彼女はクラスに馴染んでいた。誰一人、彼女の存在を疑う者はいなかった。
 担任でさえ出席をとる時、彼女の名を呼び、彼女は「はい」と答えた。
 そして、それは親友の佐倉隆史の存在がクラスの皆の中から消えたという証拠でもあった。


 彼女の名は「神名美音」(かみな・みおと)と言った。彼女と「友達」ということになって
いる級友が彼女のことをそう呼んでいたから分かったことだ。
 貴明は意を決して、美音の(もとは隆史の)席に迫った。
「放課後、屋上で待つ」
 まるで果し合いのような文句を呟いて、美音の前を通り過ぎる。
 彼女は何が可笑しいのか、くすりと笑った。

 ようやくすべての授業が終わり、他の級友たちがクラブへ家へ寄り道へと準備している
最中、美音はただ座っているだけだった。
 貴明はそんな美音に目もくれず、帰り支度を済ませると足早に教室から出ていった。
 ただし彼が行く先は下駄箱がある玄関ではなく、風に晒される屋上だ。
 美音のほうも貴明が教室を出て行ったことを確認すると、しなやかに立ち上がって、
皆に「ごきげんよう」の挨拶を残して教室を出た。


 貴明は迷わず屋上へ続く扉を開けた。放課後は誰もいなくなる屋上。秘密の話をするに
はもってこいの場所だ。
 鉄の扉は軋んだ音を立てて開く。貴明は美音を待つために屋上へ一歩踏み出した。
「あら、遅かったわね」
 貴明はしばらく扉の前で我を忘れて立ち尽くしていた。
「お、おまえ、どうやって先に……?」
 屋上にはすでに神名美音がいた。
 美音は貴明の疑問に答えず、愛想のない笑みを浮かべているだけだ。
 戸惑っている貴明に美音が近づいてくる。
「それで、私に何の用かしら?」
 貴明の顔を覗き込むようにして、単刀直入に訊いてくる。
「そ、そうだ。隆史のことだ」
 貴明も何とか我を取り戻して言った。
「隆史君?」
 美音がふと、視線をそらす。
「そうだ。なぜ、おまえが隆史の席にいるのに誰も騒がない? 誰かが意図的に隆史の存
在を消したとしか思えない」
「だからどうだっていうの?」
 再び、美音の視線が貴明に向けられる。
「知りたいんだよ。隆史は俺のところに電話してきた。そして……」
 その続きを言い難かった。
『神の船に乗るんだ』
 あの時の隆史の声が蘇る。まるで、おとぎ話のような信じられない戯言だ。
 戸惑っている貴明を見て、美音はくすりと笑った。
「私はね……」
 美音は自分の胸に手を当てて、まるで告白でもするような目つきで貴明に迫る。
「な、なんだよ?」
「私ね……」
 風のように、流れるように、美音は貴明の周りを舞った。
 舞のような動きはしばらく続く。彼女の髪が風に翻弄されるかのように靡いている。
 そして、緩やかだが、確実な足取りで、彼女は貴明の前で止まり、言った。

「私ね…………、ケーキが食べたい!」

「……はぁ?」
 彼女の言葉ひとつで、緊迫の空気に浸っていた雰囲気があっという間に瓦解した。
「だからケーキ……」
「なに言ってんだよ。ケーキなんか関係ねぇだろ!」
「貴明君って相当の甘党なんだって?」
 美音がまたもやくすりと笑う。
「何だよそれ?」
「隆史君に聞いたよぉ。週末にはパーティが開けるくらい、ケーキを買い込むんだって」
 楽しそうに話す美音に、ただ呆然となる貴明。
 確かに、隆史とは何度かケーキ屋に一緒に行ったことがあるから、あいつが知っていて
当然なのだが、なぜ、美音に話したのだろう。そんなにこいつは信用できるやつなのだろ
うか。ころころと態度を変え、相手を手玉に取るような女性が、隆史の好みだったのだろ
うか。
「なんでも、行きつけのケーキ屋まであるんだって?」
 さらに楽しそうに訊いてくる。
「そんなのどうだっていいだろ」
 なんだか話がまるっきり違う方向へ向かっていることに気づいた貴明は邪険に扱う。
「将来はパティシエにでもなるつもりかな?」
 首を傾げて興味津々に訊いてくる美音は、ずっと笑顔のままだ。
「そ、そんなこと分からねぇよ」
 ケーキ作りに興味がないと言えば嘘になる。それなりに本も買い込んで読み漁ったこと
もある。
 将来はケーキ作りで生きていくのも悪くない、と思っている自分がいることに気づく。

「でもね……」

 美音が、ふと、言った言葉。

 一瞬にして屋上の温度が下がったような気がした。雰囲気がまたがらりと変わった。

 魔風が吹いた。ねっとりとした気味の悪い空気が、美音の髪をざわりと揺るがせた。

 美音の笑顔が変わっていた。
 彼女の口が開く。だが、それは声だったのだろうか。


 でもね、そんな未来がなくなってしまうとしたらどうする?


「……………………………………………………えっ?」

 それは本当に声だったのだろうか。耳から聞こえたのではなく、頭の中に直接響いたよ
うな感じだった。
 神の啓示を受ける時はこんな感じで声が聞こえるのだろうかと、ふと思ってしまう。
 貴明は彼女の雰囲気に圧倒され、自然に及び腰となる。

「そ、そんなの決まってるだろ。どこからか救世主が現れて、世界を救ってくれるのさ」
 なぜかそんな願望を口に出していた。確かそんなアニメを観たことがある。絶望してい
る人々の前に颯爽と現れ、崩れようとしている世界に立ち向かっていく孤独の者……。
「救世主って誰のこと?」
 美音に問いかけられて、言葉に詰まる。
 確かに誰なのだろうか。隆史か? いや、あいつはそんな大それたやつじゃない。
 いったい、救世主と呼ばれる者は今、どこで何をしているのだろうか?


「…………と、いうわけで!」


 一気に空が晴れた気がした。またもや彼女の言葉ひとつで、重苦しい雰囲気はどこかに
消し飛んでいた。
 美音は再び屈託の無い可愛らしい笑顔に戻っている。

「え?」
 貴明の頬が引きつる。ころころ変わる雰囲気に付いていけなくて、もう泣きたかった。
 そんな貴明の腕を取って、美音は駆け出そうとする。
「さぁ、ケーキ屋へ行こう!」
「どうしてそうなる!!」
 意外と力がある美音に引きずられながら、貴明は真相のカケラすら聞けないまま、屋上
を後にした。



 貴明編その2<了>