神崎玲子、十七歳。
 彼女は、その歳にして初めて青春という古くさい言葉を噛みしめていた。
 定番の三つ編みであった髪型も、ストレートパーマをかけ、艶のある黒髪に仕上げた。
 いつも掛けている眼鏡もコンタクトに変えた。
「変われば変わるものね」
 玲子の変化に、バイト仲間兼親友の美和は感心の声をあげる。
 平凡な少女が一転して、非凡で可愛らしい容姿になったのだ。
「ほら、来たわよ」
 美和に肘で突かれて、玲子は緊張する身体をぎこちなく動かす。
 彼女達はケーキ屋でバイト中であり、そのため今は可愛らしい制服を着ている。
 玲子は制服が乱れてないか素早くチェックし、客の応対に出る。
「い、いらっしゃいませぇ」
 声がうわずっている。


                       ◆


 某女子高等学校に通う神崎玲子は、授業に身が入らない毎日が続いていた。
 今日も授業をしている教師に顔を向けることなく、窓際の席で青い空を見つめている。
「恋煩いね」
 休み時間。同じクラスである美和が玲子の姿を見て断言する。
「はぁ、恋煩い? 誰よ、今時そんな珍しいことやってんの」
 級友が美和の周りに集まってくる。
「そんなことするの、このクラスに一人しかいないでしょ」
 窓際でため息をついている玲子に、クラスみんなの視線が一斉に集中する。
「うっそー!」
 声楽の授業でも滅多にそろわない声が、この時ばかりは綺麗にそろった。
「あの玲子が? イメチェンしたの、まさかそういうわけ?」
「ねぇ、相手は誰よ?」
 興味津々の級友達。
 いちばん恋に縁遠いと思われていた玲子が恋煩いに陥っているのだ。この話を聞けば、
きっと担任でさえ驚くはずだ。
「バイト先でね。毎日、たくさんのケーキ、買っていく男がいるの」
 美和が嬉々として説明する。
「ちょっと待って。バイトって美和が行ってる、あのケーキ屋?」
「そう、そこで玲子もバイトしてるの」
 一瞬、クラスのみんなが沈黙する。
 …………。
 勇気ある級友の一人が沈黙を破って言う。
「玲子がバイト? 美和、頭おかしくなったんじゃない? 保健室行く?」
 つまり、生真面目な玲子がバイトするということは、そういうことなのだ。
「まあ、初めは私がバイトしようって誘ったんだけどね。当然、玲子は渋々よぉ。でも、
玲子がバイト始めた日に、その男が来たの。そしたら玲子、彼を見た途端、ぴーんと硬直
しちゃってさ。それ以来、毎日欠かさずバイトに出てくるの。あの玲子が」
 もう得意満面になって話す美和。
 一方、話題の中心になっていることさえ気づかず、玲子は数え切れないほどのため息を
ついていた。
「はぁ……。勇気を出して告白しようかなぁ」
 玲子はぼそりと呟いた。
 当然、美和達がその言葉を聞き逃すはずがない。
「おぉ! つ、ついに玲子が女になる日が来たかー!」
 女子ばかりの教室は大騒ぎである。
 クラスの連中はその日の話題に事欠かず、楽しい一日を過ごした。もちろん、玲子は苦
しい胸の内を明かそうかどうか、授業そっちのけで悩んでいた。
 そして、玲子の知らぬ間に授業はすべて終わっていた。
「玲子、終わったわよぉ」
 誰かのそんな声に、玲子は我に返った。
「あっ、バイト行かなきゃ」
 バッグを手に取り、そそくさと帰り支度を始める。
 そんな玲子の姿を見て、級友達が声をひそめて話し合う。だが、当の本人はお構いなし
に、バッグを肩にかけて教室から出ていった。
 玲子はケーキ屋裏にある事務所へ脇目も振らず向かった。
 事務所に入って、しばらく時間をつぶしてから、隣の更衣室で制服に着替える。すると、
美和の「遅くなりましたぁ」という脳天気な声が聞こえてきた。
 美和がにやにやしながら更衣室に入ってくる。
「よぉ、恋する乙女。今日も遅刻せず来てるな。感心感心」
「そんなこと美和に言われたって、嬉しくないよ」
 玲子がそんなこと言ってる間に、美和が忍び寄った。そして、玲子の手から制服の上着
を取り上げる。
「ふ〜ん」
「な、何よ」
 思わず両手で胸を隠す。
「玲子、プロポーションいいんだから、そろそろ告白したらぁ」
「プロポーションと告白がどう関係するの」
「もちろん、その身体で、ねぇ?」
 顔がぽっと赤くなり、美和が持ってる上着を取り返す。
「そんなことできるわけないじゃない!」
「かなり動揺してるな」
「と、とにかく! 私、そんな不純なこと、ぜーったいしないから!」
 玲子は舌を出す。
「……シュールねぇ」
「シュールじゃなくて、こういう時はプラトニックっていうの!」
「あら玲子。怒ったぁ?」
「知らない!」
 着替えを終えると、玲子は更衣室を飛び出していった。
「ホントにおもしろい娘」
 美和は鼻歌まじりで着替えを始めた。


 どきどきする時間が今日も始まる。
 今日もあの人が来てくれますように、と祈りながら店のカウンターに出る。
 しばらくは、美和と一緒にいつものようにバイトに勤しんだ。
「い、いらっしゃいませぇ!」
 突然、隣の美和が驚いて飛び上がるほど大きな声が店内に響く。
「れ、玲子。落ちつきなさい」
 どうやら例の彼がご来店らしい。


「へぇ、ここが貴明君ごひいきのケーキ屋なんだ」
 少女の明るい声が店内に響いた。その少女は、同級と見られる男子に腕をからませて、
玲子たちがいるケーキ屋に堂々と乗り込んでくる。
「俺、そんなに金、ないからな」
 男子のほうは仏頂面で、ぶっきらぼうに言い返している。
「…………」
 傍から見れば、いちゃついているようにしか見えないカップルに、ただ呆然となる玲子。
 いらっしいませ、と言った時の笑顔のままで、表情が凍っている。
 隣の美和は「はぁ……」と大きなため息をついて、「ダメだこりゃ」と首を振る。


「ねぇねぇ、好きなケーキ、選んでもいいでしょ?」
 貴明は、今日会ったばかりの美音に甘い声でねだられている。
「だから金がねぇんだよ」
 貴明は言うが、美音は聞く耳持たず。ショーケースに並んだケーキを物色し始める。


「ほら、玲子。接客」
 美和に肘で突かれ、我に返る玲子。
「あの、仲がよろしいですね」
 玲子が突然、貴明と美音に向かって言った。普通は客に向かってこんな会話などしないの
だが、今の玲子はかなり混乱しているらしい。
「そりゃもう、ばっちり」
 何がばっちりなんだか分からないが、Vサイン付きの笑顔で答える美音。貴明は我関せず
といった感じで、そっぽ向いてる。
「バカ」
 やぶへびになった玲子に、小声で愚痴る美和だった。

 美音は楽しそうにケーキを選んで、嫌がる相手の貴明に金を払わせて出て行った。
 その間、玲子の表情は終始笑顔だった。笑っていたいわけではない。この表情を崩せば、
涙があふれてきそうになるから、ずっと笑顔なのだ。
「あの娘、あいつの彼女なのかなぁ」
 美和が呟く。
「ねぇ、玲子。どうなの?」
 聞くが玲子は答えない。隣にいるはずなのに、なぜか距離を感じてしまう。
「玲子、聞いてる?」
 もちろん、聞いてない。
「初恋はつらいよね」
 立ち尽くす玲子を見ながら、美和はため息をついた。


「……ふーん」
 美音は出てきたばかりのケーキ屋を振り返りながら唸った。
「な、何だよ?」
 口の端だけ吊り上げたいやらしい笑みを浮かべている美音を見て、貴明は戸惑いの声を出す。
「あのケーキ屋で声をかけてくれた女の子、いたでしょ?」
「あの子がどうしたんだ?」
 聞くが、美音はしばらく答えず、ただじっとケーキ屋のほうを見つめ続けている。
「おい、どうしたんだよ」
 再び声をかけると、ようやく美音が貴明のほうを見た。
「あの子、同じ匂いがした」
「匂い?」
「そう……、私と同じ匂い」
 言っている意味が分からなかった。
 だが、それは尋常ではないことだと、本能的な何かが貴明の心の中で告げている。
「またあの子と、会うかもね」
 美音の言葉が貴明の頭の中でリフレインする。

 あの子……、つまり玲子と再会する。

 それがどんな意味を持つのか、今の貴明は知る由もなかった。



 貴明編その3<了>