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見上げたマンションは寒々とした風景の中で起立していた。ほのかな月明かりさえも吸収 して絶対に光を照らせはしないと奮起しているかのようだった。 その風景を一言でいえば、『孤独』 まるで今の涼子のようだ。 彼女は見上げることをやめ、足早にマンションの中に入った。 階段を使い、3階まで登り、そして自分の部屋の扉の前に立つ。 鍵を開ける。 扉の取っ手に手をかけ、回す。微かに、キィ……という音が響く。 扉の向こうは暗闇。それは誰も待っていない証拠。 涼子は「ただいま」も言わず、黙って玄関に入る。 靴を脱ぐ。 居間へ続く狭い廊下を歩く。 そして彼女にとって唯一くつろげる居間へ出る。 持っていた鞄をぞんざいにソファのほうへ投げる。 涼子はため息をつく。 明かりをつけようと、壁のスイッチのほうへ近づく。 そして、壁に手をかけ、スイッチをオンにする。 天井の照明が部屋を照らす。 そして、涼子は台所のほうへ向かい。 悲鳴を上げた。 いるはずのない。自分以外いるはずのない部屋に誰かがいた。 それはただ立っていた。口元に笑みを浮かべ、涼子のほうをじっと見つめて立っていた。 涼子はまるで気がつかなかった。その人物が視界に入るまで、何も気がつかず、気配すら 感じず、いつもの通り行動していた。 「誰!!」 気を取り直し、不法侵入者に怒鳴りつける。 「私は、神名美音(かみな・みおと)」 美音と名乗った少女が、にたりと笑う。 壮絶な笑みに、カラス天狗にさえ怯えなかった涼子が竦みあがる。 これまでにも、幾度かの恐怖を味わってきたはずなのに、そんなことさえ児戯に等しい かと思えるような圧倒的な恐怖を感じる。 「あ、あなた……」 口が震え、なかなか次の言葉が出てこない。 「夜分、お邪魔して悪かったわね」 美音の声は静かに響いた。 「こ、これが……、覚悟か」 涼子の歯がギシリと鳴った。ガチガチと震える歯を止めるために、食いしばった結果だ。 彼女は今にして、カラス天狗の言葉を思い知った。 『覚悟はあるか』 これは、そういうことなのだ。 この得体の知れない少女と対峙することこそ、本当の意味での『覚悟はあるか』なのだ。 「よろしくね、涼子さん」 言葉は穏やかなのに、まるで心臓を鷲づかみにするような鋭い声に、涼子は再び悲鳴を 上げそうになる。 だが、必死にこらえる。代わりに彼女の中で眠るそれが今まで聞いた事のない声で吼えた。 (うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!) 内なる叫びに、涼子の身体が張り裂けそうになった。 胸を押さえて咳き込む涼子に、腰に手を当てた美音は言う。 「さあ、あなたの中にいる『それ』を返してもらおうかしら?」 「ふざけるな!!」 「それは私のものよ。あなたが持っていていいものじゃない」 「これは私のものだ!!」 「あなたこそふざけないで。さっさと返しなさい」 「これは私のものだぁっ!!」 弾けた。 抑えていた涼子の感情が弾けてしまった。 (うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!) 涼子の瞳に宿る銀色が、より一層光を放つ。 彼女の右手が、獣のような動きで振り上がる。 同時に彼女の右手の影も動く。 影? 否。 それはもう影ではない。 彼女の腕の数倍の太さもある、獣のような、鬼のような、たくましい腕の影が 彼女の背後に映っていた。 しかし、そんな異常現象を見ても、美音の表情は崩れない。 「それで、何をするつもり?」 恐れるどころか、余裕を持って涼子に尋ねる。 涼子は動けなかった。 自分は今、人間の力を凌駕した現象を放出している。 目の前の少女など、一撃で潰せるほどの力を見せつけている。 なのに。 なのに……、どうしてだろう? この敗北感は………… 「さあ、それを返しなさい」 美音の最後通告。 涼子の視界が涙でにじむ。 「お願い……」 「なに?」 「この子を、連れて行かないでええぇぇぇぇぇぇ」 涼子が跳んだ。 美音に向かって。 涼子の背後にそびえる腕の影が、凶器を伴って伸びる。 鋭い鉤爪の影が、美音を捉え、襲った。 刹那、美音は呟く。 『無駄』 次の瞬間、衝撃で部屋の窓ガラスが粉々に吹っ飛び、外に破片を撒き散らしたが、 そんな物理的な破壊現象は、美音を蚊帳の外に置いていた。 無駄……、それは美音の口から紡ぎ出された言霊だった。 そして美音が伝える、現実の光景の有様だった。 圧倒的な力も。 戦慄の恐怖も。 美音の前では、尻尾を巻いて逃げ出す。 その証拠に、彼女は揺るぎもせず立っていた。部屋を滅茶苦茶に散らかした衝撃を ものともせず、その場にとどまっていた。 「分かったでしょ、涼子さん。あなたの力なんてこの程度。私には通用しない」 「……そんなことって」 「理解できた?」 美音の言葉に、力なく首を振る涼子。 「お遊びはおしまい。私もそんなに暇じゃないの。早く返して」 美音の腕が涼子の肩に伸びた。 あと数センチで掴まれると思った、……その瞬間。 パンッ ……と、誰かが美音の手を叩いて、掴むことを阻んだ。 それはもちろん涼子ではない。彼女にはもうそんな余裕は残っていない。 では、誰か? 「えっ」 美音が初めて驚きの声を上げた。 「え?」 涼子も涙に濡れた顔を上げた。 「乱暴はよくないよ」 少年の声が響いた。 「なっ、おまえ、いつの間に……!」 美音は咄嗟に後じさりする。 いつの間にか、部屋には三人いた。 一人めは、涼子。 二人めは、美音。 そして、三人めは……。 「瀬野……翔一……」 涼子は、つい先ほど会ったばかりの少年の名前を口にする。 「やあ、涼子さん。また会えたね」 少年は、初めて会ったあの時のように、爽やかで人懐っこい疑いを知らないような 笑みを浮かべていた。 少年、瀬野翔一は美音に挑むかのように言う。 「邪魔……するよ?」 翔一の一言で、密かな夜は騒がしくなりそうだった。 涼子編その4<了> |