なつめは翔一が幼い頃からそばにいた。
 翔一の母は彼を産んだ後、まもなく息を引き取り、翔一は祖父のもとへ預けられた。

 そこに、なつめがいた。

 今と変わらぬ、あどけなさを残す少女の姿のままでいた。
 幼い頃はなつめの背で子守歌を聞いた記憶が微かに残っている。温かいなつめの背中、
心地よく耳に届く歌声。その時のなつめは、翔一にとってまさに母親だった。
 物心がつく頃になると、なつめは遊び友達に変わっていた。だが、その頃になると、な
つめが普通の人ではないと気づき始めていた。
 だけど、あえてそのことを口にすることはなかった。なつめはとても優しかったから、変
なことを言って悲しませたくはなかったのだ。
 そしていつの間にか、翔一はなつめの背丈を追い越していた。
「翔ちゃんはなつめのこと、きらい?」
 中学に上がった頃、ふいにそんなことを聞かれた。
 唐突な質問だったので、ちょっとは戸惑ったが、「嫌いじゃないよ」と答えた。
 なつめはその返事で満足したらしく、その後、そんな質問をすることはなかった。

 分校が終わり、夏休みともなると、必然的になつめと一緒にいる時間が多くなる。
 山間の町では同じ歳の子供は少なく、一番多く顔を合わせるのはやはりなつめである。
 なつめはいつも優しい目で見つめてくれる。 翔一はその眼差しにいつも惹かれ、そして
安らぎを得ていたのかもしれない。
「なつめ」
 呼んでみると、なつめはにこりと笑う。
 その笑顔を翔一は気に入っていた。だから、なつめにはいつも笑っていて欲しいと思って
いた。
夏休みの間は店の手伝いをすることを約束させられている。おかげで夜中の三時に叩き
起こされて、眠い目をこすりつつ、桶ににがりをそそぎ込む。
 その間、なつめはいない。不思議となつめの気配はない。
「なつめ」
 呼んでみても返事はない。
 ちらりと横を見ると、考造が絞り汁の桶をせっせと運んでいる。
 そうなのだ。翔一のそばに誰かいると、なつめは現れない。
 独りきりになると、いつしかなつめが隣にいる。幼い頃、一人で寝ている時。障子の外
で風の音が不気味に感じた時。樹が揺れて、障子に映る影がお化けのように見えた時。
 なつめは、そばにいて「怖くないよ」と言ってくれた。
 まだ小さな翔一の頭を抱いてくれて、温もりを感じさせてくれた。おかげで、翔一はい
つもなつめの体温の中で眠っていた。
 今、考えると赤面ものだが、あの頃は本当になつめに頼りきっていた。
「翔ちゃんは甘えん坊だからね」
 なつめは時々そう言ってからかう時がある。
 実際に当たっているだけに何も言い返せない翔一である。


 朝から暑い日になった。
 縁側で涼んでいても、汗がじわりとにじんでくる。
 考造は豆腐作りが終わると、少しの間仮眠をとることになっていた。その時は翔一が店
番をしなければならない。
「しょういちぃ。店、ちょっとの間、頼んだぞ」
 そう言って、考造は奥の部屋に姿を消す。
 客もいない店は翔一だけになった。番台にぽつんと座って、ぼーーーっとしている。
「暑いね」
 すると、後ろからなつめの声が聞こえた。
「そうだな」
 なつめが唐突に出現しても翔一は慌てない。
「水浴びしたいね」
「そうだなぁ。じいちゃんが起きてきたら、河に行くか」
「いいな、それ」
 何気ない会話が流れていく。田舎の豆腐屋は実に呑気なものだ。軒先に吊るしてある風
鈴がそよ風を受けてちりんと鳴る。
 結局、考造が起きてくるまで客は現れなかった。常連の客は陽が昇る前に来て豆腐を買っ
ていくので、陽が昇った朝の時間帯はけっこう暇なのだ。
「おう、店番代わるぞ」
 考造が濡れた手拭いで顔を拭いながら現れた。一瞬、視線を左右に走らせる。
「……なつめがいたな」
 なつめは消えている。気配も感じない。しかし、考造には分かるらしい。
 翔一にはこれが不思議で仕方がない。消えてしまったら、その存在の欠片さえ見つける
ことはできないのに、考造はいとも簡単に言い当てる。
「じいちゃん、よく分かるな」
 考造もなつめの存在は知っていた。今は会うことはないが、昔は会っていたのかもしれ
ない。
「何年、あいつといると思う?」
 確かに考造との付き合いは長いのだろう。しかし、「何年」と言われても聞くに戸惑っ
た。考造は今年で七二歳である。具体的な数字を言われることが怖かった。
 だから聞かないし、考造も翔一の気持ちを悟っているらしく何も言わない。
「じいちゃん」
 翔一はためらいがちに考造を呼び止めた。
「何だ?」
 考造は、昼前に古い自転車に乗って豆腐を麓まで売りに行く。その時にはまた店番をし
なければならないが、それまで暫しの時間がある。
「ちょっと河へ行ってもいいか?」
 おずおずと聞くと、「おう、行って来い」と、あっさり言われた。
「どうせ、なつめも付いていくんだろ?」
 どうやらお見通しのようである。
「それじゃ、行って来る」
 翔一は嬉しそうに番台から立ち上がった。
「やれやれ、なつめは孫にも気に入られたようだなぁ」
 考造がぽつりと呟いた。


裏庭の囲いに立て掛けてある自転車を表まで引いてくると、そこになつめが待っていた。
「なつめ、河に行くぞ」
 元気よく声をかける。
「うん」
なつめが本当に嬉しそうに頷く。
翔一はなつめを後ろの荷台に乗せて、山のほうに向かってペダルをこぎ始めた。



なつめ編その2<了>