「きみは誤解している」は札幌の丸善でかいました。
ギャンブルをめぐるさまざまな人間模様
小説・小説とわかっていても
私にはみんな実在する人々でした。
真剣になればなるほど混乱する現実の歯車を。
そしてむきあう人々を・・・・・・・、
会話がとてもテンポよく小劇場にいる錯覚さえおこしそうになりました。
人間の喜怒哀楽がありました。
そして作品を書き続けていた作家佐藤正午。
そして作品を書くことをやめなかった作家佐藤正午。
に私はひどくひかれました。
これからも応援作家佐藤正午を。
そしてエッセイではなく長編を書き続ける作家佐藤正午を。
「きみは誤解している」
数年前、父を癌で亡くし、父が死へと少しずつ近付いてゆくのをずっと見ていまし た。あの時から、自分がいつか死ぬ運命であることが、いつもちらちら頭をよぎります。 それとまったく同質の不安をさらりと言ってのける主人公に共感を覚えました。
一枚の当たり券が、200万まで増えてゆくのは、おとぎ話しのようです。そして、それがゼロになり、また賭けてゆくという現実。「まんじゅうと資本主義とどっちが好き?」柴門ふみのまんがで読んだ、こんな台詞を思いだしました。資本主義は嫌いだ。だけども、毎日まんじゅうを買わないではいられない。 表現はちょっと違うかもしれないけど、そんな主人公の潔さ、好きです。
「遠くへ」
子供の好きなスーパーヒーローの世界には。スーパーヒーローのあるべきイメージがあるし。競輪の世界には競輪の世界の、スーパーヒーローのあるべき姿があるのかもしれない。それは、その世界に身を置く人にしかわからないし、その世界を愛している人からしか、外への発信はできないんじゃないだろうか。そういうことを感じました。
決して折り返しでは買わない。幾人もの選手を押さえない。競輪の世界で潔くギャンブルをしてゆく女性。わたしは買ったことがないのでわからないけれど、この女性のような人はめずらしいんじゃないだろうか。その純粋なギャンブル性は。わたしにとっても遠くで。 たぶん、彼女にとってもはるか遠くまで来てしまった自分で。だからこそかっこいいんでしょう。
「この退屈な人生」
沈み込みというのは、ひきこもりのようなものなのでしょうか。当たって、それで生活できることもまた退屈。一喜一憂のないギャンブルを続けて、たんたんと生活してゆくというのは、もしもすべての車券が当たったら、という想像から来てるのかもしれませんね。前二作に比べて、わたしへのインパクトは少なかったのですが。その空しさは、心に染みました。
入り込むのも蟻地獄のようならば。入り込めない人間の空虚さもまた。染み入る人生を感じさせました。
佐藤正午を知ったのはこの「きみは誤解している」が最初だった。 ギャンブル小説が大好きでいろいろと読みあさっているうちに読むものが無くなってしまい、(本当に日本にはギャンブル小説の書き手が少ないし、作品数も少ない。こんなに小説としておもしろいジャンルは無いと思うのだが。)
ある時『賭博師たち』というそのままずばりの短編集が出ているのを見た。 いろいろな人の短編がまとめられていて、作家陣を見るとそれらしき人が書いていた。 その中で佐藤正午というのだけが少し違和感があった。 僕は佐藤正午って読んだ事なかったのだが、何故かギャンブル小説とは無縁だと思っていたのだ。 「永遠の1/2」という小説は有名だったし名前も知っていたが、 その題名と名前の雰囲気が日本語なのに「フランス的」な感じがして おしゃれ〜なおもしろくな〜い本のような感じで敬遠して読んでいなかった。
読んでみた。 「きみは誤解している」だけがずば抜けておもしろかった。 僕は好きになれそうな作家を見つけて嬉しくなった。 それから佐藤正午の小説を読みあさった。
どれもおもしろい。 「恋を数えて」を読んでいる時など、タイトルを見て嫁はんは僕が少しおかしくなったと思ったようだ。 そんなロマンチックなタイトルの本を読む僕では無かったからだ。 何故フランス風の作家だと思いこんで敬遠していたのか悔しかった。 やはり人を見かけで判断してはいけない。 僕は「佐藤正午を誤解していた」のだ。
「きみは誤解している」の何が僕をそんなにとらえたか。 全部だ、と言えば話にならないので、その中でも特にあげるとすればラストだ。 主人公が女を取るか競輪を取るかという問題になったときの割り切り方に驚いたのだ。 今までのギャンブル小説に無い終わりかただった。少なくとも僕が読んだ限りではこんな終わり方はなかった。
「ここから主人公の苦悩が始まるのかなぁ、それにしてはページ数が足りないぞ。やっぱりお前だ、とガバッと女をひきよせて終わりかぁ」 と鼻くそほじりながら読んでいた。 すると、実にあっさりと競輪を取って小説は終わった。 何の迷いも無しに。
驚いた。 文句無しに競輪を取ってしまう。何の説明も無しに。 くどくどと理由も言わず女が見せ場すら作れないぐらい素早い切り方だ。 毎日食べる主食として「ご飯かパンか?」と聞かれたら、僕は迷わず「ご飯」と答える。 苦悩した結果博打を取る小説なら読んだ事がある。 しかし僕が「ご飯」と迷わず答えるように「競輪」を取った小説は初めてだった。
後から沢山いろいろと読んでみると、年代順に「永遠の1/2」から佐藤正午作品を読んでいる人にはそんなに衝撃は無かっただろうと思える。そういう作家なのがわかる。 でもこれが初体験のぼくには驚きだった。 その「きみは誤解している」の短編集が出る事をこのホームページで知った。とても嬉しい。さっそく買いに行ってきます。
著者の発表以来その発売を待っていた。 表題の短編以外読んだことがないからということもある。 そしてこんなに待って、本を手に入れたのは初めてかもしれない。 発売日から数日、6軒目くらいの書店である。 新刊の棚から、白い本を手にしたとき、 装丁が格調高くて、しばし息を飲み数秒どこかに飛ばされた。
中には6つの短編と1篇分ともいえる付録が収録されている。 すべてに共通するのは「競輪」である。 競輪を取り巻くさまざまな人間模様が展開される。
エピソードの一つ一つにユーモアがこめられているものが多い。 ユーモアといってもそれは心のどこかに何かを残してゆく。 登場人物のかなしみもともに。 そしてあらゆるタイプのギャンブラーを通して、 誤解されがちな競輪に引き寄せられる人々を肯定しつつ、 その世界を広げていくようなかんじがした。
一つ一つ読んでいくと競輪ファンでもないのに、 競輪を愛しはじめそうになる本である。 手始めに1つ買ってみようかとか、観にいってみようかとか、 物語が終わるまでのあいだ何度かそんな気にさせるのである。
付録に至ってはまさにあとがき以上であり、 格調高い岩波書店の本らしく丁寧であり、感動する。 今まで字面だけだった言葉が、息を吹き込まれたようにみえる。 それにしても競輪用語とは音も漢字もおもしろいものだ。
加えて表題紙タイトル下の、レトロな自転車のイラストもすてきである。 トレードマークに推奨したいくらいである。
日本自転車振興会公認小説に指定され、 「この本の印税は明日の競輪のために使われます」 という文句を帯につけたらどうかと、密かに思う読後であった。
shogoせんせいの小説は、ふだんの何気ない、たわいのないような会話に、 人と人のかかわりに、人生に対する愛情みたいなものを感じてしまいます。 そして、心の中に抱えている問題、「なぜわたしはこうなの?」の答えが あるような気がしていました。
『きみは誤解している』と『遠くへ』は特に、この胸のどこかしらに触れて 少し切ないです。
作品のイメージが興味深く、ちょっと驚いたのは『この退屈な人生』です。 刺激的なところはない、でも驚かされました。こんな話、好きです。
それから しみじみ笑えて さわやかなのは、カナブンさんが登場する 『女房はくれてやる』です。
『うんと言ってくれ』〜たとえ何であろうと、わたしは断るまい、と康子が 思うところ、こんな気持もなんとなくわかります。
『人間の屑』「そうかもしれない」この言葉、わたしはわりと言っていると思います。自分のしていることも、他の人がしていることも、人間はよくわからない。評価出来ない気がしてくるからです。
そして「付録」における 岩波書店の性分とshogoせんせいの対応(対処)は、 真面目を装って、そこはかとなく可笑しくなりました。
昨日は夜も更けてから呑みに出かけ、朝方まで歌って帰ってきた。そして今日、昼すぎに起き出してこの本を読んだ。全六篇から成る短篇集で、どの作品にも競輪がからんでいる。画期的なのは、巻末に十三ページもの付録がついていることだ。この付録を読むだけでも楽しめると思うけれど、それはやはり全六篇を読み終わってからにしたいもの。
表題作の『きみは誤解している』は、以前角川文庫に入った『賭博師たち』(佐藤正午ほか)にも収録されているもので、ぼくは一年ほど前にその感想を書いた。そんなわけで、再読はしたけれど、この作品の感想は書かない。もっとも、かすかな引っかかりを感じて『賭博師たち』と見比べてみたら、字句の変更があちこちに見られた。やはり本になるたびに校正は行われるんだなあ、と失礼なことを思ってしまった。shogoさん、すいません。
『遠くへ』を読んだあと「勝っても負けても独りぼっち」という言葉を口の中で何度かつぶやいてみた。ということは、ギャンブルとは孤独になるためにするものなのだろうか。もうひとつ印象に残ったのは「独りで何もかもを背負いこむ世界を選んだわけだ」。
『この退屈な人生』は、ぼくには実に衝撃的だった。こういう小説を教科書に載せてみたらどうだろうか、と思う。
『女房はくれてやる』は一人称で語られる作品。「ぼく」「僕」「わたし」「私」「あたし」が出てくるものはわりと多い気がするのだけど、「おれ」が登場するのは『傘を探す』以来ではないだろうか。そんなことを思いながら読み進めた。ボタンを一緒になって探してしまうところが何とも言えない。西の坂君はほほえましい。最後の三行には強くうなずいた。
『うんと言ってくれ』は、この単行本の帯にもあるように「珠玉の青春小説」かもしれない。三十を過ぎた男がこういうことを言うのもどうかと思うけれど、このての話がぼくはいちばん好きなのだ。「名前負けだ、てめえなんか大失敗で十分だ」には大笑いした。「人にはおのおの固有の感覚---発達した感覚が一つ備わっている」ということは、ぼくにも何か備わっているのだろうか?
『人間の屑』はこの本のために書き下ろされたもので、ちなみに脱稿したのは2月21日の夜(Guest bookの過去ログ#24を参照)。あれから約三ヶ月で本になったんだなあ、などと感慨を覚えたりする。競輪を観るだけで、金は賭けない主人公というのは新鮮だった。しかし、ジョディ・フォスターは誰でも知っているかもしれないけれど、ジョナサン・デミは知らない人も多いんじゃないだろうか。
ところで、shogoさん。二〇〇八年でもけっこうですので、岩波書店からの長篇刊行を心待ちにしてます。