|
大男が襲ってくる悪夢はいつの間にか消え、涼子はただ眠っていた。 久しぶりに感じる心地よい眠りに緊張の糸はぷっつりと切れて、机に突っ伏している。 (……うおぉぉん) 獣のような咆吼。 彼女の心の底にあるまどろみの暗闇の中で響いている。 (うるさいわね……) 眠りを邪魔された彼女は苛立ちを感じて、恐怖に竦んでもおかしくない咆吼を邪険に振 り払う。応えるように心の内で響く咆吼は止まった。彼女に敵対する意思はないらしい。 (少しは眠らせてよぉ……) 嘆きにも近い言葉を心に響かせて、涼子は再びまどろむ。 今日の彼女は緊張の連続だったのだ。全生徒数が三百人に満たない田舎の学校に転校し たきた彼女は、朝礼台に立たされての自己紹介や教師との転校手続きのやりとりで疲れて いた。 別に転校はこれが最初でもない。むしろ、彼女は普通の人に較べても多いほうで、何度 か転校を繰り返している。理由は親の仕事の都合などというものではなく、原因は自分に あるので誰も責めることができずにいる。 転校の度に初対面の相手と話さなければならないが、いつまで経っても慣れることはな く、作り笑顔でごまかすという常套手段で、その場をやり過ごす。しゃべることが億劫な わけではない。ただ他人と向き合っていると、無意識に拒絶を示し、早々に会話を打ち切っ てしまうのだ。それもこれも全部、彼女に巣くうアレのせいかも知れない。 陽も暮れて、校庭にも人がいなくなる時間。 特に、こんな田舎の小さな校庭で遊ぶ者はほとんどいない。地元が応援するような強豪な クラブがあるわけでもなく、授業が終わったら、みんな隣町の繁華街のほうへ向かってい くので、学校に遅くまで残る生徒は皆無だ。 涼子はこれ幸いと、誰もいなくなった教室で一人、眠っていた。 下校時間を過ぎた学校は静かで、余計な人間を遮断してくれる。彼女にとって関係者以 外誰も入ってこない暗闇の教室は、ゆとりを持つことができる空間だった。 心地よいまどろみは、彼女自身が断ち切るまで続くかに思えた。 「なぁ、こんなとこで寝てると……」 かすかに声が聞こえた。 夢の中ではない。もちろん先ほどの咆哮でもない。ちゃんとした人の言葉だ。 ふと、顔を上げると、近くに見知らぬ顔があった。暗闇の中ではっきりとした輪郭まで 分からないが、それは少年の顔だった。 「…………」 一瞬、頭が回らなかった。思考は未だにまどろみの中に埋もれていて、咄嗟の判断を鈍 らせている。 少年と目が合った。両者、一瞬の沈黙。 「…………!」 涼子の頬がかすかに引きつった。同時に彼女の意識が水をかけられたかのように、はっ きりと目覚める。 「こんなとこで寝てると風邪引くぞ。それにもう門も閉まるし……」 涼子の焦りに反して、少年の声は屈託のないものだった。教室で眠っている涼子を見つ け、心配して声をかけてきただけという感じだ。 一方、涼子は誰もいないであろうと高をくくっていたので、少年の出現に少々慌てて、 いつもの動作さえ出なかった。 いつもなら真っ先に自分の目を隠すのだ。 暗闇の中で目立つその目を。 隠すべき目を、彼女は焦りのあまり、逆に見開いていた。 少年は彼女の目を見たはずだ。そして、その目に嫌悪を抱くはずだ。 彼女の目にはそんな危険な因子が含まれている。 涼子の目は暗闇の中でもはっきりと銀色に光っていた。獣のように鋭く光っている。そ れは異形の者だけが持つ光を湛えた目だった。 しまった、と涼子が思った時は、すでに遅く少年がまじまじとこちらを見ていた。 (こんな失態をするなんて……) 眠気のために気持ちが緩んでいたことは確かだった。生徒数が少ないという安心感と、 都会の喧騒とは無縁の環境に心穏やかにされ、いつのも注意力が疎かになっていたのだ。 今さら顔を覆っても仕方のないことだろうが、それでも隠さずにはいられなかった。 「どうしたん?」 少年が涼子の挙動を見て、きょとんとなる。 「あなた……」 この少年は分かっていないのだろうか。 畏れの一片も見せない少年の表情に、涼子のほうがとまどう。 「私の目を見て、何とも思わないの?」 思い切って聞いてみた。少年が彼女の銀色に光る目に気がついていないのならば、薮蛇 な質問となる。 「うーん。銀色に光って綺麗だと思うけど」 やっぱり気がついていた。 「……きれい?」 涼子の眉間に皺が寄る。 気味悪がられたりしたことはあっても、褒められたことなどついぞない忌まわしい目。 ましてや綺麗などと言う者は今までいなかった。 これはこの少年の感性が突飛なのか、それとも田舎の穏やかな環境が疑うことを知らな い純朴さを生んだのか。とにかく少年は涼子の異形の目を見ても恐れることはなかった。 「もう外は真っ暗だよ。送っていこうか?」 なかなか気の利いたことを言う少年だ。 だけど、涼子はにべもなく断った。 「じゃあ、なるべく早く帰ったほうがいいよ。一応ここ、熊とか出るからさぁ」 驚かせるつもりで言ったのだろうが、涼子には通じなかった。 そう、彼女は熊以上に恐ろしいものに出会ったことがあるからだ。そしてその恐ろしい ものは今も彼女のそばにいる。 「じゃあ、俺は先に帰るよ」 言って、少年は涼子に背を向けた。 「あの……、キミの名前は?」 涼子は少年に向かって声をかけていた。 「俺かい? 瀬野翔一だよ」 屈託のない笑顔が月明かりに浮かぶ。 それが涼子と翔一の出会いであった。 涼子編その2<了> |