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瀬野翔一という少年が去って、彼女の周りは再び静寂に包まれた。空気は夜風を纏って ひんやりとし始める。こんな雰囲気を寂しいというのだろうか。孤独には慣れていたはず なのに、今は暗闇の教室に取り残されたような気分だった。 あの人懐っこい少年の笑顔を見た後では、教室で眠るような気分になれなかった。それ に、眠気なんかとっくに吹っ飛んでいた。 「帰ろうかなぁ」 思わず言葉が洩れる。だが、帰ってみても彼女は一人暮らしだから、この教室とあまり 差異はない。 涼子は鞄を取って、暗闇に染まった学校をとぼとぼと出た。田舎の道は遠くにぽつんと 電燈があるだけで、ほとんどが真っ暗だ。人の気配も話し声も足音さえ皆無の世界。 その中を涼子は歩く。普通の女の子なら暗闇に幽霊の姿を思い浮かべて、少しは震える かも知れない。だが、彼女は暗闇を恐れない。仮に幽霊が出たとしても、幽霊のほうが涼子 の姿を感じるなり逃げ出すかもしれない。今の彼女はそんな存在なのだ。 しばらく歩くと、小高い丘にぽつんと建つマンションが微かな月明かりに照らされている のが確認できる。それは遠くから見れば、まるで幽霊屋敷のようだ。周りの土地はまだ区画 整理が完全に行われていないらしく、道なりに資材が置きっ放しになっている。 雨ざらしになった材木たちを横目で見やりながら、涼子はマンションへと続く坂道を上っ ていく。すれ違う人はいない。車も通らない。まるで外界から遮断されたかのような雰囲気 が辺りに満ちている。 周りの木々の枝が風に揺れてざわめく。 ふと、涼子は立ち止まった。何者かに見られているような視線を感じたからだ。 異形の眼を宿した頃から、この感覚は徐々に研ぎ澄まされ始め、色々な気配を読むことが できるようになっていた。いま感じる視線はただこちらをじっと窺っているだけで動こうと しない。さすがに視線の先に自分の眼を向けることはためらわれた。見つめている相手は気 づかれていないと思っているだろうか。 涼子の異形の眼ははっきりと捉えていたが、普段はそんな怪異があっても見逃すことにし ていた。いちいちつき合っていては自分の身が持たないからだ。 だが、今回は違った。視界の隅に捉えている者はいつもの怪異とは何か違う。 涼子は振り返り、まっすぐ気配がするほうを見据える。 「誰?」 誰何。気配が微妙に動く。 「久しぶりだな。若いの」 その声に涼子の身体に緊張が走った。 それはどこかで聞いたことがある声だった。いや、どこかなどという問題ではない。 その声は……繰り返し見る夢の中で語りかける声だった。 『覚悟はあるか』 夢の中の男はそう言っていた。あの声に間違いはない。 涼子は身構える。 そして、気配は実体と化し、涼子の前に姿を現した。 その瞬間、涼子は相手が何者か悟った。夢の中ではぼんやりとした影のような大男だった が、いま目の前にいる者の姿を見て、すべてを悟り、彼女は叫んだ。 「カラス天狗!!」 幼い頃、彼女の前に立ち、未来を、希望を、これからの彼女の人生をすべて狂わせた者。 彼女を暗闇の世界に放り込み、去っていった憎い者。 涼子の髪がざわりと揺れた。銀色の瞳が憤怒に輝く。 「落ち着け」 カラス天狗は一言、呟いた。 言霊。 涼子の怒りが一瞬にして霧散する。感情が言葉によって吸い取られたのだ。 「いったい今頃……、なにしに出てきた」 十年以上もの間、音沙汰なしでいた者が、ひょっこりと現れるのは彼女にとって理不尽 以外の何物でもなかった。 「別に私もすき好んで出てきたわけではない。おまえが私のテリトリーに入ってきたからだ」 どうやらこの土地は、カラス天狗の縄張りらしい。そこに涼子が入り込んできたのだ。 その気配を感じ取ったカラス天狗は、様子を窺いにきたところを涼子に誰何されたわけだ。 カラス天狗はその正体を見つけられても焦りを感じているようには見えない。 むしろ余裕を見せつけるかのように、堂々と彼女の前に立つ。 「まだおまえは『それ』を飼っているのか」 カラス天狗が叱責するかのように言う。 「あなたに言われる筋合いはない」 「いい加減に手放せ。それを飼い続けると身を滅ぼすぞっ」 「うるさい、誰のせいでこれを飼うことになったと思っている!」 「もう一度言う。それを手放せ。いずれ後悔することになるぞ」 忠告のようなカラス天狗の言葉でも、彼女は聞く耳を持たなかった。 それも当然。このカラス天狗が彼女に何をしたのか。幼い頃に絶望に近い感情を植え つられた身に、カラス天狗の言葉は届かない。 「あなたは覚悟はあるかと言った。だから私は今の私でいる」 そう言って、涼子は自分の眼を指差した。異形の眼を持つことを受け入れたことが、 彼女にとっての「今の私」なのだ。 その銀色の眼がカラス天狗を見据える。 カラス天狗の眼も負けじと、すっと細くなる。 「覚悟だと? ふん、私はそんな意味でおまえに『覚悟はあるか』などと言ったのではない」 「じゃ、その覚悟とやらは何だって言うの」 彼女の問い詰めにカラス天狗はしばし考えて言う。 「すぐに分かる」 「とにかく私はこれを手放すつもりはない」 「ふん、勝手にしろ」 カラス天狗は実力行使に出なかった。涼子の好きにさせるようだ。 それが自分の選んだ道ならば好きにしろ、と言うかのように、カラス天狗は彼女の前か ら飛び去った。 涼子の緊張感が一気に抜けた。 「はぁ……、どうして私は普通の生活ができないんだろ」 普通の者ならカラス天狗などという妖怪に会うことはないだろう。 だが、涼子はそんな者たちと出会う運命の道に迷い込んだようだ。 そして、運命の道は、さらに過酷な者と出会う一本道だということを、今の涼子はまだ 知らない。 それを知るのはそう先のことではない。むしろすぐそこだ。 いま、彼女が帰るべきマンションでそれは待っているのだ。 そうと知らず、彼女は忌むべき運命が待つマンションへと足を向けた。 そして、ここはマンションの一室。それは涼子の部屋。 彼女の部屋に見知らぬ少女が一人、たたずむ。 「ふふ……」 少女は笑う。 「さあ、お帰りなさい。涼子さん」 少女の壮絶な笑みが部屋の空気を凍りつかせる。 忌むべき運命の元凶、その名は神名美音(かみな・みおと) 涼子と対峙する時は間近だった……。 涼子編その3<了> |