ひぐらしが鳴いている。
 午後のひんやりとした風が、翔一の肌を撫でていく。
 戸を開けっ放しにした畳敷きの部屋で横になっていると、夏とは思えない涼しさが身体を包む。
 寝返りを打とうとすると、頭が柔らかい枕で包まれていることに気づいた。
「…………むにゅ?」
 人肌の温もりを感じた。どうやらただの枕ではない。
「翔ちゃん、こんなとこで寝てると風邪ひくよ」
 彼のすぐ近くで、少女の声がした。
「……なつめ、何してる?」
「ひざまくら」
 確か部屋の真ん中で大の字になって寝たような気がしたが、いつの間にか、まだ幼さをその顔に
残す少女、なつめの膝に頭を乗せていた。
 なつめの肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪が、風を受けてふわりと揺れている。
 正直、なつめの膝枕は心地よかった。この柔らかい感触のまま、ずっと夢見心地でいたかった。
「翔ちゃんのえっち」
 なつめに今の気持ちを言い当てられて、寝ているわけにもいかなくなった。
「分かったよ。起きるよ」
 翔一はだるい身体を起こし、冷たい空気を吸った。都会では味わえない混じりっけなしの澄んだ空気。
「もう夕方かぁ」
 ゆっくりと過ぎる時間も眠っていれば、あっという間に消えていく。
「翔ちゃん、店の手伝いしなくていいの?」
 翔一の家は代々の豆腐屋だ。今は祖父の考造が豆腐屋を切り盛りしている。翔一が学校に行って
いる間は手伝い程度で済んでいたが、夏休みになると、豆腐作りの準備のために早起きを強いられる。
おかげで、夕方になると途端に眠気が襲ってくる。
「しょういちぃ。すまんが店番してくれぇ」
 祖父の声が店のほうから聞こえてきた。
「はぁい」
 翔一は欠伸を噛み殺して答える。
「なつめ、俺……」
 店番しなきゃならないと言おうとしたが、なつめの姿は消えていた。きょろきょろと辺りを見回したが、
彼女の姿はどこにもない。
 なつめはいつも忽然と消える。神隠しでもあったように、今までいた場所に温もりさえ残さず消えて
いる。
 いつものことだと分かっていても、この時は寂しさを感じてしまう。
「行ってくるよ」
 誰に言うともなく呟くと、勢いよく立ち上がって店のほうに向かった。


 なつめは翔一のもとから離れて、彼女が本来いるべき山のほうへ歩き出した。
 舗装もされていない、林に囲まれた山へと続く道にはすれ違う人も存在しない。
「曇ってきたな……」
 午前中はあんなに晴れていた空に、灰色の雲が伸びてきた。
 雨の予感だ。
「あれは……」
 なつめは立ち止まった。見上げる空に気になるものを見つけたからだ。
 灰色がかった空に、いくつもの黒い点が動いている。
「カラス……」
 苦々しく呟く。この土地では決して受け入れてはならない鳥が飛んでいる。
 それも一羽ではない。五羽はいる。カラスは下界を警戒しているのか、低いところには降りてこない。


「あなたが“なつめ”ですか。これはまた随分と若い……、いや、幼い姿をしている」
 突然、若い男の声が響いた。
「何者?」
「始めまして……、と言うべきでしょうか?」
「…………」
 樹の陰から背の高い者が現れた。
 白い装束は修験者のようないでたち。右手には杓杖のようなものを持っている。
 だが、もっとも異様なものはその首。さきほど空を舞っていたカラスそのもの。まさに人外、この世
の常識ではありえない姿。
「カラス天狗か」
 驚きもせず、さらりと相手の正体を言い当てる。
「凄まじい反発力を感じますね。こんなところにいては身が持たない」
 その正体を言い当てられた人外、カラス天狗はその言葉とは逆に、威風堂々たる態度で立っていた。
「帰りなさい。ここはおまえがいる場所ではない」
 凄みを増したなつめの声。目つきはまるで仇を見るように鋭くなっている。
「分かってますよ。ここはあなたの領域。ですが、一つだけ訊きたいことがあります」
 それを訊かずして帰れない、という雰囲気をなつめに浴びせかけていた。
 なつめもそのカラス天狗の頑なな態度に折れる。
「訊いたら帰れ」
 カラス天狗はその答えに満足したように、質問を投げかける。
「救世主とは何だと思いますか?」
「不幸の始まり」
 天狗の問いに、なつめは即座に答えた。
「不幸?」
「良くないことが起きるから“救世主”なんて呼ばれるモノが現れる」
 言うと、これで終わりだとばかりに、カラス天狗に背を向けて歩き出した。
「なつめ」
 こちらも最後だとばかりに、カラス天狗は彼女の名をその口で発音する。
「……なに?」
 なつめが背を向けたまま答える。
 カラス天狗は態度を一変させ、彼女の背に鋭い視線を突きつけて問う。

「おまえは救世主か?」

 しばらくの沈黙。
 どこかでカラスが鳴いた。



なつめ編その1<了>