明日香
(2006.12.19)
斑鳩から明日香に向う。1300年前の法隆寺からさらに歴史を遡ることになる。橿原市から標識に従って明日香に向かい、市街地を抜けるとのどかな田園風景が広がる。ゆるやかな丘陵がつらなり細い川がその合間を流れ、田畑が広がり、丘の中腹まで果樹園が這い上がっている。日本の原風景とも思えるようなのどかな暖かさが感じられる。かつては華やかな文化が花開き、時には血なまぐさい争いがあったところとはとても思えない。
石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされているが確かなことは分かっていない。盛土が失われ、石室が露出したものらしいが、自然に流出したものか、誰かが暴いたものかも不明である。初めから盛土はなかったと言い出す人までいる。もちろんどの程度の盛土があったのかも分からなければ、形も定かではない。いまのところ、上円下方墳が有力ではあるが。
築造は7世紀初めと推定されている。法隆寺の再建が7世紀末から8世紀初めとされているから、100年ほどの違いしかない。それなのに、こんなにも分からないことばかりなのだ。いや、法隆寺が周囲の人たちと共に綿々と引き継がれてきたことの方が奇跡なのであろう。


石舞台古墳を後にして飛鳥歴史公園に車を置き、周辺を歩いてみることにした。整備された遊歩道を北に行って舗装道路を横切ると道は畑の中をゆるやかに登っていく。ほどなく「鬼の雪隠」に出て、すぐそばに「鬼の俎」がある。この二つの巨石は、もとは一つの石室であったものが壊れてばらばらになったものだという。無粋な名前なのに「宮内庁」の看板が立っているのがおかしい。
ここは高台になっていて、目の前にはいくつもの小さな丘が眺められる。それらがみんな古墳に見えてくる。
天武・持統天皇稜を見て駐車場に戻って、高松塚古墳への道をたどる。所どころに「○○稜」「○○古墳」の案内板が立っているのを見ると、先ほどの思いもあながち幻想ではないのかもしれない。
高松塚古墳は保存工事中であったが、付近の丘に比べて特別に際立った物ではない。だから、今は何の変哲もない付近の丘から、素晴らしい壁画や埋葬品が発見されることもあるのではないかと思うと楽しい。高松塚壁画館を見て駐車場に戻った。
金峯山寺
(2006.12.19)
金峯山(金峰山)と呼ばれる山は日本各地にある。そこには、いずれも役行者の話が伝わり蔵王権現が祀られている。山登りをする人にとっては長野・山梨の県境にある金峰山がよく知られているが、山形、熊本、鹿児島にもあり、東京青梅の御岳山も金峰山の別名がある。これら全国の金峯山の総本山がここ吉野の金峯山寺である。
またこの一帯は桜の名所として名高い。春には山上への道は大渋滞になるそうだが、今は冬、まして夕暮れ間近となれば、閑散とした静かな山里だ。
下千本の大きな駐車場には、隅の方に地元ナンバーの車が3台しかなかった。狭い舗装道路の両側には茶店やみやげ物屋が並んでいるが開いている店は少ない。左側には谷を挟んでたおやかな山並が連なっている。谷間には葉を落とした桜の木が寒々としている。
やがて大きな仁王門に着いた。阿吽の仁王様がにらんでいる。少し行くと石段があって上りきったところに本堂である蔵王堂があった。


蔵王堂の前には四本の桜が植えられている。ここでは桜の木が御神木となっているのだ。またこの一帯は南北朝時代には南朝の皇居が置かれたところでもあるのだ。
ここから山上ガ岳、さらには大普賢岳にかけては修験者の道場でもある。ぜひとも一度は歩いてみたい道だが、夕暮れが迫ってきた。またの機会にしよう。
高野山
(2006.12.20)
高野山の堂塔伽藍が立ち並ぶ一帯は「和歌山県伊都郡高野町高野山」である。この山の上に町役場や病院、公民館、消防署、幼稚園から高校、大学まである。これらが杉や檜の巨木に囲まれた百を超える堂塔と渾然一体となって、独特の町並みを作っている。その中を小学生のグループやサラリーマンに混じって、さまざまな色の僧衣の一団が歩いている。
奈良県では吉野川と呼ばれる川が、和歌山県に入って紀ノ川と名前を変え、それに沿った国道24号線と別れて山に入っていく。曲がりくねった道はしだいに傾斜が急になり、正面に大門が見えてくる。これが高野山の正面入口だ。道は平らになり堂塔と民家が渾然とした町並みに入っていく。
金剛峰寺前の駐車場から壇上伽藍に行く。きらびやかな大塔の前には落ち着いた雰囲気の金堂がある。大塔の脇に建つ御影堂が美しかった。
金剛峰寺は屋根の上に大きな桶が乗っている。防火用水なのだろうが、不思議な光景だ。何人もの僧衣の人たちが出入りしていて、生活と活動の空気が伝わってくる。


中の橋駐車場に車を置いて、国道を一の橋まで戻る。一の橋を渡って石畳の道に一歩足を踏み入れるとそこは別世界だった。杉や檜の巨木が真っすぐに天を指してそびえている。道はかなり広いのだが、両側の木から広がった枝が伸びていて空が見えない。薄暗く風もない。その木々の根もとには苔むした無数の墓石が何段にもなって密集している。それが延々と続いているのだ。
豊臣家墓所、織田信長の供養塔、上杉謙信・景勝の霊屋、明智光秀、石田光成、伊達政宗の供養塔もある。多くの無名の人たちの墓石に混じって関東大震災供養塔や有名企業の供養塔もある。墓に入れば、無名の一市井の人も天下人もみな同じなのだと、改めて思う。
一の橋から弘法大師御廟まで2km,歩いて40分ほどの間に二十数万基の墓石が並んでいるのだ。
御廟の橋を渡ると奥の院だ。拝殿があってその奥に弘法大師御廟がある。お大師さまは入滅されたのではなく、ここに入定され、今でも我々を見守っておられるのだ、と説く。
般若心経はおろか、御宝号もまともには唱えられない私ではあるが、拝殿の前では手を合わせお願いをしてきた。
「いつの日か、四国八十八札所をお参りさせていただきたいと思っております。その時はどうぞ同行してお導きください。無事に結願できましたら、もう一度お礼にお参りさせていただきます」
実はこれをお願いしたくてここまでやってきたのだ。
トップに戻る