映画作りと金儲けのビミョーなカンケイ

 −「セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ」に寄せて−



 Making Movie, Making Money
 Talking about "Cecil B. Demented"


哀しき映画ファンの終着駅


幸か不幸か、単なる一映画ファンであったMは、気がつけば映画業界の末端にいた。映画業界とは、「この映画は儲かるのか」ということを日長考え、電卓を叩いたり計算式を入力しまくり、さらには「この映画にお客さんをたくさん呼ぶには観客をこのように騙すべし」と奸智をめぐらし睡眠時間を削り、気がつけば全然映画館に足を運ばなくなってしまう因果なところである。「映画が本当に好きなのか!?」と聞かれても素直に「ハイ」と答えられなくなってしまった哀しい映画ファンの末路がここにはある。

Mは弱小映画会社でインディペンデント作品を中心に配給しているから、それでもまだ「ショウバイ」としての映画をさほど考えなくて済む、業界の中ではシアワセな部類の人間である。配給している作品にちっぽけながらもプライドを持ち、「本当に良い映画を世の中に送り出しているんだ」という自負に支えられてなんとかこの仕事を続けられているのである。それでも、それなりの金額を払って映画を買い、客が入らないと小さな会社ゆえあっという間に潰れてしまうので、電卓は肌身離さず、寝る時にも横に置いていて夢の中まで$マークが追いかけてくるという楽しい毎日だ。 映画館の興行関係者も毎日夢の中に出てきて、最近では寝覚めがとても悪い。

Mはそれでもまだ自分は幸福なつもりでいる。魂を売ってはいないつもりからだ。ところが、映画を商売にしている以上、実はやっぱり資本主義に取り憑かれているのだ。たとえばMは難解で有名なとある映画監督の映画を宣伝しているのだが、宣伝している本人は全くその映画の内容を理解していない。にもかかわらず、軽薄なライターに、「オシャレな現代人にとって彼の映画を観ることは、インテリジェンスを証明する行為である」みたいな中身のない記事を、広告だらけで何が記事で何が広告なのかわからないような「サブカルな雑誌」な雑誌に書いてもらっていたりするのだ。映画をメシの種にしているってことは、資本主義とは無縁でいられないってこと。それがどんな小さな予算で作られた自主制作作品であっても、配給収入を得て商売にしようと思う限りは。
 

セシル・Bは映画の救世主か!?


さて、この「セシル・B・ザ・シネマウォーズ」って映画は、まさに映画と資本主義についての映画だ。この映画の中では、セシル・B・ディメンテッドなる男と彼の仲間たちが“究極のリアリティ”をスローガンに“予算ゼロ”の映画を撮ることを企て、「パッチ・アダムス完全版」を上映しているシネコンに殴り込みをかけ、「フォレスト・ガンプ」の続編の撮影スタジオを襲撃する。この2作品が「腐ったハリウッド」の代表作品として糾弾されていて、さらにヒット作の続編ばかりが製作される現状を批判しているのだ。彼らに味方をするのは、カンフー映画やポルノ映画に集まる男たちだ。一方、この映画の中では、映画史上に残る名作「天井桟敷の人々」は英語吹き替えにされてしまい、上映館には閑古鳥が鳴いている。

たしかに、ハリウッド映画界は拝金主義社会の究極形を体現している。映画の予算を集めるためには、まずはスターが出演していること。そしてスター監督やヒット作を生み出した脚本家の手による作品であることも大事。肝心の中身は、「映画を通して何を伝えたいか」はその後についてくる。映画が完成した後、モニター試写を行い観客の反応が悪いと平気で結末を変える。しかも、別ヴァージョンの結末は作品がDVDとして発売された時に映像特典として、マニアの購買欲をそそるのに活用される。スターが出ていることがヒットを保障するものだと映画会社は思っているから(多くの場合、それは全然あてにならないのだけど)、スターは一つの映画に出てン千万ドルもギャラがもらえ、それが映画製作費の大部分を占めてしまう。

日本の配給会社も、完成した映画を観る前どころか、脚本すらできる前に「誰それが出ていて監督が某だから」という段階で買い付けをする。時代は“癒し”を求めていると察するや、宣伝部は「この映画は泣ける」をうたい文句に、健気な子役や知的障害者の演技で安い涙を売り物にしたり、あの手この手で観客を騙そうとする。今年は映画館に行くと続編作品だらけ。シネコンに行くと、「エピソード2」やらメガネをかけた魔法使いの話やらで何スクリーンも占拠されてしまっている。本当に面白い映画はお台場あたりの不便な映画館や、ネズミが走り回るようなオンボロの映画館で1週間だけかかってサヨウナラ、という上映形態だし、名画座はどんどん潰れている。気がつけば映画は作品じゃなくて、「コンテンツ」というよくわからない横文字を付けられ、使い捨てられていく時代になっているのだ。そして、映画会社やマスメディアが、観る目のある観客を育てることを怠ってきたため、人々は自称映画評論家による宣伝文句や「感動しました!」という小泉総理みたいな胡散臭いやらせ文句のTVスポットに騙され、いそいそとデートのために映画館に向かう。一人で来ている観客を見て「あの人 きもい」なんて小馬鹿にしながら。

セシル・Bと仲間達、そして監督のジョン・ウォーターズはこのような時代背景の中で、大真面目に「映画」を守る孤独な戦いに参戦したわけだ。その心意気や、アッパレである。安易なお涙頂戴や続編、オリジナリティの欠如やマーケティングを否定して“真にオリジナルでリアリティのある映画”を作ろうとしている気概は映画ファンの鑑だ。


本当のアンチ権威主義、アンチ金儲け主義って何?


ところが、そんな彼らとて、権威主義や資本主義とは無縁でいられない。それが映画というものなのだ。セシル・Bの仲間達はそれぞれ尊敬する映画監督の名前をタトゥーしているのだが、それがデヴィッド・リンチ、サム・ペキンパ、ペドロ・アルモドヴァル、スパイク・リー、R.W.ファスビンダー、サミュエル・フラーといった通好みの顔ぶれだ。しかしながら、彼らは決してマイナーな存在ではない。確かに熱狂的なファンの多い映画作家たちだが、言ってみれば彼らのファンであるということで映画マニアを気取れるのである。つまりは、彼らに心酔していると表明すること自体、権威主義にほかならないのだ。マニアックだけど有名な監督の作品を、よくわかっていないくせに「XXみたいな難解な映画を観たりする自分が好き」というスカしたシネフィルたちとどこが違うのか?

そもそも、映画ファンが「この映画はハリウッドのメジャーが製作した映画で、スターが出ていてドンパチとかやっているからダメな作品だ」「お涙頂戴映画だからクソだ」「続編だから観る気もしない」なんて外見だけで断罪していいのか?映画なんて面白ければそれでいいのではないのか!?海外の映画祭で賞をもらうような素晴らしいとされている作品でも、何も感じるところがなければ自分にとってはカスなんじゃないのか?

正直、セシル・Bとその仲間達は無茶苦茶“寒い”人たちだ。結局はハリウッドの巨大なシステムに踊らされていて、破壊行為を繰り返してテロリストの真似事をしているお猿さんなんだから。こんな連中を賛美する映画を作ってしまった変態監督ジョン・ウォーターズも、ついにヤキが回ったのか?

 

映画マニアたちを愛するがゆえの、鉄槌


だが、よく考えてみたら、この作品は“マーケティングで作られた映画”が幅を利かす拝金主義的な状況を批判しつつ、同時にアンチハリウッド、アンチ商業主義を標榜しながらも結局は資本主義に踊らされている哀しき映画マニアたちを、愛情のこもった目で見つめながらも揶揄している

そんな哀しき映画マニア軍団の中で一人怪しい光を放っているのが、彼らに誘拐されて、パティ・ハーストさながらにテロ行為に荷担する女優ハニーを演じたメラニー・グリフィス。名女優を母に持ち、今では全身を整形してイケメンの夫バンデラスを繋ぎとめている典型的なハリウッドスターである彼女が、自分のパロディのようなスター女優やがてはテロリストを演じるのは相当勇気ある行動だ。しかも魔女のようなメイクを施され、しまいには髪の毛に火をつけられてしまって喝采を浴びる。ジョン・ウォーターズはハリウッドの金儲け主義を批判していながらも、ハリウッド・バビロンの象徴であるハリボテのような女優メラニーを愛し、彼女を賛美するためにこの映画を作ったのかもしれない。メラニー・グリフィス演じるハニーは彼のハリウッドへの愛憎半ばの感情を体現しているってことだ。

ジョン・ウォーターズは映画を愛して止まず、そして映画を愛する人々を愛している。だけど、時として映画は彼の愛情に応えることができず、時には金儲け主義が露骨に見える駄作を量産し、金にあかせて映画ファンを騙す。一方、映画ファンも、そんなハリウッドメジャーには騙されないぞと言いつつも、インディペンデント作品の皮を被った別の金の亡者に騙されている。ジョン・ウォーターズだって、同じように騙されて愛を裏切られたことが数多くあったのだろう。その複雑な感情が、この映画の中に怨念のように込められているように思えてきた。

 

そして映画はどこへ行く


映画を作るにはお金がかかる。映画が完成してから客を映画館に呼ぶにもお金はかかる。自己満足のためだけに作ったような映画を除けば、映画は金儲けとは無縁ではいられない。映画業界の末端で地道に馬車馬のように働かされているうちに、それが骨身にしみてきたMだった。

しかし、いくら良質な作品を作ったり配給したところで、うまくマーケティングができず、時流に乗ることができなければ誰もその作品を観てくれない。映画は観られてナンボだし、客が入らなければ、会社の経営は危なくなる。映画業界の人たちは「昔ならお客さんを動員できた作家性の高い映画に、最近客が入らなくなった」「若い人がアート系の映画を観なくなった」とぼやくことが多くなった。原因の一つには、若い人たちが本を読んだり考える力や想像力を養ったりする機会が減って、携帯で得られる手軽なコミュニケーションばかりにお金と時間を割いているってこと。駄作に宣伝費をかけて映画館に足を運ばせた挙句に、観客に「1800円も払ったのに無駄にした。もう映画なんて観ない」と思わせてしまうことも一つ。映画料金が高騰して、お金のない若者には手軽な娯楽ではなくなってしまったのも一因だろう。殿様商売でふんぞり返り、若い観客を養ってこなかった映画業界やマスコミにも責任がある。そうやって、良質な映画は駆逐されていく。

アメリカには、ジョン・ウォーターズのように金儲け主義に毒された映画業界に対して警鐘を鳴らし、愚かな観客達を笑いながら映画亡者の自分をも笑い飛ばす映画人がいる。だけど、日本にはジョン・ウォーターズはいるのだろうか?ハリウッド映画をバカにする観客はたくさんいるけど、自分の愚かさを自覚している映画ファンはどれだけいる?映画に客が入らないのは自分達にも責任があると自覚している映画業界人はどれだけいる?映画ファンも、映画人も、本当に映画が好きなのか!?一見ハチャメチャな映画の中でウォーターズが投げかけた疑問は案外深い。

 

そしてMが映画のためにできることとは、良い映画をきちんとマーケティングして宣伝し、ヒットさせること、そのためには徹夜も厭わないこと、なのであった。ぐすん。



セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ Cecil B. Demented(2000年・アメリカ)

監督・脚本:ジョン・ウォーターズ

製作:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、ジョン・フィードラー、マーク・ターロフ

出演:スティーヴン・ドーフ、メラニー・グリフィス、エイドリアン・グレニアー、アリシア・ウィット、ラリー・ギリアード・Jr、マギー・ギレンホール


この文章は、映画館主FさんのDAY FOR NIGHT 内 特集Movies in Movies 映画を語る映画たち から転載したものです。