□ 事故からの生還 (お暇な時にどうぞ) ここはあくまで、このホームページの付録として、papが交通事故をおこして 入院していた、11ヶ月の記録をまとめます。 それはまもなく、事故から2年、退院して1年が過ぎようとしていますが、やはり 少しづつ当時の記憶がうすれつつあるのを感じ始めたからです。 べつにその頃のpapを哀れんだり、干渉に浸るためではなく、その時の痛みを 忘れないためです。 そして、その痛みが今のpapにつながっていること、体の状態を受容することは できませんが、前へ進むしか手はなく、かといって進めば進むほど多くのことを 忘れてしまいます。 忘れてはいけないメッセージを、papからpapへ残すためのページです。 月日がたっていて、わずかな記憶をたどりながらになるので、内容的に前後したり つじつまの合わない所も多々あります。 更新もなかなか進まないと思いますがおゆるし下さい。 又、体についての感じ方や、考え方等は、papが思ったことなので、みんなが同じ ではないことを、付け加えておきたいと思います。 注:部分的に気分を害したり、不愉快になる内容が含まれているかもしれません、 そんな時はすぐにトップへお戻り下さい。 |
■ わぁ、バスや 2002/10/25作成 ■ いってくるわ 2002/11/11作成 ■ のどが痛い 2002/12/05作成 ■ 何が起こったのか 2002/12/19作成 ■ 生きていこう 2002/12/25作成 ■ かけた 2003/01/05作成 ■ 気絶 2003/01/05作成 ■ リハビリ 2003/01/14作成 ■ 転院 2003/01/26作成 ■ 第一日目 2003/01/26作成 ■ 自己管理 2003/02/22作成 ■ 痙性の克服 2003/02/22作成 ■ 痙性と友達 2003/04/27作成 ■ 訓練と練習 2003/04/27作成 |
わぁ、バスや (2001/01/18)
それは、世紀末と言う不安な年が過ぎ
新しい世紀となった2001年1月18日の木曜日におこりました
専門学校で講師をしていた私は、いつものように授業を終え
少し課題のまとめをし、夕方6時頃
ミニバイクに乗り自宅に向かって学校を出ました
いつもの道を、いつものように、そして国道もいつものように渋滞しています
トロトロと渋滞中の車の横を進んでいると
今まで止まっていた車がスゥーと流れ出したので
その流れに乗り車線の中央よりに移動した瞬間
目の前に路線バスが現れました
“わぁ、バスや、なんで、あかん、くるな、くるな、あたる”
ブレーキをかける間も無く、バスの後部バンパーに
ミニバイクの前輪と膝が吸い込まれ
バァンという音と共に、スローモーションのようにヘルメットが飛んでいき
女の人の悲鳴が聞こえ、次の瞬間道路に叩きつけられていました
停車中の路線バスに追突したのです
「あっちゃー、しもたことしたなぁ、運転手さんにあやまりにいかな」
と思い
起き上がろうとしましたが体はピクリとも動きません
そしてバイクを運転していた姿勢のまま空を見て転がっているような感じ
実際は大の字で転がっていたようですが
papには、両足は椅子に腰掛け
両手はアクセルを握っているような感覚だけがありました
頭の中はいたって冷静で
「あぁ、首やってしもたんかもしれんなぁ」
「けど首の骨折ったら、死ぬって聞いてたから、きっと大丈夫やな」
「事故のショックで麻痺してるだけや」
と思っていました
そこに、帰宅途中だったのでしょうか
プエルトリコ系アメリカ人(第一印象)の方が覗き込んでくださり
流暢な日本語で
「動いてはだめですよ、今、救急車をよんだよ」
と言ってくださり
交通整理までして下さいました
すぐにバスの運転手さんも来られましたが
「大丈夫です、迷惑をかけてスミマセン」
と言うのが精一杯でした
遠くからサイレンの音が聞こえ、しばらくして救急車が到着
救急隊の方が
救:「大丈夫か、痛いところあるか?」
pap:「いや、痛いところは無いです」
pap:「足が曲がっているから、伸ばしてください」
救:「あぁ、足は伸びてるで」
救:「ここ触ってんのん感じるか?」
pap:「いや、ぜんぜん判りません」
救:「よっしゃ、首しっかり固定して、いくで、いちにのさん」
タンカーに乗せられ、近くの救命救急センターに向かいました
(2002/10/25 作成)
いってくるわ (2001/01/18〜19)
搬送される車中で、酸素マスクをされながら
救:「外傷見るために服、脱がさなあかんなぁ」
救:「けど脱がしにくいなぁ、切ってもええかなぁ」
pap:「あっ、服もう切って下さい、切ってもらっていいです」
と言ってました
なぜなら下半身は、パンツにズボン
その上雨の日用のオーバーパンツをはいています
上半身は半袖のTシャツに長袖のTシャツ
セーターに雨の日用の上着、そしてフード付のハーフコート
首にはマフラー3重巻きといういでたちなので
1枚づつ脱いでたらいつ終わることやら
で全部切り取ってもらい
住所、氏名、年齢、連絡先、自分の体の状態も伝えていました
病院についてからも、けっこうはっきりと警察の方に話をしていました
体はどこも痛くないのでいたって冷静です
しかし、この辺から私の記憶も途切れだします
病院の手術室のような部屋で、頭をバリカンで坊主にしています
そして、先のとがったボルトを、頭に刺そうとして
医:「痛かったら言うてね、麻酔打つから」
“やめてくれー、そんなん刺したら頭に穴あくやろー”と思い
私:「痛い、痛い」
医:「どこが痛い」
私:「頭全部やぁー」
と叫ぶのですが
グリグリとボルトが頭に刺さっていくのを感じながら
だんだん意識が無くなっていきました
色々な検査を受けている間に警察から連絡を受けた妻と
義理の父と11ヶ月の息子が、駆けつけていました
そして、妻は手術をして下さる先生から
外傷はまったく無いが
首の5・6番の骨がつぶれ神経も圧迫しつぶれていること
そして、心臓へ血液を送る命令を出している神経も圧迫を受け
ほっておくと、心臓停止になるので手術をします
現在は自発呼吸ができないので人工呼吸器を使っていますが
リハビリと訓練で自発呼吸はできるでしょう
しかし、胸から下は完全に麻痺しているので
良くて一生車椅子生活です
と言う話を聞かされていたようです
その後、手術室に向かう途中
おじいちゃんの膝に抱かれた息子を見かけ
妻に会いました
私は自営業をしていたので、明日の仕事の予定や
来週の予定、他の取引先への連絡等、妻に頼んでいました
体が回復すれば、すぐもとの仕事に戻れると思っていました
そして
「命があったんやから、いってくるわ」
と言い手術室に向かったそうです
手術は6時間ほどかかったそうです
(2002/11/11 作成)
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のどが痛い (2001/01/19〜25)
次に気がついたのは、ICUの中でした
薄暗い日の光が感じられない
地下の霊安室のような感じ
(行ったことはないので、イメージです)
つぎに感じるのは胸から下の感覚は無いのですが
両腕に感じる、痺れるような痛み
例えて言えば
ひどい日焼けをした背中で、熱いお風呂に入り
軽石でなぜられているような痛み
を感じます
我慢しようと思えばできる
でも辛い
痺れるような痛みを、一日中感じています
そして身動き出来ず
もうろうとした意識の中で
閉じている瞼の裏を、赤青黄色の光の玉が
飛び交いすごくまぶしく感じたり
11ヶ月の息子が崖から落ちるていくのを
手を伸ばし助けようとしても体は動かないただ見ているだけ
と言う幻覚を、何度も何度も繰り返し見ていました
事実は知らないのですが、なんとなく無意識の中で体の状態を
感じていたのかもしれません
そこから現実に戻してくれるのが、右肘の上下の2ヶ所に付いている
血圧を測る為に巻き付けてあるベルトです
それが痺れるような痛みのある腕を
血圧チェックの為、交互に圧力をかけてきます
それは、濡れタオルを絞るように
腕を絞りその痛みが現実に戻してくれました
初めの頃は、自発呼吸ができないので
人工呼吸器を使っていました
太い管が口から気管まで入りその中に
酸素を送る管が肺まで届いています
鼻から流動食や薬を入れているのでしょうチューブが見えます
当然しゃべっる事はできません
「痛い・つらい・苦しい・やめて」
と言うことを伝える事が出来ません
体は動かせないので、何をされても
されるがままの、地獄のような苦しい時間がつづきます
そして意識がうすれていきます
一番つらかったのは
上向きで寝ている口の中にイソジン液をいれ消毒する時です
看:「これから口の中きれいにしょぅねー」
看:「飲んだらあかんよー」
ドボドボっとイソジン液を流し込まれ
綿球で口の中をゴシゴシ
吸引機でズズーっと吸い取ります
体が自然と消毒液を飲み込もうとします
pap:『うわーそんなん入れたら飲み込むやんけ』
pap:『やめてくれー、苦しい、息でけへん』
pap:『もうええ、口の中きれいにせんでええから・・・』
終わったと思ったら
看:「これから口の中きれいにしょぅねー」
と始まります
papが意思表示できるのは
かすかに首を左右に動かすだけです
首も固定されているのでほとんど目で訴えるだけです
しかし、その意思表示に気づいてもらっても
看:「どうしたん、いやなん、そやねー苦しいもんねー」
看:「でもきれいにせなあかんから、がんばろねー」
ドボドボーと始まります
そんな苦しみの中、時々看護婦さんの
「○○さん、息してよ」
「××さん、息せなあかんよ」
「papも、息してよ」
と言う声が聞こえ
枕もとにある呼吸をチェックする機械の
ピッ・ピッという音・・・(正常に呼吸をしている時)
ピーという音に変わり・・・(呼吸が止まっている時)
我に返りそして呼吸を始めます
なんせ息をするのもしんどいし
人工呼吸器があるので
息をしなくても少しも苦しくないのです
息を止めていても肺に新しい酸素が送り込まれていることを
感じていました
看護婦さんの声に
『あぁ、息せんでも苦しくないんやから、ほっといてくれ』
と言う思いと
「○○さん、息してよ」
と言う世界が妙にリアルに感じ
ここは、生きるか死ぬかの世界なんや
えらい所におるんやなぁと
人事のように考えていました
(この頃、眠ってしまうとほとんど呼吸は止まっていました)
ICUに、7日間いましたが
6日目に人工呼吸器と太い管を口から外してもらい
「助かった、のどが痛い」
が第一声でした
(2002/12/05 作成)
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何が起こったのか (2001/01/25〜02/24)
薄暗いICUから
2重の扉で仕切られた通路をぬけ
とても明るい照明のある廊下を通り
ナースステーションの隣の
病室に移されました
まだ完全に自発呼吸ができないので
枕もとにある呼吸をチェックする機械の
ピッ・ピッという音が・・・(正常に呼吸をしている時)
ピーという音に変わり・・・(呼吸が止まっている時)
バタバタと看護婦さんが飛んで来て
声をかけられ
『あぁ、息止まってたんか』
と気づき呼吸を始めます
お腹の上にナースコールを置き
直径3センチ程のボタンの上に
右手のひらを乗せてもらっています
ひんぱんに気管に痰が詰まり
のどがゴロゴロ鳴り呼吸がしにくくなります
かすかに動く手首を使い
ボタンを押して看護婦さんをよんで
詰まった痰を吸引してもらいます
そして、ベッド上でのリハビリが始まりました
肺に溜まっている、たんを出さないと二次障害が起こると言うことで
自分で出す訓練ですが
初めはまったく自分では出せないので
PTの先生が全体重をかけて、胸を圧迫
ベッドに横たわっているpapは
「ハッハッ・ハッハー」
と言う大きな声を出すので
周りで見ている者は何が起こったのかと
驚くほどの激しさだったそうです
しかし、自力で出せずに苦しむpapにとって
外から肺の中が見えているように
PTの先生は痰を押し出してくださいました
たばこを吸う人は
頻繁につまり苦しむそうです
(2002/12/19 作成)
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生きていこう (2001/01/25〜02/24)
4・5日すると自発呼吸も安定してきて
枕もとにある呼吸チェック用のピッ・ピッという音がする機械も
必要ないということで
もうひとつナースステーションから離れた6人部屋へ移りました
手術室のような部屋で
先のとがったボルトを頭に刺されてから
頭から肩にかけてハローベストというものが付いているため
papはあいかわらず天井とあたまもとの壁しか見ることができません
pap以外の方は同じように救急で入院され
初めのうちはつらく苦しそうですが
1週間、2週間と日が経つうちに回復されて退院していき
同室の方が次々と入れ替わっていきます
周りの人達の和やかな話し声を耳にしながら
俺は一生寝たきりのままか
この体では
子供達の手を握ることも
キャッチボールもできない
tatuを抱っこしてやることもできない
それにmamは自分の事を何も出来ないpapを
死ぬまで介護しなければならない
そんな事をして貰う為に一緒になったんとちゃう
と言う思いに苦しんでいました
食べさせて貰って出して貰う
生きてる意味は無い
こんな事なら死んだ方がましや
と言う思いでほとんど食事をしませんでした
これでは体力は戻らず体調も良くはなりません
入院中の4ヶ月で20キロ痩せました
そんなある日の夜中
消灯時間も過ぎ完全に眠り込んでいたところ
廊下にある休憩室の
電話コーナーから聞こえる話し声で
目が覚めました
「あぁ、わしやけどなぁ、今○○が死んだんや、急やねんけどなぁ・・・」
と聞こえてきました
ここまで運ばれて来て
亡くなる人もいてはるんやと思い
papは首から上の機能は残っていて命もあるんやから
『生きていこう』
と思い始めました
入院から1月程経った頃
「頸髄損傷者のリハビリを専門で行っている病院があるのでその病院へ転院しますか」
と言う話があり
妻が見学に行ってくれました
「沢山の人が、大きな体育館でリハビリをして、終わったら皆、車椅子で廊下を走ってはったよ」
と聞き自分もそこでリハビリをすれば
何か可能性が見つかるかもしれないと思い
転院することにし
転院先の病院のベッドが空くのをまつことにしました
その後3ヶ月まちました
(2002/12/25 作成)
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かけた (2001/02/01〜02/24)
そのころベッドを少し起こす訓練が始まりました
足元のハンドルを廻すとベッドの背中部分が起きて来ます
まずは食事の時間だけ10度程起こします
それを3日間続けます
4日目からもう10度起こし
2週間かけて40度まで体を起こすことができるようになりました
ようやく周りの状況を目にすることができました
失っていた空間の上下感覚を少しずつ取り戻し始めました
そしてPT(理学療法士)の先生が
ベッド上で手足の他動運動のリハビリを始めました
両手両足を曲げ伸ばししてもらいます
時々「はい、肘まげてぇ」「はい、のばしてぇ」という掛け声で腕に力を入れます
その反応を見ながらPTが肘のまげのばしをしてくれます
このリハビリを続けることで
動かそうという意識と実際に動くという事実がつながり
少しずつ機能を取り戻せるようになりました
papはC5・6部の頸髄損傷の不全麻痺(ふぜんまひ)です
(部分的に傷をうけてもつながっている状態)
一方
完全麻痺(かんぜんまひ)もあり
(傷をうけたところから下の感覚や運動の機能がまったく失われて固定している状態)
麻痺にもちがいがあります
C5の場合は肘を曲げる力は残るが手首をそらすことができない
C6では手首をそらせられる
C7では肘を伸ばせる
C8では中指を曲げられます
papはC5・6部の頸髄損傷ですが
手首をそらすところまでのことができるので
C7レベルまで回復したといえるでしょう
リハビリを始めて
2週間ほどすると自力で少し右肘を曲げれるようになりました
こうなればしめたもの
今迄はじっと我慢の日々でしたが
顔のかゆいところに手が届くというものです
鼻の頭をかきたい
まずは肘を曲げると胸まで届きます
そして肩を使って肘を上げようとしますが
胸まで届いた手を顔まで持っていけない
筋力が無い
重力に対抗して動かすことができない
『あれ、手ってどうやって動かしてたっけ』
無意識でしてたことができない
次に肘を曲げるタイミングに合わせ
肩を上げて手を顔に掘り投げてみる
1・2度目手は顎にあたって首に落ちる
3・4度目手は顎に引っ掛かる
何度目か忘れたころ口から鼻の辺りまで
掘り投げることができるようになった
指は動かないのでかくことは
できないが手を滑らすことで
かゆいところに指があたることがある
快感である
(2003/01/05 作成)
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気絶 (2001/02/15〜05/15)
ベッド上のリハビリから
リハビリ室でのリハビリに変わりました
リハビリの時間がくると
6人の看護婦さんがベッドから車椅子へ移乗してくれます
新館の救急病棟から
車椅子に乗り旧館のリハビリ室へ向かい
そこでリハビリをする予定ですが
起立性低血圧がひどく
病室で車椅子に乗ったとたんに
目を開いたまま
痙攣をおこしながら気絶し
すぐベッドに逆戻りしていました
まずはベッドから車椅子への移乗をクリアーします
そして救急病棟を出て
EVで3階へ新館と旧館をつなぐ渡り廊下を通り
もう一度EVで旧館4階のリハビリ室へ
時間にして5分もかからない距離です
しかしこの距離が
papには辿り着けない距離なのです
渡り廊下のあたりまで来ると
窓から差し込む太陽の光に反応して
目の前が白くなり意識が無くなります
気が付くとストレッチャーの上です
救急病棟の看護婦さんでも
私をリハ室に連れて行くには十分注意し
いつ・どこで・何が起っても大丈夫なように
心の準備をし送迎してくれていました
看護助手さんは
私のそんな状態を見て
「怖くて送迎は絶対いや」
と言っていました
なんせ今まで喋っていたのに
急に声が小さくなり数秒の間に
目を開けたまま気絶しているのです
そして介助している方が十数分気づかなければ
脳に血が回らず酸素不足で脳死状態になるのですから
自分でもこんな患者には近付きたくないと思いました
普通の人は寝転んだ状態から
座ったり立ったりする時に足の血管が収縮し
体全体に流れる血液の量を調整できるのですが
この起立性低血圧と言うのは
足の血管が収縮せずに座ったり立ったりすると
足に血液が下がったままで頭に血液が行かず
酸素不足になり気絶します
それを克服する為に両足に包帯を巻きつけ
お腹にも包帯を巻き
足に血液が下がりすぎないようにしていました
解決方法は慣れていくしかありません
(2003/01/05 作成)
疲れたのでトップへ ちょっと待って前頁へ どんどん行こう次頁へ
リハビリ (2001/02/15〜05/15)
リハ室でのリハビリが始まりました
電動の起立台に寝かされ
足元、お腹、胸の3ヶ所をベルトで固定します
軽快なオルゴールの音に合わせて起立台が立っていきます
スタートは30度起こし5分じっとしています
5分経つと自動で水平の状態に戻ります
余裕でクリアー
起立性低血圧に慣れるためのリハです
続いて35度で5分間クリアー
pap:「なんか調子ええんちゃいます」
PT:「ほんまやねー、つづいて40度に挑戦しよか」
pap:「60度ぐらいでも大丈夫ちゃいます」
『早くつぎのリハに進まなゆっくりしてられへんぞ』
焦りがでてきます
またもや軽快なオルゴールの音に合わせて起立台が立っていきます
「papさん、大丈夫」
という先生の声で気がつきました
上にあがって10秒も経たないうちに
意味不明の言葉を発しながら意識が無くなっていました
PT:「初めてやからこんな感じで良いよ」
PT:「明日から繰り返していくと慣れてくるから続けましょう」
ということで
1日目のリハが終わりました
2日目、35度でリタイア
3日目、リハ室まで辿り着けず病室へ戻りリタイア
4日目、40度でリタイア
5日目、35度でリタイア
6日目、リハ室まで辿り着けず病室へ戻りリタイア
2週間目の最高記録40度で3分間
3週間目の最高記録45度で1分間
頸髄損傷者のリハビリを専門で行っている病院の
空きベッド待ちが決まり起立台でのリハを中断
訓練台でのリハになりました
最終的な記録は45度で1分でした
翌日から予定通り訓練台でのリハが始まりました
病室のベッドでしていた手足の他動運動のリハです
肩の上げ下ろし肘の曲げ伸ばし手首の曲げ伸ばし指の運動
足の他動運動を基本にします
1週間程経った頃
PT:「papさん今日から彼女と一緒にリハしても良いかなぁ」
理学療法士を目指す医大生が卒業実習に来ていました
了承すると3人でリハが始まりました
ほとんどが他動運動ですが
肘を曲げることができるようになってきたので
仰向けに寝た状態で肘を曲げ
重力にさからい手首を持ち上げ
先生と腕相撲をします
それぞれの機能が他動運動から自動運動になるまで1ヶ月かかりました
足と手の指は最後まで動きませんでした
学生さんとも腕相撲をします
グッと腕に力を入れ肘を曲げます
『あれ、いつもと違うなぁ』
と思う間もなく
肘を曲げきれずに腕が訓練台の上にパタンと落ちます
そこで先生が腕相撲の意味を説明します
腕に力が入って限界に近付いたら
こちらが力を抜いて肘を曲げるんや
すると筋肉はもっと力を付けようとするので
こちらが勝ってはだめなんやで
これはそれぞれの残存能力を判断する材料の1つなので
しっかりチェックするようにとのこと
(徒手筋力検査)
そしてどれだけ関節が動くかを角度計で計ったり
(関節可動域検査)
頭のてっぺんからつま先まで
針で皮膚を刺激し痛みのチェックもしました
(感覚検査)
2週間ほど3人でリハをしました
その間何度も
リハ室まで辿り着けず病室へ戻りリタイア
という状態を繰り返したので
あまり良い実習相手にはならなかったかもしれません
そしてもう1人リハビリ専門学校の学生さんの
実習相手になったこともあります
先生から頸髄損傷の人とリハをする経験は
めったにできないので学生にとっては貴重な経験になったよ
と聞いて
少しでも人の役に立てたのかなぁと思いました
両手の肩、肘、手首が重力に負けずに動かせ
右手であれば痒いおでこをかけるようになった頃
(指は動きませんが腕を動かすことで指が額に当たります)
寝返りのリハが始まりました
仰向けに寝た状態で腕を振って寝返りぃぃぃ
『あれ、寝返りってどうやってしてたっけ』
体が寝返りの仕方を忘れてました
腹筋と背筋の力が無いのと
腰から下がお荷物になり簡単には体が横に向いてくれません
何度も先生の手を煩わせての寝返り訓練が続きます
たまに
「papさん、ほとんど手伝ってないよ」
「今のタイミングでもう1回やってみよぅ」
という先生の励ましで両手をバタバタさせてました
寝返りは1人でベッドから起き上がるのに必要な動作です
訓練台は広くて両手を左右に広げれるのですが
ベッドでは狭くて無理です
ベッドではベッド柵を使い寝返る練習をしました
このリハは転院まで続きました
(2003/01/14 作成)
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転院 (2001/03/20〜05/15)
近くの小学校まで桜を見に行きました
車椅子で外に出かける自信が無く嫌がるpapを
ベッドのまま行く人もいるからと看護婦さんに誘われて出かけました
ひんやりとした風が顔に当たります
約10分程ですが2ヶ月ぶりの外の空気です
新館を一周しました
看護婦さんは色々忙しいはずなのに
お互い協力しながらpap達を元気付けるために付き合ってくれました
この日を境に少しでも車椅子の乗車訓練になればと
ナースステーションの見学を始めました
ここでは必ず誰かが居るのでしんどくなっても助けてもらえます
色々と考え工夫をしてくれました
お見舞いも解禁にになりました
papの精神的な状態が不安定だったのもありますが
お見舞いに来た人がpapの状態を見て
受けるショックが大き過ぎるということで見送ってました
親戚・友人・仕事関係等大勢の人が
日を変え時間を変え来てくれました
まだまだ体調の良い日
悪い日があり
良い日に来た人は「すごく、元気でピンピンしてた」と話し
悪い日に来た人は「めちゃくちゃ大変やん」と話し
どっちが本当なんやと噂をしてたそうです
どちらも本当のpapだったのですが・・・爆
運の良い人悪い人?
心配させたり安心させたりの連続でした
4月中頃
首を固定するために頭に刺していた鉄のボルト
「ハローベスト」
を外し首用のコルセットに変わりました
重たかった頭が軽くなり
重傷のように見えていたのが軽傷のように見えます
「頸髄損傷者のリハビリを専門で行っている病院」
への転院が決まってから
仙骨に褥瘡(じょくそう)「床ずれ」ができました
ベッド上で長時間座っていたからか
体位変換をあまりしなかったからか原因は不明です
ただ分かっていることは
褥瘡があると転院させてもらえないという事実です
褥瘡は病気ではないのでしっかり治して出直しなさいということだそうです
これには担当の先生も看護婦さん達もおおあわて
相手の病院から
転院の許可がでるまでに
褥瘡を治さなければならないのです
治るまでに転院の連絡がくると
一度白紙にもどして申し込みなおさなければなりません
しかし治療といっても
ほとんど自然治癒しかありません
リハの時は車椅子に乗りますが
そのほかの時はベッドでおしりの除圧のため
横向きに寝ます
4時間おきに左右の向きを変えてもらいます
ベッド上で座ることはできません
こうなると1日30分程度しか体を起こせなくなり
起立性低血圧に体を慣らすことができなくなりました
そうこうしているうちに5月になりました
限界をこえていたpapは
「なんで病院から連絡ないねんやろ」
「ここにおっても何にも変われへん」
「はよ次の病院に行きたいなんとかしてくれ」
「もうここではどうしようもないわ」
とmamに訴えていました
相手の予定なので
どうにもならないのは分かっていても
言わずにはおれない状態になってました
入院してから初めて
自分の身に起こっている現実に
言い知れない怒りがこみあげてきました
怒りは
前進にむけての原動力にもなりました
不思議なことに
それから4・5日後に
5月15日・火曜日が転院の日に決まりました
そして褥瘡もみるみる治り
待望の5月15日になりました
「むこうの病院は厳しいそうやよ」
「ここみたいに優しくないからしっかりね」
という看護婦さん達の声に送られて
救急車で転院さきの病院へ送って頂ました
ストレッチャーに横たわっての移動ですが
久しぶりに見る外の景色
ほとんど空しか見えないのですが
雲の形がどんどん変わるのを見つめながら
「あぁ、生きてるんやなぁ」
と思いました
mamは通勤で渋滞している国道を
サイレンを鳴らしながら走る救急車に驚いていました
普通なら1時間以上かかる距離を30分で到着しました
(2003/01/26 作成)
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第一日目 (2001/05/15)
病院に到着
まっすぐに脊損病棟の部屋へ
部屋は4人部屋です
一番驚いたのはベッドの真上に
3本の鉄パイプでやぐらを組み
真ん中のパイプにロープが掛けてあるのです
そこでは
「モンキーバー」
と呼ばれていました
頸損や脊損は下半身を自由に動かせない為
モンキーバーに腕を掛けたり
手でつかんだりして
寝返りをしたり起き上がったりします
ベッドで待機していると
首のレントゲンやCT・MRIの検査で
あちこち連れていかれました
病室に帰ってくると担当になる看護婦さんから
「どこまで腕動くの」
と聞かれ
右手を口の辺りまで上ると
「食事は今日からおにぎりにするから、自分で食べてね」
「おかずは食べさせてあげるから」
と言われました
「そらまぁ、病人とちゃうし、自分の為やから何でもするけど」
「昨日まで食べさせてもらっていたのが、今日から自分でさっそく食べるんか」
と思いました
その後PTとOTの先生を紹介されました
OTの先生は
私のフォークを持って行き
夕食前に食事用の装具に
フォークをセットしたものを持って来て
「これで食事出来るから」
と渡されました
その日から食事は全て自分で食べるようになりました
周りの人からは
「なにも出来ない事にしとかんと、何でもさせられるで」
と言われ
そんなもんなんかと思いました
しかし首から上しか動かせずにいた状態から
指は動きませんが腕を動かして
好きな物を好きな順に
自分で食べる事が出来る幸せを感じました
(2003/01/26 作成)
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自己管理 (2001/05/16〜08/24)
2日目も色々と検査を受けました
3日目にやっと1日の予定と1週間の予定が決まりました
基本的な1日の予定は
6時起床ベッド上で洗面・7時半朝食・11時作業療法(OT)のリハビリ
12時昼食
14時半理学療法(PT)のリハビリ・17時ベッドに移乗・18時夕食・19時洗面・21時消灯就寝
となります
そこに月・木曜日9時〜排便予定
火・金曜日9時〜15時までの間に入浴予定が入り込みます
転院後2ヶ月間はそれぞれのリハ室には
看護助手さんに送ってもらっていました
それまで長くても20分間しか車椅子に乗っていることができなかったので
押してもらい辿り着くだけで精一杯の状態でした
特にOT室は1階の病棟から2階へエレベェーターで移動し
100メートルほど中庭の周囲を迂回しなければ辿り着きませんでした
この日から機能回復のリハビリに励む日々が
始まるんだと思っていました
ところが現実は日常生活の中から
自分自身の身体機能を思い知らされることから始まりました
1人では何もできない現実です
食事は少しずつ自立し始めましたが
食べれば出さなければなりません
papの場合週に2度排便をして貰っていましたが
胸から下の感覚がまったく無いので便意も感じません
腸に関しても若干の機能障害があり
老廃物を直腸に送り出す事が出来ません
そこで下剤の力を借りることになります
今まで自分で普通に出来た事が他人にして貰わなければならない
中でも最も嫌な事は摘便です
失便した後の処理をして貰うだけならまだしも
直腸に下りて来た便を指でかき出して貰うのです
指が動けば自分で出来ますが
papには無理です
どの指でもええから1本動いてくれと思いました
そんな嫌な摘便も便が直腸に下りて来て初めて出来るのです
便が直腸に下りて来るのに
毎回3時間程かかったり
時には朝から夕方までかかる事があります
看護婦さんは午前中は4〜50分に1度
直腸に便がおりていないか指でチェックしてくれますが
午後からは1時間に1度ぐらいになり
便が外に出ていないかのチェックだけになります
ベッドの周りのカーテンを閉めたまま
ただただ
『便よ出てくれ』
と祈るだけでした
当然午前と午後のリハビリは中止です
そして排便の途中にその原因となる昼食をはさむのです
『なんと非生産的な1日なんじゃ』
とこの時だけはさすがにまいりました
看護婦さんは
「人口肛門にすれば楽やよ」
といってくれましたが
人工肛門の是非や説明の無いまま
忙しそうにどこかへ行きました
排便せずに車椅子に乗っていると失便します
何をどうすれば良いのか分からず
やはり人工肛門を検討するべきか悩んでいると
別の看護婦さんが
「毎日の食事内容をチェックし」
「排便の何時間前に下剤を飲めば自分にとって一番良いのかを調べ」
「一度失敗しても2・3度は試してみること」
「それを続けて自分のパターンを知っていくように」
「これは医師や看護婦がこうしなさいと言えるものではないのよ」
「自分でしっかり知っていってね」
と教えてもらい
目からうろこの落ちる思いがしました
この日から
自分の健康管理・体調・メンタルケア等を
医師や看護婦さんに任せるのではなく
自分自身で考え決断を下し
何が出来・何が出来ないのか
また自分で出来ないことを説明して他の人に手伝ってもらうためにも
自分自身の体の機能を知っていく生活が始まりました
食事は毎回どれだけ食べているか
食物繊維や消化吸収・排便を促進するものを食べているか
水分の量
それに対して尿の量や便の量の自己管理等
リハビリも大切ですがそれ以前に
食べる事と出すことを
入院中に確立することが
生きていく為に最も大切だと言うことを知りました
(2003/02/22 作成)
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痙性の克服 (2001/05/17〜08/24)
排便に続いてもう一つの難問が押し寄せてきました
体の問題です
以前から続く両腕に感じる痺れるような痛みと
起立性低血圧にくわえ
転院した頃から出始めた痙性が酷くなってきました
痙性は頸損や脊損の場合よく起るようですが
papの場合は
腹筋と背筋の伸展痙性がきつく
車椅子に座っているとおしりが跳ね上がり
膝から肩までが一直線になり車椅子から滑り落ちそうになります
こうなると看護婦さんが2人がかりでも
車椅子に座りなおす事は出来ません
男の看護士さんが
後ろから抱え背中を丸めるようにして
伸びきっている腰を曲げてくれます
それと同時に
2人の看護婦さんに
伸びきっている膝と足首を2人掛かりで曲げてもらい
やっと車椅子に座りなおす事が出来ます
そんなとき
「papこんなんやったら1人でどこえも行かれへんねぇ、どうするの」
と看護婦さんに吐き捨てるように言われ
『どうするも、こうするも、その為にリハしてるんや』
『今どうすると言われてもどうしようもないわ』
と思いました
PTやOTの先生の中でも痙性のきつさは有名になり
多くの先生達が
興味津々で痙性の克服にチャレンジしことごとく破れ去っていきました
ある日
担当のPTの先生にアドバイスしていた先輩PTが
papのリハにチャレンジしました
訓練用のベッドに
まだまだ座位が安定していないpapを座らせました
と先生の手が
一瞬身体から離れた瞬間がありました
痙性はこのチャンスを逃しませんでした
次の瞬間伸展痙性がおこり
「ばぁーん」
という音と供に
背中からベッドに叩き付けられていました
倒れる角度が少しずれていたら
頭からコンクリートの床に落ちて大事故になるところでした
それ以後その先生は
papに近付こうとしなくなりました
OTのリハは排便や入浴の関係で週に1・2度しかできません
たとえOT室に辿り着いても
起立性低血圧のため作業用のテーブルに
前屈みになり頭を付け休憩します
そして両腕をほぐしてもらい
くぎ・角材・大豆等を指で挟むリハをします
初めは5分もすれば起立性低血圧でダウンしていましたが
3ヶ月頃から1人でOT室まで往復できるようになりました
そして日常生活でも必要な
ベッドと車椅子の乗り移り・トランスファーをするための練習を始めました
車椅子の両横に長椅子を置き
おしりを少し浮かせる練習ですプッシュアップといいます
この浮かせたおしりを横の長椅子に
移動するとトランスファーの完了です
papの場合
車椅子に座っていてもおしりが跳ね上がり
膝から肩までが一直線になり車椅子から滑り落ちそうになるのですから
プッシュアップしたとたん車椅子の背もたれに倒れこみ
反動で頭から後ろにこけそうになります
その反動を腕で支えるんやと説明され
頭では分かっていてもそう簡単に腕の筋力がアップする訳でもなく
痙性の克服に必死になっていました
2週間程プッシュアップの訓練を続けましたが
なかなか訓練の結果が表れず
同じ動作を繰り返す日々が過ぎていきました
そんな時そのOTの先生がpapの痙性を説明をしてくれました
「papの場合は前かがみになろうとして
腹筋を縮めると背筋が縮まろうとし
背筋を伸ばそうとすると腹筋が伸びると言う状態で
腹筋を鍛えても背筋を鍛えても
その鍛えた力に反発する痙性の力が強くなるのでどうしようもないですね
それに腕を鍛えても
同時に腹筋・背筋が鍛えられ
腕の力では痙性の克服は無理ですねぇ
今までにも痙性のきつい人も居たけれど
papのように両足・お腹・両手に同時に痙性の出る人は居なかったからね
だから日常生活は全て奥さんの介護が必要になるよ」
と言われやっぱり
『mamに死ぬまで介護して貰わなければならない』
と言う最も恐れていた状態になってきました
(2003/02/22 作成)
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痙性と友達 (2001/08/20〜12/02)
ちょうど転院して3ヶ月が過ぎました
医療費の関係で入院期間は3ヶ月です
それを超える場合は医師の特別な許可がいります
リハの先生に見放され
入院中に知り合った方は入院期間が過ぎ
次々と他の病院へ転院させられていきました
そんなある日
papの今後をどのようにしていくかという
カウンセリングがありました
カウンセリングとは名ばがりで病院の関係者は
mamが幼い息子とpapの世話を同時にするのは無理だと言う理由と
入院期間がオーバーしていることを理由に
息子が学校へ行くまでの4年間
1ヶ所の入院期間は3ヶ月
1年で4ヶ所
4年で16ヶ所
北は北海道から南は沖縄までという
3ヶ月ごとの転院を薦めて来ました
まずは別府にある国立別府重度障害者センターはどうかということでした
「毎日、温泉にはいれるらしいよ、うらやましいわぁ」
という担当看護婦の言葉にあいた口が塞がりませんでした
『こんな病院こっちからおさらばじゃ』
と心の底で叫んでいました
足が動けば蹴りの2・3発入れてたのに・・・
(人の気持ちを思いやれない看護婦一号です)
この退院か転院かを決める会議の少し前に
担当のPTの先生から
京都頸損連絡会のピアカウンセリングをしている方を紹介して頂き
夫婦で話をさせて貰いました
その方は決してmamや家族がpapの介護をする事のないように
訪問看護や訪問介護・ホームヘルパーの制度や
ボランティア等を利用するようにと
自分もそうして1人で生活しているから絶対大丈夫ですよと
教えて下さいました
そして出来るなら退院を伸ばしてもらい
住宅改造ベッドやお風呂用のリフト等在宅の為の準備をするようにと
アドバイスして貰いました
病院の関係者からはまったく教えて貰えなかった
社会制度があるのだと言う話を聞いて
私達は目の前が明るくなったのを覚えています
その話をリハの先生に聞いて貰い
在宅の為の準備と身体機能の回復が見込めると言う理由で
あと3ヶ月退院を伸ばしてもらいました
そして今まで1度も接触してこなかったPTの先生が
病室にきてベッドでの起き上がり・トランスファーの練習を時間外にしてくださり
こつ等の話をされ
「まだまだ可能性は沢山あります」
「退院までの目標」
「2年・3年先にはもっと色んな可能性があります」
「希望を捨てずにやっていきましょう」
と励ましてくださいました
そして痙性を克服するのではなく
痙性と友達になって利用してみましょうと
提案してくれるPTの先生も現れました
そのように考えると
車椅子でのプッシュアップもバランスさえ取れれば
少ない力で長時間できるのです
少しおしりを上げるだけで痙性でおしりが跳ね上がります
ベッドでも
褥瘡予防のため3〜4時間に1度身体の向きを変える必要があります
しかしスリーモーターのベッドで膝の部分を上げることで
2〜3時間に1度痙性で膝から肩までが一直線になることで
おしりが跳ね上がりおしりの除圧ができ褥瘡の予防になります
これでmamに毎晩褥瘡予防のため3〜4時間に1度
身体の向きを変えてもらう必要がなくなりました
papとmamは退院までの3ヶ月間もう1度「退院までの目標」を決めて前進することにしました
(2003/04/27 作成)
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訓練と練習 (2001/08/20〜12/02)
これから夫婦二人三脚の訓練が始まりまし
たたとえ在宅生活の時に
訪問看護や訪問介護の方が来てくださる事になっていても
万が一の時はmamに頼らなければいけません
ですからmamは看護婦さんにしてもらう全てのことを
マスターしなければなりません
排尿用のカテーテルが詰まったりした時の為に膀胱洗浄の練習
失便や体調の悪い時の為に摘便の練習
入浴介助の練習
papの入院中の生活の時間に合わせて
病院へ来ての練習です
摘便の練習日は午前9時から始るので
子供達を保育所や学校へ送り出し急いで駆けつけてくれていました
1度この練習を
子供がはしかにかかって高熱を出したので
休んだことがありました
その時事情を伝えて
今日の練習は日を変えてもらいたいと話すと
「そんなにパラパラと休んでたら練習になれへんなぁ」
と看護婦に言われました
「熱のある子をほっといて私の為の練習に来れる訳ないやろ」
「来たくてもこれん時もあるんやで」
とどなってしまいました
「いやそんなつもりで言うたんやないよ、練習は今度にしよね」
と言って病室から出て行きました・・・
(人の気持ちを思いやれない看護婦二号です)
そしてリハでは車椅子とベッドの乗り降りや
自動車への乗り降り等の訓練に付き合ってもらいました
mamにとっては家で子供達の面倒を見て
病院でpapの介護の練習や訓練に付き合い
在宅の為の準備や住宅改造の許可をもらう為に役所廻り
工事業者の方との打ち合わせと
心も体もくたくただっただろうと思います
papは家に帰った時の為に
疲れたりしんどくなった時の対処の方法を考え
1日に何度もベッドと車椅子との乗り降りを繰り返さないで過ごせるようにと
午前のリハからそのまま休憩室で昼食を取り
午後のリハそして皆がベッドに上がる時間まで
1時間でも長く車椅子に乗車するよう心がけました
足に巻いていた起立性低血圧予防の包帯に頼るのをやめる為に外しました
お風呂も座って入ると血液の循環が良くなり起立性低血圧が酷くなると言われ
ずっとストレッチャーで入っていましたが
自宅ではストレッチャーで入れるような広いお風呂は作れないので
シャワーチェアーに変え起立性低血圧に対処する訓練を始めました
長時間身体を温めると
目の前が白くなり気絶しそうになるので
初めはカラスの行水のようでした
気持ちを前向きにすることで
身体の状態も少しずつもちこたえれるようになり
自宅での生活に向けて訓練の日々を重ねました
在宅生活の不安も
この病院で入院生活をつづける不安と比べると
小さく感じまし
たそういう意味で
この入院生活はとても幸運で
よい経験をさせてもらったと思っています
病院側のねらいはそこだったのかもしれません
(2003/04/27 作成)
疲れたのでトップへ ちょっと待って前頁へ どんどん行こう次頁へ