キム・ギドクin新宿歌舞伎町金 基徳(キム・ギドク)監督:1960年生まれ
鰐(1996)、野生動物保護区域(1997)、青い門(1998)、魚と寝る女(2000)、実際状況(2000)、
受取人不明(2001)、悪い男(2001)、海岸線(2002)、春夏秋冬そして春(2003)
私は「勝ち組」とか「負け組」という表現が大嫌いである。人生の勝ち負けなんて誰に決められるのだろうか?上昇志向が強いのは人間として当然だから否定しないし、私にだってある。だけど、自分が人生の勝者であり、負けた人間には価値がないという考え方には許しがたいものがある。そもそも「勝ち組」「負け組」という言葉は、本来の意味と全く違う使われ方をしてしまっているのだが。それなのに、こんな言葉が雑誌の見出しに踊っているのを観ると、暗澹たる気分になるのだ。
キム・ギドクの映画に登場するキャラクターは、世の中の中心とは違った場所に生きているとされる人々である。ギドク本人は、彼の映画の主人公たちを「中心から外れた人々」と呼ぶことには反対している。世の中の中心って一体何か、と彼は言う。映画のキャラクターにとっては、自分たちの人生こそが中心なのだから。
だが、いわゆる“普通の人々”とは全く違う世界に生きている人たちが、彼の映画の主要な登場人物として息づいている。ヤクザ、娼婦、ポン引き、混血児、片目の少女、犬肉売り業者、気の触れた兵士。韓国の階級社会でもがき苦しんできた人間の、強烈な反骨精神とアウトサイダーぶりが、彼の映画からは見えてくる。
映画作家は、本来ならばその作品のみで評価されるべきである。キム・ギドクは彼のバックグラウンドは抜きにしても、誰も観たことのなかったような斬新で絵画的な映像表現、激しい痛みを伴う強烈なエモーション、過激さを装いながらも滲み出てくるリリカルさ、社会に対する怒りと問題意識を赤裸々に綴った内容で、今一番見逃してはならない映画監督といえる。
しかしながら、彼を語る上で、彼という人間がいかに生きてきたのかということは欠かせないようだ。彼のような映画作家が生まれたのかを知るには、どうしてもその背景について探らずにはいられない。なぜならば、彼の映画は、すべて彼の経験してきたことがもとになっており、一本一本が彼の自叙伝の一部となっているからである。別の言い方をすれば、彼は自分自身の肉体を切り刻みながら、手足を食べながら映画を作っているのである。
なぜその映像世界に魅せられたのか
最初に彼の作品を観たのは、2001年9月、かの「魚と寝る女」だった。その猟奇的な描写についてのみ聞いていた私は、相当勇気を振り絞って映画館へと向かったのだが、この時点でとんでもない映画作家がいるものだと仰天したのであった。幽玄の世界を思わせる幻想的な湖の風景と、そこに浮かぶ色鮮やかな釣り小屋。半身を削いで泳がされる魚の描写など、今まで観たこともなかった象徴性の強い映像表現に目を瞠らされた。口を利かないヒロインが、台詞なしでみせる圧倒的な存在感と怪物性と心の痛み。心の痛みをダイレクトに肉体の、筆舌に尽くしがたいほど痛い表現に昇華させた感覚。あまりにも強烈なものを目撃してしまった。

その次は、2001年の東京フィルメックスで観た「受取人不明」。あまりにも哀しい、救いのない物語の中に輝きを放つ、のた打ち回って生きる人間のかけがえのない美しい営み。これでもかという過剰なまでにシンボリックな表現の数々。まるで沖縄を思わせるような米軍基地の町を舞台にしているのに、どうして日本には同じテーマを扱った作品がなかったのだろうか。アメリカと韓国の関係にも踏み込んだ、社会と人間との関わり。幻想と現実の織り交ぜ方も強引でありながら心臓を鷲掴みにされるような衝撃があった。この2本で、キム・ギドクという映画作家は、絶対に目を離してはならない存在となったのである。
そして、2002年夏の福岡アジア映画祭で、最新作「悪い男」が上映されると聞き、私はいても立ってもいられなくなって福岡行きの航空券を手にしたのだった。
「悪い男」の衝撃

リリカルな音楽が響く。大都会の繁華街で一人風景からははじき出されたかのように歩く異形の男が、清楚な女性に目を留める。露骨に汚物でも見たかのような表情を投げかける彼女に、噛み付くようにむしゃぶりつく強烈なキスをする男。公衆の面前で唾を吐きかけられ屈辱を加えられた男は、彼女を陥れて売春宿に売り飛ばし、娼婦として客をとる姿をマジックミラーの向こうで見つめつづける…。なんて、あらすじを語ったところで、キム・ギドクの作品については1万分の1も語ったことにはならない。
この映画はボディブローのように効いて、じわじわと精神を締め付けるのであった。これまで一度も観たことのなかった突出した映像のセンスと色彩感覚。台詞=言葉に依存することなく、パワフルな画面づくり、絵画を思わせる構図、破れた写真のパズルなどの意匠の絶妙さで、ねじれた愛を綴っていく。一挙一動が目を離せない、底なし沼のような暗い瞳の主演俳優のチョ・ジェヒョン。一目惚れした女性を陥れて彼女の意思に反して売春させるなんていうのはとんでもないことだし、引っかかる部分がなかったわけではない。幕切れも実に毒にあふれた強烈でショッキングなものだ。
しかしながら、そんな汚物にまみれたような闇の世界に住む人間の中に存在する愛というのは、闇が深いだけによりいっそう輝いて見えるのであった。なんという激しく美しく痛々しく胸をちくちくと刺すような映画なのだろう。こんなに魂を奪われるような作品に出会ったことは初めてだ。二人の間のマジックミラーを、ヒロインが自ら叩き割るシーンの映画的な陶酔感。見事な選曲のセンス。たしかに日活ロマンポルノ、中でも石井隆原作の「天使のはらわた」シリーズを思わせるリリカルさもあるが、残酷で容赦なく突き放す部分や、現実と幻想の巧みな織り交ぜ方と痛みの感覚、美的感覚は、全く新しいものだった。
それからずっと「悪い男」という一本の映画は頭の片隅に常に存在しつづけていて、なかなか公開されないけれどもう一度スクリーンで観る機会はないのか、と気になっていた。2002年秋の釜山映画祭では「海岸線」が上映されたが、残念ながら見ることは叶わなかった(後にDVDを購入して鑑賞)。だが、「悪い男」のDVDを入手することができ、リージョンフリーのDVDプレイヤーもわざわざ購入して繰り返し、繰り返し何度も観た。
運命についての物語
(未見の方は読み飛ばしてください)
さて、私事になるけれども、気がつけばいつのまにか映画関係の仕事をしていた。いろんなことがあったし、とても疲れてしまった。忙しくてお金にならなくて映画もなかなか観に行けない。家族とゆっくり過ごす時間もない。それなのに何もかも中途半端だった。私はこの仕事に向いていないのかもしれない。というわけで、この仕事から足を洗おうと考えて、普通の事務の仕事を探そうと就職活動をしたり、派遣会社に登録したりした。なかなか仕事は見つからず、敗北感で一杯だった。しかし、そんな日々が1週間過ぎた頃、映画の宣伝をしないかという話がきた。そして、それが「悪い男」だったのだ。これは、私にとってはもう運命としかいいようがない。
なんてつまらない私の話はどうでもいいことなのだが、キム・ギドク自身は、「悪い男」は運命についての物語だと語っている。
負傷したことによって声を出せなくなった凶暴なヤクザと、清楚(キム・ギドクは“自分のことを清楚だと思っている”と語っている)な女子大生というのは、本来だったら決して交じり合わない存在である。それが、ソウル・明洞のロッテ百貨店の前で偶然ヤクザが彼女を見かけて一目ぼれしてキスをかましたことから、激烈な運命を二人はたどるのだった。一度も一緒に海に行ったことがなかった二人が、海辺で顔のところがちぎれた写真を発見し、最後のピースが見つかったらそれは現実にはありえない、ヤクザのハンギと女子大生のソナの二人が写った写真だった…という描写は、二人があらかじめこのような結末を迎えるという運命を示していたことを意味していた。それはとても過酷な運命に思える。ハンギという男に一生出会わないまま、今まで通りの人生を生きているのが幸せなのか、それとも生きていくために体を売りながら旅をするのが幸せなのか。世間一般的にはもちろん前者を幸せというのだろうけど、でも本当に幸福かどうかは、本人じゃないとわからないものなのだ。ハンギとソナの間には、ゆがんだ痛ましいかたちではあるけど、“愛”は間違いなく存在
しているのだから。過酷な運命を用意した神は残酷で容赦ないのかもしれないけど、そんな一見最悪な人生の中でも生き続ける人間の姿は美しい。闇が深ければ深いほど、そこに射し込む光は眩しいのである。そして人生は続いていくのだ。
社会的な階級からの逸脱についての物語
日本という一見平等な社会(外国人や被差別部落に対する差別も実はある訳だが)に住んでいる私たちの多くは、社会的な立場や階級についてほとんど自覚がない。ところが、韓国という国は先進国であるのに、未だに階級社会的な部分がある。何よりも、大学進学率が75%という大変な学歴社会である。ほとんどの俳優や映画監督が大学を出ているという国は他にはないだろう。すでに語り尽くされている感もあるが、キム・ギドクは家が貧しく小学校しか卒業しておらず、15歳からは工場で働き、その後志願兵として海兵隊に入り5年間兵士として過ごした。その社会的な疎外感と、階級制度に対する激しい憎悪が作品社会に反映されているのは紛れもない事実である。
「悪い男」は己の凶暴肉体一つしかない、愛も知らないヤクザが、女子大生を娼婦に仕立て上げるという物語だ。ソナがまるで汚らしいものでも見るかのような視線でハンギを見たこと、ソナに強引にキスをしたことから、ハンギが道ゆく兵士たちに殴られソナに唾を吐きかけられるという屈辱を味わされたこと。それが、ハンギがソナを陥れて娼婦にするきっかけとなっている。ハンギが見るからに悪い男という風貌だったからこそ、このような屈辱的な目に遭わされたというわけだ。しかし、一見清楚でボーイフレンドとラブホテルに行くことも拒むような女子大生が、書店で画集からエゴン・シーレの絵を破りとり、落ちていた財布から金を抜き取るなど、実はモラルが高い存在ではないこともこの映画では示している。そんな女子大生を、チンピラヤクザが自分と同じレベルに引き摺り下ろすという物語であるとこの映画は説明されているが、しかしそれは果たして堕落といえるのだろうか、ということをこの映画では問い掛けている。"女子大生”と"娼婦”との間のちがいって果たしてなんなのだろうか。社会的には疎外されてきたところで生きてきたキム・
ギドク監督にとっては、ぬくぬくとした暮らしを謳歌している高学歴の人間より、明日をも知れぬ熾烈な人生を必死に生きている人の方にシンパシーを感じるのは当然のことだろう。
また、売春宿に売り飛ばされ、無理やり体を売らされるソナが、汚されれば汚されるだけ美しく輝いて行くという面も見逃してはならない。傲慢でモラルの崩壊していた若い女性が、過酷な環境で生きていくために必死に環境に適応しようとし、やがては激烈な愛に身を捧げていくという受難の姿は、痛ましいが崇高なものを感じさせる。彼女が娼婦として生きていくということは堕落ではない。最終的には、彼女がその生き方を選び取ったのである。
ただし、このような描写があることで、"娼婦=聖女幻想”ひいては"女性蔑視”という批判を招いてしまっているということも付け加える必要がある。映画というのはあくまでも映画=フィクションであり、この映画は女を騙して娼婦にしたり暴力をふるうのがいいと主張している映画ではないということは、理性的な人間ならば理解できることだと思う。人生は美しいばかりではなく、醜いことも辛いこともあるのだ。人間というのは誰でも過ちを犯す存在なのだから、間違いが一つもないのは人生ではない。激烈な暴力、痛み、残酷な描写があり、登場人物たちを地獄の底に突き落とし、一片の救いもなく突き放しながらも、この映画を観るとどこか魂が救われ浄化されていく気持ちになるのは、残酷で辛い人生を生き抜いてきたキム・ギドクの、寛容で優しい視線があるからだ。
どんな環境で生まれてきた人間も、幸せになる権利があるし、人を愛し愛される資格があると彼の映画は説いている。ゆがんだ愛し方しか知らないハンギという男を、まったく違う環境や社会的な地位で育ってきたソナが理解していき、立場の違いを乗り越えて融合し、ねじれたかたちの愛ではあるが、ある意味己を捨てることのできた崇高な愛が生まれていくというのが「悪い男」という映画だ。ソナがハンギとの間を隔てていたマジックミラーを自らの手で打ち砕くのは、ヤクザと女子大生という階級の違いを二人が乗り越え、同じ立場の人間として融合することができたことを象徴している。
肉体と痛みについての物語
監督本人が出演している「春夏秋冬…そして春」をご覧になった方だと分かると思うけど、キム・ギドク本人は見事な肉体の持ち主だ。農業の学校に通い、工場で労働者として働き、そして海兵隊で5年間過ごしたということもあって、鍛えられた厚い胸板と太い腕がなかなか立派である。握手した時も、手をひねり潰されるのではないかと思うくらい力が強かった。彼はかつてフランスに渡る前には、「休を動かして働き、生み出したものだけに価値がある。文化というものは余裕と贅沢の産物に過ぎない」と考えていたという。彼の映画の登場人物には、ほとんど頭脳労働者は登場しない。
そのことがあるためか、彼の映画は暴力シーンもさることながら、肉体的な痛みを表現することが多く、それが映像からダイレクトに観る者の痛覚に伝わってきて、観る側も大変痛い思いをさせられてしまうのだ。もっとも有名なのが、釣り針を飲み込んで自殺しようとする男や、あっと驚くところに釣り針を引っ掛ける女が登場する「魚と寝る女」の描写だ。自ら目を突いてしまう少女や母親の胸の刺青をナイフで切り取る少年が登場する「受取人不明」、割れたガラスを凶器に襲い掛かる男や丸めた紙で人を刺す「悪い男」のヤクザ。ヴァイオレンスのシーンも一筋縄では行かない、独創的なもの故に、よりいっそう痛みを感じられるものになっている。「春夏秋冬…そして春」では「冬」の巻で刑務所を出所して寺に帰ってきた中年の僧の役を監督が自ら演じている。「冬」で作品のトーンがいきなり変わり、マッチョな肉体を持つ僧がアクション俳優さながらにマーシャル・アーツ(善武道と呼ぶものらしい)を実演し、岩を腰にくくりつけて上半身裸で雪山を登っていくという苦行に挑んでいる。
人間の“こころ”と“からだ”というのは切り離すことができないものである。“あたま”と“こころ”は時には切り離されることがあったとしても。台詞に依存することをよしとしないキム・ギドクの映画では、言葉で表現するのではなく、痛みや苦しみ、悲しみの表現を映像で行い、心の痛みを肉体的な痛みで表わすことによって、よりダイレクトに観る者の感覚に響かせる。言葉というのは時として誤解を生んだり、さまざまな解釈ができたりとその言葉を発した者の意図を裏切ることがあるし嘘をつくこともあるが、肉体的な表現は裏切らない。言葉では説明できないような感覚も、肉体が放つ叫びやささやきによって受け止める側に深い刻印を残す。終盤まで一言も言葉を発しない「悪い男」のハンギは、それゆえ、ギラギラした瞳の輝きや、暗く空虚な瞳、言葉の代わりに突発的に噴出する暴力によって、彼自身がどのような人間でどのような生い立ちゆえこのような男になったのか雄弁に物語っている。喉元に刻まれた深い傷は彼の心の傷も象徴するものだ。そしてそれまで一言も話すことがなかったため、終盤に振り絞るように出した一言が、大きなインパクトを
持ちえるわけだ。
さて、キム・ギドク監督の映画の中では女性が虐げられるシーンや強姦のシーンも登場することもあって、“マッチョ的”な映画監督と呼ばれることが多い。しかし、肉体性の強い映画を撮っていることと、女性蔑視の意味が含まれるマチズモ性とは全く別物であるということを明らかにしておかなければならない。実際、キム・ギドクは会ってみるときわめて紳士的で女性に優しい好人物であることがわかる。女性に対して暴力を加えることが間違っていることは理解しているし否定的である。ただし、悲しいことにこの世の中には、未だに多くの女性に対する暴力が行われているのであり、その事実に対して目を背けることはしてはならない。現実を直視し、なぜそのような残酷なことが行われてしまうのかということを考察している(ゆがんだ階級社会もその原因の一つである)のが、「悪い男」という映画なのだ。彼の映画がとても残酷に映るのは、現実社会の残酷さや、私たちの心の奥に潜む残酷さを巧みに掬い上げているからである。
でも実はお茶目なお兄さん。これで43歳?
言葉ではなく映像で語ること…美についての物語
キム・ギドクの映画をキム・ギドクたらしめているところの一つには、その作品群における映像美がある。水墨画のような靄が立ち込める湖を舞台にした幽玄の美を誇る「魚と寝る女」。「悪い男」ではネオンが色鮮やかで闇と光のコントラストが絶妙な美を作り出すとともに、苦界を浮かび上がらせる。「受取人不明」で母子が住むのは真っ赤なバス。「春夏秋冬…そして春」の般若心経が彫られていく床や、湖に浮遊する寺。しかも僧侶が猫の尻尾で般若心経を書くのである。もともと絵を描いていた人間として、現在もキム・ギドクは監督作品では自ら美術も手がけている。
インタビューなどを聞いていて驚かされるのは、彼の映像に登場する奔放なアイディアの数々は、撮影現場に行ってみて思いついたものが多いということ。「春夏秋冬…そして春」にはなんとシナリオもなかったそうだ。そして話を聞いていると、どうやら彼には、映像が頭の中にどんどん湧いて出てくるそうなのである。その独創性は、31歳まで映画を一本も観たことがなかったという事実が生んだものなのかもしれない。
もちろん美しいだけでなく、同時に残酷で、尖ったガラスの破片のように鋭利で、ときには猟奇的な描写まで現れる映像の印象はあまりにも鮮烈である。言葉ではなく、映像で登場人物の感情や心象風景、さらには監督の主張までも語ってしまうその才能は凄まじいまでのものがある。「魚と寝る女」の半身を切り取られて泳がされる魚、「受取人不明」の上半身だけが地面に埋まった少年の死体。「悪い男」の売春部屋と覗き部屋の間に隔てたマジックミラーや、そこに貼り付けられた顔の切り取られた写真。折り畳んだ紙で相手を刺し殺す。「春夏秋冬…そして春」の、「閉」という字が書かれた紙を目や鼻、口に貼り付けての自死。象徴性の強い独創的なシーンで彼の映画は埋め尽くされている。
特に「悪い男」で重要な要素であるガラスや鏡というモチーフ、そして彼の映画に繰り返し登場する(「受取人不明」を除くほとんどの作品)水辺のイメージの使い方は巧みである。相手と自分を隔てる壁となり、でもそれを通して相手を見ることは出来るマジックミラー。割れれば手に突き刺さって傷つくし、凶器にもなりえる一方で、己の姿を映し出す。水の使い方は、漂泊しつづける人間の運命、鏡や鏡の役割、身を清める場所、そして最後に還って行くところ…。実にさまざまな、そして常人の想像力の及ばぬような使い方をしている。
前項でも述べたように、彼の映画は言葉に依存することなく、映像ですべてを雄弁に語っている。脚本家としてスタートしたとは思えないほど、彼の映画には台詞が少ない。が、そのことにより、観る側は映像に集中することが出来る。言葉がなくても決して退屈しないような刺激的な映像体験を味わうことが出来るのだ。登場人物の中に喋らない人物が多いということを、キム・ギドクは「言葉に裏切られつづけた結果、言葉を捨てたのです」と説明していた。それは、批評家の激しい批判に晒された韓国では、ほとんどインタビューを受けることもない彼自身についても言えることなのだろう。
愛についての物語
(「悪い男」を見た後に読んでください)
「ヤクザ風情に、何が愛だよ」。「悪い男」でハンギが不釣合いな甲高い声で搾り出すように発する唯一の言葉だ。見るからに悪い男という風貌、己の凶暴な肉体一つしか持たないチンピラヤクザで、言葉を発することも出来ない。愛した相手を傷つけ貶めることでしか愛情を表現できない男。自分が人を愛することなんてありえないと思っていた男。
だが、彼は最終的に、ソナを愛しぬくことを選んだ。愛する女を売春させて生きていくという彼に出来る唯一の愛し方で。普通の男性なら持つであろう独占欲も嫉妬も捨てて。(ハンギを演じたチョ・ジェヒョンは「最後まで、ハンギという男を理解することは出来なかった」とインタビューで語っている) それはある意味、利己心を捨てた愛である。そしてソナも、彼と一緒に生きていくには、自分の体を売っていくしかないということに気付き、すべてを捨てて彼と旅して生きていくことになる。
キム・ギドクはインタビューで、キェシェロフスキの「愛に関する短いフィルム」を好きな作品の一つとして挙げていた。「愛に関する短いフィルム」の主人公の少年は、「悪い男」のハンギ同様、愛する女性を覗き続ける。彼女がさまざまな男性に抱かれ、悲しんだり苦しんだりする姿を見つめつづけるが、彼女に話し掛けることも出来ない。が、ある時彼女が彼の視線に気がつくときが来て、彼女の方から、二人の間に出来た壁を打ち砕く。こう書くと、実は同じ輪郭を持つ映画であることに気がつかされる。
愛って何だろう。相手のことを大切に思い、大事にするのも愛だし、相手の意思を尊重するのも愛。本来愛とはそうあるべきだ。だが、一方的に相手に入れ揚げた挙句ストーカー的な行為を行うのも一つの愛のかたちといえるし、愛した相手を傷つけずにはいられない行為も、愛する側からすれば一つの愛なのだ。ハンギの行ったことが正しい行為とは到底思えない。将来のある女子大生の人生をめちゃくちゃにしたし、肉体的にも精神的にも深く傷つけた。でも、それもまた彼にとっては愛するが故の行為であり、愛以外の何者でもない。彼を断罪することはたやすい。しかし、それを愛ではないと言い切ることはできない。そんな形でしか愛を表現できないハンギは憐れな男だし、そんな彼を生んだ社会は悲しい。こんな歪んだ形でしか愛することができないハンギを受け入れ、彼とともに生きていくことをソナが自ら選んだ以上、この二人についてはもはや誰も何も手出しはできない。
セックスについての物語
キム・ギドクの映画はすべての作品に、生々しいセックスの場面が登場する。(「野生動物保護区域」のみ未見)。彼のインタビューを聞いたり読んだりするたびに、セックスに対するアンビバレントな感情を感じずにはいられない。曰く「セックスとはそんなに重要なものだろうか。私はそう思わない」という一方、「食事と同じで、生きていく上では欠かせない」とも語っている。
デビュー作「ワニ」では、川に身を投げたものの死に損なった女を、ホームレスたちが慰み物にする。「青い門」は娼婦の女性と、売春宿に住む娘との友情の物語。「魚と寝る女」には時々釣り客に相手に売春するヒロインの、世にも痛い性描写が登場する。「実際状況」では男を裏切った女性がセックスの後、花々の海の中に埋もれた美しい死体となる。「受取人不明」では主人公の一人の母は娼婦だし、片目の美少女ウノクは輪姦される。「海岸線」においては、セックスの最中に北朝鮮のスパイと間違えられたカップルの片割れが殺され、生き残った女は死んだ恋人と間違えて夜な夜な海岸警備の兵士たちとセックスをする。そして「春夏秋冬…そして春」では、若い僧侶が病気療養のために寺を訪れた少女と禁断のセックスを楽しむ。「サマリア」では女子高生が、ヨーロッパ旅行の資金のために援助交際をする。そして「悪い男」。キム・ギドク作品の中ではセックスは大きな役割を果たしているように見える。
だが、「悪い男」では、ハンギがソナと肉体的に結ばれるシーンが最後まで登場しない。おそらく、二人の間には肉体関係はない。いや、肉体関係があるかどうかはもはやふたりにとってはどうでもよいことなのである。ガラスが割れた瞬間ふたりの心は一つになっているし、海岸で再会した時に、もう二度と離れないことを確認したのだから。
ハンギは社会的な階級の違うソナと自分は肉体的には決して結ばれない関係だと思っていた。でも、彼女を感じたい、愛したい。そのためには自分の社会に彼女を引きずり込むしかないと思い、彼女を娼婦に仕立てた。日夜男に抱かれ苦しみ嘆く彼女を見て、ハンギは自分自身を責める。だが、彼にはどうすることもできない。覗くことが、彼にとっては愛だったのだから。ソナは彼女を見つめる視線の存在に気付き、ハンギがこんなかたちでしか彼女を愛せない人だったということに気付く。そのときにふたりを隔てていたガラスが割られるのだ。だから、この映画の終わりは、トラックに彼女を乗せて売春させながら旅をするという幕切れしかありえない。ふたりの愛は、肉体を超越してしまったのだから。
キム・ギドクの作品の中では、セックスは"人間の生の象徴"として使われているように思われる。ある人にとっては生活する手段。ある人にとっては、思春期の通過儀式。ある人にとっては、夢や目的を実現するために利用する手段。ある人にとっては、生きていく上で食べることと同じで生きていく上では必須のもの。そして人を傷つけるために行うもの。特別なものではないようで、やはり特別なのだ。彼はセックスという表現を使って、人間の生を描いているのである。
(つづく)