーの前では、すべてが無力に感じられる。でも、人間として何かできる
ことがあるのでは、ということでヘンダーソンは少女を連れ出した。彼の自己
満足という面も大きい行動だが、こんな小さなことによって、彼の魂も救われ
た気がする。たとえ、脱出中遭遇したセルビア兵による検問でムスリムの赤
ちゃんが連れ去れられたとしても・・・。

そして、今、NATO軍の攻撃によって、同じように一般市民が無残にも命を奪
われているのだ・・・。わたしたちには、一体何ができるのだろう。

1998年10月26日

CUBE

こんなに恐ろしい映画を見たのは生まれて初めてかもしれない。見終わった
後、手には汗がびっしょり。途中で何回も出たくなった。でも、凄い映画。一見
の価値があり。

数人の男女が、四角い箱に閉じこめられている。なぜ、彼等がそこに閉じこ
められたかは謎。この箱には、6つの、それぞれ違う別の箱へと通じるハッチ
がついている。そして、これらの箱には、赤や青や緑や黄色の色が付いてい
る。閉じこめられた者たちはなんとかしてこの箱(まるでルービックキューブの
ように連結されている)から脱出しようと試みる。しかしながら、これらの箱の
いくつかには、恐るべき残酷な殺人装置の罠が仕掛けてある。何人かがこの、
悪意を剥き出しにした装置の犠牲になり、残された者たちは知恵を使って脱
出しようとするのだが、このような極限的状況に置かれて、彼等は同士であ
るはずの他の閉じこめられた人たちに対し疑心暗鬼になり、精神のバランス
を崩し・・。

まるでゲームのように話が進んでいくが、恐ろしいのは、実はこの「キューブ」
に仕掛けられた殺人装置よりも、人間の心であることが徐々に語られていく。
そして、なぜこのような何の役にも立たない装置がつくられてきたのかという
謎も解けてくる。

一つのハッチを開けるごとに心臓がドキドキし、生きた心地がせず、目を背け
ようとし、そして終わったときにはへたりこんで立ち上がることさえできなくなっ
ていた。

カナダの映画で、有名な俳優は一人も出ていないし、なんと予算5000万円、
箱1つ半とカメラに取り付けたセロファン紙だけのセットで作られたということだ
が、凄いものを作ってしまって、と戦慄せずにはいられなかった。

1998年11月1日(東京国際映画祭)

ゴールデンボーイ Apt Pupil

好奇心旺盛で賢い優等生の高校生(ブラッド・レンフロ)が元ナチス高官の戦
争犯罪人の老人(イアン・マッケラン)と出会ったことで起きる恐ろしい事件
と忌まわしい記憶の物語。

原作はスティーブン・キングの「恐怖の四季」シリーズから。成功作が少ない
と言われているキング原作映画作品だが、この中編集からは「ショーシャンク
の空に」「スタンド・バイ・ミー」という、評価の高い映画が生まれている。
果たして本作はどうだろうか。こんな前振りをしておきながら私は実は原作は
読んでいなかったりする。

原作を読んだ人によると、本当はもっともっと恐ろしい作品で、映画は物足り
ないということのようだが、かなり怖い。ホラー映画でもないのに人間の心の
恐ろしさをしみじみと感じさせた。原作はこの底知れぬ恐怖を、小説ならではの
描写で丹念に描いているとのことだ。

最初、単に好奇心に導かれて老人に接近していった少年。彼がSSの制服を老
人に与えて無理矢理着せて行進させたことにより老人の中の悪意が目覚める。
やがて、老人の持っていた本質的な悪意が少年の心の中にじわじわ染み込ん
でいく過程が恐ろしかった。最初は嫌がっていたのに、行進させられていくこと
で、老人の中の狂気が鎌首をもたげる、あの瞬間は筆舌にも尽くしがたい恐ろ
しさであった。そして、形勢は逆転し、少年は老人の悪意の繰り人形と化して
しまうのだった。長年、戦争犯罪を逃れてきた男である。いくら聡明な少年と
はいっても、この悪魔のような老人にはかなうはずもない。少年の中にも、老
人の心の闇が伝播していくのだ。

14歳のブラッド・レンフロの演技にも恐ろしい才能を感じたが、イアン・マッケ
ランはそれにも増して本当に凄まじい。ナチスの残虐行為はほとんど映像で
は語られないが、その恐ろしさは彼の演技から十分伝わってくる。

イアン・マッケランも、若き監督のブライアン・シンガーもゲイであることを公表
しているが、老人と少年、少年の担任教師、老人の家に入ったホームレス
の男など、同性愛的な雰囲気も濃厚な作品である。


1998年12月1日

ラブ・ゴーゴー

台北のパン屋さんが舞台。そこに勤めているもじゃもじゃ頭で太っていてさえ
ないパン職人と、同じアパートに住んでいるこれまたおデブだけど夢見る乙女
のリリー、そしてそのパン屋さんにセールスにきた護身具のセールスマンの3
人の恋のオムニバス。恋愛映画の主人公になるとは思えない、かっこわるくて
そのへんにいそうな人々の恋の話は、これまた格好悪い愛し方なのだけど、
限りなくいとおしい。

パン屋の青年アシェンは小学校の同級生で、ある日突然透明人間のように
消えた足の悪い美女に店で再会する。彼女は毎日レモンパイを買っていく。
彼女の歓心を買うためか、彼は想いを込めてかわいらしいケーキを作って
並べる。そして、彼女に気持ちを伝えようと思ってテレビののど自慢番組に
出るため、同居人の芽の出ないミュージシャンに歌を習う。彼がファンシーな
便せんにしたためた、透明人間の彼女への思いを綴った手紙は泣かせる。

おデブなリリーは拾ったポケベルにメッセージを入れてきた気障な男性に会う
ため、必死でダイエットに励む。そしてパン屋の青年と同じ美容師の美女に髪
を切ってもらっている最中にちょっとした騒動に巻き込まれるセールスマンの
青年。登場人物がみんなとても純粋でいとおしくて、そしてそれぞれ、決して
ハッピーエンドの恋ではないのに、クスリと笑えて、温かい気分になる映画。

特にアシェンが美女に捧げる歌をのど自慢番組で歌う場面は素晴らしく感動
的。白いタキシードを着て、へんちくりんな振り付けをしてへたくそな歌を切々
と歌うのをみて、恋人に振られたばかりの美女がレモンパイを前に涙を流す場
面、笑いながらも泣けた。

1998年11月6日

ダーク・シティ

「ザ・クロウ」のアレクシス・プロヤス監督作品。
闇の美学が炸裂するゴシックな美術と、映画をとりまく世界観が素晴らしい。
まるで自分のために作られたような映画ではないかと思ってしまった。

決して太陽が出ることのない、一日中真っ暗な街。ここで主人公がホテル
の風呂場で目を醒ますと、記憶を失い、傍らには娼婦の死体が・・。その
娼婦の死体には謎の渦巻き状の傷が付けられていて、気がつけば同じ手口
の連続娼婦殺人の容疑者として追われているとともに、謎の宇宙人のよう
なものにも狙われる身に。そして、いつのまにか自分には、不思議な能力
が備わっている。

真夜中に時を止められメタモルフォーゼを繰り返す街。青ざめた顔の異邦人
たちが空を飛ぶ。闇とデカダンスが支配し、この悪夢から逃れられる術はな
い。朧気な記憶の底に眠る海岸の街「シェル・ビーチ」。作られ、植え付け
られた記憶。
そして、本当に彼女は妻なのだろうか・・・。

好きな人にはたまらない世界だ。異邦人たちが3人並んで暗黒の街を飛ぶ
様なんてまさにツボにはめられたという気分。「メトロポリス」的な、ドイツ
表現主義の影響がこんな映画に出ている。
出演者も、ジェニファー・コネリー、ウィリアム・ハート、キーファー・サザーラン
ド、そして異邦人役のリチャード・オブライエンと豪華。
話の筋はさておき独特の美学に裏付けられたこの映画の雰囲気に酔いしれ
てしまう。

ベルベット・ゴールドマイン Velvet Goldmine


監督:トッド・ヘインズ
出演:ジョナサン・リース・マイヤーズ、ユアン・マクレガー、クリスチャン・
   ベール、トニ・コレット

70年代のロンドン。カリスマ的な人気を誇ったグラム・ロックの大スター、ブ
ライアン・スレイド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は華やかなステージ上
で撃たれて死ぬ。しかしながら、これは偽装殺人だということが暴かれ、彼は
ファンに見捨てられ表舞台から姿を消す。当時彼の大ファンだった新聞記者
のアーサー(クリスチャン・ベール)は、彼の元の妻コニー(トニ・コレット)や、
彼の好敵手であったカート・ワイルド(ユアン・マクレガー)、マネージャーなど
にインタビューを試みる。バイセクシュアルを公言していたブライアン・スレイ
ドを通して、自分のセクシュアリティに目覚めていったアーサーは、あの時代
と、彼らロックスターたちとの出会いを記憶から呼び覚ますのであった。

70年代グラムロック大好き、という人には勧められる。私もその時代の音楽が
大好きなので、目も眩むばかりのグラマラスな衣装や舞台装置、音楽、そして
美しい男性たちに魅せられた。だが、わからない人には何だかよくわからない
映画、としか映らないような気がする。ブライアンはもろジギー・スターダストの
ころのボウイだし、カートはまるっきりイギー・ポップ。でも、彼らの苦悩、心の叫
びが聞こえてこないのだ。なんだかくっついたり離れたりしているけど、どうし
てそうなるのか、全然わからない。ブライアンのどこに、偽装殺人に仕立てて自
分を消さなくてはならないほどの苦悩がどこにあったのかよくわからなかったの
は最大の欠点。最後のカートのせりふ、「僕たちは世界を変えようとして、自分
自身が変わってしまった」というのは印象的だったが、どうしてそのような心境
になったのかも十分語られていない。

反面、グラムロックの世界にはまり、普通の服の下に派手な衣装を着込んで
家を出たり、同級生にバカにされながらもブライアン・スレイドのレコードを買いこ
むアーサー。彼がバイセクシャルであることをTVで公言したブライアンを指して、
両親に向かって「あれは僕だ!」というシーン、これはリアルで、かつインパクト
があった。このキャラクターだけはとても良く描けていたと思う。

主人公のジョナサン・リース・マイヤーズは超・美形で、妖しくて素敵。ユアン
・マクレガーも若干太めながら、役名カート・ワイルドさながらにワイルドで格
好良い。ライブのシーンではパンツを下ろしてペ○スを振り回しながら歌い踊
るので、ファンは必見。
二人とも、吹き替えなしでパワフルな歌を聴かせてくれるし、T.REX,ブライアン
・イーノ、ロキシー・ミュージックなど音楽も豪華絢爛でサウンドトラックもよくで
きている。

70年代のうたかたのようなグラマラスで耽美的な雰囲気には酔い痴れることが
出来たので、良しとしたいところだ。もう少し脚本が良ければ傑作になったこと
であろう。はっきり言って出来損ないの映画だが、なんとなく好きな作品ではある。


1998年12月20日

ビッグ・リボウスキ


話の内容はあるような、ないような作品だが、とにかくおかしくって笑い通しだっ
た。湾岸戦争の頃のバブルっぽい時代を背景に、仕事もしないで日長ボウリン
グにいそしむ、世の中から落ちこぼれたオヤジたちの生態が笑える。これら登
場人物がとにかく強烈。

一番インパクトが強かったのは、出番は少なかったけど紫の衣装と奇妙な振り
付け、ボウリングのボールをなめ回したり磨いたりする仕草が変態っぽいジョン
・タットゥーロ演じるその名もジーザス。ジプシー・キングスの演奏する「ホテル・
カリフォルニア」に合わせてクネクネ。主人公のデュードことリボウスキは、「恋
のゆくえ」の伊達男は今いずこ、ユルユルにゆるみきった体型ときたならしさ、
だらしなさが天下一品のジェフ・ブリッジス。その相棒のジョン・グッドマンはベ
トナムを今でも引きずっていてアナーキーで過激でキレっぷりが半端じゃない。
デュードを大いなる災厄に導く。彼らの仲間で影の薄く、めずらしくまともな役の
スティーブ・ブシェーミは最後泣かせてくれる。そして、デュードと同姓同名の大
富豪の娘ジュリアン・ムーアの奇天烈な前衛芸術家もこわすぎ。誘拐犯たちは
「ニヒリスト」と呼ばれているけど思いっきりクラフトワークもどきのドイツテクノバ
ンドみたいだし、思い出すだけで吹き出してしまう。

こんな奇妙な人たちが、大富豪のお金を巡ってサル知恵を働かす様は、哀しい
けど面白い。デュードの夢のシーンはまるで「ムトゥ踊るマハラジャ」のように唐
突で意味もなく豪華でナンセンスでいい感じ。こんなに楽しくて意味のない映画
を軽く作ってしまうコーエン兄弟は偉大だ。