バーバー The Man Who Wasn't There |
監督:ジョエル・コーエン 脚本イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン 撮影:ロジャー・ディーキンズ
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、フランシス・マクドーマンド、ジェームズ・ガンドルフィーニ、
スカーレット・ヨハンスン、トニー・シャループ
エドは、妻の兄フランクが経営する小さな理髪店で働く。代わり映えのない仕事、
漠然とした不満の中で過ぎていく毎日。妻ドリスはデパートの帳簿係。エドはドリ
スのボス、デイヴと妻が深い関係にあることに気づいた。ある日、高価なカツラを
まとった客クレイトン・トリヴァーが、ベンチャー・ビジネスの話がパーになったとぼ
やく。エドはトリヴァーに資金を工面すると告げる。エドはドリスとの不倫をネタにデ
イヴに脅迫状を送り、あっけなく1万ドルを手にした。だがデイヴは、脅迫状の送
り主がエドだと突き止め、追い詰められたエド゙は、思わずデイヴを刺殺。犯人とし
てドリスが逮捕されるが…。
ロジャー・ディーキンズによる撮影が、とてつもなく美しい。もともとカラーのフィル
ムで撮影したものを加工したということだ。モノクロの映像と一口に言っても、本当
にいくつもの階層の色調のグラデーションがあって、とても柔らかく美しい。そして
モノクロ映像のすばらしさというのは、光のあたり方が非常に良くわかって、しか
も強調されるということ。特に、尋問室で、弁護士トニー・シャールプが眩しい光を
浴びて窓の外を見るところの美しさなんて、もううっとり、である。エドとフランクが
働く床屋の場面も、窓から差し込む光が柔らかく差し込み、もともと清潔感のある
白い店内や白衣と相まって、「清潔産業」というクレイトン・トリヴァーの誘いと見事
に呼応しているのである。対して、デイヴの殺害シーンの、暗い店舗の事務所と、
倒れた彼の体から床に広がるどろりとどす黒い血。実にモノクロの色彩感覚が熟
達していて惚れ惚れしてしまう。
この映画の作法は、言うまでもなくフィルム・ノワール。男女の愛は敗北し、ハッピ
ーエンディングは不在。そして、何よりも、主人公のヴォイスオーバーで始まり、ヴ
ォイスオーヴァーで終わるところ。もう、フィルム・ノワールの教科書といってもいい
くらい。このヴォイスオーバーを語るエドの視点というのが、(ネタバレになるけど)
死者の視点であるというのがまた、フィルムノワールの教科書通り。人間のふとし
た欲望が最終的には命で代償を払うという点においてもそう。フィルムノワールの
定番である漆黒の闇のシーンが少なくて、せいぜいデイヴのドラマチックな殺人シ
ーンくらいだというのが、少々その定義から外れた部分だろうか。
ところが、主人公のエドという男、原題の「そこにいなかった男」の通り、非常に影
の薄い人物だ。非常に無口で毎日黙々と客の髪を切っている。下手したら背景に
溶け込みそうなくらいの存在感。妻が勤めるデパートのパーティに行っても、デパ
ートで働く人と間違えられてしまうくらい。そんな目立たない男だからこそ、デイヴ
を殺してしまっても容疑者として捜査線上に上らず、妻が疑われてしまうのであっ
た。そんな「誰でもない男」が、クレイトンの儲け話を聞いて「somebody」になりた
いと思ったことから、悲喜劇が始まってしまうのである。今の、漠然とした不満が
澱のように鬱積しているような毎日から抜け出したい、そうやってstruggleすれば
するだけ、何事も思い通りに行かず、事態は悪化してしまうのだ…。なんという皮
肉なことだろうか。
床屋の生活から抜け出すために、デイヴを脅迫してその結果デイヴを殺してしまい、
妻の裁判費用のために理髪店を担保に金を借りたために、ずっと客の髪を切り続
けなければならないというのも皮肉。そして、肝心の裁判でも、エドは全く目立たず、
弁護士がずっと立て板に水のごとく喋っていることだけが人々の記憶に残る。判決
だって、本当に妻がデイブを殺したのか、そして後の裁判では本当にエドがクレイト
ンを殺したのか、という真実なんておいてけぼりにして、弁護士の喋ることを参考に、
てきと〜に判決が決まってしまうなんてことも。うむ、エドにとってはなんという残酷
なお話。人の運命なんて、そんな軽いものだったりするのが哀しい。
そういう運命であることにあらかじめ決められたお話だから、たとえエドがバーディ
という少女のピアノの才能が優れている、ピアノの教授に推薦したいと思ったとこ
ろで、彼女の才能が認められるはずもないのだ。そしてバーディがお礼に彼の股
間に口を持っていこうとしたところで、それを拒否してしまうのがエドのエドたる所
以であって、だからこそ、彼は本当に破滅してしまうのだ。美少女がイイコトをして
くれそうだったら、それを受け容れられないとね。ダメってことだよ。それだけ悉く
うまくいかない男だったら、もう死刑になるという運命だって受け容れられちゃうよ
ね。何年もセックスをしていなかった、今は天国にいる妻のことを思いつつ死んで
いくデイヴというのが、さらに切なくて涙が出てきてしまう。
そして40年代アメリカのある意味怪しげな部分―UFOとか政府の秘密機関とか
戦争をめぐるホラ話とかがうまくにじみ出ているところが楽しい。あれだけ悲惨な
ことに巻き込まれてしまったら、もはやUFOが舞い降りてきてもおかしくない、と
思っちゃうもんね。刑務所でUFOが降りてくる姿を、何の不思議もなく見上げてし
まうエドの姿といったら、明鏡止水って感じの心境だろう。
そんな風に、すべてが思い通りに行かない、孤独で切ない運命を背負った男の、
達観と諦念の入り混じった部分を演じきったビリー・ボブ・ソーントンの演技は、や
っぱり素晴らしい。あれだけ濃い顔をしていながら、薄い男を演じられちゃうんだも
の。エドとは正反対に、上昇志向が強く人生を楽しもうとしている女を体現してい
るフランシス・マクドーマンドも流石のうまさ。
非常に饒舌でカッコいいヴォイスオーバーのビリー・ボブ・ソーントンと、無口で存
在感のない画面の中のビリー・ボブ・ソーントンの対比が、すごくドラマチックに感
じられて、う〜むハードボイルドだぜ、とバーボンのロックでも飲みたい気分になっ
たのだった。