|
卒業生が書いた記事──翼・リレートーク58 |
|
東京の相川浩一さんからバトンを受けました「冷麺クラブ」の竹内です。相川さんの「手話との出会い」は、大学生の時なんですね。大学時代の私は、バスケ部の活動と、その仲間と過ごすことに(飲むことに?)もっぱらエネルギーを注いでいました。相川さんはそのころすでに、ろう者や手話との出会いを済ませていらっしゃったようですが、私の場合、それはずっとずっと後のことになります。 大学卒業後、しばらく婦人服メーカーで営業として働いていました。お店の営業管理が主で、その他、セールの手伝いをしたり、シーズンごとに行われるファッションショーの裏方をしたり、というのがその仕事です。ファッションショーをテレビで等で見たことがある方は多いと思いますが、その裏側がどんなことになっているのか、ご存知ですか? 短いショーの間に、80着余りの服を10人前後のモデルにとっかえひっかえ着せて歩かせるのですから、それは慌しいものです。私はその「とっかえひっかえ担当」(業界用語で「フィッター」といいます)の1人として加わっていました。ショーは、デザイナーのそのシーズンの方向性を示す場で、客席には百貨店のバイヤー等、シビアな目もあるわけですから、失敗は許されません。1回の出番を終えて戻ってくるモデルを舞台袖で待ち、狭い舞台裏の通路を一緒に歩きながらボタンを外し(持ち場でのんびり帰りを待っていたのでは間に合わないからです)、裸にして、1分弱で次の服を着せ、舞台の袖まで、また一緒に歩きながらアクセサリーや帽子などを着け、袖で待つディレクターに引き渡す・・・という作業を繰り返します。余談ですが、このディレクター(ちなみに男性です)、ショーの進行を管理する最高責任者なのですが、出番を待つモデルの全身をチェックし、修正し、そして最後に必ず「すごくすてきよ!」「最高!」などと、そのモデルの国の言葉で、必ずひとことほめたり、ジョークでリラックスさせたりして舞台へ送り出していたのを覚えています。 下っ端のフィッターの役割は、迅速に、間違うことなく着せ替えることです。「この靴は他のモデルと持ち回りだから、袖で待って、そこで脱いでもらおう」「この服は、スカートを先に着せたほうが早いな」・・・等々、ショー全体の進行を頭に入れ、効率の良い動きをシュミレーションする必要があります。この時の経験が、現在の仕事に非常に役立っている・・・ということは全然ないと思いますが、今思えば、面白い体験でした。手話通訳者となった今、私の「悪夢」の定番は「通訳に遅刻する夢」ですが、会社にいたころは「自分のモデルが出番に間に合わない夢」をしょっちゅう見ていたような気がします。 そのころ、会社の中に、実はろう者の同僚がいたのです。確か「パターンナー」という、デザイン画から服の型紙をおこす技術職の人でした。社内にろう者は彼女1人で、手話で会話する相手がいないわけですから、当然手話を目にすることもありませんでした。筆談でやり取りしている様子を見たことはあったのですが、物静かな人だな、耳が聞こえないらしい・・・と思うくらいで、特に気に留めることもありませんでした。手話の勉強を始め、ろう者と出会ってから、「あ、あの人もそうだったんだ・・・」と、後で気づいたのです。 後で気づいたくらいですから、その彼女との出会いが、手話を始めたきっかけではありません。ある女性誌に、私がその後入学した、手話の専門学校に通っている女性が取り上げられていまいした。就職して6年余り、なんとなく煮詰まっていた私は、勢いで願書を出し、試験に受かってから夫に打ち明けました。「・・・やれば?」半ばあきらめの混じった言葉に励まされ、退職し、また学生に逆戻りしました。毎朝お弁当を作って、7時前に満員の小田急線に乗り、家を出てから教室到着まで約2時間。なぜか全く苦になりませんでした。 それまで、ろう者や手話と全く無縁な世界で過ごしてきた私にとって、その学校の教官が、「意識的に」出会った、初めてのろう者でした。手話実技の授業の使用言語は手話のみです。手話経験ゼロの私でしたが、不思議なことに、授業中、「先生の言っていることが分からん!」という思いをしたことが一度もなかったのです。不思議ですよね! それは私が天才だったから・・・?というわけではなく、学習者のコミュニケーション能力に合わせて、話しかたのスタイルを変えるという、教官の優れたティーチャートークのおかげ以外の何物でもありません(その後すぐに、容赦ない、素(す)のろう者の手話の洗礼を受け、その世界の奥深さを思い知らされたのですが・・・)。当然、分かれば勉強は楽しくなります。それは小学生でも、30歳のオトナでも同じです。それともうひとつ、その教官がまれにみるチャーミングな人で、「彼女と話したい!」という思いが、勉強するパワーのモトになっていたことは間違いありません。 それから1年、時間を惜しんで勉強をしました。大杉豊さんの手話語りのビデオを一本全部覚え、手話で再現するという課題のために、黄色いポロシャツを着た大杉さんが夢に出てくるくらい、繰り返し見たりもしました(ホンモノに会えた時には感動したなー)。手話実技以外の科目も、言語学、文化人類学、心理学・・・どれも大学時代にやらされていたはずなのに、新鮮でした。季節外れにやってきた、本当にハッピーなモラトリアムの授業でした。 卒業後は、教官の勧めで夜間の大学院にバイトをしながら通い、四苦八苦しながら通訳士試験にも合格できました。現在は、情報提供施設で派遣窓口担当の仕事をしています。活動では職場の先輩の誘いで全通研支部の役員となり、今は、来年に迫った全通研討論集会開催に向け、地元ろう団体や支部会員の仲間と共に、笑ったり、怒ったり、飲んだりしつつ、ワイワイと準備を進めているところです。 勢いで飛び込み、ハッピーで始まった手話との出会いから9年。仕事や活動の中で、「私なんかマダマダ・・・」と逃げるのも、そろそろ許されなくなってきたことを実感する場面が多くなりなした。会社の倉庫で伝票を書いていた10年前には想像も出来なかった今の自分ですが、もし、出来ることなら、パターンナーの彼女に会ってみたい気がします。聴者ばかりの中で、どんな気持ちで仕事をしていたんだろう・・・? すばらしい手話話者だったかもしれません。自分の仕事について語るろう者のビデオを見ると、彼女を思い出します。 次にバトンを渡すのは、6月の全国ろうあ者大会開催県、沖縄の宮城優子さんです。宮城さんはカワイイ人です。会議や集会の時しか会えませんが、同じ卒業生が、全国でがんばっているんだなーと思うと、力が湧いてきます。宮城さん、よろしくお願いします。 (日本手話通訳士協会機関紙『翼』123号・2002年4月1日発行より。日本手話通訳士協会の許可を得て転載。明らかな誤字脱字については修正した) |
