Illusions
- like "Swan Lake"
Ballet by John Neumeier
舞台に恋をするということと「幻想〜白鳥の湖のように」とマシュー・ボーン「SWAN
LAKE」
「白鳥の湖」の王子を、バヴァリアの王ルートヴィヒ2世に置き換えたこの作品。
冒頭から王が狂ってしまって、自らが建てた城に幽閉されるところから始まる。
彼は、この中に閉じ込められるにいたるまでの記憶を甦らせる。輝かしい栄光の日々。
彼の脳裏に、彼一人のために上演された「白鳥の湖」のシーンが甦る。王はいつのまにか王子に成り代わって劇中に入り込み、踊っていた。
許婚のナタリア姫を、彼は拒絶する。
彼の分身であり憧れの存在でもある“影”を愛し、舞台の中にしか存在しないはずの「白鳥の湖」のオデット姫を愛してしまったから。
仮面舞踏会。王はジークフリート王子の扮装で登場。古典版のようにオディールがオデットのふりをして王子を誘惑するのではない。王の彼の愛を得たいナタリア姫がオデットに扮して、自分に振り向かせようとする。彼女の中にも一つの狂気が宿っていた。
真夜中に、舞踏会の客たちが仮面を取り除く。そして影がその正体を現し、王は発狂する。
全編を通して、王の“影”が登場する。影は悪魔ロットバルトだったり、3幕の道化&マスター・オブ・セレモニーだったり。そして最後にはこの闇は王を取り込んで覆い隠してしまう。“影”は狂王の心の闇の象徴である。と同時に、ボーン版の「白鳥」ではザ・スワンやザ・ストレンジャーにも相当する、王子の絶望的な愛を受け止めるキャラクターなのだ。
王を演じたイリ・ブベチェニクの演技が凄い。静謐でクリアー。くどくもなく大仰でもないのに、佇まいだけで、その場にいるだけで、気が触れていることがわかってしまうのだから。ヘルムート・バーガーがヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ神々の黄昏』で演じたルートヴィヒにも、どこか似ているが、より幻想の中に生きているような、地に足がつかない夢見がちな美青年である。自ら手がけた城の模型にスリスリと頬擦りしたり、親友アレクサンドルを見ても反応しなかったりと完全に逝ってしまっているのだが、それでも王らしく堂々とした気品があるのが泣ける。 「白鳥の湖」の物語に耽溺する。舞台のそれぞれのシーンもミニチュアで再現されている。虚空を見つめ続ける瞳が映し出す、ロマンティックな狂気。
“影”のカースティン・ユングも素晴らしい。ラストでは王を逆さにして抱え込み振り回す恐ろしく難しいリフトをこなし、高貴かつ邪悪で圧倒的な存在感をみせてくれている。 “影”、マスク姿の道化、ロットバルトと色んな役を演じ分けなくてはならず、難役。
オデットを演じたアンナ・ポリカルポヴァ。白鳥という人間では存在を演じている上に、それが王の妄想の中という二重の幻なのだが、本当に夢のように美しいだけでなく、技術的にもこれ以上を望めないくらい完璧だ。光り輝く金髪、存在しているだけでドラマを感じさせるファム・ファタル的な美貌だけでなく、体のラインも跳躍も演技も凄いのだから無敵である。これが人間であるとは信じられないほどだ。
そして王の親友(で、もちろん想像上の友達)アレクサンドルを演じたアレクサンドル・リアブコ。天使のように無邪気で、彼がのびのびと軽やかに端正に踊っているのを観るのは、至福のときだ。アレクサンドルという人物も王の願望の現れである。アレクサンドルと婚約者のクレア姫とのパ・ド・ドゥの輝き、幸福感は王が決して手に入れることのできないものだから。二人の気持ちの高まりを感じさせる、でも地にもしっかりと足がついたダンス。それに対して、王とオデットに化けたナタリアの踊りは、どこか歪んだ情熱を感じさせるものだ。王はアレクサンドルとクレアの踊りの中に入り込もうとするが、結局三位一体になることはできない。
古典版だと4幕に相当する部分にあたる、王の死へと至る終幕の演出には戦慄を覚える。チャイコフスキーのオリジナルのスコアの使い方の巧みさ!影と格闘する王。湖を思わせる青い布で王を包む“影”。『ルートヴィヒ神々の黄昏』でのルートヴィヒの死を思い起こさせる。求めてやまないものを手にすることができず、物語の中へ、幻想の中に入ったっきり二度と出てくることなく闇の中で一人死んでいった王。狂っているのに、その頭の中、思考は限りなくクリアーであるというところがあまりにも悲しい。
打ちのめされる一作である。
映像特典として、ノイマイヤーのインタビューがついている。とても興味深かったのが、美術のユルゲン・ローズとともにノイシュヴァンシュタイン城などルートヴィヒの建てた城を訪ね歩いた時のエピソード。未完成だから、と最後まで見ていなかった部屋に踏み込んだときにルートヴィヒの本質を知ったという。一つ一つの城に、自分が愛して病まないもののモチーフを取り入れ、愛する場所を再現しようと心を砕いた。幾多の城を築いたのに、ひとつとして完成を見ることができなかったというところにルートヴィヒという人物を見たという。レッスンの風景も少し見ることができる。オーディオ・コメンタリーつき。国内盤をぜひ出してもらいたいものだ。
ハンブルク・バレエ「幻想〜白鳥の湖のように」を振付:ノイマイヤーの音声解説付で再見。彼はとても聞き取りやすい、わかりやすい英語を話す。
面白いな、と思ったのは冒頭に登場する青くて金色の刺繍がある美しい幕についての話。実際にルートヴィヒ2世の城の一室にかかっていた幕を再現したもので、ラストの彼の溺死を思わせるシーンでは、湖の水も表現しているのだ。別の幕を王が剥がすシーンでは、幕の下から19歳の戴冠式のときのルートヴィヒの眉目麗しい肖像画が現れる。ノイマイヤー先生と美術担当のユルゲン・ローズはずいぶんと徹底的な調査を行ったようだ。2幕の白鳥たちのシーンは元振付を再現すべく、元バレエ・リュス・デ・モンテカルロのダンサーに依頼して当時の振付を再現させたという。
一回目に観た時はただただ凄い、と思って食いいるように観ていたのだが、今日観てさらに面白い構造の舞台だな、と思った。随所に仕掛けがあるのだが、自分にとって一番やられた、と思ったのは2幕の劇中劇。
王はがらんとした城の中で、自分ひとりのために「白鳥の湖」を上演させる。そしてオデットが登場した瞬間、彼は雷に打たれたように席から立ち上がる。そしてついにパ・ド・ドゥでは自分が舞台の中に踏み込んでしまい、王子の代わりに王子役を踊ってしまうのである。オデットも、王子も、白鳥たちも一瞬素に戻って驚いた表情を見せるが、何しろ王なのでやめさせるわけにもいかずそのまま踊り続ける。自分の席に戻った王だったが、再びコーダでは舞台に上がり、王子が踊るべきパートを踊ってオデットをリフトし、しまいには永遠の愛を誓ってしまうのである。
ここで二重の“幻想”の構造が登場する。
そもそも、「白鳥の湖」のオデットという白鳥に姿を変えられた姫という存在自体が幻だと考えることができる。最近、マシュー・ボーンの「白鳥の湖」の出演者のインタビューを読んだら、演じるダンサーによっては、2幕4幕の白鳥のシーンというのは完全に王子の妄想ではないかという解釈があるということだ。(一方で、幻ではなく現実であると考えているクリス・マーニー@王子もいる)
ボーン版の白鳥では、ザ・スワンは王子の理想とする姿の反映であり、なおかつ彼の“愛されたい”という願望をかなえるために存在している生き物である。
一方、こちらの「幻想〜白鳥の湖のように」では、2幕の白鳥たちのシーンは、狂気に陥り城に幽閉された王が、記憶をたどっていくうちに甦る虚実入り混じった場面となっている。1幕で親友のアレクサンドル(彼の存在自体、妄想なのであるが)とクレア姫との愛の踊りを観て、孤独な自分には決して持ち得ないその愛を渇望する王。彼は、白鳥オデットという幻の存在に恋をする。
しかも、このオデットは「幻想〜白鳥の湖のように」の登場人物ではなく、劇中劇のキャラクターで、バレリーナによって踊られている。そもそも、オデットは現実ではなくて舞台の上の存在なのだ。白鳥という自分の妄想の中の存在と、舞台の登場人物という二重の幻想に王は恋をする。
王は、自分ひとりのために盛大な舞台を開催させるほど「白鳥の湖」の物語の世界に耽溺している。王のモデルとなったルートヴィヒ2世も実際自分ひとりのためにオペラやバレエを上演させたそうだ。舞台や映画を好きになった人間の中には、その登場人物に恋をして、その作品の中に入りたいという願望を持ったことがある者もいるだろう。それを自分の妄想の中とはいえ、実際にやってしまったのが、この「王」である。物語の中では、自分はひとりではない。愛してくれる人がいる。誰も理解してくれる人がいない現実の世界を飛び出して、物語の中で生きていたい。(そしてボーン版の王子も同じように現実に適応できず、幻のザ・スワンとともに踊り、最後には夢の終わりとともに死を迎える)
そんな舞台病の人間の願望を、実際にこの作品で実現させてしまったノイマイヤー。
う…今の自分にとっては洒落になっていないことだ。
さらに「幻想〜白鳥の湖」の面白いところは、「白鳥の湖」に夢中になって劇の中に入り込んで踊る王の姿を、婚約者ナタリア姫が覗き見てしまい、王の愛を得るために3幕の舞踏会でオデットの扮装をしてしまうこと。王はナタリアをオデットだと勘違いして愛を誓ってしまう。
2幕のジークフリート王子に成り代わる王と、3幕のオディールに成り代わるナタリアという二つの“成り代わり”の構造がある。とともに、オリジナルの「白鳥の湖」はオディールがオデットに成りすまして王子を騙すのに対して、こちらではナタリアがオデットに成りすますという読み替えを行っているのである。しかも、ナタリア自身もオデットという現実ではない存在(白鳥であり、舞台の登場人物)に化けてしまうほど、現実と幻の違いがわからなくなってしまっている、それほど王を愛してしまっているという描写が、この作品のとても怖いところだ。
なんだかまだちゃんと整理できていないけど、考えれば考えるほど面白い。「幻想〜白鳥の湖のように」もボーン版「白鳥の湖」も王もしくは王子が3幕の出来事が原因で精神的に錯乱して閉じ込められるところとか、女王がとても冷たくて母親の愛を感じられないところとか、幻想=妄想という設定を使っているところとか、共通点が多いのだけど、でも全然違う作品になっているのが興味深い。
チャイコフスキーのスコアそのものが、このような精神的な満たされなさ、その魂の飢餓状態を補うための愛と死を表現しているからだろうか。
このあたりはまた後で考察してみよう。
いずれにしても、この2作品は、作品の中に観る者自身も溺れて自分を見失いそうになってしまうほどの魔力を秘めている。